藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
ニッポンデザインはじまりモノガタリ
2007年『CasaBRUTUS』10月号のために書いた「知ってると得をする。日本デザインのはじまり物語。」をアップします。この原稿を書いたこと自体すっかり忘れていました。ファイルの中から見つけ出し、読んでいたら、加筆したくなったので、アップします。アップしてから更新していきます。紙幅の関係で、1950年代までで、1960年代は東京五輪だけ触れていますが、この終わり方が中途半端、グッドデザイン制度のこととか触れないといけないし、せめて大阪万博まで話をもっていきたいと思っています。

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日本デザイン──明治から東京五輪まで。

 日本には素晴らしいデザインの伝統があります。桂離宮や琳派の洗練、小紋や家紋の抽象、茶の湯の前衛、根付の精妙、畳の合理的なモジュール性など枚挙にいとまがありません。

 しかし、そもそもデザインという言葉には、下絵とか設計という意味があります。実際に作る前にあらかじめ形や機構を決めること。産業革命が進行して、大量生産が可能になると、形を構想し設計する人と、モノを工場で作る人が分業化していきます。
 
 量産品の設計図はエンジニアだけで作ることもありますが、製品の装飾を施したり、美しい形態にしたい場合に、描画や造形の専門家が必要となりました。そこでデザイナーという職業が誕生します。デザインは産業社会が進展していくなか、急速に重要性を増していきました。

 そう考えると、設計と実制作がまだ未分化であった江戸時代以前のデザインは、美の源流であっても、厳密な意味でのデザインとはやや違ったものになります。

 ですから日本デザインのお話しは、明治時代から始まることになります。工業製品だけでなく、グラフィックデザインや服飾デザインや建築まで話を広げる必要は、重々承知しています。が、誌面の関係でここではプロダクトデザインを中心に話を進めたいと思います。

殖産興業のための工芸──明治

 この物語に最初に登場するのは職人でも絵師でもなく、おサムライさんです。元佐賀藩士、納富介次郎。納富は政府が1873年(明治6年)にウィーン万博へ派遣したメンバーのひとりでした。ジャパネスク(日本趣味)流行の気運が高まるなか、日本の伝統的な工芸品は、ウィーンの人たちに強い関心を引き、商人から引き合いも多かったそうです。納富たちは、日本の工芸品が外貨を獲得する輸出品として大いに有望であることを目の当たりにしたのです。

 しかし、出品した工芸品は手作りで、一度に多くの注文に対応できませんでした。明治政府が掲げた「富国強兵」「殖産興業」を推し進めるためには、輸出用の量産工芸品を生産する体制を整えなければならない、と納富は考えます。

 そして帰国後、工芸品の近代的な生産体制の整備に着手します。陶磁器などの絵柄や形を描く人と、その図をもとに実際に成形したり絵付けをする人を分けるのです。前者の仕事がデザインです。当時は「図案」といいました。さらに図案の専門家の育成教育を図り、納富は、金沢、高岡、高松に工芸学校を設立します。こうして納富は、日本にデザインが浸透する基礎を築いたのです。

 戦前の日本では図案とともに、「工芸」がデザインを意味する言葉として使われました。工芸というと今では、優れた手技と芸術的センスを持つ作家が作る実用品もしくは装飾品といった意味合いが強いですが、かつては美術と工業の間の造形を広く指したのです。

 明治期には、東京美術学校(現・東京藝術大学)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)、京都高等工芸学校(のちに京都工芸繊維大学に統合)で、工芸・図案の教育が行われました。しかし、まだ作家性重視の美術工芸と、工業製品のためのデザインとが入り交じった状態でした。

モダンの誕生──大正から昭和

 工芸や図案の中から、モダンデザインの輪郭が見えるようになるのは、大正後期から昭和初期にかけてです。第一次世界大戦による輸出の拡大によって経済は好転し、政治的には大正デモクラシーと呼ばれる開放ムードのなか、大衆消費文化が生まれます。三越、高島屋、阪急などの百貨店が成長し、モボ・モガ(モダンボーイ、モダン・ガールの略)と呼ばれた先端ファッションを着飾った若者たちが、銀座などの街を闊歩しました。

 1920年(大正9年)には文部省の外郭団体として生活改善同盟会[注1]が組織され、生活を椅子式に改めることなど、生活を洋式に改める活動を行いました。フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルが竣工したのは1923年(大正12年)。その年の関東大震災で、首都圏は大打撃を受けます。震災を機に「同潤会」が設立され、大正末年の中之郷や青山に始まり、東京・横浜の各所にいわゆる同潤会アパートを建てました。日本人は初めて、鉄筋コンクリート造で不燃の中層住宅で、複数の家族が「縦」に重なって暮らすという新しい暮らし方を体験することになります。

