藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
デザインジャーナリズム
柳本浩市さんのブログmetabolismを拝見して、やや反省。5.16のshop btfでの岡田栄造さんとのトーク、僕的には気持ちよく話せたのですが、デザイン批評は可能か?っていう話をもっと突っ込んだほうがよかったかもしれませんね。

最近こんなことがありました。

某雑誌から拙著『デザインするな』の書評記事のゲラがPDFで送られてきました。事前に著者にチェックしてほしいとのこと。「ゲラは読みません。チェックしません。そんなことをしたら書評の意味がない」とかなんとか書いて返信しました。著者インタビューを受けてコメント部分をチェックしてほしいというのならチェックします。しかし評論の事前チェックは評者に失礼。本を世に問うた以上、他者から批判は受け入れる覚悟はできています。その批評がたとえどんな理不尽なものであってもです。

出版後のいさかいを避けるため、専門誌でも原稿の事前チェックが当たり前になりつつあります。しかし記事の性格によっては事前チェックは全く必要のないものがあります。そうしないと批評・評論という分野が存在できなくなってしまう。

自分の発言内容や事実関係以外の部分まで直しを要求するのはルール違反です。レイアウトまでチェックさせろと言ってくる人もいます。レイアウトだって批評です。どの写真を大きく使うか、何をメインに見せるか、といったことは雑誌編集者とエディトリアルデザイナーの批評性が発揮される部分です。レイアウトチェックを要求できるのはタイアップ記事のクライアントに限ります。

そうした批評性への無理解に歯止めをかけるのが編集者の役割です。ここは直すけど、ここは直さないと判断し、執筆者を守るのが、編集者の力です。編集者は執筆者にとって第一読者だって話をトークの時にしましたが、それと同時に防波堤でもあるんです。このふたつの役割をこなして、批評の世界の質が上がる。自称デザインジャーナリストがたくさん増えても、編集者の質が向上しないと、デザインジャーナリズムは存在しないということになります。

デザイン批評は難しいものです。デザインはプロダクトの姿形だけでなく、その製品を実現させるためのプレゼンテーションの過程から、その製品が世の中に出てから、どのような反響があって、それがどう次の製品に反映されていったかまで評さないと、批評として意味がない。製品の使い勝手だって1年以上使い込んで初めて分かることがたくさんある。映画のように試写会を見て、評論が書ける分野ではありません。

各業界に精通した人がデジカメだけとかクルマだけ評することなら、ファーストインプレッションでもかなり精度の高い評論を書くことは可能です。だからデジカメ評論家や自動車評論家は成立します。しかしモードも茶碗もインタラクションデザインも産業機械も広告も絵本も住宅も、時にはアートもアニメも、横断的に語るデザイン評論家は成立しづらいのです。

結局日本では、デザインを評することは、デザイナー同士に委ねられています。デザイナーのほとんどはバウハウスを基礎とするモダンデザイン教育をみっちり受けてます。グッドデザイン賞にしろADC賞にしろ、だいたい同じような見方を持った人たちが、その製品が世に出てまだ日が浅いうちに審査して、デザインの善し悪しの合意を形成している。それが現状です。しかし、そのやり方以外に今のところ世の中に溢れる大量のデザインを評価する方法がないのだから、そうした制度はそれなりにきちんと機能しています。

じゃ、デザインジャーナリストなんて、やることないじゃん、批評なんて書いても意味ないじゃんって話になります。たしかに辛口批評とか毒舌ばかり標榜すると、最初は面白がられても、辛口のスタイルを守るために先細りしていきます。

たいていの本音トークは、経験に培われた眼で直感的にいいか悪いかを判断して、それを正直に言っているという程度のものです。映画や演劇評なら、それで通用しますが、その都度知らない業界や技術を勉強しなければならないデザインジャーナリストの仕事は、経験が好奇心を鈍らすこともあります。あの時ああだったから、どうせこれもツマラナイだろと勝手に決め込んでしまうわけです。

経験という色眼鏡を外したほうが、美しく見えるものがあります。プロダクトの背景とその後の影響を綿密に取材していけば、最初はツマラナイと思ったものが、とても興味深い事例に見えてくることがあります。どんなものにも何か面白い話が隠されている。そう思ったほうが世の中は豊かに見えてきます。

