藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
2007年 06月 02日 ( 1 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
ル・コルビュジエ連戦連敗
この前の日曜日(5/27)、パリのル・コルビュジエ財団の理事長ジャン・ピエール・デュポール氏と、同事務局長クロード・プレロレンツォ氏、森美術館の館長南條史生氏による、カッシーナ・イクスシー主催のシンポジウムのモデレーター(進行役)をやりました。お越しいただいた皆様、スタッフの皆様、有り難うございました。今、頼まれている原稿と内容が重なりそうなので、ここでは、その話は書きません。

で、その代わり、2002年『Casa BRUTUS』12月号に寄せた原稿を加筆してアップします。埋もれさせてしまうにはもったいないと前から思っていた原稿です。

僕がコルビュジエのイタコとなって、建築の闘士コルビュジエの戦歴を、負けた話を中心に書いたものです。

長いですけど、面白いと思います。ぜひ読んでみてください。

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【ル・コルビュジエ 連戦連敗  itako by Keiichiro Fujisaki 】

アンドーくん、元気かね。1965年君がパリを訪ねてきた時、会うことができなくて残念だったよ。君が私に会うためパリに訪ねてきた数週間前に、南仏カップマルタンの休暇小屋の前の海で、いつものように泳いでいたら、心臓発作を起こしてな。パリの自宅にもセーヴル通り35番地の事務所にも帰れなくなってしまった。君の国際的な活躍はちゃんと天国からチェックしておるよ。

が、私は君にひとつだけ苦言を呈しておきたいことがある。君の著書『連戦連敗』のことだ。あのタイトルはいかん。連戦連敗は私のトレードマークだよ。最近の君は、悪戦苦闘は続けているらしいが、立て続けに大小さまざまなプロジェクトを実現させているじゃないか。

私は生涯、負け続けたよ。フェアじゃないコンペもあったがね。たらればはイカンが、もし私が提案したプロジェクトがすべて実現していたなら、今の21世紀の都市は、ずいぶん違ったものになっていただろうな。私も自分の連戦連敗を語ってみよう。それは人間のための建築を実現する激しい格闘の歴史だ。とにかく聞いてくれたまえ。

私は77年の生涯で320以上のプロジェクトを手がけた。そのうち実現したのはいくつか分かるかね?

いちおう答えは76件。つい最近竣工したフィルミニの教会も入れてだ。「いちおう」と断ったのは、部分的に実現したものをどうカウントするかなど、数え方によるからだ。概算すると、勝率2割3分。サッカーチームの監督ならクビ、野球選手の打率なら二軍行きだな。

つまり、7割以上が実現していない。しかしだな、そのほとんどはコンペで負けたものじゃない。誰からも頼まれもしないのに、自発的にプロジェクト案をつくって提案して、却下されたものだ。だから単純に「負け」とは言いたくない。

すべてが未来への提言なのだ。建築家は依頼を待っているだけでは、先に進めない。自分で問題提起をして、解決する。新しい建築はそうして生まれるものなのだよ。

 *闘いの始まり。理想都市をめざして

私は若い頃から、その姿勢を貫いた。ちょうど第一次世界大戦がの最中のことだ。私は20代後半で、まだスイスにいた。私はこの大きな戦争が終われば、戦場から兵士が戻り、住宅需要が一気に上がると予想した。そこで短い工期で安価に建てられる量産型の鉄筋コンクリート住宅を提案した。それが「ドミノ住宅」だ。地元スイスの議員の中には興味を示してくれた人もいたが、実現には至らなかった。だが、このドミノ住宅こそ、私の建築の、さらには20世紀モダニズム建築の基礎となったものだ。

もうひとつ、モダニズム建築と都市計画の基礎となった提案が、私が1922年に発表した「300万人のための現代都市」だ。これは具体的に敷地を想定した都市計画案ではない。緑あふれる街の中に、十分な間隔を空けて24棟の高層ビルが建っている。歩行者と自動車のための道路は分離され、交通渋滞や人身事故は回避される。これこそ新しい時代の理想の都市像だ。ニューヨークの密集した摩天楼とはまったく違う。住民は太陽、緑、空間をたっぷり享受できる。この案は政治家には無視されたが、心ある建築家や批評家には強い衝撃を与えたよ。