 この頃、ドイツ工作連盟が輸出品振興のために工業製品の標準化をすすめたり、バウハウスで芸術と産業を融合させる新しい造形教育を実践したり、ル・コルビュジエが『エスプリ・ヌーヴォー』を創刊したり、ヨーロッパではモダニズムのデザイン・建築運動が盛んになります。

 こうした海外の最新動向に敏感に反応して、新しい生活スタイルにふさわしい家具や日用品を求める気運が生まれ、日本のデザインが本格的に始動します。

 1922年(大正11年)、その後のデザイン教育をリードした東京高等工芸学校(現・千葉大工学部)が芝浦に開校します。1928年(昭和8年)には、輸出振興を目的としたデザインの研究と指導を行う、国立工芸指導所が仙台に設立されます。

 さらに帝国工芸会[注2]、无型(むけい)、木のめ舎などの大小さまざまなデザイナーの組織が生まれます。そのなかのひとつ、型而工房(1928~1938頃)は、建築家で東京高等工芸学校の教員でもあった蔵田周忠が、バウハウスの影響のもとに若者有志を集めて結成した建築・デザインの研究グループです。蔵田の同潤会代官山アパートの部屋に、豊口克平らが集まり、大量生産のために家具の部材の寸法を標準化する「標準家具」の研究や、日本の住まいの事情に合わせ畳を傷つけない椅子やテーブルの開発に当たりました。

 建築家、川喜多煉七郎は、バウハウスに留学した山脇巖・道子夫妻、水谷武彦の協力のもとにバウハウス式造形教育を行う新建築工芸学院を設立しました。同校からはグラフィックデザイナーの亀倉雄策や、のちに桑沢デザイン研究所を設立する桑沢洋子が巣立っていきます。

 こうしたモダンデザインの動きとは別に、もうひとつ大正が昭和に替わるときに、特筆すべき運動が起こりました。民藝運動です。柳宗悦は、浜田庄司、河井寛次郎らとともに、日本各地に伝わる素朴で実用的な無銘の日用品の中に美を見出す運動を興します。民衆的工芸だから民藝。作家主義がはびこる美術工芸の世界を批判し、用の美を提唱し、ものづくりの本来の姿を民衆の生み出す誠実な日用品の中に求めました。柳宗悦の思想は、戦後にアノニマスデザインを賞賛した息子のデザイナーの柳宗理に強い影響を与えます。

皇国のモダニズム──戦争へ

 戦前のデザイン界をリードしたのは、技師や教育者として国家に勤めた官僚デザイナーたちでした。特に工芸指導所はエリート集団でした。国井喜太郎が所長を務め、剣持勇、豊口克平、小杉二郎、小池岩太郎、山脇巖、芳武茂介、さらに評論家の勝見勝、小池新二らが在籍しました。

 1933年(昭和8年)、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトがナチスから逃れ、来日します。タウトは工芸指導所の展覧会を見て、痛烈で的を射た批評をしたことが縁で、工芸指導所の嘱託となります。3か月ほどの短期間でしたが、ドイツの合理主義的デザインの理念を日本のエリートたちに伝えます。タウトは日本市場に出回る外国製品をまねた製品をイカモノと酷評し、桂離宮を絶賛し、日本人に日本美の再発見を促します。工芸指導所ではタウトが辞した後も、その教えをもとに「規範原型」と呼ばれる、椅子ならの椅子の本質的な機能的形態を探る試みがなされます。

 人体の姿勢を研究する──戦後に人間工学と呼ばれる手法も、工芸指導所のデザイナーたちはいち早く採用しました。積もった雪に座って人体の型を取るなど独自研究法を開発し、家具のデザインに活かしました。

 1939年(昭和14年)商工省が招聘したドイツのティリー・シュレーマンも、翌1940年に招聘したフランスのシャルロット・ペリアンも、モダンをなぞっただけの日本製品を「悪質だ」「醜悪だ」と酷評します。ペリアンは若き柳宗理が付き添って、全国を旅し、工芸指導所の協力のもと、藁や竹を使って寝椅子などを制作しました。父の民藝運動に反発していた柳は、ル・コルビュジエに師事したペリアンは、無名の庶民がつくった道具の実直な美しさを、柳に教えます。柳は、民藝とモダンデザインの共通点に気づき、戦後、アノニマスデザイン(無名の人のデザイン)とアンコンシャスビューティー(無意識の美)の重要性を語るようになります。

 昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、翌年、国家総動員法が制定され、物資の統制が進められ、大衆の消費を喚起するデザイン活動は制限されます。しかし逆にデザインエリートたちは、国家のためにモダンデザインの理念と方法を生かす好機と受けとめていたようです。金属、ゴム、皮革などが使えなくなると、工芸指導所のデザイナーたちは代用品のデザインの研究に取り組みました。

