展覧会と展示会。同じ「Exhibition」でも、どちらの言葉を使うか、原稿を書く時に使い分けるようにしています。21_21 DESIGN SIGHT の深澤直人ディレクションの
Chocolate展(7/29まで)と、スパイラルの原研哉ディレクションの
SENSEWARE展(4/29まで)。僕の書き分けからすれば、前者は「展覧会」で、後者は「展示会」です。Chocolate展もSENSEWARE展も、ディレクターが「ひとつのテーマ」を定め、「参加者」を選び、彼らに「作品」をつくってもらうグループ展であることは全く同じですが、本質的な違いがあります。
展示会はプロモーションが目的です。TOKYO FIBER'07 SENSEWARE(センスウェア)展は、新しいハイテク繊維や知られざるユニークな繊維素材を世の中に知らしめるための「Exhibition」です。デザインの力で日本の繊維業界のポテンシャルを引き出し、同時に繊維の力でデザイナーや建築家たちの創造性を引き出して、日本のものづくりの総合力を底上げし、それを世界に示そうという明快な目的があります。6月にはファッション業界の本場、パリで巡回展が行われます。参加作家それぞれの世界観を繊維によって表現した作品が並ぶ「展覧会」と呼んでもいいような「Exhibition」ですが、その明快な目的から考えれば、これは「展示会」です。
一方、前者はチョコレート業界の活性化とは何も関係がありません。誰もが知ってて子どもの時から慣れ親しんでいるチョコレートという素材を使って、「世界」を捉え直す「Exhibition」です。作品には、参加作家の世界観、つまり世界を見つめる視点と批評性が問われます。ディレクターもデザイナーで参加作家もデザイナーが多く、会場が「デザインサイト」と名付けられているので、デザイン展のように思えますが、同時代の先端の創造力を結集して、チョコレートという日常的な題材に「あっそうか!」とビックリマークがつくくらい、世界のものの見方を変えようと試みているわけですから、これはまさに「コンテンポラリーアートの展覧会」です。
昨日、この2つの「Exhibition」のオープニングパーティーに行きました。SENSEWARE展は「展示会」として大きな成功を収めていると思いました。山中俊治氏のロボット「エフィラ」やソニー クリエイティブセンターの「手のひらにのるテレビ」、松下電器パナソニックデザイン社の生きもののような暖房機、セイコーエプソンの超極薄繊維を使った多重スクリーンなど、原デザイン研究所の撥水性加工された繊維を使った「WATER LOGO」など、非常に興味深い作品が多く、ついつい会場に長居をしてしまいました。企業参加の作品に良作が多く、なかなか外へ発信する状況をつくりにくい企業デザイナーたちの創造性も見事に引き出しています。
「フランスやイタリアで大きな産業となった“ファッション”という枠組みの中で、日本の“繊維”の可能性を語ると、どうしても一歩踏み出せないところがある。一度“ファッション”という言葉を使わずに、プロダクトデザインやグラフィックデザインや建築などさまざまな分野を結びつける素材として“繊維”を考え直してみたかった」と原研哉氏は会場での立ち話で語ってくれました。
原氏はディレクターとして竹尾ペーパーショウでREDESIGN展とHaptic展を成功させました。紙の素材としての可能性を示すというペーパーショウとしての本来のミッションの背後に、もうひとつのミッションをありました。デザインの力を世に示したい。そのシンプルで力強い隠れミッションをディレクターの原氏が参加者たちと共有しあえたことが、「展覧会」と呼んでいいようなレベルの高い「作品」で構成される「展示会を超えた展示会」になった理由です。
SENSEWARE展でも基本の構造を同じです。ファッションという枠組みとは違う、「SENSEWARE」という繊維の新しいデザインの枠組みを日本のデザイナーたちの力で創造し、それを世界に定着させていけるのか。パリでどう受けとめられるか楽しみです。
