藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
2005年 11月 12日 ( 1 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
つながり/拒絶
5年前、2000年、『美術手帖』のために書いた原稿を加筆・修整してアップします。僕のデザインに関する思考の展開の中で、とても重要な原稿です。
つながり/拒絶──それを考えることが21世紀デザインを探ることになると思っているからです。
長文です。読まれる方はコーヒーでも入れてからごゆっくりと。

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1999年2月、iMacをデザインしたアップル社のデザイナー、ジョナサン・アイヴにインタビューをしたとき、彼がおもしろい話をしてくれた。iMac(液晶以前)の背面に付いた大きなハンドルのことである。
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「ハンドルの第一の機能は、もちろん持ち運ぶためです。しかし、このハンドルの本当に重要な役割は、ハンドルというものが即座に、直接的に、人の手を連想させるという点にあります。iMacを見た人は、たいていハンドルに手で触れます。実際に持ち上げるということではなく、何となく触ってみる。このハンドルは、人とプロダクトとの間に身体的なつながりをつくりだしているんです」

iMacのハンドルを片手で持って移動させるのは危険である。CRT(ブラウン管)のディスプレイやコンピュータは画面をおなかにつけて抱えて持ち運ぶ。それが基本だ。僕の家にもiMacがあるが、持ち運ぶ時このハンドルを使う時は、危ない運び方をあえてするときであって、このハンドルは逆に危険な運び方を誘うもので、基本的にここに大きなハンドルがある必要がない。

しかし、それでもハンドルがあるのは、とにかくパソコン初心者にiMacを触ってもらうためだ。パソコンは嫌い。そういう毛嫌いを払拭するため大きなハンドルは付いていた。現在付いていないのは、パソコンに対する嫌悪感が薄れたせいだと思う。ハンドルのないiMacを思い浮かべてみればいい。つるんとした曲面だけではいかにも冷たい。このハンドルは確かに触りたくなるほどしっかりした形をしている。人とプロダクトとの親しいつながりは、アイヴの意図通りきちんと表現されていると評価していいだろう。

同様に、ブルーのタワー型Power Macintosh G3のハンドルにも隠された意図があるのだという。

「G3は、私たちが手がけたデザインの中でも、もっともエレガントなものの一つだと思います。というのは、すべての形態に複数のレベルで意味を持たせている。ひじょうに意味のある(purposeful)プロダクトなのです。こう言うと、すぐ機能的とか実用的と解釈されがちですが、そういう意味ではありません。どの部分をとっても、力強い、明快なストーリーを持っているということです。ここでの大きなテーマはアクセスビリティ、つまり内部に手が出せるということでした。机の下に置かれているG3に、どうしたら手が届くか。そのためにハンドルを付けました。それがアクセス性の第一歩です。そして最後のステップが蓋を開くところです」

G3のセールスポイントのひとつに、ユーザーが工具など使わずに簡単に筐体の蓋を開けて、メモリやグラフィックボードを追加できる点があった。それを考慮に入れるとアイヴの言う「ストーリー」の意味が理解できる。

【アフォーダンスを超えて】

iMacもG3もハンドルが人を誘っている。ここにはアフォーダンス(affordance)の考え方が応用されている。しかしそのアフォーダンスは、ドナルド・A.ノーマンが『誰のためのデザイン?』(新曜社)で語るそれとは大きく違う。

『誰のためのデザイン?』は、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンが提唱したアフォーダンスの考え方を、認知心理学者ノーマンが、デザインの世界に当てはめ、プロダクトの使いやすさ・理解しやすさを考察した本である。人はハンドルがあれば握る。ボタンがあれば押す。ハンドルやボタン自体にすでに人が行動を引き起こす情報が込められているというのが、ノーマンのアフォーダンスの基本的な考え方である。ハンドルは握るという行為を人にアフォードしている(afford/与えている)というわけだ。

だが世の中には使う人を混乱に陥れるデザインが氾濫している。押すか、引くか、スライドさせるのか、見当が付かないドアのハンドル。多機能化でかえって使いづらくなった電話機。保留転送ができなくてもユーザーが機械音痴だからではない。デザインが悪いのだ。

