藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
スキャナー・ダークリー  知覚と認識
d0039955_15134611.jpg監視は完璧である。家の中に何個もカメラが据えられ、映像をホログラフィで立体化することもできる。が、知覚はしているが、認識ができない。

麻薬捜査官である主人公は、自分自身を監視し続ける。しかし監視している対象が「自分」であることを認識していない。

おとり捜査の過程で、彼自身が「物質D」の中毒となり、認識障害が進行しているからだ。

『スキャナー・ダークリー』をシネセゾン渋谷で観た。わかりやすいストーリーの映画ではないし、陰鬱な話だし、オススメしない。でも、観て。

原作はフィリップ.K.ディックの『暗闇のスキャナー』(早川書房の新訳では『スキャナー・ダークリー』と改題)。映画のラストシーンは、学生の時、小説を読んだとき、頭の中に思い描いたイメージが、そのまま「絵」になっているように感じた。なんだこの既視感。脳細胞がショートして神経衰弱気味になっていく感じも、あの小説を読んでいたときと同じだ。

原作を読んだことのない人には難しい映画だ。キアヌ・リーブスとウィノナ・ライダーの演技を観に来た人たちはおそらくガッカリしただろう。実写を元に全編アニメ化されているから。でも、このロトスコープという技法を使った理由はよく分かる。

実写の表面にCGのテクスチャーを施し、生っぽい質感を奪い去ったリアリティは、知覚可能・認識不能の世界のリアリティに重なり合っていた。

私たちは「今自分がどんな世界に住んでいるのか」「自分がいっしょに仕事をしている相手が本当はどのような考えを持っているか」といった認識がなくても生きていける。

ロボットのように「相手が人間か」を検知し「人間だとしたら何という名前か」を認識できればいい。さらに、「この前に会った時にどんなことを話したか」を記憶の中から引き出せれば、会話はスムースに進む。

会話自体は必ずしも意味を持っている必要はない。「ある意味あれだね」「ああ、ヤバイよ。意味わかんねえし」とか、第三者が聞くと苛つくような、いかれた会話で、生活は成り立つ。日々の出来事に正確に反応(リアクト)する習慣を身につけていればいい。

多くの人々は、任務の本当の意味を知る必要はないし、知る能力も必要となれていない。「同意」があれば、「洞察」は不要だ。

CGで処理されて微妙な質感を失った映像は、知覚能力が高度に発達するけれども、認識能力に障害が生じて、ものは見えても、決して実体を把握することのできない状態の「むずがゆさ」を表現するのには適していた。

ただし、小説は、認識障害を言語化して認識の次元で表現するが、映画は、認識障害を観客が知覚を通して追体験するように表現するので、小説以上にむずがゆさが残る。こんな世界に居たくないという世界を2時間近く見なくちゃいけないのだから。うん、やっぱり人には薦められない。

「スクランブルスーツ」という特殊スーツが登場する。全身を覆い、容姿・服装・声が絶え間なく変化する。着ている人間が誰だかを特定できない。おとり捜査を行う麻薬捜査官が、自分の同僚にさえ自分の正体を明かさないように勤務中は常時装着している。『攻殻機動隊』に登場する「光学迷彩」は、着ている人を透明人間にして、その存在を「知覚」できなくするものだが、「スクランブルスーツ」は装着者が誰だかを「認識」できなくするものだ。

人間の知覚を拡張するテクノロジーは急速に進歩している。センサーは街中に溢れている。センシング技術は都市が正常に機能するのに不可欠なものとなり、都市が都市をスキャニングしつづけている。監視カメラだけではない。空調の温度センサーも、エレベーターの重量センサーも……。もし、こうした知覚の異常発達が、認識障害を引き起こすとしたら。

アメリカは世界の警察として監視しつづける。しかしテロリストを量産するシステムを生産しているのがアメリカ自身と考えれば、アメリカはアメリカをモニタリングしつづけることになる。

人類の最大の脅威は人類だ。地球規模の天災よりも、宇宙人の侵略よりも。そして自分を緩やかな死に導いているのは自分自身──。

自分が自分を監視しなければならない限り、社会も都市も市場も政治も機能しない状況に追い込まれ、認識障害が進行している。警官や教師たちの犯罪は不祥事と言って片づけられる問題ではない。監視者の機能不全は当然の帰結なのである。

知覚能力はテクノロジーによって増大するが、認識能力はテクノロジーでは成長しない。もちろん画像認識技術や音声認識技術は日進月歩で進歩しているが、それらは知覚能力を向上させるための認識技術であって、世界の意味を認識する能力ではない。知覚技術過剰社会が、本能的に反応するだけで暮らせる安楽な世界を生み出し、結果として人間の認識能力の欠如を呼び起こしている。これこそ緩やかな死である。

知覚と認識の断裂をつなぐのが直観。それがディックの次作の『ヴァリス』にピンクの光として顕れて、以降『ヴァリス』三部作の主題となる。ディックはグノーシス主義など神秘思想の深みに身を沈めていく。

しかし、ピンクの光は顕れない。認識障害の進行が止まらない現代社会では、覚醒への期待より、『スキャナー・ダークリー』でラストに描かれている、終末に訪れるかすかに光る希望のほうがリアリティを持っているように思えた。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-12-31 14:48 | Comments(0)
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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