僕はデザインジャーナリストの仕事は、「批判」から入るのでなく、「認めること」から入るべき仕事だと思っています。

批評ができるのは文章だけではありません。デザインも批評ができます。わかりやすい例だと、トスカーニのベネトンの広告、スウォッチ創設時の戦略、無印良品のブランディング、ドローグデザインの仕事などは、その時代時代への企画者や表現者の批評精神をはっきりと読み取れることができます。デザインが持つ批評性を言葉に置き換え、それを広く伝えるのがデザインジャーナリストの仕事です。

一見批評性の無さそうなものに、批評性を発見するのが面白い。トスカーニのベネトンの広告の批評性を書くのは簡単です。ですが、コンビニに置かれた清涼飲料水の批評性を浮かび上がらせるのは難しい。「世界のキッチンから」に、カテゴリー売り上げ1位2位以外の商品は入れ替え制で、新商品は一発屋の若手芸人のような扱いで、商品を育てようとしない一部大手コンビニに対する批判的な思いがあることは、ドラフトの本(『デザインするな』)を書くという立場で、宮田さんにじっくり話を聞けたから知り得たことです。

僕が批評家や評論家と名乗っては、デザイナーが仕掛けた隠された批評を言葉にすることができなくなります。伝える人に徹することで、見えてくる批評がある。

建築家もアーティストもデザイナーも批評家なんです。キュレーターも批評家です。いや批評家以上に批評家です。それを「認める」ことから始めることで、建築・美術・デザインジャーナリストという職能の存在理由がある。ピンと来ないものは単純に無視すればいい。だからCasaBRUTUSでも批評は成立すると思ってます。編集者にそうする気がないと単なる情報誌になってしまいますが。

「認める」ことから始めるからこそ、あっこの人、おかしくなっている、というのが分かるんです。そういうときは批判に転じる。僕は深澤直人さんの仕事はいつも気になってますから、21_21のチョコレート展の時は批判したわけです。逆に言えば、認めてない人は批判もしない。

成功している人は必ず何か理由があって成功している。酒の席ではとかく「実はあの人は…」と、悪い面ばかりを見た話ばかりになってしまいます。しかし僕にとってデザインジャーナリストの仕事とは、まずは相手の懐に入り込んで、いい面を引き出すことだと思っています。まず相手のことを認めないと、なぜ成功しているかを見極めるための材料が手に入りません。

もちろん悪い面も頭に入れておく必要はあります。じゃないと、懐に入ったまま戻って来れなくなってしまいます。ジャーナリストの本分は取材対象との距離感の操作。取材対象を一時的に好きになることも、距離感の操作の重要な技量です。そうやって引き出した成功者の「いい面」は僕自身にとってもものすごく勉強になります。それを人に伝える、それが職業です。

そんなこんなトークの後、ちょっと反省を交えて思いました。

優れたデザインは、それ自体が批評です。それを言葉にするだけだから、デザインジャーナリストの仕事は簡単? いや、それがとってもむつかしいですよ。

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なんて会話はしてません。左が岡田さん。

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-18 00:36 | お気に入りの過去記事 | Comments(11)
Commented by anzai at 2009-05-18 07:09 x
はじめまして。

metabolismで、本件に興味をもち、ここに飛んできました。ぼくも当事者が前にいても、それなりの突っ込みをするのが「礼儀」だと思っています。それが感情的しこりを残さないというのが理想ですが、そういつも上手くいくものでもないですね。でも、それをやるしかないとも思います。

とにかく、このような正直なお気持ちとお考えを伺え、読む側としては爽快です。
Commented by cabanon at 2009-05-18 09:18
>anzaiさん
ネットはこういうリアルタイムに近い意見の交流ができるメディアだから面白いと思ってます。見たものをすぐ批評して、そのレスポンスがまた返ってくる。突っ込みは大いに歓迎します。しこりを残さないようにするのは、お互いそれが「礼儀」であることを認め合うことかもしれませんね。
Commented by metabolism at 2009-05-18 12:54 x
藤崎様
当ブログにて生意気なことを言いすみません。

