藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
ケータイのデザインについて
GDP2005で「ケータイデザインミーティング2」のナビゲーターをやりました。出席者の方々に助けていただいてなんとか乗り切ったという感じです。出席者の方、それに熱心に聞いていただいた観客の皆様に感謝します。
内容は「ITmediaモバイル」にレポートがありますので、そちらを見て下さい。
d0039955_12373498.jpg
このシンポジウムの冒頭で、僕なりの問題提起をしてみました。
舌足らずで、しかも時間の関係で言いたいことをはしょったので、うまく伝わらなかった部分があると思います。
それで、その問題提起を原稿化しました。長文です。
(何度も手を加えているうちにシンポジウムの場で語ったことよりだいぶ深い話になっていると思います@10/15)

**************************
《デザインの最前線としてのケータイとファッション》

【ファッションデザインの立ち位置】

ケータイのデザインを考えるとき、ファッションが大きな鍵となる。これはある建築評論家から聞いた話だが、1960年東京で世界デザイン会議が開かれたとき、ファッションデザイナーに参加してもらおうか、どうかと話しあっていたとき、丹下健三が冗談めいて「アクセサリーのデザイナーと何を話せばいいんだい?」と言ったという。

三宅一生のような一部の人の仕事を除き、巷のファッションデザインは春夏/秋冬と業界全体で流行を作り出し消費のサイクルを早めているシステムであって、流行という名の下であの手この手でうわべを飾るものを生み出すだけのデザインは、工業デザイン、グラフィックデザイン、建築が目指すべき正しき道とは違うものであると考えられてきた。

その証拠にグッドデザイン賞にモードとしてのファッションデザインを審査する部門はない。ウラハラで売っているジャケットや高円寺で売られているTシャツもGマークにエントリーされることはない。ネクタイやハンカチも一般の人は「デザイン」で選んでいるのに、そのデザインは決してグッドデザイン賞で審査されることはない。

イッセイミヤケのA-POCは2000年度グッドデザイン大賞をとっている。しかしそれは糸づくりに始まる製法までデザインし、服作り方法論の既成概念を打ち破ったものだという、あくまでインダストリアルデザインの枠組みの中で評価されたものだった。

【着こなすこと──ファッションへの視線の変容】

冷めていたファッションへの眼差しが熱く変わってきている。
私たちはもはやモードの世界が作り出す流行にあまり左右されなくなっている。古着でもいい。ミュージアムショップで買ったTシャツでもいい。アオザイやバティックのようなエスニックな服でもいい。それらを最新のモードとコーディネイトしてもいい。ユニクロやMUJIと組み合わせてもいい。

どんな組み合わせにするかで個性が表現される。どんな人生を送っているか、どんな生活観を持っているか、まで分かってしまう。

シチュエーションにあわせて、どんな服や靴や時計を選ぶか。流行に背を向けるのも自己表現だ。公式の場にTシャツで現れるのも自己表現だ。衣服によって、同じ価値観を持つ人どうしが精神的なつながりを強めたりもする。

膨大な選択肢から、自分の世界観にあったものを引き寄せて、着こなす。ファッションは他人に自分が何者であるかを伝えるコミュニケーションの媒体となっている。言い換えると、衣服やアクセサリーはサンプリング感覚で気軽に編集できるツールとなっている。
が、それらは単なる情報や記号ではない。服は体を包み込む。触感に直に訴える。記号なのに身体に密接な関わりを持っている。そこが面白い。

体に最も近いところで展開される人のぬくもりを持った情報。住空間もその延長線にある。

ファッションを「流行」と捉えるのでなく、「着る人の個性を編集的感覚で表現する人間の体に一番近いツール」と考えるとき、建築家やインテリアデザイナー、プロダクトデザイナーにとって、ファッションは21世紀デザインの指標として立ち現れる。

着る人(使う人)が主役、という意味で、ファッションはプロダクトデザイン一歩も二歩も先を行っている。「ケータイがファッション化している」という意味は、流行の中でただ消費される軽佻浮薄なものになったというネガティブな意味では決してない。

【住みこなすこと──衣服に近づく住空間】

「着こなす」のように「住みこなす」というのもあるだろう。
20世紀デザイン史でいえば、たとえばイームズ邸──。20世紀的な価値基準で評価すれば、十分な採光、空間の自由な使い方、海が見え緑多い傾斜地という敷地の十分生かしきっている。特筆すべきは、そうした近代建築の理想をカタログで発注した工業化されたパーツだけで作っていること。それが傑作の理由だ──となるだろう。