 1941年(昭和16年)の日米開戦直前、工芸指導所は「国民生活用品展覧会」を開催し、戦時の生活用品のあり方を提案しています。簡素の美を推賞し、規格化が必要を説き、「個々の品物について究極の型を与えることは必然の問題」と唱えます。

 平たく言えば、戦時の日用品はシンプル&モダンの究極のデザインであるべきというのです。建築家、堀口捨己は、『工芸ニュース』に国民生活用品展覧会に対するコメントを寄せています。「私も自由主義が華やかだった頃、悪質、悪趣味の日用品の氾濫していた市場から、埋もれた良質商品を選び出して展覧会を企画したが、商業主義に災いされて実現に至らなかった。その理想がここに実現しているようで非常に喜ばしく、またこのような企画が可能になった今の時世を有り難く思った」。(筆者注・文章を平易に改変して引用しています)。

 しかし、戦局は悪化し、皇国にモダニズムを実現しようとしたエリートたちの思いは頓挫します。

デザインの再出発──戦後1

 焦土に立ったデザイナーたちは再び、今度は民主主義のもとで、モダンデザインの理念を国家再建に活かそうと邁進しはじめます。終戦直後1946年(昭和21年)から、工芸指導所(1952年に産業工芸試験所に改名)は進駐軍家族用住宅の家具(通称DH家具)のデザインにあたります。アメリカ人のニーズとライフスタイルを直接経験することで、大正以来の洋式への生活改善のノウハウが熟成されていきます。戦前と戦後は、デザインの世界に限っては決して断絶していませんでした。

 しかしデザインの主役は、官から民へ次第に替わっていきます。デザインという言葉が日本に広く浸透するのが1950年代です。戦前もデザインという言葉は一部で使われていましたが、50年代になって、図案、意匠、工芸といった言葉を統合しはじめます(工芸はクラフトや美術工芸という意味で使われるようになります)。産業工芸はインダストリアルデザイン、商業美術はグラフィックデザインと呼ばれるようになりました。

 1951年(昭和26年)アメリカで最も成功していたインダストリアルデザイナー、レーモンド・ローウィが来日します。ローウィは日本専売公社から煙草「ピース」のデザインの依頼を受け、新デザインは翌年発売されます。デザイン料は150万円。総理大臣の月収11万円だった頃の話です。破格の値段が話題になって、デザイン料というものを世の中に認知させるきっかけになります。

 1953年(昭和28年)にはローウィの著書『口紅から機関車まで』の邦訳が出版されます。翻訳者は藤山愛一郎。藤山コンツェルンを率いた財界の実力者です。のちに政界に転身し、自民党・藤山派を率い、総理の椅子を争いました。藤山はローウィが来日した際、「美しくすることによってコストを低下できる」という彼の持論に感心して、財界人を集めローウィの講演会を催しました。ちなみに藤山邸の設計はル・コルビュジエに師事した建築家、坂倉準三でした。

 もうひとつ1951年、デザインへの理解が財界に広まったことを印象づける有名なエピソードがあります。アメリカ視察を終え羽田空港に降り立った松下幸之助がこう叫んだと伝わっています。「これからはデザインだ」。同年さっそく松下電器は製品意匠課を作り、デザイナーの真野善一を課長に迎え入れます。その後、大手メーカーでデザイン部門を新設されるようになります。インダストリアルデザイナーの多くが、企業に社員として雇われたデザイナーという日本の特殊事情はこの頃に始まりました。

 個人事務所を立ち上げて、活躍するインダストリアルデザイナーも登場します。柳宗理や、マツダ三輪トラックなどで知られる小杉二郎は、戦後まもなくフリーで活動を始めます。1953年、東京芸術大学図案科の助教授小池岩太郎のもとに集った学生たちが、デザイングループを立ち上げます。榮久庵憲司らが中心となり、その後GKインダストリアルデザイン研究所(GKはGroup of Koikeの略)として、ヤマハのバイクや、キッコーマンの卓上醤油びんなどを手がけます。

 1956年(昭和31年)には、渡辺力と松村勝男らがQデザイナーズを結成します。同じ年、フリーで活躍していた佐々木達三が、てんとう虫の愛称で知られる名車スバル360に取り組み始めます(発売は1958年)。企業内でのデザインも盛んになり、1955年東芝の電気釜、1958年(昭和33年)ホンダのスーパーカブ、1959年ソニーのトランジスタテレビなど、次々とデザインの名作が登場します。