「300万人のための現代都市」を発展させ、1925年、敷地をパリに想定した「ヴォアザン計画」を発表した。パリの中心地に、近代的な高層ビルが緑の中に規則正しく建ち並ぶ街区をつくる。パリの古い街並みを破壊するのかと非難する者もいるだろう。しかし当時は、スラムの問題は放置して、豪奢な権威的な建物がつくるのが建築家の仕事だと思っていた連中が権力を握っていた時代だ。あのくらいの過激なマニフェストが必要だったのだよ。1937年にはパリ全体の街区を大規模なグリーンベルト(緑地帯)でつなぐ「パリ計画」を発表したが、また行政には無視された。グリーンベルトという発想は早すぎたようだな。
 
私のビジョンに共感してくれる依頼人も現れた。1924年からボルドー近郊のペサックに53戸の労働者用の住宅を建てた。依頼主は砂糖梱包用木箱メーカーの社長の息子。1920年にオザンファンとともに創刊した『レスプリ・ヌーヴォー』の私の論文を読んで感銘を受けたのだという。ペサックでは、タイプの異なるいくつかの住宅を設計したが、私は特に3階建ての2世帯住宅を「摩天楼」と呼んだ。「300万人のための現代都市」のミニチュア版であるという意味を含ませるためにな。

だが、ペサックのプロジェクトは予定の半分も完成せず中止に追い込まれた。私のデザインを景観の破壊と考える保守的な連中の干渉のせいで、町から販売認可が下りず、しかも水道会社からは水の供給を拒否された。依頼主の会社はとうとう倒産し、住宅地は8年間放置された。理想への道は険しい。敵は至る所に潜んでいて、不意に牙をむいてくるものだ。

 *国際連盟コンペのスキャンダル

私の最も有名な負けはやはり国際連盟のコンペだろう。今ニューヨークにあるのは国際連合。第一世界大戦後、スイスのジュネーヴにできたのが国際連盟。学校で習ったことを思い出してくれたまえ。その本部がレマン湖畔に建設されることになり、1926年にコンペが発表された。翌27年、私はいとこのピエール・ジャンヌレと共同でコンペに計画案を提出した。

国際連盟のコンペには世界中から367案ものの応募があった。バウハウスの二代目の校長を務めたハンネス・マイヤーは高層ビル案を提出しておった。もちろん19世紀的な、現代性のかけらもない作品もたくさん提出されていた。審査員の構成は、モダニズム派とアカデミー派に二分されていた。

アカデミー派とは過去の建築様式を模倣するだけの、ラテン語を操ることが偉いと思っておる、フランスのエリート美術学校エコール・ド・ボザールの出身者に代表される建築家どもだ。彼らは私のような近代建築家を毛嫌いしておった。

私の案は9件の入選作の中に選ばれた。明らかに私の案は他から抜きんでたものだった。自画自賛ではない。それはのちの多くの建築史家が認めておる。国際連盟のコンペでは2,600人収容の大会議場と事務局ビル、各種委員会室、図書室、食堂など、とても複雑なプログラムを処理しなければならなかった。それらを機能的な動線で結び、しかも湖畔という特長のある敷地を生かす設計は、私の案だけだったのだ。

しかしアカデミー派の審査員は、私の案を信じがたい理由で落選させてしまった。インクが違う! 応募した図面が規定のインクではなく、青焼きの図面だったという理由でだ。さらに悪辣なことに、審査員たちは責任を放棄した。最終選考を行わなかったのだ。結局、政治家たちが新たにアカデミー派の建築家チームを指名して、彼らが設計を行った。ああ、なんのための国際コンペだったのか。

私は怒り、ヤツらに宣戦布告をした。私は新聞に寄稿し、やつらの陰謀を暴いた。法律家に相談し連盟に提訴した。しかし個人のクレームは受け付けないというのが連盟の回答だった。出来上がったのはひどい建物だった。建設費は私の案の4倍もかかった。しかも彼らは私の案から設計アイデアを盗んでいた。

だが、彼らが駄作を建てたおかげで、われわれの近代建築がアカデミー派の建築より優れていることが証明された。これ以降、世界の建築の流れはアカデミー派から近代建築派に移ったといっていい。国際連盟のコンペは敗北であったが勝利でもあったのだよ。

