藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
シンクロ型文化伝播モデル
アール・ヌーヴォーの時代、まるで伝染性の熱病に罹ったように、欧米では有機的形態の装飾デザインが同時発生した。1895年、パリにS・ビングがアール・ヌーヴォーの名の由来となる「メゾン・ドゥ・ラール・ヌーヴォー(Maison de l'Art Nouveau)」という美術店を開設する。そして、メトロのデザインで知られるギマールが有名な「カステル・ベランジェ」を建てたのが1894~98年だ。

1896年、ドイツのアール・ヌーヴォー運動「ユーゲントシュティール」の名の由来となる同名の雑誌が創刊する。ベルギーではオルタ、アメリカではサリヴァンが植物文様を大胆に使った建築をつくり、オーストリアではゼツェッシオンと呼ばれる運動が起こり、建築家ワーグナーやホフマンが活躍する。イギリスではアール・ヌーヴォー運動に先立ちアーツ&クラフツ運動が起こり、やはり有機的形態をデザインに採り入れていた。有機的形態と言えば、スペインのガウディも忘れてはならない。

ルネサンスが、イタリアからフランドル、ドイツなど北方へ、時間をかけて伝播したのとは異なり、アール・ヌーヴォーは時間をかけずに伝播する。

アール・ヌーヴォーの広がりの速さの理由は、19世紀のメディアと交通機関の発展だと、結論を下してしまうのは簡単だ。新聞、雑誌が多数発刊され、情報が高速化し、国境を越えやすくなった。鉄道や蒸気船によって人が移動しやすくなった。情報が密集するパリやロンドンなど国際都市が形成された。世界中の文物が集まる万国博覧会が大流行した。──芸術文化が国境を越えて高速に伝播する要因は揃っていた。

しかし、メディアと交通機関と都市とイベントの発達だけで、芸術の興隆が語れるならば、21世紀の今ごろは、世界は芸術で溢れかえっているはずである。

たしかにモナリザのイメージは世界中を駆け巡る。しかしレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する人物が、世界中を駆け巡っているわけではない。

アール・ヌーヴォーの同時発生現象は、メディアと交通機関の発展があったから、と単純に解決してしまうわけにはいかないのではないか。

そう考えて、文化の伝播方法について「コピー型」と「シンクロ型」という2つのモデルを考えてみた。

コピー型文化伝播モデルというのは、情報が複製されて、ある地域から別の地域に文化を伝える方法である。たとえば『カラマーゾフの兄弟』や『資本論』が版を重ね世界各地にその翻訳本が広まっていくとか、コカコーラやマクドナルドがアメリカの大量消費文化を伝えたり、高度成長期の日本人がせっせとアメリカの半導体技術を盗んだり、老舗の料理店の板前が各地に散らばっていくといった、さまざまなケースが考えられる。

「コピー型」には大まかに分けて「大量生産式」と「パッケージ式」がある。

「大量生産式」は力業である。大量の商品を製造して、世界中にばらまく。コカコーラやハリウッド映画などは、アメリカ型文化を世界に浸透させる強力な兵器となっている。しかし、マクドナルドにしてもディズニーランドにしても、単純にコピーを生産し拡散させるだけではない。コピーをつくるだけでは、正確なコピーを伝えられない。より効率的に、しかも正確にコピーを世界に伝えるには「パッケージ式」をとる必要がある。

言語の違う文化圏に、本に書かれた情報を伝達させようとすると、そこには翻訳という作業が入る。翻訳にはどうしても翻訳者の解釈が入ってしまう。いろんな翻訳家の『カラマーゾフの兄弟』を読むのは楽しいが、これが宗教の聖典であったら、翻訳が多種存在することは、教団の混乱の原因となる。そこで解釈が1つの学問となり、どう聖典を解釈するかを叩き込まれた人間が、聖典を携えて、布教に当たる必要が出てくる。