グッドデザイン、ジャパニーズ・モダン──戦後2

 しかしまだ当時の多くの日本企業はオリジナリティへの意識は薄く、日本製コピー製品が海外市場で出回りました。政府は外国からデザイン盗用を厳しく非難されます。そうした問題を機に1957年グッドデザイン(Gマーク)商品選定制度が生まれます。最初は特許庁の所轄で、翌年に通産省に新設されたデザイン課に移管されました。良質でオリジナルのデザインを振興して、さらなる輸出拡大を図ろうとしたのです。

 国家が外貨獲得のためデザインを振興する姿勢は、明治期から戦後の再興期まで一貫して変わることがありませんでした。戦後、国の目標は「富国強兵」から「兵」が消え「富国」に集中することになりました。国は前面に立って指導することを控え、富める国づくりを民間の活力に任せ、バックアップの立場に回ります。

 戦前のエリート官僚デザイナーは、個人事務所を設立したり、教育者になり、指導から討論や対話を重視し、官僚と民間をつなぐパイプ役として活躍していきます。方法や立場は変わっても、モダンデザインの理念を活かして、この国の生活を豊かにしたいという意思は、戦前から引き継がれたものでした。

 産業工芸試験所の意匠部長として二度に渡るアメリカ視察した剣持勇は、アメリカ市場でスウェーデン製品が「スウェディッシュ・モダーン」と呼ばれ成功している様子を見て、日本デザインは「ジャパニーズ・モダーン・デザイン」をめざすべきだと、1954年に雑誌論文を発表します。この主張に建築家吉阪隆正らが、まがいものの日本趣味と変わらないと反論するなど、「ジャポニカ論争」として呼ばれる論議が展開されました。剣持は1955年に産業工芸試験所を辞め、デザイン事務所を開設します。

 評論家、勝見勝は、1964年(昭和39年)東京オリンピックという一大国家プロジェクトに際して、亀倉雄策や田中一光らのグラフィックデザイナーたちを結集させ、ポスターからピクトグラム(絵文字)などを一括してデザインさせ、オリンピック史上に残る総合的デザイン計画を実現します。戦前、工芸指導所でデザインの研究や評論を行った勝見が、野に下り、国威高揚のデザインを自由と民主主義の国家で実現していくのです。

 デザインという言葉が広く浸透し、戦後の再出発に成功するところで、この「はじまり物語」は終わります。その後、高度経済成長によって「富国」が実現すると、デザインの役割が少しずつ変わっていきました。国家のためのデザインという意識は薄れ、地球環境への意識が台頭してきました。企業はブランディングの手段としてデザインを今まで以上に重視していきます。

 日本デザインは、世界的に高い評価を受けるようになりました。そう、ウィーン万博から帰った納富介次郎の思いは、21世紀ミラノサローネへ向かう日本人デザイナーたちの胸の中にしっかりと受け継がれているのです。

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[注1]生活改善同盟:1919年に開催された文部省主催の「生活改善展覧会」の後を受けて、1920年文部省社会局に開設された組織。1921年には機関誌『生活改善』を創刊。国家的利益と産業効率を向上させるために、個々人の生活意識そのものを改革することを目標として、社交儀礼から服装、食事、住宅まで生活全般に関わる改善と合理化を目指した。衣食住のそれぞれに委員会が設けられ、大正から昭和期に展開された「生活建直し運動」の一翼を担う。住宅分科会は、椅子を使う生活様式や居間中心型の間取りを呈示し、和洋混在する当時の生活感覚を西洋的な生活様式によって合理化しようと試みた。

[注2]帝国工芸会:ドイツ工作連盟に影響されて、1926年に結成された産業デザインの振興団体。設立当時総勢124名という大規模な組織であり、宮下孝男、六角紫水など当時の主だったデザイナーたちが参加していた。富国強兵策に裏付けられた産業デザインの育成と輸出振興を目指し、その活動は1943年まで続いた。1927年、機関誌として『帝国工芸』を創刊。「技術」と「科学」を中心課題としてかかげ、デザイナーたちの思想に大きな影響を与え、デザインに関する職能団体の結成を促した。

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※主な参考文献 『日本のデザイン運動』 増補版 出原栄一著 ぺりかん社 1992年、
『てんとう虫は舞いおりた 昭和のデザイン エポック編』 日経デザイン編 日経BP社 1995年
『デザインの揺籃期 東京高等工芸学校の歩み(1)』 展覧会カタログ 松戸市教育委員会美術館準備室 1996年
『現代デザイン論』 藤田治彦著 昭和堂 1999年
『カラー版 日本デザイン史』 竹原あき子、森山明子 編 美術出版社 2003年
『近代日本デザイン史』 長田謙一、樋口豊郎、森仁史 編 美学出版 2006年
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-05-02 10:34 | Comments(0)
 