ふだん何気なく使う製品は、その形や配置によってユーザーが操作方法を直感的に理解できるように注意深くデザインされていなければならない。ノーマンは認知心理学者の立場からデザイナーの無神経さを糾弾している。

しかし、ジョナサン・アイヴのハンドルはノーマンのハンドルとは役割が異なる。iMacのハンドルは何気なく触ってみるように勧めているするわけだが、目的は使いやすさ・理解しやすさのためではない。触ることを誘い、人とモノとの対話のきっかけを提供している。それをデザイナーの自己満足と片づけていいのであろうか。話す気のない人間どうしにインタラクションなど存在しない。デザイナーはアフォーダンスを利用して、“物語”の始まりを無意識のうちにユーザーに告げる。ユーザーにも想像力と感受性が求められる。

(補記:CRTのiMacにはモデルチェンジを重ねても最後まで大きなハンドルが残り、タワー型PowerMacG5には今もしっかりハンドルがついているので、アイヴの思惑は成功したと評価していいだろう)。
 
【体験デザイン──建築の散歩道】
 
建築ではこうした手法は古くから常套手段である。たとえば、階段やスロープ。それは登り降りするためだけの設備ではない。階段は動線上の次の空間へ人を誘っている。窓も単に採光や換気のための設備ではない。人の視線を外部や内部に誘う仕掛けでもある。

茶室へ至る飛び石は、人を茶室の方向へ誘うだけでなく、一定の歩幅で歩くことを強いることで、主人の歩くリズムと客人のそれを同調させる装置となっている。

d0039955_12275775.jpgル・コルビュジエのサヴォア邸では明確にスロープと階段が使い分けられている。スロープは登ることを誘う。サヴォア邸では入口を入ると真正面に緩い傾斜のスロープがある。そこから2階へ。2階の中庭から空中庭園へ至るのもスロープだ。最初にここを訪れた人でいきなり螺旋階段を使って2階へ行く人は稀だろう。
d0039955_12321352.jpg邸内を歩き回れば、視線のドラマが展開される。開口部はキャンバスのように風景を切り取っている。ル・コルビュジエはこうした建築内部で展開されるシークエンスを「建築の散歩道」(建築のプロムナード)と呼んでいる。コルビュジエはアーメダバードの繊維業者会館でも同様の建築の散歩道をつくりだしている。

建築は「体験デザイン」という側面を持っている。光の戯れ、風のそよぎ、水のせせらぎ、湿った木の匂い、足に伝わる床の感触などを通して、建築家は「物語」を五感に訴えかける。フランク・ロイド・ライトの落水邸や安藤忠雄の光の教会は、近代建築の言語で書かれた絶品の「詩」なのである。

キャナルシティ博多などを手がけるジョン・ジャーディは、エクスペリエンス(体験)をデザインする手法を大型ショッピングモールに応用して世界的な成功を収めている。

「ドラゴンクエスト」などRPGのダンジョンでの階段の役割を考えてもいいかもしれない。階段はここでも単なる登り降りの道具ではなく、次のステージにプレイヤーを誘う記号として扱われている。物語の転換点であり、ここから先に何かがあるかもしれないとプレイヤーの想像力と探求心を掻き立てる。

【行為が物語を活性化させる──映画「マトリックス」】

もうひとつ、アフォーダンスを利用した物語性のあるデザインを考える上で示唆に富む事例を挙げてみよう。映画「マトリックス」である。2199年コンピュータが人間を支配し、人間は仮想現実という夢を見させられながら「飼育」されている。その夢から覚醒した主人公ネオ(キアヌ・リーヴス)は実世界の人間たちを解放すべく、仮想現実世界の中の監視プログラム、エージェント・スミスに闘いを挑む。

最新のデジタル合成技術ばかりが注目されがちだが、この映画で真に注目すべきは「電話」の役割である。仮想現実の中にいる主人公たちは、実世界にいるオペレーターと携帯電話で連絡を取り合う。キアヌ・リーヴスはケータイで電話をしながらエージェント・スミスの追跡から必死に逃げる。ケータイで、どこへ行けば実世界に帰れるポイントがあるのかを聞いているのだ。ケータイを持って走るその姿は少々滑稽だ。