「正典化」という言葉がある。ある日ふとつけた放送大学でこの言葉を知った。たしか音楽理論の講義だったと思う。クラシック音楽を学ぶ人は、バッハやベートーベンを揺るぎがたい「正典」として学ぶ。近代日本は西洋音楽を「正典化された音楽」として受容した。バッハは音楽の父、ベートーベンは楽聖、モーツアルトは神童である。そして、この正典を中心に完成された音楽理論、教育法、演奏・鑑賞スタイル、歴史、分類体系がセットになっていた。パッケージ化されているので、世に広めるためのシステマチックな教育が可能になる。

正典化という言葉から推測できるように、このスタイルの究極の形は、宗教にある。キリスト教の場合、聖書という正典=聖典があり、伝道師は、正典を中心に十字架、賛美歌、教会建築、偶像彫刻などをパッケージ化されたセットを展開させ、世界へ教義を広め、文化も生活スタイルもいっしょに運んでいく。

聖書だけが移動可能・複製可能なのではない。キリストやマリアのイメージ(イコン)、十字架、教会の建築方法、賛美歌、祭礼の行い方などもセットで複製される。パッケージごとコピーされるが、その土地に合わせて変化もする。
 
しかし正典は変わらない。完全な土着化はしない。変わるものと変わらないものがハッキリしているから、地域に根ざした柔軟な伝播が可能になる。

パッケージ化されると、正典を元に、教科書が生まれ、システマチックな教育が可能になる。正典さえ定めれば、正典の周囲には自由が生まれる。批評、土着化、異端、外伝が、正典を守るために機能する。絶対遵守だけが正典を継承する手段ではない。

現在の教育システムは、小学校から高校までは正典の絶対遵守を学び、大学に入って初めて正典への解釈──そこに懐疑や批評があることを学ぶことができる。もちろん正典絶対遵守しか教えない大学教授もたくさんいる。価値体系はそうやって次世代に伝えられる。

マクドナルドは、同じ味のハンバーガーを世界中で大量に製造して販売しているだけではない。フランチャイズの経営の方法も、接客の仕方も、品質管理のシステムも、マクドナルドのブランドが醸し出すイメージもまるごとパッケージ化された形で世界中に伝播している。それを程よくローカライズしているのが、現在のマクドナルドの世界的成功を支えている。たとえばインドのマクドナルドには牛肉100%のハンバーガーがないが、基本メニューがなくてもやはりマクドナルドはマクドナルドである。逆に言えば、完全にパッケージ化されているから、国ごとに統制のとれた効果的なローカライズが可能になる。

優れた企業は、正典の正統性を守るため、厳しいブランディング戦略を採る。ディズニーランドは東京やパリ近郊にロサンゼルスと複製テーマパークをつくったから成功しているのではない。映画などと連携したパッケージがディズニーの世界観を伝えているのだ。エルメスもルイ・ヴィトンも高度なブランディング戦略によって、製品は、価値観や企業文化ごとパッケージ化されている。

これらの企業が、違法コピーを激しく執拗に排除しようとするのは、正典の正統性を守るためである。「パッケージ式」文化伝達の使徒たちは、聖書を守るために、闘いつづける。

★ ★ ★

「コピー型」とは別種の、もうひとつの文化伝播モデルが「シンクロ型」だ。同時発生的な文化伝播現象である。

シンクロ型は、aという地域で生まれたものがコピーされて地域bへ伝わるというものではない。地域aで生まれた文化のほんのわずかな断片が、地域bに伝わる。すると、その地域bの創造者たちが触発され、aでつくられたものに匹敵する創造物をつくり出す。

共鳴するのだ。地域bでつくられたものがまた地域aの創造者を刺激するかもしれない。地域cの創造者を刺激するかもしれない。文化の共振現象が、シンクロ型伝播モデルだ。

地域aから地域bへ伝えられるものは、パッケージ化されている必要はない。大量のコピーも必要ない。完全な形でなくてもいい。画家を触発するきっかけは、雑誌の一枚のモノクロ図版でいい。想像力の豊かな画家なら名刺大の粗いモノクロ印刷の図版からも、色を感じることができる。知的好奇心旺盛な旅行者の記憶が、新たな創造を生むかもしれない。