カワイイ論──拡張する求心力
『Web Designing』2012年2月号特集「“カワイイ”デザインの社会学」に寄稿したエッセイを加筆して、編集部の許可を得て転載します。

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カワイイ論──拡張する求心力

カワイイの反対語

カワイイの反対は何だろうか?
「小さくて、かよわくて、無邪気で、愛らしいもの」だけがカワイイだけなら、答えは簡単である。しかし現代のカワイイは「キモい→キモカワイイ」など反対の意味だと思われる言葉をいとも簡単に取り込んでしまう。

カワイイは「ここからここまでがカワイイの範疇」という言い方で説明できるものではない。領域が確定しないからカワイイには対義語というものが存在しない。反対といえる言葉は「カワイクナイ」であるが、否定形のその語は対義語の呈をなしていない。

アジールをつくる力

では、カワイイとはいったい何であるか。領域でなく「力」である。カワイイとは、意味を規定する固定的な枠組みでなく、新しい意味を生成しつづける力である。

誰かが「カワイイ〜」と言いはじめ、周囲が「カワイイ、キャ、カワイイぃぃ」と共感すれば、その場にアジール(聖域)が形成される。そこは、カワイイ/カワイクナイを線引きする感性を共有しあう即興的聖域だ。カワイイは求心力、カワイクナイは遠心力である。

カワイイは、対象を自分たちのもとへ引き寄せて、手なずけ、共有し合う力である。一方、カワイクナイは、対象を自分たちの関心の外へ押しやる力である。縁切りの言葉ともいえる。特筆すべきは、カワイイの求心力は、内に向かう力であると同時に、外に拡張する力でもあることだ。

昨日まで外側(カワイクナイ)のものが、今日から内側(カワイイ)になる。こうしてカワイイは、大人の妖艶、醜さ、不気味さ、憎悪の対象、父権的存在などと結合し、言葉のキメラを生みだす。キモカワイイ、ブサカワイイ、エロカワイイ、グロカワイイ、渋カワイイ、ジジカワイイ……。

共感の強度が増せば、拡張の力が増す。同時に縁切りの力も増す。かつてヤマンバギャルの奇怪なメイクが流行したのは、彼女たちが形成したアジールの内部の共感の強度がきわめて高かったからだろう。ブサイクまでカワイクする「拡張する求心力」と、外の人には分かってもらわなくていいという既成の価値観と訣別する「縁切りの力」が同時に強烈に発動していたのである。

伝えるためのカワイイ

形態の分析からカワイイデザインを考えても徒労に終わる。「ピンクやパステル系」「丸っこいデザイン」「愛らしい動き」といった外見的要因は、カワイイという求心力を発動するきっかけにすぎない。

筆者は1990年代半ばから2000年代はじめマガジンハウスの雑誌『ブルータス』や『カーサブルータス』でライターの仕事をした。この会社の仕事では、女性誌を経験してきた編集者、カメラマン、スタイリストたちとしばしばチームを組む。あるとき、男性カメラマンと社内スタジオで物撮りをしていて「その撮り方はカワイクナイよね」と会話している自分に気づいて、オレもここに染まったなと思ったことがある。

定義不能のカワイイ/カワイクナイの線引きをなんとなく理解すると、女性の編集者たちと記事の企画を話し合うのもスムースになる。自分から「これ、カワイクない?」と言えるともっと楽になる。そしてもうカワイイという言葉を使うのがやめられなくなる。

独りよがりの表現、他人を巻き込むことのできない表現、アジールを形成できない表現はカワイクナイ。カワイイものは伝わるもの/伝えたくなるもの。それゆえ、ライフスタイルを提案しつづけて、それに共感する読者コミュニティを育て上げていく雑誌づくりには、カワイイ/カワイクナイの線引きを感覚的に理解することが大切なのである。

カワイイという帝国の進展

日本でイームズブームの端緒となったのは1995年の『ブルータス』のイームズ特集だが、「イームズ 未来の家具」という特集名が示すとおり、イームズがカワイイなどと謳った特集ではない。

もちろんイームズの成形合板椅子「LCW」や色とりどりの球体のついたハンガー「ハングイットオール」などは確かにカワイイ。そこが突破口となる。

2001年『カーサ・ブルータス』がイームズ特集をする頃になると、イームズハウスや映像作品までカワイイの求心力の圏内となる。繰り返すが「パワー・オブ・テン」がカワイイなどと語っているわけでない。「見え」の問題ではないのだ。

「カワイイ」と言い合える起点があれば、その後はカワイイの求心力によって、ある価値観を感覚的に共有するコミュニティ形成が発動され、カワイイとは縁遠いものまで、その求心力の圏内に巻き込んでしまう、ということである。

