藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
子どもをデザインする
「未来の社会をデザインする」と言えても、
「子どもをデザインする」とは決して言えない。

そこにデザインという言葉の拡張の限界がある。

「未来」を形作る意志があるから、デザインが生まれる。
「未来」があるからデザインは存在する。
実際、現代を特殊化し、
過去・現在・未来の分別を鮮明にするモダニズムの時代になって、
デザインという用語は使われだしている。

だが、未来の担い手たち、つまり子どもは、
決して「デザインされる」ものではない。
大人はしつけをするし、教育をする。
しかし、子どもは「デザインされる」という語感を拒否する。

都市も道具も情報も、
身の回りのあらゆるものがデザインされ、
人生や思想、国家、世界、生命、死をデザインすると、ますます
デザインという言葉が拡張されつづけている今だからこそ
デザインされることを拒否するものを見つけることが、
逆にデザインの可能性を広げてくれるように思う。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-12-16 21:32 | Comments(8)
Commented by もも at 2006-12-16 22:37 x
最近やたらと「デザイン」という言葉を耳にします。
私は以前他大学の就職課(キャリアセンター)にいた時期があるのですが、最近は自分の将来設計をする事を「キャリアデザイン」と言い、キャリアデザイン学部という学部まであるくらいです。(ちなみにその学部を卒業すると「キャリアデザイン学士」になるとか。微妙、。)
今日いつも通っているスポーツジムに行ったら、「カラダデザイン」というポスターが貼ってありました。要は単なる筋トレなんですが。笑。
Commented by cabanon at 2006-12-16 22:43
>ももさん
息をデザインするってガムもロッテから出てますね(笑)。

デザインという言葉がアビューズ(濫用)されすぎていて、
もうすぐ死語になるって言っていた工学者もいます。

ま、愛とかアートとは、ひどくアビューズされていても
生き残っているから、
それくらい強い言葉になって欲しいもんです。
Commented by 養老(偽) at 2006-12-23 02:51 x
子供つまりヒトは自然物ですからね。
デザインという人為を施すと結果的に人工物ってことになります。
「ヒト」を社会(日本では世間といいますが)に組み込めるようにうまくデザインすると「人間」になる、ってことでしょう。
「ヒト」は自然物だけど「人間」は人工物。
Commented by cabanon at 2006-12-23 09:01
>養老(偽)さん
ふむふむ。深い。
でも、大人にも、デザインされない部分を残っているように思いました。
人間じゃなくて、ヒトとしての部分があって、
自分や他人や社会的規範や良心でコントロールできない部分。
「ヒト」と「人間」とせめぎ合う部分、
そこに芸術(デザインを含めて文学もアートも映画も)の
最先端があると思いました。

人間はDNAをデザインしようとしているわけですし、
盆栽とか金魚も「デザイン」してる。
ヒトははおそらく自然を人工に作りかえる本能を持った生物なのでしょう。
ヒトは人間になるべくして生まれてくる。
でも、やっぱり「デザイン」できない部分が必ずあって、
それを見きわめることに、僕は重要性を感じます。
Commented by 養老(偽) at 2006-12-24 05:33 x
>大人にも、デザインされない部分
そうですね。暴力性などいろいろ残ってますね。
一番身近なのに忘れられてる最たる自然物、身体。
舞台芸術での身体表現などとは別の英語でBODY(=死体)が意味するところの身体。
それは養老(本物)さんがおっしゃっているように無意識の表現そのもので、
不意に写ったショーウインドーの人物が他人だと思っていたら自分だったときゾッとしたりしますね。
鏡の中の自分をじーっと見てると気味が悪くなりますね。
それは死体としての自分の身体であったり顔なんだと思います。
(意識はそういう無意識が気に入らなくていろいろお手入れをするんだと思います)
無意識の表現を意識するのは、かように一瞬の出来事で難しく、例えば柳宗理さんは手と目でひたすら待つわけですね。
Commented by 養老(偽) at 2006-12-24 05:35 x
柳と子供つながりで下記を見つけたんですが(柳本さん申し訳ありません)、
http://blog.livedoor.jp/saab_designblog/archives/50271917.html
この育児書を見てアルファベット文化圏ならではだなぁと思いました。
それと故ナンシー関さんが言及していた料理番組の言い回しについての話。
「にんじんをさいの目に切ってあげてください」
「ここでしょうゆを大さじ1杯入れてあげましょう」
なぜ「切ります」「切りましょう」ではなく「切ってあげる」のか?
誰に対して「入れてあげる」のか?
それは視聴者不在の雰囲気を極力避けるため自然にあみだされた技。そんな内容だったと思います。
これ、日本の育児書にも多い表現で、そういう細かい文化圏には上の育児書は到底なじまないなぁと思いました。
ぜんぜん関係ない話ばかりを長文でたいへん失礼しました。
Commented by 養老(偽) at 2006-12-24 05:45 x
あ、「わがままなカラダ」って言い得て妙です。
Commented by cabanon at 2006-12-25 13:23
>養老(偽)さん
「〜してあげる」というのは不思議な表現ですね。
「誰のために」というのが明示されずに使われることが多いので、
文脈や受けとめ方によって意味が全然違ってくる。

辞書によると「〜あげる」は「〜やる」の丁寧な表現のようですが、
丁寧に言うことによってさらに「誰々のため」という部分をぼかす効果がある。
「子どもを叱ってあげましょう」
「子どもを抱いてあげましょう」「子どもに教えてあげる」
という表現は「子どものために」してあげることですが、
「にんじんを切ってあげる」のは
にんじんを擬人化して切ってあげているのか、
「食べてもらう人のため」に切ってあげるのか、
料理番組なら「視聴者のため」なのか。
そう考えると、
「子どもに叱ってあげる」のも単に「子どものため」でなく
「規範ある社会を維持するために」叱っているのかもしれませんし。
ここにも「デザインに何ができるのか」を考えるポイントがありそうです。




<< 仙台に行ってきました 転生 >>


S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。