藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
自分らしさ(3) 記憶ビジネス
人は記憶の塊である。渋谷のハチ公前交差点や新宿駅のホームの雑踏で「この人たちみんな違う記憶データを積んでるんだ」と思うと少しばかり身震いがする。生まれてからこのかた見てきた光景は人それぞれ全く違う。住んできた所も1時間前の体験も違う。しかも、外見からだと誰も他人がどんな記憶を持っているか分からない。それぞれ違う記憶の塊がうじゃうじゃ町を歩いている。

その「読み取り不能の似てなさ」に身震いするのだ。外国で初めて地下鉄に乗ったときの感覚──周りの人たちが顔立ちも言葉も匂いも違うのにおののき、異邦人を自覚するときの身震いである。

人は親しい人と記憶の共有化を行う。いっしょに映画を観て、いっしょに旅行して、いっしょに飲んで食べて……重なり合った記憶はお互いのコミュニケーションの基盤となる。しかし旅の記憶で他人と完全に同じデータを共有できるのはスナップ写真くらいである。同じ場所に行ったり同じ本を読んだからといって、他人と全く同じデータが脳に書き込まれるわけではない。視点も感じ方も違う。忘れ方も異なる。僕と弟の子どもの時の記憶は似ていない。

人の脳にある記憶はそのまま複製することはできない。本やブログを書いて言語化したり、写真やビデオで映像化することで、共有化用フォーマットに変換はできる。しかし、その記憶は編集されている。

再生不能の記憶もある。たとえば匂いの記憶──5月の雨の降りはじめにアスファルトから立ち上げるホコリっぽい乾いた匂い。空間の記憶──視覚的記憶は定かでないのだけれど「あっここ、むかし来たことがある」と軒の高さとか塀との距離感とか坂の傾斜で想起する空間感覚。そうした記憶の集積の上に「自分」がいる。

いま子どものときから「自分らしさ」を探し求めてきた人たちが、高齢化しはじめている。ポテンシャル探しの欲望は果てしない。定年退職して油絵を始めたり旅行に行ったり……。学習への意欲を持続させること自体は「生」にとって不可欠である。しかし若いときほどのポテンシャルは望めない。

「自分探し」のもうひとつの選択肢が「自分らしさ=記憶」である。「自分らしさ=能力」に成功した人も失敗した人も、記憶に関しては平等に機会が開かれている。僕らの世代が老人ホームに世話になる頃には、TVゲームをやってたり、ロックを聴いてたり、昔のテレビ番組を見たり、ネットで昔話に花を咲かせたり、そんなジジババが増えてるのは確実だ。TSUTAYA併設の巨大介護老人ホームなんていうのも将来できるかもしれない。

かつて親戚や地域社会は記憶装置だった。祭りをしたり、老人が子どもに話を聞かせたり、幼い頃から顔見知りの人たちが近所に暮らしている。生まれた土地に暮らし続けることが、記憶を保ち、共有化することであった。個人の記憶は変わらない風景と地縁・血縁の人々によって自動的にセーブされる。田舎では記憶がかなりの部分共有化されているから、人がたくさん集まっても都会の雑踏で感じるような違和感がない。

だが、地域社会や家のつながりはかつてほど支配的な力でなくなっている。同じ趣味や似たような価値観を持つ仲間たちのコミュニティに参加して、他人とのつながりを求める人々が増えている。血縁や地縁から自由になるということは、共有化していた記憶媒体を失うことを意味する。隣人と会話したこともない都会のマンションで一人暮らしていては誰もあなたのことを自動的にセーブしてくれない。だから昔のドラクエをやったりクイーンを聴いたり「風の谷のナウシカ」を見ながらネット実況をする。老人になる前に、30〜40歳代でもふつうに今でも行っていることである。記憶を共有化できるメディアを欲しているのだ。

記憶探しに老若はない。地縁や血縁に頼った外部記憶装置が機能しなくなっているのだから。デジカメで大量の写真を撮り、子どものムービーを撮り、画像の鮮明さにこだわりどんどん新製品を買い、ブログで日記を書き、あちこち旅して思い出を作り、習い事して「作品」を作る。人は必死になって「何か別の外部記憶メディア」を探し続けている。ファミコンの十字キーの感触は再現できるが、あたり一面マンションに建て替わってしまった故郷の風景は元に戻せない。

何か別の外部記憶メディアが、失われた記憶を補完し、脳に眠る未編集の記憶を呼びさます。メディアに記録された記憶はテイストや価値観の似た人たちと共有する。そして個体の死を超え記憶を残す──個の自由を手に入れた代わりに、従来の記憶装置を失った人たちが自分探しの旅の途上で、自分のユニークさを確認するための新たな記憶装置を望むのは当然のことである。それは現代人の大きなニーズであり、記憶を巡って果てしないビジネスチャンスが広がっている。僕はそれを「記憶ビジネス」と呼ぶ。

いま金銭的に余裕ができて「ゆとり」とか「癒し」が欲しいと思っている人たちもおそらく自分探しの最終章として「記憶」にこだわるようになるだろう。記憶こそ自分が自分であることの証明なのだから。癒しビジネスより記憶ビジネスである。

記憶メディアの容量とCPUの計算スピードは上がる一方なので、自分の一生を動画で撮り続けるとか音を録音するとか、そんな力業も可能だろう。実際、すでに記憶をテーマにしたヒューマンインターフェースの研究は盛んである。