実世界に帰れる地点には必ず固定電話がある。ケーブルによる昔ながらの電話機だ。アパートの一室の電話や街角の公衆電話が鳴る。その受話器をとり、交信すると実世界に帰ることができる。連絡がとれなくなることは実世界への帰還不能、つまり死を意味する。だからケータイを肌身離さず持ち歩く必要がある。

ここには実世界/仮想現実を超えた、もうひとつのリアリティが存在している。「仲間とつながっている」という状態──そこにこそ真のリアリティがあるのだ。こうした「つながっている」という感覚がもたらすリアリティは、ケータイを風呂にも持ち込んでしまう若者たちの「つながっている感」と質的には全く同じものである。

……だが、いや、ちょっと待てよ。この電話の役割分担は変ではないだろうか? ケ−タイだってデータ通信できる。なのに、なぜ従来型の固定電話でしか帰れないのか?

この役割分担の意味を深読みすると、興味深い事実に突き当たる。従来の電話とケータイとの決定的な差は、機能の問題ではない。ここで重要なのは「受話器をとる」という行為である。もしケータイで実世界に帰還できるのなら、小さなボタンひとつを押すだけですむ。しかし、それでは映画として、絵としてつまらない。「受話器をとる」という行為を帰還の象徴としているのだ。

人は、受話器があれば、それを手にとって耳元にかざす。その行為が、仮想現実と実世界との「身体的なつながり」をつくりだしている。ケーブルか電波かではなく、受話器があるかないかの問題なのである。モノがアフォードする行為(モノに潜んだ情報)が次のシークエンスへのつなぎの役割をしている。モノが物語(ストーリー)が活性化しているのだ。このことを「マトリックス」はうまく利用している。

【行為のデザイン──マウスの功績】

iMacのハンドルを評価するなら、コンピュータと人との身体的なつながりを視覚的・触覚的に示し、コンピュータのパーソナル化の最大の推進力となった、あの道具のことを忘れてはいけない。マウスである。

マウスはダクラス・エンゲルバートによって1964年頃に発明され1968年に初めて世に発表された。最初のマウスは木製、現在のものとは違って、球ではなく直交する2枚の金属ディスクで動いた。しかしこのエンゲルバートのマウスがすぐさま普及したわけではない。

日の目を見るようになったのは、70年代ゼロックス社のパロアルト研究所でAlto(アルト)に使われるようなってからである。Altoはアイコンなどを採用した画期的なGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)を実現したコンピュータであった。Altoのマウスは、初めて内部にボールを採用し、現在のものとほぼ同じ機構をもっていた。しかし、Altoは限られた研究者に使われただけで、市販には至らなかった。

79年、アップル社のスティーヴ・ジョブズはパロアルト研究所を見学に訪れた。利にさといジョブズはAltoを見て、さっそく研究者を引き抜く。そして83年アップル社から初めてマウスを搭載した商用コンピュータLisaが発売される。Lisaは商業的に失敗したが、84年マッキントッシュ・コンピュータが誕生する。こうしてフォルダやファイル、ゴミ箱といったグラフィカルなアイコンの並んだ画面を、マウスで操作するパソコンが急速に一般に普及しはじめた。

時が経つにつれ、マウスは角張った形がどんどん丸みを帯び、手に馴染む形になってきた。今ではマウスのデザインの種類は限りない。有名デザイナーのマウスだから優れているということはなく、多くの人はまるで飯椀やスプーンのように誰がデザインしたかを意識せずに使っている。そうしたアノニマス(無名性)のせいだろうか、デザイン史の学者がコンピュータ史に精通していないせいだろうか、マウスの革新性はモダンデザインの歴史において正当に評価されていない。

マウスの発明は画面のある場所を指し示すポインティングディバイスの新しいシステムの発明という評価以上の意味合いがある。これは「行為の発明」である。人類の歴史の中で、机をこすって指でボタンをカチカチさせる知的活動があっただろうか。