Chocolate展は「世界を捉え直す作品」と評価するには、あまりに力の弱い作品が並んでいました。それぞれクオリティの高い作品であることは確かです。しかしそのクオリティとは仕上げとか素材感とかカラーとかフォルムとかそうした意味でのクオリティであり、チョコレートから世界を捉え直す「批評としてのクオリティ」は低いものでした。
「ねえねえ、みんな分かるよね。そうそう、あれよ、あの感じ」って代名詞だけで会話が通じる共有の記憶の中にひきこもり、狭い世界の中で日常空間の見方を変えるだけの、極めて私小説的な作品が非常に多い。「私は知覚過敏でチョコを食べると歯が痛くなる」ということをテーマにしている人、銀の包み紙へのノスタルジックな記憶、紙パッケージを開けるときの感覚──。中でも、マーブルチョコ、アポロチョコ、パラソルチョコをテーマにした作品は、日本限定の、同世代感覚に訴える、「ねえねえ、ほら、あれ」の最たる作品です。
カカオは非常に政治的な農産物です。多国籍企業の利益や先進国の人々の豊かな生活のために、非常に安い労働力の国で、本来、その国の人々の農産物を栽培されるべき土地で育てられます。サトウキビやコーヒー豆、バナナのような、労働力と土地を貧しい国から収奪する農産物なのです。そのチョコレートの政治性や経済的背景を正面切ってテーマにした作品は、約30組の作家が参加しながら、ジェームズ・モリソンの写真作品と、マイク・エーブルソン+清水友理のインスタレーションだけでした。日本の作家のリサーチの甘ったるさには、哀しいものがあります。既製品を特別にチョコレート色にした作品のどこに“世界を捉え直す批評性”があるのでしょうか。
「展示会」は、何を展示するか、それを展示することで誰が利益を得るのか、はっきりしていますから、「いま、なぜ」繊維なのかということを明確に示す必要がありません。「ハイテク繊維がいま面白い、これからもっとスゴくなる」と思ってもらえればいいわけです。
しかし同時代の事象や作家を採り上げる「展覧会」は、「いま、なぜ」を語れなければいけません。結局、チョコレート展で見えないのは、そこです。チョコレートはスゴい、って話ではないのですから。いま、なぜチョコレートなのかという「答え」をディレクターの深澤氏が持っておらず、「問い」だけが作家のほうに投げかけられているように思えます。
そこがキュレーションとディレクションの違いだと思います。原氏は「展示会」ですからスゴいの連鎖を仕掛ければいい。スゴい答えの返ってきそうなスゴい才能ある人たちに「問い」だけを投げかけて、「繊維はスゴい」「日本のデザイン力はスゴい」という結論を導いていく。
しかし「展覧会」は「スゴい」の連鎖を仕掛ける場所じゃない。結局チョコはスゴいって結論だけだったら、入場料を1000円も支払う価値はない。チョコレートを題材にした展覧会なら、キュレーター側が「いま、なぜ、チョコレートか」という答えを用意して、たとえば、チョコと記憶、チョコと共有感覚、チョコと環境、チョコと政治、といった起承転結のある形で構成していかなければならないと思います。じゃないと、伝わらない。
で、もしキュレーターの想定した答えを超える「作品」が出てきても、それを投げかけたテーマを深め広げる「ポジティブな振幅」として受け入れ、「伝える」ために起承転結を再構築する柔軟さもキュレーターには必要です。
やはり、
デザイン専門のキュレーターが必要だと思います。チョコレートというテーマ自体は興味深いのですが、展覧会のキュレーションに展示会のディレクションの手法をそのまま採り入れたことで、答えの見えない展覧会になってしまったように思います。展示会の答えは「スゴい」という分かりやすい答えでいいのですが、展覧会の答えは分かりやすい必要はありません。同時代の世界に対する批評であるべきなのですから。展覧会を見た人が受け取る答えもまちまちでいい。しかし、展覧会が批評空間として展開されていて、「いま、なぜ」という問いへの答えをつかむ道筋は用意してあげる必要がある。その仕事こそ、展覧会のキュレーションだと思います。