『Web Designing』2012年2月号特集「“カワイイ”デザインの社会学」に寄稿したエッセイを加筆して、編集部の許可を得て転載します。
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カワイイ論──拡張する求心力
カワイイの反対語
カワイイの反対は何だろうか?
「小さくて、かよわくて、無邪気で、愛らしいもの」だけがカワイイだけなら、答えは簡単である。しかし現代のカワイイは「キモい→キモカワイイ」など反対の意味だと思われる言葉をいとも簡単に取り込んでしまう。
カワイイは「ここからここまでがカワイイの範疇」という言い方で説明できるものではない。領域が確定しないからカワイイには対義語というものが存在しない。反対といえる言葉は「カワイクナイ」であるが、否定形のその語は対義語の呈をなしていない。
アジールをつくる力
では、カワイイとはいったい何であるか。領域でなく「力」である。カワイイとは、意味を規定する固定的な枠組みでなく、新しい意味を生成しつづける力である。
誰かが「カワイイ〜」と言いはじめ、周囲が「カワイイ、キャ、カワイイぃぃ」と共感すれば、その場にアジール(聖域)が形成される。そこは、カワイイ/カワイクナイを線引きする感性を共有しあう即興的聖域だ。カワイイは求心力、カワイクナイは遠心力である。
カワイイは、対象を自分たちのもとへ引き寄せて、手なずけ、共有し合う力である。一方、カワイクナイは、対象を自分たちの関心の外へ押しやる力である。縁切りの言葉ともいえる。特筆すべきは、カワイイの求心力は、内に向かう力であると同時に、外に拡張する力でもあることだ。
昨日まで外側(カワイクナイ)のものが、今日から内側(カワイイ)になる。こうしてカワイイは、大人の妖艶、醜さ、不気味さ、憎悪の対象、父権的存在などと結合し、言葉のキメラを生みだす。キモカワイイ、ブサカワイイ、エロカワイイ、グロカワイイ、渋カワイイ、ジジカワイイ……。
共感の強度が増せば、拡張の力が増す。同時に縁切りの力も増す。かつてヤマンバギャルの奇怪なメイクが流行したのは、彼女たちが形成したアジールの内部の共感の強度がきわめて高かったからだろう。ブサイクまでカワイクする「拡張する求心力」と、外の人には分かってもらわなくていいという既成の価値観と訣別する「縁切りの力」が同時に強烈に発動していたのである。
伝えるためのカワイイ
形態の分析からカワイイデザインを考えても徒労に終わる。「ピンクやパステル系」「丸っこいデザイン」「愛らしい動き」といった外見的要因は、カワイイという求心力を発動するきっかけにすぎない。
筆者は1990年代半ばから2000年代はじめマガジンハウスの雑誌『ブルータス』や『カーサブルータス』でライターの仕事をした。この会社の仕事では、女性誌を経験してきた編集者、カメラマン、スタイリストたちとしばしばチームを組む。あるとき、男性カメラマンと社内スタジオで物撮りをしていて「その撮り方はカワイクナイよね」と会話している自分に気づいて、オレもここに染まったなと思ったことがある。
定義不能のカワイイ/カワイクナイの線引きをなんとなく理解すると、女性の編集者たちと記事の企画を話し合うのもスムースになる。自分から「これ、カワイクない?」と言えるともっと楽になる。そしてもうカワイイという言葉を使うのがやめられなくなる。
独りよがりの表現、他人を巻き込むことのできない表現、アジールを形成できない表現はカワイクナイ。カワイイものは伝わるもの/伝えたくなるもの。それゆえ、ライフスタイルを提案しつづけて、それに共感する読者コミュニティを育て上げていく雑誌づくりには、カワイイ/カワイクナイの線引きを感覚的に理解することが大切なのである。
カワイイという帝国の進展
日本でイームズブームの端緒となったのは1995年の『ブルータス』のイームズ特集だが、「イームズ 未来の家具」という特集名が示すとおり、イームズがカワイイなどと謳った特集ではない。
もちろんイームズの成形合板椅子「LCW」や色とりどりの球体のついたハンガー「ハングイットオール」などは確かにカワイイ。そこが突破口となる。
2001年『カーサ・ブルータス』がイームズ特集をする頃になると、イームズハウスや映像作品までカワイイの求心力の圏内となる。繰り返すが「パワー・オブ・テン」がカワイイなどと語っているわけでない。「見え」の問題ではないのだ。
「カワイイ」と言い合える起点があれば、その後はカワイイの求心力によって、ある価値観を感覚的に共有するコミュニティ形成が発動され、カワイイとは縁遠いものまで、その求心力の圏内に巻き込んでしまう、ということである。
イームズから始まったこの求心力は、柳宗理のプロダクトや北欧デザインまで取り込んでいった。次は、若き柳宗理に強い影響を与えたシャルロット・ペリアン。そしてペリアンが師事したル・コルビュジエ。最初はル・コルビュジエとペリアンが共作した家具の紹介から入って建築へ。サヴォア邸や母のためにつくった小さな家──。
そしてじわじわゆっくりとカワイイの求心力が勢力範囲を広げて、現代建築まで圏内まで収めてしまう。こうして2000年代初頭の『カーサブルータス』は読者層を広げていった。
輪郭でなく構造をみる
カワイイを形態論で語るのは間違っている。カワイイは、矛盾するものも、異端も飲み込む力の構造として語らなければならない。それはグローバリズムを強要する現代の帝国主義に近い構造かもしれないし、貪欲に成長し続ける資本主義に近いかもしれない。
外のモノをウチに取り込む力は、李御寧(イー・オリョン)の『縮み志向の日本人』に関連させて、“広がる縮み”として考えてもいいかもしれない。求心力と同時に働く遠心力──縁切りの力は、日本史に脈々と続く、アジールを形成する縁切りの構造に関連させて考えてもいい。
カワイイの輪郭を浮き彫りにするのでなく、カワイイの力の働き方を探ることで、今も無限大の経済成長を夢みる現代日本人の志向と、近代以前から日本人が発達させてきた仲間ウチの以心伝心のコミュニケーションを好んだ志向との親和性が見えてくる。(了)
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