イームズから始まったこの求心力は、柳宗理のプロダクトや北欧デザインまで取り込んでいった。次は、若き柳宗理に強い影響を与えたシャルロット・ペリアン。そしてペリアンが師事したル・コルビュジエ。最初はル・コルビュジエとペリアンが共作した家具の紹介から入って建築へ。サヴォア邸や母のためにつくった小さな家──。

そしてじわじわゆっくりとカワイイの求心力が勢力範囲を広げて、現代建築まで圏内まで収めてしまう。こうして2000年代初頭の『カーサブルータス』は読者層を広げていった。

輪郭でなく構造をみる

カワイイを形態論で語るのは間違っている。カワイイは、矛盾するものも、異端も飲み込む力の構造として語らなければならない。それはグローバリズムを強要する現代の帝国主義に近い構造かもしれないし、貪欲に成長し続ける資本主義に近いかもしれない。

外のモノをウチに取り込む力は、李御寧(イー・オリョン)の『縮み志向の日本人』に関連させて、“広がる縮み”として考えてもいいかもしれない。求心力と同時に働く遠心力──縁切りの力は、日本史に脈々と続く、アジールを形成する縁切りの構造に関連させて考えてもいい。

カワイイの輪郭を浮き彫りにするのでなく、カワイイの力の働き方を探ることで、今も無限大の経済成長を夢みる現代日本人の志向と、近代以前から日本人が発達させてきた仲間ウチの以心伝心のコミュニケーションを好んだ志向との親和性が見えてくる。(了)

【本ブログ過去の関連記事】カワイイ
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-04-15 15:56 | Comments(0)
 
長谷川豪さんと色部義昭さんのトークで感じたこと
twitterでつぶやいたことを加筆します。

本日、建築家長谷川豪さんとグラフィックデザイナー色部義昭さんの対談を聞きにギャラリー間に。色部さんは長谷川さんの作品集のブックデザインを担当。色部流グリッドデザインを使った本の設計が、建築の設計感覚とどこが違うかという話が面白かった。そしてさらに面白かったのは、建築家は「責了」しないという話——。
グラフィックデザイナーも編集者も最後の数パーセントを印刷所・製本所という「現場」にまかせて、「信頼してるから、後はあなたたちの責任でよろしく」と「責了」する。責了とは責任校了の略。これが多くの場合、デザイナーや編集者にとっての仕事のフィニッシュ。

しかし建築家は最後まで現場に行って「校了」をする。「校了」とは完全に直し無しというOKのサイン。長谷川さんは、色部さんが都合がつかなかくて行けなかった製本所へ行って、最後の最後の本の出来上がりを確かめたとか。
デザイナーなら、印刷立ち会いはよくするだろう。編集者は、アート系の特殊な本以外はほとんどしない。製本立ち会いとなると、グラフィックデザイナーも編集者もほとんどしない。

長谷川さんの「現場で変わることがたくさんありますから」という姿勢。私自身、編集者として、簡単に責了しすぎてたなと反省。責了も校了も同ギャラリーの長谷川豪展は3/24まで。色部さんのデザインした長谷川さんの作品集も素敵です。鐘楼の鐘の音を聞きに行きましょう。 http://www.toto.co.jp/gallerma/
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-02-25 23:34 | Comments(0)
 
本日の電線、本日の煙突
多摩川の土手、六郷橋から大師橋のあいだ。


多摩川清掃工場。ガス橋あたり。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-02-19 18:11 | Comments(0)
 
ここの電線が好きなんです。
言問通り。東大側から根津を望む。根津の谷へ下って、また藝大側へ登るから、重なる電線が密に見える。そこがいいんです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-02-18 17:00 | Comments(0)
 
変身の弁証法
変身とは何か

カフカの『変身』の主人公グレーゴル・ザムザは朝起きたとき、虫に変身する。それは一回限りの変身である。ザムザは苦悩し、結局元に戻れない。正義のために闘うTVヒーローたちの変身はそうではなかった。元に戻れる。変身には可逆な変身/不可逆な変身の二種類がある。

まずは、本稿で語る「変身」を定義づけてみよう。

【変身】 身体の外観・形態・構造・能力が短期間に劇的に変わること。非生命体であっても、それが人間や動物を連想させる身体をもつ場合(たとえばロボット)、その形態の変容を変身と呼ぶことがある。

補遺1:化粧や服装によって外見を変えることも、それが人格の変化まで伴うように見える場合、その変装は変身の亜種とみなす。

補遺2:短期間とは通常の生命体の成長・老化より著しく速いということを意味する。昆虫の変態は、幼虫と成虫の間で劇的に体を構成する組織が変化するので、変身である。擬態はカメレオンのように環境に応じて変化する場合は明らかに変身。しかしミツバチの姿をしたハエなど、種として形態変化してしまう場合は変身とはいいがたい。本稿で扱う擬態は前者である。

