藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
冗長美論・後編
【冗長美から考える肉体美の系譜】

 ヒトの身体は冗長に計画されている。脳は東証のコンピュータよりはるかに冗長性に富む。脳卒中などで言語野が損傷し失語症になっても、程度にもよるがリハビリ次第で回復の可能性はある。必須パーツの眼や耳や腕は日常的には並列処理を行い、不慮の事故などで片方が失われても機能するように設計されている。
 筋肉は計画的に鍛えれば大きくなる。トレーニングで筋繊維を破壊し栄養を与えれば4〜5日後には筋繊維は以前より太くなって回復する。この過程を超回復といい、ボディビルダーはこれを利用して筋肉を肥大させる。正しく鍛えれば筋肉は盲目的に大きくなり全く実用とは関係ない肉体ができあがる。およそ肉体美とは生活に役に立つといったことからかけ離れた、機能美と見せかけた冗長美といっていい。
 冗長な肉体など美ではないと思う方がいるなら、システィーナ礼拝堂へ行かれることをお勧めする。ミケランジェロは「最後の審判」がゴールドジムで行われるとでも思っていたのだろうか。無駄な脂肪は削ぎ落とされているが、その分、無駄な筋肉の塊である。特にキリストの腰回りの太さは異常。筋トレを多少かじっている筆者の推察だが、デッドリフト250キロは余裕と思われる。
 約450年後の1980年代、ミケランジェロの絵空事が現実化しはじめた。理想の身体イメージが現実世界で筋肥大する。ブルース・リーのしなやかな肉体美は、アーノルド・シュワルツェネッガーの筋肥大全開の肉体美に取って代わられる。細身のアントニオ猪木はマッチョなホーガンに想定外の失神を喰らわされる。
 肉体の肥大化の背景には、トレーニング技術と栄養学の進展、それに薬物の開発がある。1960〜70年代、薬物は精神の拡張に使われ、ロックスターたちは痩せこけていた。1980年代、薬物は肉体能力拡張のために使われ、ステロイドがスポーツスターたちを生み出していく。しかし金メダルを剥奪されたり早死にしたり……。薬物による精神の覚醒と肉体の拡張は非合法の悪として徹底的に糾弾されることになる。しかし人間の能力拡張の夢が衰えたわけでない。薬物依存は悪だが、外部身体、外部知能、外部知覚、外部記憶への依存は悪と見なされていない。ネットワークが人間の知的能力を拡張させ、サイボーグ技術が肉体的能力を無限大に拡大させつつある。理想の肉体はサイボーグ化しはじめている。
 たとえば「攻殻機動隊」である。主人公、草薙素子は全身サイボーグである。「完全義体化」が意味するところは、彼女はきわめて重度の身体障害者だということである。幼い頃に全身を失い、ゴーストという人格が義体と呼ばれる人工身体を操る。彼女の脳は「電脳化」されている。脳にマイクロマシーンが埋め込まれネットと直接つながる状態となっているのだ。サイボーグ身体を使いこなす技量さえあれば、身障者のほうが五体満足な健常者よりはるかに優れた身体能力やコミュニケーション能力を持つことが可能になる。だから多くの人が進んで義体化したり電脳化をする。「攻殻機動隊」の描き出す世界は、障害と健常を隔てる境界が崩れはじめている21世紀の身体観をくっきりと映し出している。
「すべての人々はなんらかの障害を持っている」。そう語ったのはユニバーサルデザインの提唱者ロナルド・メイスである。1998年彼が急逝する10日前の講演で語ったこの認識は、草薙素子が体現する21世紀的身体と重なり合う。