が、もし今、中が空っぽのイームズ邸を見たら、モンドリアン風に彩色されている四角い倉庫としか映らないだろう。そこにチャールズ&レイ・イームズ夫妻がお気に入りの民芸品やモダンアート、それに自分たちがデザインした家具を置き、コレクションと日々の暮らしを一体化させ、30〜40年かけて彼らのライフスタイルを表現したから、その家は今も訪れる人の心を打つ。

住みこなされているからだ。建築もオブジェも家具も民芸品もすべてがイームズ夫妻の世界観の証しとなっている。住みこなされた家は外部記憶装置であり、拡張された身体である。

【使いこなすこと──関係性をデザインする】

もう、誰かがこれは押しつけがましく「良いデザインはこれです」と啓蒙する時代は終わっている。ケータイもまず自分になりに「使いこなせる」道具になれば、使い手にとってのグッドデザインになる。使いこなすとはメーカーが用意した機能を全て使うという意味ではない。自分なりの使い方をすることだ。カスタマイズといっていい。

機能も個性の表現である。Photoshopの何の機能を使いこなしているかでその人のデザインスタイルが分かる。パソコンをメールでしか使わない人もいる。それもライフスタイルだ。使う機能で自分らしさを表現する人もいれば、見た目や触り心地のデザインで自分をこっそり表す人もいる。

安さだけで選んで、別にケータイで個性を表現しようと考えない人もいるだろう。が、それもその人の生き方だ。着るものはすべて近所のジャスコで奥さんが買ってきたものっていう生き方があるのと同じように。

形態は機能に従わない。それが21世紀だ。機能は使う人が選ぶもので、モノの内奥に先験的に存在するものではなくなっている。極端な話、電話機能のないケータイだってありえるのだ。実際ケータイでメールができるようになって重い聴覚障害を持つ人たちは手話でなくても他人とコミュニケーションがとれるようになり、彼らの活動の幅は格段広がっている。

19世紀のジョン・ラスキンの思想あたりに端を発する20世紀モダニズムの正統的なデザイン哲学はこうだ。良いデザインとは偽りのないデザイン。つまり用途、機能、構造、素材、製法といった物の内部にあるものとその製作工程を正直に形に表したもの。

だから機能をシンプルに形にしたものは美しいと考える機能美という発想が生まれる。が、今や「機能美」を売りにした製品は、20世紀モダンデザインを愛する使い手のために用意する選択肢のひとつでしかない。

ケータイなどの電子機器では、メーカーが用意した機能をユーザーが想定外の使いこなし方をする可能性がある。本当の機能はモノに内在するのではなくユーザーとの関係性の中に生まれる。だから機能に完全に従った形態をデザイナーがあらかじめ作り出すなど不可能なのである。

ユーザーとの関係性に対して偽りのないものをいかに作り出すか。ユーザーが製品を楽しく自分なりに使えこなせる環境を作ることや、ユーザーのブランドへの信頼感を育てることなども含まれる。デザインを完成させるのは使い手という確信の中に、21世紀のグッドデザインのグッドがあるのではないだろうか。

【デザインをデザインする知恵】

スタンダードな機能を選ぶのも個性、牛みたいなケータイを選ぶのも個性、有名デザイナーが手がけたスタイリッシュなデザインを選ぶのも個性。ざらりとした触感を選ぶのも個性、auにするかDoCoMoにするかも個性。待ち受け画面も着メロもどんなコンテンツを利用するかも個性。ケータイでテレビを見るのも音楽を聴くのも個性。

さあ、アナタなり使いこなしができるように選んでくださいと、語りかけること自体がデザインなのだ。機能も形も価格もサービスも総合的に見渡しながら、ユーザーとの関係をデザインする。なにもデザイン性の高いケータイをデザインすることだけがデザインではない。

もちろんこの次元のデザインは、必ずしもデザイン系の学科を卒業して周囲からデザイナーと呼ばれる仕事に就いている人がしなくてもいい。しかし、さまざまな互いに相反する条件をひとつの「形」にまとめることでエレガントな解答を出すノウハウを知っているデザイナーの知恵は、この次元のデザインにおいても十分活用できるものだ。デザイナーには形に落とし込める強みがある。

ただしキャリアにとって、形が商品の最終的な形態でないところが、ケータイデザインを考える上で家電などと大きく違うポイントだ。だからこそ、関係性のデザインの重要性がより浮かび上がり、デザインのフロンティアとなっているのだ。