批評の話題、岡田さんも、もう少しけしかけてくれたら話が膨らんだかもしれませんね。ライブってエンターテイメントなので、この場の雰囲気がどうやったら盛り上がるか(観客のニーズは?)探りつつ瞬間的に実行するのが他の媒体には無い魅力なので、最近トークが増えてきた僕も気にするようにはしています。
 
僕もデザインジャーナリズムに大変興味を持っていますが、最近プロデューサーとして企業に入り込み、デザインを生み出す段階から批評し、なるべく整地化した状態で世に披露することをやっていると、出来上がったものを言論で批評する「弱さ」のようなものをつくづく感じてしまいます。それでも使用感などの事後批評は必要なのですけど。
 
流通や消費者心理などモノをとりまく部分がうまくいかないと結局は淘汰されてしまう社会性をはらんでいるとしたら、デザイン誌というニッチな媒体でどれだけ意味を持つのか疑問に思う事があります。
藤崎さんはデザインジャーナリズムがデザインの枠(メディア)から飛び出せない現状に対してどうするべきだと思いますか?
Commented by at 2009-05-19 02:03 x
ボクは対談聞いていないんで……すみません。ただ、デザインは生活思想や経済や美学や科学や歴史や文学やコレクター目線や、いろんな物差しで捉え、批評を加えることもできると思うんですよ。だから批評家は自身の物差し、というか立脚点みたいなものを明確にするところから始めてほしいと思うことはありますね。物差しが見えれば読者の中で相対化できる。批評って文章の中にあるんじゃなくて、それを読んだ人の中に生まれる価値観みたいなものですよね。ただし、それが生まれやすくなる状況をつくるのって難しいと思うけど。

NYタイムスの批評欄にも「デザイン」ってないじゃないですか。「ホームデコレーション」はあるけど。たぶん世界中のデザインジャーナリストの方々は、同じような悶々とした気持をかかえているんじゃないかと思います。私見を言えば、デザインって突き詰めると個人的なモノだと思うんですが、そこに客観性を持たせる意味も実はよく見えてこない(社会的な存在だという意味はありますが)。逃げ道だらけであやふやなところも多いという印象も否めません。ボクは、20世紀の生活思想史や生活学に軸足が移動しつつあり、いつかはその地平からデザインを振り返ってみたいです。
Commented by cabanon at 2009-05-19 17:44
> は さん

>デザインって突き詰めると個人的なモノだと思うんですが、

そう考えてしまうと、小説も映画もみんな個人的なものになってしまうし、批評を「人それぞれの中に生まれていく価値観」と言い切ってしまうと、小説も映画も感想は人それぞれだから、批評に意味がないって話になります。

ヤマダ電機に置いてある炊飯器のデザインを一つ一つ語っても意味がないのは分かってます。でも施主の好みだからといって住宅を批評しなくなると、建築史や生活文化史自体が成り立たなくなります。

デザイン批評は、デザインという言葉の定義が曖昧で、デザインが軸足というか立脚点になりえないという問題点があります。デザイン学などいうと、さらに曖昧なものになってしまいます。

はっきりブルーノ・ムナーリ命、バウハウス教信者、スタルク大好き(いるのかな?)と言ってくれて、バウハウス信者が趣味の問題を乗り越えて、ゴスロリを評するとかしてくれるとエキサイティングなのですが。(字数制限があるので次に続きます)
Commented by cabanon at 2009-05-19 17:45
たしかに立脚点は、デザイン以外にあった方がいいのかもしれません。美学ならプラトン的とかアリストテレス的と分析しながら現代デザインを語れるし、家政学なら衛生や家事の中の潜むイデオロギーの分析からデザイン全般を語ることができる。日本には柏木さんしかデザイン評論家と言われる人がいないんでしょうね。家政学と近代デザイン史という立脚点がはっきりしてますから。

じゃ、僕の立脚点は? 学者じゃないから学問じゃない。「取材」と「現場」しかないなって思います。
Commented by anzai at 2009-05-19 22:10 x
>デザイン批評は、デザインという言葉の定義が曖昧で、デザインが軸足というか立脚点になりえないという問題点があります。

自分で定義を考え、それに基づいてスタートするしかない・・・というところで、は さんのご意見があるわけですが、どうしてこの定義にするの?という動機付けが弱いと、定義も形になってきせんね。 