【能力拡張がもたらすディスアビリティ】

 1990年代ユニバーサルデザインとユビキタスコンピューティングが、ほぼ同時並行で世の中に浸透していったのは単なる偶然ではない。ユビキタスコンピューティング環境とは特に人が意識しなくても一人の人間の周りに複数のコンピュータが存在する環境を指すが、そのことが意味するのは2つの方向性だ。ひとつはジョージ・オーウェルの『1984』型の監視社会。ひとつは街中に埋め込まれネットでつながったセンサやコンピュータを人間が外部知覚、外部記憶、外部知能として利用して人の身体が都市に融け出していく状況だ。
 前者では中央集権的な神経系が個人を呑み込む。後者では人が自発的にネットや都市と融合し、自律するノード(結節点)として多元的世界を支える。実際にはこの2つの方向性が複雑に絡み合いながら、景気さえ良ければみんな幸せという短絡的ビジョンのもと、ユビキタスコンピューティング環境は整備されつつある。ほとんどの人たちは身体の劇的な変容に対して自覚がない。
 身体は輪郭を失いつつある。どこへも行けて何とでもつながる。ユビキタス社会はコンピュータだけでなく人間の遍在ももたらすのだ。グーグルを使えば欲しい情報はすぐ手にはいるし、GPSは目的地までナビゲートしてくれる。
 しかしこうした人間の能力拡張が本当に意味するところは都市やネットや機械への極度の依存であり、生身の人間のディスアビリティの増大である。ケータイがないと友だちづきあいができない。サーバーがダウンするとビジネスにならない。電車が動かないと会社や学校から家へ帰れない。知らぬ間に私たちの身体にはコンセントが付けられているのだ。1か月いや1週間、東京の電気が止まればおそらく私たちは文明人の顔をしていられなくなる。私たちの身体の輪郭は都市や通信インフラによって形づくられており、それらが使えなくなると想像を超えるほど貧弱な身体を晒すことになる。
「能力拡張=ディスアビリティの増大」という流れに嫌悪感を抱く人たちは多いだろう。が、この流れはユビキタス社会以前から──特に産業革命以降ということではなく──人類が文明を形成し都市という外皮や文字という記録システムをつくった時から始まる大きな潮流であって、それを止めようと考えるのは時計の針が逆に回るのを期待するに等しい。こうした嫌悪感は技術の一人歩きを抑制するバランサーとして役割を持っているが、それ以上のものではない。その鈍感さは、ロハスな生き方に幸せを感じる人たちが、雑誌に載っているロハスグッズを買ってヨガしてオーガニック食品を食して、大量生産、大量消費型社会と一線を画していると自負するくらいのものである。肝心なのは現実で何が起こっているかをしっかり見据えることだ。

【サイボーグ研究の現在】

 現在もっとも知られたサイボーグ研究者といえば、イギリスのレディング大学のケヴィン・ウォーウィック教授である。1998年教授は手術で自分の左腕に電波を送信できるRFIDチップを埋め込み、自分自身がサイボーグとなるという実験を行った。チップを通してドアの開閉や自分の位置を知らせるといったことが試みられた。2002年には100本の電極が剣山のように並ぶ極小チップを腕に埋め込み、神経と直接つなぎ、ロボットアームを動かす試みなどを行っている。
 ブレイン・マシーン・インターフェースという研究はアメリカが先行し日本でも行われている。脳に直接電極アレイを差し、思いのままにサイボーグ身体を操ろうとする研究だ。
 脳や神経に直接電極をつなぐインターフェースは外科手術が必要で多くの人が手軽に使えるといったものではない。皮膚の上に電極を張り機械を操作する技術も進んできている。筋電と呼ばれる筋肉の動きに伴う電気信号の変位を読み取って電動義手を操作するというものだ。手を失った人にはかつて切断された腕のイメージが残っている。実際には手がなくも「握る」「開く」とイメージして残った部分の筋肉は動かすことができる。残された腕から筋電を読み取れば義手を思うがまま動かすことが可能になるというわけだ。
 現在の技術では、指で触った触感を操作者にフィードバックして、細かい作業をするといったようなことはできない。しかしネットを通じて複数の義手を同時に遠隔操作することが可能である。神経や脳と直接機械をつなぐインターフェースを駆使する達人たちは、キーボードやマウスでしか操作できない人間より高い能力を持ち得るのだ。頸椎損傷で全身が動かない人であってもだ。もはや健常者が身障者より身体能力が上とは言い切れなくなる。現在自動車メーカーが力を入れて開発しているコンピュータ制御の電気回路で自動車を操作する「バイワイヤー」技術が進めば、車椅子とクルマの境目がなくなるだろう。脳に電極を差し込んだF1ドライバーが登場することだって夢ではない。
 パワードスーツは格段にスマートなものになった。1960年代GEによって開発された「ハーディマン」は建設現場の重機のようであるが、筑波大学の山海研究室が開発した「ロボットスーツHAL」は現在世界でもっとも日常生活の場に近いサイボーグ技術と呼んでもいいだろう。40キロのものを数キロの重さくらいの感覚で持ち上げられるという。