 変身を語るには、この定義に加え、可逆/不可逆の問題、さらに精神の変容まで語らねばならない。身体の劇的な変化は、センシング能力に強い影響を及ぼし、精神の影響は避けられない。巨大化すれば世界の見方がそれだけで変わってしまう。容姿を変えて生みだしたペルソナ(仮面)が、いつのまにか内面に強い影響を及ぼし人格を変容させる場合は多々あるだろう。

正義と変身

 正義が揺るぎないものだと信じられた時代は、正義のヒーローは、たとえ正義の狂信者となっても、人格変容とは見なされなかった。正義のヒーローに不可欠なポテンシャルは、勇者として変身後に手にする身に余る能力を受け入れ、精神崩壊しない「器の大きさ」である。これがないと元に戻る力が起動しない。勇者の資質に欠ける者の変身は、ザムザのような悲惨な結果が待っている。心身ともに怪物化するのだ。「ウルトラQ」に登場するカネゴンは、お金に執着する少年の変身したカネゴンは肉体が怪物化し、元の人格を失ってしまう。

 正義に殉じる心が人間であることを保ってくれる。正義=人間性という隠れたメッセージがここに立ち現れる。だから、人間になりたいベム一家は正義のために闘うのだ。

 しかし現実には、正義が怪物化する。アメリカを見たまえ。誰のための正義なのか? 何のために闘うのか? ヒーローという存在自体が怪しくなったのは指摘するまでもない。アムロは迷い、シャアは善悪の彼岸に生き、シンジは拒絶する。

変身カタルシス

 それでも変身は生き残る。変身シーンがカタルシスの対象になるからだ。
 自分の正体を隠す正義のヒーローは、危機を誰よりも早く察知でき、優れた洞察力でみなが悪人に騙されていることを感知できるが、その能力を隠しているために、自分が正しいことをやっていても周囲から理解されない。ヒーローの正体を知っているのは、ヒーロー自身とテレビの視聴者だけである。主人公と秘密を共有するというのが、変身ものの魅力の一つである。ドリフターズの「志村〜、うしろ後ろ」という観者と演者をつなぐ古典的な構造と同じである。変身シーンは、主人公と視聴者の、周囲に理解されない苦しみを解放し、秘密を開示するカタルシスなのである。

 水戸黄門は越後のちりめん問屋に「変装」している。素性を明かすことが黄門様にとっての「変身」である。印籠を差し示すことで、隠居した道楽好き商人が、絶対的な権威で相手をひれ伏させる能力をもつ正義の味方の変身するのだ。しかも素性を明かすこと自体が「必殺技」になっている。ウルトラマンや仮面ライダーなどのテレビヒーローの「変身→戦闘→必殺技」という流れとは一線を画する。殺陣シーンは刺身のつまであり「戦闘→変身=必殺技」となる。印籠のカタルシスはつい先頃まで、正義とは? 権威とは? という問題を不問させる力があった。しかし、それでも水戸黄門が最終回を迎えるというのは、正義も権威が人と人をつなぐ価値観になり得なくなったということだろうか。

変身の自己目的化

 正義を失った変身は、変身自体を自己目的化させて生き残る。セーラームーンやプリキュアが刷り込むのは正義や権威ではない。何のために変身するかは二の次でいい。変身願望──変身をしたいという欲望を植え付ける。「コスチュームやメイクやヘアスタイルが変われば心も豊かになる」「買い物とファッションは女の子の特権」という信条が形成される。彼女たちは自分らしく、かわいく生きられる安定した世界を守るため、悪と闘うのだ。自分が望むように変身できる世界のために、悪と闘うのである。

 正義は変身の儀式を発動するためのきっかけにすぎない。そのため、変身シーンはウェディングパーティーのように儀式化・様式化され、ここぞとばかりに華美に描き込れる。自分らしく生きるための変身は、ザムザの自己喪失的変身とは対極の位置にある。

変態と擬態

 昆虫の変態(メタモルフォーゼ)は、死と再生の変身である。蛹のなかでは、一部の神経細胞と呼吸器官以外、組織が溶けている。幼虫は一度解体され、生殖活動のための形態となる。

 幼虫の記憶は残るのか。幼虫の意識は成虫に受け継がれるのか。そもそも幼虫にどれほどの記憶と自意識があるかは分からないが、変態は不可逆でしかも精神変容をもたらす変身のシンボルである。

 可逆で精神変容のない変身は、メタモルフォーゼでなく、トランスフォーメーションである。昆虫でいえば擬態(ミミクリ)に近い。毎週繰り返されるプリキュアの変身バンクは擬態である。世界は、彼女たちが美しい擬態ができるように美しく保たれていなければならないのだ。