国際連盟のことで闘いをしていた頃の1929年、同じジュネーヴに世界の文化を一堂に集めた文化センターの設計の依頼をされた。依頼者は国際連合でなく別の人物だ。そこで私ピラミッド型の世界文化センター「ムンダネウム」を提案した。実現できなかったが、私の美術館プロジェクトの基本となるものだ。その後、1939年に無限に成長する世界博物館を発表した。ピラミッド型はやめ、屋根は平たくし、真上から見ると正方形。らせん状の回廊を持ち、展示品が増えれば、渦が大きくなるように増床できる。パリのセーヌ右岸に建てようと動いたがそれも実現しなかった。東京の国立西洋美術館とインドの2つの美術館チャンディガールとアーメダバードの美術館は、この構想をもとに生まれたものだ。

 *政治的イデオロギーを超えて

もちろん私もコンペに勝ったことはある。28年にはソ連のセントロソユースのコンペに勝利した。その建物はいまもモスクワに残っておる。このころ私はソ連の共産主義者と懇意となり、新しい都市のあり方などについて闊達に議論した。

だが1931年のソヴィエトパレスのコンペでは悔しい思いをした。クレムリンの向かいに建つ15,000人収容のホールをもつ大プロジェクトだった。コンペにはグロピウスも参加しておった。私の案は吊り天井をもつ、きわめて斬新な革新的な建築だった。勝ったのはロシア人建築家による古典主義的傾向の設計案だ。

スターリンの大粛正がはじまりつつあった。芸術的にも反動的な傾向が強まり、シベリア送りになった芸術家もいる。ソ連では革命的な建築は必要とされなくなっていたのだ。私はソ連の共産主義者たちに見切りをつけた。

私は1928年にCIAM(近代建築国際会議)の創設に関わった。この頃から、私は積極的に都市問題に取り組んだ。1933年の第4回CIAMでは、私の提唱した考え方をもとに、機能優先のゾーニングなどの新しい都市計画のあり方を示した「アテネ憲章」が採択された。

1930年代半ばにかけて私は世界各地の都市計画を作った。パリ、ストックホルム、ジュネーヴ、バルセロナ、アントワープ、チェコのツリン、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブエノスアイレス、ウルグアイのモンテビデオ、コロンビアのボゴタ、アルジェリアのアルジェとヌムールなどだ。いずれも実現はしなかった。が、どれも役人から頼まれたものではない。私が自主的に作った、純粋な提案だ。

この中で私が最も熱く実現に向けて動いたのがアルジェだ。この町は美しい。カスバで有名なこの町は、長らくフランスの北アフリカの植民地の中心都市だった。1930年から1942年にかけて、私は7度もこの町の都市計画案を作成した。最初の案はもっとも大胆で優雅であり、いま見ても気に入っておる。海岸線に沿ってゆったりとしたカーブを描く高速道路を作り、その下は集合住宅や店舗に当てる。案の定、拒否された。私は実現できる好機を待つことにした。
 
第二次世界大戦がはじまり、パリはナチスに占領された。私は妻イヴォンヌとともにピレネーに逃げた。アルジェの計画を実現させるために、私はナチスの傀儡としてフランスを統治したヴィシー政権に近づいた。この時レジスタンス側についた、いとこのピエールと一時的に仲違いをしてしまった。ピエールと再び仕事をいっしょにするのは戦後インドのチャンディガールの仕事が始まってからだ。
 
私はフランス本国と植民地の都市計画の責任者のひとりに任命され、再びアルジェに乗り込んだ。しかしヴィシー政権の連中とはうまが合わなかった。1941年に職を解任され、それでも私は都市計画を実現させようと動いたが、最後にはとんだ邪魔が入りおった。ある批評家が、私のソヴィエトでの仕事などを例にとり、私を共産主義者で、親ユダヤだと新聞に書き立てたのだ。それで終わった。こうして1930年代半ばから戦争を挟んで約10年、私はほとんど建築物を建てる仕事をすることがなかった。
 
戦後パリに戻ると戦争で破壊された南仏の小さな町サンディエの都市計画に取り掛かった。都市計画も実現しなかったが、サンディエで建てたデュヴァル氏の工場が約10年ぶりの建築となった。実現はしなかった。私の復興計画への思いはマルセイユで実現する。マルセイユのユニテ・ダビタシオンは私がフランス政府から依頼を受け実現した最初で唯一の仕事だ。この時も、私は容赦ない攻撃にさらされた。フランス医師会の会長に「精神に異常をきたす空間」と言われたり、公衆衛生協会理事長には「衛生学の原則に反している」とまで言われたよ。
それでも私は屈しなかった。