洞察力のある者は、断片を見た時・聞いた時・読んだ時に、「あっこういうことだったのか」と全体像を理解する。自分の方法と照らし合わせて、自分の方法に修整を加える。理解は正確である必要はない。むしろ間違った解釈が新しい創造を生む。音楽と絵画という異なるジャンル同士の共鳴効果を生むこともある。

創造者を触発するスイッチが何であるかを、事前に想像するのは難しい。いや後から歴史がそのスイッチが何だったかを追究するのも難しい。街角の広告なのか、いつか見た映画のワンシーンだったのか。系統だった因果関係では説明できない。

ただ、スイッチが入れば、創造者同士が共振する。社会が変革しようとするタイミングなら、地域aと地域bの文化全体が共振する。これが「シンクロ型伝播モデル」である。

現実には「コピー型」と「シンクロ型」が混じり合いながら、文化は世界を駆け巡っている。コピー型はメディアや交通機関の発展を恩恵を受ける。大量に情報や人や商品を運べれるほど、文化もそれに伴って伝わることになる。シンクロ型は情報のスピードより、洞察力や直観力のある人間がいるかいないかの問題となる。

アール・ヌーヴォーの伝播の速さは、コピー型とシンクロ型がちょうどよいバランスとなったからだと考えられるのではないだろうか。メディアと交通機関が発達し、大量の情報が行き交う基礎をつくり、そこでシンクロ型伝播が発生した。

創造者間の交流では当然「シンクロ型」が多い。この場合、誰が最初につくったのかや、どの作品がオリジナルか、という議論は微妙なものとなる。「コピー型伝播」にはオリジナルがハッキリとある。だからディズニーはコピーライトを主張できる。逆に言えばコピーライトの厳格な適用を主張する者は、創造者同士の文化伝播を否定する可能性がある。同期しているのだから、「シンクロ型伝播」では、オリジナリティ神話やコピーライトの概念は揺らぐのだ。

メディアが発達すれば、文化は盛り上がると思っているのは、現代人の思い上がりだ。もしかしたら芸術にとって、メディアは19世紀末のアール・ヌーヴォー誕生時くらいの規模で十分なのかもしれない。

現代のメディアは、「量」に関する技術は進歩しているが、「質」に関して進化してきたわけではない。新聞やテレビはどんどん信頼されるメディアになっているかと言ったら、その逆だし、ネットに書き込まれた情報は最初から疑って扱わないといけない。iTuneで音楽を聴くようになって音質が良くなっただろうか、写真がデジタルになって無理をしても仕事を頼みたくなるカメラマンが増えただろうか。写植時代に比べて雑誌のタイポグラフィは美しくなっただろうか。高速に莫大な量を安価に簡便に扱えるという新システムは、多くの場合「質」の進歩を犠牲にしてきている。

著作権で創造行為を縛ることは、シンクロによって質を高め合う共鳴的伝達を疎外する。コピーをするライト(権利)をもったものは、同質なものしか世界に伝えない。

シンクロのためのメディアをつくる必要がある。

スイッチをどうつくるか。スイッチを探す人々を集う場をどう創出するか。それができれば、低解像度のメディアでも「質」は伝わる。僕はそういうメディアを創りたいと思っている。


******
本稿はもともと『シーティーピーピーのデザイン 』(光琳社出版、1996年)のために寄せた、信藤三雄のデザインを論ずる原稿として書いたものです。久々に読んだら、面白かった。コピー型/シンクロ型の話は、1990年くらいからずっと考えていたテーマです。そこで、信藤論の部分を削り、新たに正典化の話、パッケージ式の話を加えて、最後に今感じていることを添え、新しい論考として仕上げてみました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-12-11 15:47 | お気に入りの過去記事 | Comments(5)
Commented by マー at 2008-12-12 14:53 x
伝える方法ではなく、それを受け取る人の質を
まずは高めなくてはいけないということでしょうか。
メディアが発展したことで便利になったことは多いが、その『楽さ』が質の向上によって生み出された結果では無いことが問題なのだろう。楽になって空いた時間に自分磨きなどとは全時代の誤った夢でしかなかった。人口も増え、情報のインフラも整備されている今、以前以上に『シンクロ』が起こってもいいはずである。すくなとも確率の問題としては。しかし現実にはどうなのだろう。
現代では世界中の優れたアートやデザインに簡単に触れ合うことができ、購買することも容易になった。
僕は正直よく分からないけれど、その結果大衆の審美眼や感受性は高まっているのだろうか。