記憶ビジネスは時間的スパンの長い仕事だ。記憶は過去のものほど価値がある。どう使うか、どう膨大な記録を編集するか、は後から考えてもいいかもしれない。記憶メディアがどんどん大容量化して安価になりコンピュータが高速化し、素人でも簡単に使える高性能編集ソフトが生まれるはずと見越して、とにかく先に人生のログ化を行う必要がある。

画像や音声やテキストだけでなく、身体感覚や空間感覚の記憶や再現は、記憶ビジネスの成否の大きな鍵になるはずだ。たとえばこんなアイディアをひとつ思いついた。ホンダの二足歩行ロボットASIMOの身長は120センチだ。もしASIMOと視線を共有できたら小学校1年生の頃の目線に戻ることができる。それで小学校の校舎を歩き回りたい。あの時よじ登った塀の高さを眺めてみたい。高いなって思うんだろうな。

ある人から「あなたの失った大切なものを教えてください」と質問をされたことがある。で、こんな答えをした。「体型」。僕は58キロだった大学生の頃の身体感覚をいまだに引きずっている。でも今80キロ(うそ、83キロ)もある。週に3〜4日ジムに行ってんのに。行かなかったらどんな体型になっていたことだろう。ジャバ・ザ・ハットか。体を丸ごとデータ化して保存しておきたかった。細い二の腕を握ったときの感覚も記憶しておきたかった。オレはパンクだから太ったら死ぬ、40歳で死んでやると言っていた(スミマセン、来月で43歳です)無茶な思いって、あの時の痩身だった身体感覚に密接につながっていたのだから。

記憶ビジネスは過去の回想ばかりする後ろ向きの人間を生み出す産業ではない。記憶ビジネスではもう一度「マルチメディア」という言葉の重要性が浮かび上がることになるだろう。この言葉が死語になったのは、90年代半ばCD-ROMを媒体としたマルチメディアコンテンツ産業がインターネットの普及でネットコンテンツ産業に取って代わられたせいで、マルチメディアの理想が陳腐化したのではない。身体感覚をコンピュータに取り込み、視覚、聴覚などに分断された感覚を統合し、肉体的束縛から感覚の解放を図る──そうしたマルチメディアの精神を記憶ビジネスは受け継ぐことになる。

****
長くなったので今回の「記憶ビジネス」の話はここまで。いつになるか分からないけど続きを書きます。きっと「記憶の共有化」について。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-14 17:00 | お気に入りの過去記事 | Comments(6)
Commented by kayotun at 2006-01-15 01:33
「記憶ビジネス」の話、すごいおもしろいです。
わたしはきっと、「自分らしさ=記憶」を信じて作品を作っているので、すごい 脳がモゾモゾしました。

「オレはパンクだから太ったら死ぬ、40歳で死んでやる」
は、大爆笑です。

ところで、あけましたね。おめでとうございます。
Commented by cabanon at 2006-01-16 08:52
>kayotunさん
脳がモゾモゾとは、面白い表現ですな。そのうちパクらせていただきます。
30歳で死んでやると言っていた頃もあったような。無責任だから覚えていない。オレはパンクだから40歳で太ってやる、と言っとけばよかったかも。
Commented by 養老(偽) at 2006-01-17 14:00 x
“記憶こそ自分が自分であることの証明なのだから”

究極の脳化現象=都市化ですね。
身体もあくまでバーチャルな「身体感覚」でしかない・・・
自前の身体はどこへ・・・
Commented by cabanon at 2006-01-17 14:12
>養老(偽)さん
脳化って老化に語感が近いのが意味深ですね。

バーチャルな身体感覚の技術が進み、都市も機械も身体化すると、
逆に自前の身体の重要性はより高まると思います。
どうしても自前の身体でしか感じられないものが出てくるわけで、
人はセンシング技術をより高めるため、ワインのソムリエの勉強をしたり、体を鍛えてダイビングしたりサーフィンをしたり、音楽を聴いたりすると思います。
僕は、自前の身体こそ人間の最高の資産で、その運用がバーチャル技術と考えています。記憶もそう。記憶は資産。記憶ビジネスとはその運用方法を開発することだと思います(あっ次書く話書いちゃった)。
Commented by さこと at 2006-01-18 04:26 x
素晴らしいエントリー投稿ありがとうございます!
あまりに面白くて、面白くて、びっくりしました。読んでてよかった!

私は大学院生でバーチャルリアリティの研究をしているのですが、「身体性」はやっぱりキーワードです。触れた感覚や、持ち上げた感覚をどう与えるかとか。どれだけ身体をつかったインターフェースにできるか、とか。

「人の創造性をどう引き出すか?」
「人のスキル(演奏だとか)をどう取り扱うか?」
あたりの研究も新興ジャンルで、じわじわと研究されてます。
google様が5~10年くらいかけて世界を情報化しつくされたら、身体と記憶の時代だろうなーとおもってます。

このテーマのSF小説もおもしろそうですね。
Commented by cabanon at 2006-01-18 21:28
>さこと さん
こんなに褒めてもらえると、とってもうれしいです。書いててよかったと。
「人の創造性をどう引き出すか?」という研究はおもしろそうですね。
一体どうやるのか、興味津々です。

僕の「記憶」への関心の根源はSF映画「ブレードランナー」です。
作られた記憶に疑念を抱き、地球へ還るレプリカントと、
中国残留孤児が本当の家族を知るために日本に帰ってきたのが重なったんです。記憶を補完する欲望(いや本能?)は途轍もなく大きいと思ったものです。
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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