 *天敵アメリカ。屈辱ふたたび

1945年、国際連合本部ビルの話が私のところに舞い込んできた。さっそくアメリカに渡り、建設委員会のフランス代表として国際連合本部の敷地の調査・選定などに携わることになった。正直言って、20年前の国際連盟のリベンジという思いもかなりあった。ニューヨークのあの猥雑で密集した摩天楼の代わりに、太陽と緑と空間をたっぷり享受できる私流の摩天楼を建てる最高の機会でもあった。なのにまた妨害が入った。今度の敵はアカデミー派ではない。アメリカ人だ。商業主義の亡霊どもだ。
 
建築委員会はアメリカ人のウォレス・K・ハリソンが仕切っていた。ロックフェラーセンターの設計でレイモンド・フッドのもとで働いた経歴をもつ建築家だ。たしかにニューヨークの事情に通じた、高層建築のプロフェッショナルかもしれない。しかし政治的な建築家だった。ハリソンの妻はロックフェラー家の出身だ。現在の国連の敷地はロックフェラーが提供した土地だ。
 
国連本部の設計は11カ国の代表による建築委員会で行われた。1947年、その建築委員会は、私とブラジル代表のオスカー・ニーマイヤーの合同案を選定した。ニーマイヤー案とも言われるが、もとのアイデアは私のものだ。ニーマイヤーが描いたのは、私の案のバリエーションにすぎない。ニューヨークでは、ニーマイヤーは私とともに働いていて、彼は私の案の建物の配置を変えたものを提出した。それはニーマイヤーも認めるところだ。設計案が選定されると、委員会は解散された。私はパリに戻った。その後の実施設計や施工管理はウォレス・K・ハリソンに任された。
 
なんとハリソンは、私たちの案を勝手に改悪してしまった。総会議場は改変され、事務局ビルにはピロティやブリーズソレイユを採用しなかった。ニューヨークはナポリと同じ緯度にある。日除けであるブリーズソレイユは夏の強烈な陽射しを防ぐ最高の手段だ。ヤツは空調設備を導入するからと言って、国連ビルを勝手にガラスのカーテンウォールにしてしまった。空調には無駄なエネルギーがかかりすぎる。ハリソンは私の計画案のうわべだけなぞっただけで、国連本部を凡庸なビルにしてしまった。

ユネスコでも同じような屈辱を味わった。私は1952年頃、ユネスコ本部ビルの5人の建築委員会のひとりに選ばれた。そこにはグロピウスやルチオ・コスタら、国連の時より話の分かる連中が集った。敷地はパリだ。私の地元だ。グロピウスらは、私が主任建築家になることを、ユネスコ側に推薦してくれた。

しかしアメリカ国務省代表がその案を拒否した。アメリカはこのプロジェクトの大きなスポンサーだったので、誰もその意向に逆らえなかった。私は委員を辞退したかったが、グロピウスが説得するので私はしぶしぶ協力してアイデアを出した。
 
出来上がった建物を見てみたまえ。ユニテのようなピロティもあるし、会議場も私の国連の案に近い。あのビルは5人の建築委員が選んだマルセル・ブロイヤー、ベルナール・ゼルフス、ピエール・ルイジ・ネルヴィの3人の共作とことになっているが、本当は私のアイデアで建てられた建築なのだよ。
 
1951年から私はインドのパンジャブ州の州都チャンディガールの都市計画を手がけた。まっさらの土地に新しい都市をつくり、私が長年温めてきた都市計画プランを実行に移すことができた。ネール首相をはじめ私の建築を理解してくれたインド人たちには感謝している。闘いつづければいつかは報われるものだ。

 *パリでの最後の闘い

パリでの公共の仕事は私の悲願だった。1958年ドゴールが大統領になると、ドゴールはパリを現代都市に生まれ変わらせる大改造計画を次々に行った。ラ・デファンス開発などがそれだ。しかし私は蚊帳の外だった。私はパリ改造をもう30年以上前から唱えていたのに、である。