マウスの形は人間工学的な操作しやすさや、視覚的な親しみやすさを演出しているが、マウスの本当のデザイン上の革新性は「行為をデザインした」という視点で見て初めて明らかになる。その行為は簡単なもので、一度訓練すればほとんど全ての人が短時間で操作に慣れ、あとは直感的に操作できるようになる。

【GUI──身体性の貧弱さ】

しかし、マウスには限界がある。

その限界は、ファミコンの十字キーと比較すれば理解しやすい。任天堂が1982年に発売したゲーム&ウオッチ マルチスクリーン「ドンキーコング」に採用された十字キーが、83年発売のファミリーコンピュータに受け継がれた。それまでにも十字型のボタンをインターフェースに採用したゲーム機はあったようだが、特許をとり世界に爆発的に広めたのは任天堂である。現在のゲーム機の多くは十字キーのシステムを踏襲している。

ゲームコントローラーとマウスが決定的に違うのは、十字キーとA/Bボタンの組み合わせが複雑な指の動きを必要とする点にある。ゲームコントローラーは格闘も野球もサッカーもできる。敷居は低いが奥が深い。その点、マウスはスキルを磨く必要がない。キーボードとの併用が前提になっているからである。

マックOSにしろウインドウズにしろ、現在のパソコンのGUIのシステムを支えているのはマウスである。キーボードではない。アイコンやドラッグ&ドロップという作業はすべてマウスの操作を前提につくられている。つまり、現在の標準的なGUIはきわめて単純な身体行為しか必要としてない。それはトラックボールやトラックパッドを使おうが同じことだ。コンピュータの入出力は網膜と指、そしてたまに鼓膜、という極めて限定された地点でしか行われていない。この身体性の貧弱さこそ、マウスの限界であり、マックOSやウインドウズに代表されるGUIの限界である。

キーボードの横に置かれたマウスは、思わず手で触れたくなる愛嬌あるフォルムで、人とコンピュータの「つながっている感」を視覚的・触覚的に象徴している。それはこれから始まる物語の序曲にすぎない。マウスの操作はあまりに単純な行為で、人と機械のつながりを人間の全身体レベルで活性化させるまでは至らない。マウスをどんなに使い込んでも、その操作行為自体によって想像力/創造性まで人から引き出すことはできない。人の身体や知覚のごくごく一部しか使用していない現行のGUIでは、人と機械、人とコンピュータがより親密につながりあう物語(ストーリー)の本章までは描き出すことができないのだ。
 
【つながりのリアリティを求めて】
 
ならば、新たな「つながっている感」はどう生みだすか。マウスと現在のOSのGUIの限界は踏まえ、工学者やアーティストたちは、新しいインターフェースの模索を行っている。もっとも注目すべき研究のひとつが、MITメディアラボの石井裕の「タンジブル・ビット」(Tangible Bits)だ。タンジブルとは触知できるという意味。デジタル情報の世界(ビット)を、人が──GUIのように視覚偏重でなく──さまざまな感覚を通して自然に感知できるようにする試みである。言い換えると、人とコンピュータの世界をシームレスに(切れ目なく)つなげる研究だ。石井の研究は幅広いが、ここではひとつわかりやすい例を挙げるに留めよう。

ミュージック・ボトルズというプロジェクトでは、ガラス瓶の栓を抜くと音楽が出るようにセンサーが仕込んである。3つの瓶はそれぞれ違う楽器の音を奏でる。3つとも栓を開けると小さな楽団が構成される。蓋をあけるという行為が、コンピュータ世界と人をつなぐエレガントな架け橋となり、音楽と蓋の感触が人それぞれのストーリーを紡ぎ出す。

従来、人とコンピュータが接するには、人がわざわざディスプレイの前に座って、マウスやキーボードを操作しなければならなかった。しかし、もっと日常的な行為によって自然にコンピュータと人間が接する場があってもいいのではないか。「タンジブル・ビット」の研究には、部屋の中の光の変化や風のそよぎまで、インターフェースに利用するものまである。

