藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
デザイナー・ダイイング
昨日のトークでブログを書き始めた動機のことをちょこっと話しました。2005年5月の当ブログ開設当時、アニメ「攻殻機動隊」、その続編「イノセンス」にハマっていて、自分もネットを外部記憶装置として使ってみようと考えたって話です。自分の考え方を整理するのに、その内容をネットに公開すれば、文章も書き殴りでなく、職業は物書きですから、まとまった文章を書かざるを得なくなり、結果、思考の質も高まるだろう。そう思ったんです。

もうひとつ直接的な動機としては──5月の岡田さんとのトークで語ったことですが──、自分の書いたものに対して反応が欲しいということもありました。ライターとして雑誌の仕事をしていると読者とコミュニケーションする機会は皆無。たまにあっても編集者経由でしたから。

で、さらにもうひとつ、第三の動機がありました。トークの時は主題から離れそうな気がして話さなかったのですが──。

ブログを立ち上げる前後だったと思います(ですから後付けの動機ということになるかもしれません)。ユビキタスコンピューティングのことを調べていて、その概念の提唱者マーク・ワイザーのHPに行き当たりました。HPでは、ワイザーが最初にユビキタスを語った論文や、学会で発表した時に使ったスライドを閲覧できます。個人的な旅行写真も見ることができます。

けれど、もうその時ワイザーは故人でした。1999年46歳で亡くなっています。

彼のHPは今も見られます。笑顔のワイザーの写真が迎えてくれます。一種の不死です。ワイザーはユビキタスコンピューティングのことを調べたい世界中に人々に、ワイザーは微笑みかけながら、その思考を無償で提供してくれます。

本を書いたり雑誌記事を書いて、その書籍や雑誌が国会図書館に所蔵されると、自分の生物学的な死を超えて、自分の書いたものが世の中に残ってくれるんだと思えて、僕は幸せを感じます。けれど、それは不死の感覚とは別のものです。

個人HPにはもっと親密感があります。@btfのトークで鈴木芳雄さんがブログや雑誌など距離感の話をしてくださいましたが、もともと親密感のあったHPはその主宰者が亡くなっても親密感が残るようなのです。

たとえば資料館になっているような有名文学者の生家など、主人不在の家を訪れると、なんだかむずかゆいような寂寥感が残ります。もうその人はここにはいないという感のほうが強くなるのです。

個人HPは、もともと主人がいない仮想空間で、仮想的に主人が一対一で語りかけてくれる親密感が演出されています。ネット検索でたまたま訪れたウェブページでは、更新されていないことはわかっても、その人がこの世にもういないとことには気づきません。

ワイザーのHPは、一見してもうずいぶん前に更新がストップしたことのわかる古いデザインです。しかし、こんな重要な論文や歴史的な発表のスライドを公開してくれるのか、明日の講義にもそのまま使えるとか思うと、有り難さだけが残ります。まるで家に招待してくれて御馳走をいただく気分。引用させていただいたお礼メールを書きたくなる。死んでる人にメールを送る人もけっこういると思われます。

日本のネット創生期、もう10数年以上前だったと思います。何で注目されていたか忘れましたが、けっこう話題になっていた本業歯医者さんのホームページがありました。突然更新が止まって、数か月後訪れると、奥さんが「主人が亡くなりました」という書いていました。でも、もし亡くなりましたって書かなければ、どうなるのか。ネット上の死は全ページ削除なのか、本人の死なのか。そんなことをいろいろ考えさせられました。

今だってもうすでに亡くなった人のウェブページを、その人が生きていると勘違いして、見ているかもしれません。ハンドルネームだけだったりすると、生死は確かめようもありません。

ココカラハジマルもネット上の不死を目指してます。マーク・ワイザーのような重要論文が無いので半永久的な不死は難しいですが、生物学的な死とネット上の死が同時ならないようにしたいと思ってます。残響をどこまで残せるか。

そのためにはもっともっと良コンテンツを増やさないといけないわけで、生物学的死はまだまだ迎えられそうにありません。

自分の外部記憶装置は、他者の外部記憶装置でもあるのです。

こうしたことはティモシー・リアリーの『死をデザインする』という本にも感化されています。日本では2005年に出た本で、すぐ買ったのですが、いまだに完読せず、たまに拾い読みばかりしてます。

原書名はDesign for Dying. その第三章はDesigner Dying(デザイナーダイイング/翻訳ではデザインされた死)です。デザイナーダイイングは、受精卵の遺伝子操作して、たとえばブロンズの子が生まれるようにするなど、子の能力や外見を親の思い通りにしようとする「デザイナーべビー」に掛けた言葉だと思います。「死」はおそらくデザインのもっとも対極に位置するものです。しかし死に方や死の状況はある程度デザインできる。外部記憶装置としてネットを使うことは、死をデザインすることにつながっていると思ってます。

そんなことを考えていたことを昨日のトークの時に思い出しました。やはりトークはいいですね。脳が活性化されます。本日は、昨日の考えがいろんな形で広がって、あっという間に一日が過ぎていきました。仕事しなきゃ。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-26 21:49 | お気に入りの過去記事
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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