しかし私の建築の理解者で、文学者で当時文化省大臣だったアンドレ・マルローから、興味深い依頼があった。20世紀美術館である。当時パリには20世紀美術の大きな展覧会を行う適切なスペースがなく、マルローは美術館と芸術学校を含む巨大なプロジェクトを考えていた。1962年私はその設計案をつくった。しかしドゴールはこの計画にあまり興味を示さず、話はうやむやになってしまった。

パリの中心に大きなプロジェクトを実現するチャンスは、ないわけではなかった。1961年私はオルセー駅再開発のコンペに参加した。34階建てホテルと会議場、文化センターを合わせた大きなプロジェクトだった。だがラ・トゥーレット修道院と同じ183センチ幅の客室が、アメリカの共同出資者には気に入らんようでな。ヤツらは瞑想や静寂のための空間を理解せず、とにかく部屋はデカければ、それでゴージャスだと思っておった。

結局、再開発計画自体が中止になった。そしてその地に1986年、旧駅舎改築というかたちで、いまのオルセー美術館ができるわけだ。マルローの20世紀美術館構想も70年代になってポンピドゥーセンターとして再復活した。オルセーとポンピドゥー、私はあの観光客でいっぱいの建物を見ると、いまも複雑な思いに駆られてしまうよ。
 
1965年8月27日午前11時すぎ私の心臓は海の中で突然止まった。やり残したことは山ほどあった。しかし地中海で死ぬというのは、私が夢見たことでもあった。運命とは皮肉なものだ。

皮肉と言えばフランス政府もそうだ。私の亡骸はパリに運ばれ、政府が国葬を行った。たったひとつの集合住宅以外、一度も国家的な大プロジェクトを依頼したことのない建築家のためにだ。アンドレ・マルローが私のために読んでくれた弔辞は、実に素晴らしいものだった。

私はいつも勝ち目のない闘いを挑んだ。それはドンキホーテの遍歴の旅のようなものだ。人間のための建築を追い求める長い旅である。私はただ前へ前へと進みつづけた。だから負け戦(いくさ)も勲章だよ。なあ、アンドーくん。


*************

【参考文献】
『ル・コルビュジエ─理念と形態』 ウィリアム J.R.カーティス著 中村研一訳 鹿島出版会 1992
『ル・コルビュジエの生涯 建築とその神話』 スタニスラウス・フォン・モース著 住野天平訳 彰国社 1981
『The Final Testament of Pere Corbu: A Translation and Interpretation of Mise au point by Ivan Zaknic』 Ivan Zaknic (Editor) Yale University Press, New Haven and London, 1997

* 基本的な流れを参考にしたのは上の3冊です。『The Final Testament of Pere Corbu』は晩年のコルビュジエのエピソードが満載の面白い本です。『ル・コルビュジエ─理念と形態』は良書です。再版を望みます!

『ル・コルビュジエ』 チャールズ・ジェンクス著  佐々木宏訳 鹿島出版会 1978
『ル・コルビュジエ』 ノルベルト・フーゼ著 安松孝訳 PARCO出版 1995
『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』 フィリップ・ブードン著 山口知之+杉本安弘訳 鹿島出版会 1976
『伽藍が白かったとき』 ル・コルビュジエ著 生田勉+樋口清訳 岩波書店 1957
『輝く都市』 ル・コルビュジエ著 坂倉準三訳 鹿島出版会 1968
『Le Corbusier: Oeuvre Complete』 Birkhäuser Publishers, Basel Boston Berlin 1995  (First edition 1946)
『ル・コルビュジエ 1996-1997』展覧会カタログ セゾン美術館、広島市現代美術館、神奈川県立近代美術館。1996-1997
『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』展覧会カタログ 森美術館 2007
「ル・コルビュジェ DVD-BOX」 ジャック・バルザック監督 1987年制作、フランス、販売元レントラックジャパン
『連戦連敗』 安藤忠雄著 東京大学出版会 2001


*原稿の冒頭のコルビュジエの作品数に関しては以下を参照させていただきました。
『ル・コルビュジエ 建築・家具・人間・旅の全記録』(エクスナレッジ 2002) 234〜238頁「ル・コルビュジエ全作品データ」 作成=松政貞治+疋田訓之
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-06-02 18:19 | お気に入りの過去記事 | Comments(10)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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