藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
モダニズムという怪物
Yanagimotoさんから再びコメントをいただきました。ありがとうございます。僕も長文で返事します。
>モダニズムはもっと自由で人間的であったのだと思います。戦後、自分たちは自由であると錯覚した頃からモダニズムのボタンはかけ違えられてしまったのかもしれません。
というコメントについて考えたことです。

僕のモダニズム観を書きます。
僕はモダニズムを、自我の確立だの、科学と合理主義に基づいた社会の建設だの、標準化だの、普遍化だの、機能主義だの、鉄とコンクリートとガラスの建築だの、伝統の拒絶だのとは捉えていません。モダニズムの基軸となるのは理性でなく欲望です。

たしかに20世紀初頭の人たちがめざした近代化とは、社会が個人を基盤に形成され、ひとりひとりが高い人間性を発揮して暮らせる社会を作ることでした。ひとりひとりが高い人間性を発揮するには自由と平等が必要です。そのために合理的精神に基づいた社会システムが整備され、科学技術がそれを下支えします。

しかし実際には、自由や平等、より良き社会建設という標語のもとに、人がどんどん殺されていきます。アメリカ人の自由を予防接種的に守るために、犯人のいそうな場所にミサイルを撃ち込むことが許される。僕にはそれがモダニズムの真の姿のように思えます。

モダニズムとは、欲望を無限に解放するシステムが世界を覆い尽くすプロセスです。20世紀前半の人たちは、モダニズムという理想の中で本当の怪物がどんどん大きくなっているのを気づかなかったのです(浦沢直樹の『MONSTER』風に)。ヒトラーやスターリンは怪物の絶好の隠れ蓑になってくれました。


建築で言えばモダニズムの歴史はこうです。

産業革命が起こり、都市は労働者で溢れ、鉄筋コンクリートなどの新しい材料や工法が生まれ、新しい建築や都市のあり方が必要となります。にもかかわらず19世紀西欧のアカデミックな建築界は過去の様式を真似るだけの建築ばかりを繰り返していました。

ようやく20世紀になってル・コルビュジエやグロピウスをはじめとするモダニズムの闘士が反旗を翻します。こうしてモダニズムは世界的な潮流となり、より多くの人が平等に衛生的で快適な暮らしを享受できる、機能的で経済効率の高い建築や都市の新しいシステムが、建築家によって次々と提案されていきます。建築に夢を見たのです。

過去の様式の意匠に頼らず、世界のどこでも同じように使える鉄やガラスやコンクリートといった工業的材料をその素材特性や構造に正直につくっていくと、世界中の町に同じような形をした建築が建つことになります。インターナショナルスタイルとちやほやされたのも束の間で、人間の暮らしを型にはめることへの懸念のほうが強くなります。

大衆は機能主義に息苦しさを感じはじめ、デベロッパーたちはモダニズム建築の劣化コピーを量産します。欧米では郊外の中高層集合住宅がスラム化しました。欲望が理想を喰らい、モダニストたちの抱いたビジョンは閉塞します。建築家たちは次々とモダニズムの旗を降ろしました。夢の続きを新しいポストモダンの旗のもとで見ようとした人たちもいます。が、その旗は10年もたなかった。

90年代以降の建築をひと言で括る言葉はありません。建築が多様化したからでしょうか。いや僕はそう思いません。建築家や建築史家が言説の上で勝手にモダニズムの時代を終わらせてしまったからです。
建築家がモダニズムの旗を降ろしたからモダニズムが終わったと考えるのは、建築家や建築史家の傲慢です。錯誤です。


モダニズムは聖人ではありませんでした。怪物だったのです。60年代くらいには先端の建築家はみんなうすうす気づいていたと思います。自分たちが追い求めた理想の中で途轍もなく大きくなった怪物の正体に。

怪物が大きくなったのは建築家たちの責任ではありません。エリート建築家たるものがその巨大化をまったく阻止できなかった、と恥じ入る問題でもありません。もっと根深い問題です。

止めようがないことを知っているから手を結ぶ。現在、銀座や表参道や青山に建つ内外の有名建築家が手がけたファッションビルなどはまさにモダニズムの進行形です。いいとも悪いとも思いません。

ただ確実に言えることは、どんなに建築的に時代の先を行く仕事を仕掛けても、ここには建築家がどうすることもできないモダニズムがあって、建築家はその怪物の手のひらの上で建築の可能性を追い求めていくことから逃れられない、ということです。

建築の話になりましたが、デザインも全く同じです。欲望を無限に解放するシステムを加速するのがデザイナーの仕事になっています。デザインだけじゃありません。科学も工学も欲望拡大ツールになってます。いまさらモンスターを目の前にして「小さくなれ」とか「Less,but better」と叫んでも無力感しか伝わらない。正直、ディーター・ラムスの講演を聞いてそう思いました。だけど、それでも叫ぶ。「ヤツは怪物だ」と。

今は怪物の存在を認め、どうやったら手なずけられるか、どう節度をもって共に生きるか、どのように膨張のスピードを抑えるか、を真剣に考える時代です。理想論を語るためにその存在を無視したり、完全に消し去ることができるという安易な希望をもつ時代じゃないと思います。

建築家や建築史家たちは建築界で語られるモダニズムを初期モダニズムと言い換えるべきです。デザイン界もそれに準じるべきです。初期モダニズムと言えば、70年代後半から80年代のポストモダンのムーブメントが現在の剥き出しのモダニズムの単なる通過点であったことがきちんと見えてきます。私たちはモダニズムの本番に生きているのです。



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あ、それから別館のDP Annexにラムス展@建仁寺で見つけた小ネタをアップしました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-10-14 00:55 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
Commented by Yanagimoto at 2005-10-15 14:31 x
度々ご返答ありがとうございました。
私もまさに現在に取巻く問題との共棲が重要な課題だと考えています。ラムスのいう混沌といかに向き合うか?です。『MONSTER』を私は“和解”と解釈しました。誰の心にもモンスターがいて、それが現実の社会でモンスターを生み出している。もし、今の問題を“小さくなれ”と出来るのであれば、それはすべての人が自分のモンスターに向き合い、和解したときなのではないのかと。私はモンスターの1つを“観念(固定観念)”と考え、Glyphの活動の目的を“観念を崩す”事としています。
Commented by cabanon at 2005-10-17 08:47
こちらこそ、ありがとうございました。
柳本さんのデザインに向き合う熱い姿勢に感化されて、頭の中でモヤっとしていたものを整理することができました。ブログ書いててよかったな、と正直思いました。雑誌に書く原稿では一方通行で、こういう広がり/遣り取りはないですからね。書いたら書きっぱなしで、たまに人から面白かった、良かったと言われても、お世辞か本音かわからない。こちらも「いやいや、そんな」と返事するだけ。
僕もを“観念を崩す”ような文章が書けるよう切磋琢磨していきます。これからもよろしくお願いいたします。
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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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