藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
太陽 The Sun
d0039955_2245933.jpg終戦間際から敗戦直後の昭和天皇を描いたロシア映画「太陽」を観ました。監督アレクサンドル・ソクーロフは、ヒトラー、レーニンに続いて、昭和天皇を描きます。天皇を演ずるイッセー尾形は見事です。

この映画では天皇ヒロヒトがモダニストとして描かれています。皇居内の生物学研究所で海洋生物の研究をし、その建物は白い箱形の典型的な20世紀モダニズム建築、机にはダーウィンの銅像が置かれています。アルバムのチャップリンやグレタ・ガルボ(おそらく)の写真を眺めるシーンもあります。

しかし彼は神です。衆人の視線から遠ざけられ、見えざるものとなることで神性を保ちつづけます。

僕がこの映画で最も重要なシーンと思ったのは、敗戦後、天皇がアメリカ軍の報道関係の人たちの前に現れ、写真撮影されるシーンだと思います。「ミカドの肖像」が初めて自由に一般人に撮られるわけです。d0039955_23311739.jpgそのシーンで侍従長を務めた佐野史郎は、ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」の奥の階段に立つ男と同じポーズをとります。そこでこの映画が「眼差し」を主題にした映画だということが明らかになります。アメリカ人カメラマンたちは天皇をチャップリンに似ていると言い出し、最後は「チャーリー」とまで呼ぶ始末。(そうそう、この映画、一番バカっぽく描かれているのはアメリカ人です。マッカーサーは天皇を使える人物だとすばやく見抜く抜け目ない功利主義者となっています)。
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ラス・メニーナス(女官たち) プラド美術館所蔵
拡大はここをクリック。ただし外部リンクです。

現人神であることをやめ、人間であることを宣言した天皇は、見えざるものから見えるものへ変わっていくのです。「ラス・メニーナス」は、画家がスペイン国王夫妻を描いている部屋の様子を描いたものです。しかし国王夫妻の姿は、画面中央の鏡の中に映っているだけ。国王夫妻がこの絵の前に立ったとき、正面の鏡に自分たちの姿を認め、虚像の世界の中心に自分たちがいることを体験できるように仕掛けられた不思議な絵画です。国王は見るものとなりながら見られるものとなるのです。「ラス・メニーナス」の階段に佇む男はその眼差しの循環を一歩引いた所から眺めています。

天皇は見えざるものでしたが、侍従たちによって四六時中見守り続けられます。佐野史郎演ずる侍従長は、アメリカ人によって眼差しの劇場に引っ張り出される姿を不安な面持ちで見守ります。しかし天皇はモダニストであり、すでに視線に晒されていた存在であり、飄々と自然体で衆人の眼差しの中心に立ちます。

見えるけれども見えないもの、それが太陽です。誰も直視できないものだが、あらゆる眼差しを成立させるもの。見えないものが眼差しの中心というのは「ラス・メニーナス」の国王夫妻の立ち位置と重なり合います。

ただあの戦争では、太陽を岩戸の影に隠し、ミカドの肖像を都合のよいように管理しようとした者たちが裁かれた。天皇は誰よりも早く近代の眼差しを受け入れていたのです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-10-22 23:04 | Comments(0)
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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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