【良いデザインを決めるのは誰だ】

着こなす、住みこなす、使いこなす──デザインの良し悪しを選ぶのは生活者だ。使いにくいインターフェイスでもこれが自分のために便利と思えばユーザーは使いこなす。ユーザビリティの観点から言えば、ありえないほど使いづらいケータイの文字入力を、みんなメールが必要だから使いこなしているわけだ。

いまケータイの世界では、過剰にデザインしすぎることがユーザーのためになる。使いこなすには、過剰なデザイン、過剰なサービス、過剰な機能が用意されていたほうがいい。1980年に生まれた無印良品は、田中一光らのデザイナーの知恵によって、デザインをしないことをデザインする製品を生んだ。デザインをしすぎることをデザインすることもアリだと思う。

人が服なしには家なしには暮らせない。現代ではケータイなしでに暮らせない人が増えつつある。もはや身体から切り離せない道具を自分を表現するメディアとして使いこなすのは人の本能的な欲求に近いものがある。10年も20年も使いつづける製品への愛着と、人がケータイに感じる愛着は違うものとして考えたほうがいい。

そういう意味でケータイはTシャツ化し、もはやGマークの従来の枠組みでデザインの良し悪しを判断できないプロダクトになっている。実際、今年パナソニックデザイン社はカスタムジャケットのケータイを新領域部門にエントリーしてきたわけだし。

パーソナルコンピュータの概念を提唱したアラン・ケイは、近年パーソナルなテクノロジーからインティメートなテクノロジーへの移行を語っている。コンピュータテクノロジーは、マーク・ワイザーが提唱したユビキタスコンピューティング環境が現実化するにつれ、もはや人の外部に存在し必要なときに助けてくれるマシーンでなく、洋服のように身体の一部となり、24時間身体を保護したり活動をサポートすると同時に、編集感覚で個性や人格を表出できるインティメート(intimate)なメディアになっていく。

マシーンからメディアへ。パーソナルからインティメートへ。着こなす、使いこなす、住みこなす、履きこなす、乗りこなす──こなすとは道具がインティメートなものなった時の言い方といってよい。ケータイは機能もデザインもユーザーが同等に使いこなすものになって、初めてパーソナルな通信マシーンから真のインティメートなメディアに変わっていく。ファッション化は必然だ。なぜならファッションは最先端のインティメートメディアなのだから。

そのうちわざと通常の3倍のデカいケータイを使うとか、古いケータイを使って塗装のはげ具合を競い合うとか、そうした使い方まで出てきて、初めてケータイのデザインは豊かになるといっていいだろう。今はその過渡期かもしれないが、ユーザー主体のデザインの最前線にケータイデザインが位置することは間違いない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-08-29 12:41 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
Commented by drifter at 2005-09-12 08:25 x
前略
先日、ケータイの試作品を見る機会があったのですが、
人気爆発の携帯音楽プレイヤーも早くもケータイに駆逐
されそうな雲行きですね。
一眼レフが最後の砦のデジカメよりも、記録容量等による
専用機の生き残りは厳しいのかもしれません。
新参入のRioがデザイン的に家電陣に劣っていなかった
のに、撤退するのも残念です(ブランド力のせいでしょうか)。
そのうちウェアラブルモバイル等が増殖してくると、
インダストリアルとファッションにボーダレスが生じて
くるのだと思います。
Commented by cabanon at 2005-09-12 11:17
ケータイと携帯音楽プレイヤーって、コミュニケーションという視点に立つと表裏なんですよね。

一方はつながり、一方は拒絶。人のつながりが薄れていく都市の中で、ケータイは自分が誰かとつながっているというリアリティを確保するもの。ヘッドフォンステレオは電車などでの聞きたくもないオバサンの会話や周囲のノイズから好きな音楽を聴くことで自分の世界にこもるもの。拒絶のリアリティを確保するものです。

つながりのリアリティと拒絶のリアリティを自分でコントロールしないと、情報過多のこの社会では生きていくのが難しくなっている。だからケータイと音楽プレイヤーが合体するのは当然のこと。モトローラがiPodケータイを出しますよね、アメリカで。

誰とつながり、誰を拒絶するか。
衣服はそのメッセージを常に発しているわけで、コミュニケーションデザインという視点に立てば、ケータイのような人の身体に近い情報機器のデザインとファッションデザインの境界がどんどんなくなっていくのは必然だと思います。
<< コム デ ギャルソンの変わらぬ... 時間ですよ >>


S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。