こうしたアプローチは岩井俊雄のメディアアート作品にも通じる。岩井の作品は複雑な技術を使っていても解説書を必要としない。いじっているうちに使い方がわかる。その作品を体験する人は穴に落ちたアリスのように、手探りの状態でコンピュータ・テクノロジーに触れるうちに、あっこうすれば音が出るんだ、映像が変わるんだ、といった不思議な発見に誘われる。

プロダクトデザインが、インタラクションデザインやヒューマンインターフェースといったソフトウェア的な新しい視野を持つことは、人とモノとの「つながっているというリアリティ」を生み出すことである。1999年グッドデザイン大賞を受賞したソニーのAIBOは、美しさや機能性が評価されたのではない。疑似ペットを通して、モノと人のつながりに新しいリアリティを生んだ点が評価されたのだ。

人とモノ、人とテクノロジー、人と人、その「つながりのリアリティ」を考えることは、明らかにプロダクトデザインといった狭い枠組みを超えている。デザイン、工学、メディアアートなどが新たに統合される必要がある。デザインの未来を語るなら、「すべての造形活動の最終目標は『つながりのリアリティの表出』である!」とバウハウス風に宣言する必要があるのかもしれない。
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※初出:『美術手帖』2000年3月号。特集「メイド・イン・ジャパン──20世紀日本のデザイン・コンセプト」内、「すべての造形活動の最終目標は『つながりのリアリティの表出』である!」を加筆。
※ジョナサン・アイヴのインタビューは『日経デザイン』1999年4月号に収録。

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長文を読んで下さって、ありがとうございます。

さて、この原稿は、続きを書かねばなりません。「拒絶」に関してです。

つながりのリアリティには拒絶が必要です。言い換えると、つながりと拒絶の関係の中にリアリティが生まれる。

映画版「エヴァンゲリオン」の最終シーン、アスカは「気持ち悪い」とシンジにつぶやいて人と人との融合を拒否します。映画では、人類に理想的進化をもたらすはずだった「人類補完計画」が“巨大綾波”が出てくるなど滑稽かつ荒唐無稽なものとして描かれています。

「個」の尊厳は「拒絶」から生まれるのです。

ワタシは父でもない、母でもない、そう意識して子どもはオトナになります。アンドロイドは人に従属する道具であることを拒否して、「自我」に目覚めます。

「つながり」だけを求めても、みんな仲良し、お友達という幼稚園レベルのコミュニティの理想しか描けません。みんないっしょにという志向は全体主義をも引き起こします。「拒絶」を認めるから多様性が尊重される。無限の差異はつながりと拒絶の補完関係から生まれるものです。

「嫌いだ」「付き合いたくない」「つながりたくない」──そう言える自由がないと、「つながり」に本当の「リアリティ」が生まれない。つながりのリアリティとは、他人や世界や環境とのつながりを通して「私という個が生きている」と実感すること。つながっていると感じるのは「個」なのです。

デザインに引き寄せて語りましょう。
椅子は座ることを誘います。倉俣史朗の椅子Miss Blancheにおいては、座る行為はアフォードというより明らかに誘惑として現れます。なぜならその椅子は座ることを誘うとともに、座るなと拒絶するからです。美しきものだけができる誘惑の甘美な罠。その罠の詳細はこのブログの5月の記事で書きました。

ウォークマンは拒絶の道具です。ヘッドフォンステレオがヒットしたのは、屋外で簡単に周囲を拒絶した自分だけの世界をつくることができたからでした。電車の中でおばちゃんの世間話を聞く必要もなく、音楽を聴きながら本や雑誌を読んでいれば、オヤジのエロい視線(オレかっ)も気にしないで済む。

最近ソニーは「コネクト」というキーワードを使って、iPodに対抗する新しいウォークマンを売り出しています。

「コネクト戦略」もいいのですが、「拒絶の力」も忘れないでほしい、と思うわけです。無理やり投げ出された周囲の環境を拒絶して、好きな世界につながる。それがウォークマンの力です。ユーザーは「つながれる」ことだけを求めていない。拒絶するからつながりのリアリティが実感できるのです。コネクトだけの人類補完計画は幼稚で滑稽な理想でしかありません。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-12 18:47 | お気に入りの過去記事 | Comments(8)


Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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