ぼくの場合は、ヨーロッパ市場と文化がキーなのですが、視点は複数もち、それらをなるべく移動させるように努めていますが、そう簡単じゃないです。すぐ、どこかの落とし穴に落ちてしまいます(苦笑)。
Commented by cabanon at 2009-05-19 22:41
>anzaiさん
ふむふむ。デザインの定義は自分で考えるしかない、というデザインの定義に内包する問題が、デザインの批評を難しくしているってわけですよね。

映画とか小説だと最初から定義の必要がない。でも、デザインを語るには、デザインを自分で定義する必要があるけど、それをみんながやる必要があるの? デザインとは何かを考えなくちゃいけない動機って何なの? そんなことを、みんなに強要できない。そうしたことが「は さん」の意見の「客観性をもたせる意味が分からない」というところに繋がるのかもしれませんね。

でも、デザインの定義は自分で考えるしかない、という点が逆にデザインの面白いところともいえます。多文化共生の社会では、それぞれが違う尺度を持っているから、逆に、じゃあ自分がどんな尺度で生活文化を見ているのかというのを検証していくってことが、デザインを考える動機付けになるかもしれません。

そもそもデザインという概念の発生って、産業革命が始まったからではなく、ヨーロッパ文化が多くの異文化と接して、自分の生活文化を見つめ直してみようという集合意識の形成から始まった、とも言えるかもしれませんね。

Commented by at 2009-05-20 02:49 x
理想の状態があるのなら、それに近づいているか否かで批評もできるかも知れないけど、デザインの理想とか最終目的地ってどこなんでしょうかね。デザインという考え方が空気のように暮らしに溶けて、意識されなくなるような社会が理想なのかな、と思ったこともありました。デザインを考える人は何か理想を抱いていると思うのですが、それをいろんな方に聞いてみたいです。前に若手デザイナーの作品がベテランデザイナーに酷評されたことがあって、その理由が分からないとボクが言うと、とある高名なデザイン研究者から「それは“デザイン道”から外れていたんだ」と真顔で言われて、ひー!! と思ったことがありましたね。

表現としての言葉が誕生して、何度も語られるうちに誰もが使える道具になり、やがて音と文字に還元されて悟性化していく過程を遡ると、何か見えてくるような気がしました。
Commented by cabanon at 2009-05-20 09:26
>は さん
僕は、デザインの理想とかデザインがたどり着くべき最終目的地という考え方はしたことがないです。人類が今後なるか、そのためにデザインが出来ることは何か。そう考えてデザインと接しています。

このままでは、人類は確実に地球にとって不要な存在になる。人類がいないほうが地球の他の生命は生きのびていける。人類は自分たちが変わっていかないと、この流れは止められない。誰かエラい科学者が絶対的に安全な核融合技術を完成させて、エネルギー問題を解決して、エラい政治家が出てきて、食糧問題、貧困の問題まで解決する、という他人任せの問題解決は期待できないと思ってます。

一人ひとりが変わらないといけない。僕は、創造的覚醒と呼んでいるのですが、一人ひとりがマスメディアに惑わされず、自分の物の見方をして、自分の生活を創造していく姿勢をもつこと。自分が創造的な人間であることを自覚すること。それが出来ると、人類を取り巻く状況は変わるのではないか、「地球にいてもいいよ」と言われる存在になれるんじゃないかと思ってます。
Commented by cabanon at 2009-05-20 09:44
デザインというのは一人ひとりが創造的になるためのひとつの手段であって、それをアートと言いたい人がいれば、建築だって音楽や文学などでもそれはできるよと言う人もいるでしょう。それでもいいと思っています。

デザインは、フォークから都市計画まで、生活に関わるあらゆる場面に関わるものなので、人間の創造性を日常生活から触発できる可能性を持っている、面白い立ち位置にあります。

「デザイン道」の話は面白いですね。ひー!!です。先に「志」があって、そこに至るべき「道」はたくさんあるべきなのに、日本人は道(みち)をすぐに道(どう)にしてしまう。

志があって、道(みち)が生まれて、それぞれに道理ができて、多様な道(どう)が生まれていく。そう考えると志が感じられないという否定の仕方はあっても、「道から外れている」という否定に仕方はない。

言葉の言い回しの問題かもしれませんが、なんかそういうところに権威を振りかざす姿勢が感じられます。うう、コワイ。

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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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