【サイボーグ技術のリダンダンシー】

 ここで問題になるのはサイボーグ技術自体の冗長性である。タフとスマートさは不可欠だ。サイボーグ技術を頼って生存する人間は、バッテリーが止まれば生存の危機にさらされる。2、3の部品が壊れても稼働してくれるパワードスーツでないと安心して装着はできない。転倒して中の人が大けがする強化外骨格では戦闘用には使えない。RAID的な並列化や、耐候・耐衝撃・耐熱といったタフさが信頼をもたらす。が、安心をもたらすのは技術的信頼性だけでない。アフターケアやスタイリングがもたらす心理的効果、さらには製造企業のブランドの信頼感まで関わってくる。
 スマートさとは変化に対応する知性である。使う人の身体的特長や運動能力、筋電などの生体信号を解析し、その人に最適な操作システムを機械がつくりだす。つまり、人間が機械に合わせるのではなく、機械が人間に合わせるという発想だ。
 そうやって学習するサイボーグはいつしか人間並みの知能を持つことになるかもしれない。NTTコミュニケーション基礎科学研究所の前田太郎は「パラサイトヒューマン」というプロジェクトを進めている。まだ多くが基礎技術開発段階だが、その発想の示唆する将来は意味深い。私たちの身体にウェアラブルな寄生型(共生型)の人工知能を装着させようという試みだ。別の意思を持ったもうひとつの感覚系・運動系が、私たちの意図を読み取りながら、協調分散化してタスクをこなす。体に装着した賢い機械が「それをやるのはこうやったほうが効率的」と判断して、ご主人様のプライドを汚さないようにこっそり行動をナビゲーションしてくれる。そんなことが可能になるかもしれない。サイボーグの知能化は、人間の冗長性の究極の拡張といっていい。
 テクノロジーはますます人の身体に近づいてきている。アラン・ケイの言い方を借りればテクノロジーはインティメイトになってきている。インティメイトには「親密な」といった意味の他に「下着のような」という意味がある。他人のケータイを触ったり自分のケータイをいじられるのにある種の気持ち悪さを感じるのは、テクノロジーがインティメイト化した証拠である。それに伴い、ふだんはその存在を意識しないが着ないで暮らすことが気持ち悪い下着のように、テクノロジーは私たちの生活になくてはならないものになっている。移動もコミュニケーションも食事も知的活動もそのほとんどがユビキタスなテクノロジーに頼り切ることになる。身体は拡張すると同時にディスアビリティ化しているのだ。人間の身体の輪郭が喪失しつつあるのである。
インティメイトテクノロジーにおいては、機能性や実用性を追求し無駄を徹底的に削ぎ落とし、「やっぱシンプルな形は美しい」とか「これぞ機能美だ」とか「素材の持ち味を生かすのが一番」と単純に喜ぶ20世紀的デザインが通用しなくなっている。冗長性をいかにデザインするか。冗長は愚鈍にあらず。最適は最高にあらず。情調に通じ遊び心を生み、対話と信頼、安全と安心をもたらす。スマートな冗長美の追求こそ21世紀デザインの新しいフロンティアなのである。


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本稿は、以下の二つの原稿をあわせて加筆したものです。
『美術手帖』2006年4月号「身体のリダンダンシーとしてのサイボーグ技術」
『InterCommunication』No.60 Spring 2007 (NTT出版)「冗長美とは何か?──本当のポストモダニズムへ」

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【メモ】
・RAIDをいかに機能的に無駄なく作るか。効率のよいバックアップ。冗長性を冗長に作ったもののなかには冗長美は現れない。冗長美は機能美の一種。

・機能美に見せかけた冗長美。G-SHOCKとか。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-07-07 19:38 | お気に入りの過去記事
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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