Commented by cabanon at 2008-12-15 13:25
>マーさん
受け取る人の質を高める必要はないと思います。質の高い人間と質の低い人間がいるわけじゃない。誰もがみな創造の翼を持っている。

確かに人より直観力や感応力が強い人はいますが、これは教育で育てるものじゃない。環境のせいで、洞察力や直観力が曇らされている場合もある。いや、そのケースが多い。

創造の翼を広げるきっかけを、多くの人が見失っているように思います。アーティスト呼ばれる人たちだけが、創造の翼を持っているわけではない。

人が創造の翼を広げ、いっせいに羽ばたく光景を夢みます。それが究極のシンクロ。でも、現代のメディアも教育も社会も、その方向には進んでいないように思います。

巨大綾波レイの翼に呑み込まれる──つまり誰かが示した進化にみんなが乗っかる。啓示を先に受けた人が大衆を導いて文化をつくる。まだ世界はその方向で動いてます。僕はそれに違和感を感じます。シンクロが起こるために何をすべきか、それがけっこう大きな僕のテーマだったりします。
Commented by あんのうん at 2009-01-01 02:54 x
>シンクロ型

カーデザイナーなら皆似た経験があると思うんですが、なぜか同時多発的にあるスタイルが現れます。
以前書かれていた面質など微妙なニュアンスやディテールが特に顕著です。
全く交流の無いフランスのA社デザイナーと日本のB社デザイナーが似たような新しい面質とそのディテールを同時期に考えていた、なんてことがよくあります。
たぶんファッション分野にもありそうな気がします。
世界的に各メーカー間でデザイナーの出入りや交流があるから当然という意見もありますが、僕はちょっと違う気がしています。
パリでもニューヨークでも東京でも環境が、つまり受ける刺激が似ているからだと思います。
似た環境にいれば似たことを発想するのがヒトの脳だから当たり前か、と最近はこの同時多発現象が特に不思議には思わなくなりました。
Commented by cabanon at 2009-01-06 11:44
>あんのうんさん

>似た環境にいれば似たことを発想するのがヒトの脳

はおっしゃる通りだと思います。

僕の関心は、同時多発に似たものが現れるという現象が、ある閾値に達すると頻繁に起こり出すことです。
世界の巨大自動車メーカーで仕事をするカーデザイナーは、エリートです。ある意味閾値を超えた人たちです。

シンクロ型の話は、学生時代精読したライアル・ワトソンの『生命潮流』がずっと頭の中にあって、それを文化や芸術の話に置き換えたものです。サルの芋洗いが閾値を超えると地域を越えて伝播するという話が載っていたと思います。

2001年の宇宙の旅のモノリスに触った類人猿もそうで、類人猿のほうに準備が整っていたから、知的進化が他の場所にいてモノリスを触らなかった類人猿たちにも急速に伝播した。
閾値を超えると、あるキッカケだけが必要なだけで、もう次の段階に進む準備はできている。モノリスは閾値の象徴と読み取ることもできます。

同時多発現象のおもしろいのは共鳴しあうことです。僕は共鳴の環境をいかにつくるかに関心があります。


Commented by cabanon at 2009-11-17 23:06
2009年11月17日補足。
ライアル・ワトソンの『生命潮流』百匹目のサルの話は、ワトソンの作り話だったようです。
http://www.t3.rim.or.jp/~yoji-t/oshaberi/oshaberi019.html

ま、でも、当事者と環境側の両方で、ある条件が整えば、シンクロ型伝播はあると思うんですね。
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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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