藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
二項対立(3)デザインとアート
男と女というのは典型的な二項対立だが、世の中オカマもオナベもいる。ホモセクシャルとヘテロセクシャルだけでなく、バイセクシャルもいる。ゲイを溌剌と生きる人もいれば、性同一性障害に人知れず悩む人もいる。ゲイにはネコとタチがある。

ちなみにネットで調べたらネコとは動物の猫じゃなく、工事現場で使う土砂運搬用の一輪車をネコグルマということからきているそうな。ネコグルマが受け身のほうの、タチが一輪車を押すほうで、交わりの光景を想像させるらしいです。

性と一口に言っても生物学的セックスと社会的文化的なジェンダーがある。女性が「女性的なるもの」である必要はないし「女性としての役割」を背負って生きる必要もない。

男と女という二項対立を巡って、生物学、性嗜好、社会学などの次元にさまざまな対立軸が張り巡らされている。対立軸の在処に読みとり、絡み合う軸線を丹念に紐解いていけば、抑圧された人々の居所や社会の抑圧の構造が明らかになる。問題設定の方法として二項対立の有効性を示すひとつの例である。

では、アートとデザインという二項対立では何が描き出せるのだろうか。

アートとデザインを巡る対立軸をあれこれ考えていたら、答えが出ない。この2つの対立には有効な対立軸が見当たらないような気がしてきた。実用性の有る無し、目的の有る無し、制約や依頼者の有無、業界の違いなど、それらしい対立軸はあるが、ちょっと考えれば、それらがあまり有効でないのは誰でも分かる。たとえば、壁に掛かる一枚の絵には、癒し効果も空間を変える力も、持ち主の社会的地位を表す記号として意味がある。ギャラリストが自分の狭いスペースの画廊で行う企画展のために「自由に描いて」と発注した絵かもしれない。

かつては有効な対立軸が存在していた。ファインアートかコマーシャルアートか。純粋美術か商業美術か。この二項対立は、ファインアートの存在意義を語りたい人には今も有効かもしれない。個人的な印象だが、ヨーロッパにはこの差にいまだ敏感なアーティストが多い。が、コマーシャルアートの側にいるとされる人間にとって、これは全く正当性を欠いた不愉快な二項対立である。アートもデザインもその定義が拡大してしまった今、バックミンスター・フラーの仕事はファインアートかコマーシャルアートか問うことの無意味さを考えればいい。

ファインでないアート、正確に言うとファインであることを指向しないアート、より正確に言うと芸術のための芸術(Art for Art)を指向しないアートが、コマーシャルアートという言葉の中に一括りにされている。ファインな高みを指向しないアートは、利潤追求のために妥協を余儀なくされる商業指向のアートだと語っているのだ。

こう考えると、Design for Art という言葉も可能になる。芸術の高尚かつ形而上的領域を守るためにデザインが存在しているという意味だ。かなり皮肉な見方で、デザイナーにとって自虐的な考え方ですらあるが、Design for Artの意識がこの世に存在しないと言えるだろうか。

デザインはアートの対立概念である限り、アートの輝ける王国を守る先鋒隊として役割を果たすことになる。たしかに、この社会にはデザイナーが解決すべき問題が山ほどある。実用性と造形美、高品質とコスト抑制、環境保護と経済発展、生産者の論理とマーケットのニーズ、ユニバーサルデザインと個別対応性、伝統と先進性、地域文化と国際性、利潤追求と社会倫理といった矛盾をはらんだ問題をいかに解決するか。非常に大切な仕事である。適切で独創的な解答がなされれば、それは“グッド”と評される。

先鋒隊の役割はグッド/バッドでしか判断されない。そこから先は王国軍の本隊であるアーティストたちが闘う領域である。本隊の領域に足を踏み入れ活躍するデザイナーもいる。が、しかし、デザインの専門家集団は、グッド/バッドの基軸を巡る言葉しか持たず、この基準を超えたデザイナーを評価する言葉を持たない。アートの語る言葉を操る人たちの評価を待つしかない。こんな棲み分けは妥当なのだろうか? アートへのコンプレックスなのか、それとも居心地のいいせいなのか、少なくとも現代のデザイナーはDesign for Art の呪縛から解き放たれていないような気がする。

本当に複雑なこと、ミラノでなくアフリカで起こっていること、誰かの善が誰かの善でない場所で起こる悲しいことに対してデザイナーは闘っているのだろうか。気づいているのに、考えまい、感じまい、としていることが多すぎやしないか。新しいとか古いとかいう基準だけで物事を判断しすぎじゃないのか。五感を解放すると言いながら逆に閉ざしている感覚があるのではないか。企業のため、国益のためにグッドと評価されることに殉じるだけでいいのだろうか。

アートとデザインの二項対立はデザイナーにとって危険なものだ。デザイナーの役割を限定しすぎてしまう。アートの立ち位置は示すかもしれないが、もはや未来のデザインのあるべき位置を指し示してはくれない。

ならば、デザインと対立させて、デザインの輪郭を示してくれるものって何だろうか? 

考えときます。

矛盾を解決し新しい道を指し示す手段であるデザインが、そろそろちゃんと向き合わなくてはならないのは「世界の本当の姿」だ。やっぱパパネックの『Design for The Real World』(邦題・生きのびるためのデザイン)は読み直さなくちゃ。フラーがアートにもデザインにも建築にも工学にも分類不能なのはまさしくDesign for The Real Worldだったからなのだし。

本当に複雑なことを解決する知恵と力、それがデザインです、きっと。

【まとめ】 デザインとアートの比較は、デザイナーにとって考える必要のないことかもしれません。アーティストと言われる人もデザイナーと言われる人も本当は同じ問題に立ち向かわなくてはいけないのですから。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-05-31 21:15 | 二項対立 | Comments(0)
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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