まどかの場合(注・ネタバレあり)

 変態と擬態の弁証法を基軸に描かれたのが「魔法少女まどか☆マギカ」である。この物語は変身をテーマにしながらも、「お約束」の変身シーンがない。正義のヒロインへの変身という「お約束」と、最終的に個の喪失をともなう変態というふたつの変身の闘争が描かれている。

 少女たちは「魔女」の悪行を見せつけられることで、正義のヒロイン「魔法少女」になるよう契約に誘われる。勧誘者であるキュゥべえは、鹿目まどかが魔法少女として比類なき資質を持つこと語るが、個が喪失してやがて魔女になる「変態」が起こることについては話を伏せる。魔法少女と魔女の対立は、「正義のヒロインへの擬態」と「個の喪失への変態」の対立である。

 まどかを最初に魔法少女へ動機付けたのは、正義感ではなく、ノートに描いた魔法少女のコスチュームであった。それはプリキュアのように幸せな世界を望み、その世界を擬態することを楽しみたいという単純な少女の憧れであった。しかし幸せな世界自体がどんなに変身してもやってこない。まどかの魔法少女としての比類なき資質は、彼女を不幸に導くものとして描かれる。

 そして、変身が繰り返される。正義のヒロインへの救いない変身の繰り返しは「個の喪失の変態」との闘いである。正義のヒロインへの変身は可逆な変身であり、個の喪失への変態は不可逆な変身である。魔女に変態することは、自分が望む擬態ができる美しき世界を永遠に喪失することである。この「可逆な変身」と「不可逆な変身」の対立は、転校生・暁美ほむらの時間を可逆にする能力によって繰り返される。

時間拡張と空間拡張

 シシューポスは山に石を運び上げ、その石が転がり落ち、また石を運び上げるという永遠に終わることがないとされる苦役を課せられている。しかしシシューポスの生命が永遠だったら――。転がる石は山を削りとる。山を下るシシューポスの足も土を削っていた。天上に輝く星がいくつか寿命を迎えるほど時が経ったころ、山はいくばくか傾斜が緩くなるだろう。さらに無限に近い回数繰り返すうちに、山は平坦になり、最後は石が転がり落ちることがなくなる。これが「大きな時間」の最適化である。『涼宮ハルヒの消失』はこうした宇宙的規模の時間拡張をテーマにしている。

 「魔法少女まどか☆マギカ」の場合、能力拡張がもたらした苦役の結末は、時間の拡張でなく、空間の拡張として表現される。もはや擬態でも変態でもない。もうひとつの変身。遍在(ユビキタス)への変身である。この変身によって時間は不可逆に戻る。それは「正義のヒロインへの変身」と「個の喪失をともなう変態」の弁証法から生まれた究極の変身である。そこを描ききったところに、まどマギがこの物語としての高い整合性がある。

並行宇宙という観点

 ただし、時間・空間の拡張ではない、もうひとつ究極の変身がある。荘子の有名な逸話「胡蝶の夢」。逸話はこうである。荘周という男が自分が胡蝶になって宙を舞う夢をみる。目が覚めて、荘周は思う。自分の真実の姿は胡蝶で、もしかしたら胡蝶がいま荘周となっている夢をみているのかもしれない。荘周なのか、胡蝶なのか、真実がどちらかは分からない。胡蝶の夢は並行宇宙を描いている。2つの世界があり、一方の世界では荘周、もう一方の世界では蝶という存在である。しかし、並行宇宙を俯瞰すると、荘周と蝶はひとつの存在である。

 まどかと魔女がひとつの存在と考えれば、魔女は偏在することになる。いや、もうすでに私たちの現実世界には魔女が偏在している。それを補完したからこそ、まどマギの結論は多くの人に受け入れられたのではないだろうか。(終)
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2011-12-20 14:26 | Comments(0)
 
軽痛車

左下を注目

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text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2011-10-12 13:28 | Comments(0)
 
僕は毎日階段を使っているが素敵と言われた試しは無い。

京都にて。
萌え系ポスター、試みとしては嫌いじゃないのですが、「階段を利用する人って素敵っ」とJKに言わせている時点でアンリアル。「素敵な人だから階段を利用している」というのならリアリティがある。別にオレが階段を使ってても、女子高生がこんな目で見てくれないわけですよ。エコを唱えることの現実感の無さを引き立たせちゃいかん。現実的な問題だって方向に持ってかないと。燃え燃えチャレンジの方々、再考を。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2011-10-12 01:05 | Comments(0)
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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザインジャーナリスト。エディター。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科准教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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