藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
2007年 07月 07日 ( 2 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
冗長美論・前編
唐突ですが、僕の最近の大きなテーマ「冗長美」に関する論考をアップします。長すぎて字数オーバーになって投稿できないので、2つに分けました。この記事の下に、後編があります。

冗長美論
冗長系のデザインにおける新しい美学
Aesthetics of Redundant Systems


 実用性を追求し徹底的に無駄を省いたシンプルな形に美が宿るという機能美神話はかなりの部分、幻想にすぎない。耐震構造偽装されたマンションは、震度5の地震で崩壊する危険性があったとしても、そのことはまったく外観に影響を与えていない。免震マンションが頑強に見えるわけでもなく、姉歯秀次元建築士が構造設計したマンションがか細く見えることもない。姉歯元建築士が「だってレス・イズ・モアだから」って語ったら、モダニズムの神様はどんな思いをしただろうか。
「わしゃあそんなつもりでああ言ったんじゃない」。ミース・ファン・デル・ローエならギロリと睨みを利かせて語る。「バルセロナパビリオンやトゥーゲンハット邸に使ってる柱は知っとるか。ピッカピカのクロームメッキの十字柱。あれのどこがレスなんじゃい。ニューヨークのシーグラムビルではスチールより高価なブロンズをマリオン(窓の桟)に使っておる。21世紀風に言えばリダンダンシー。冗長性じゃよ」……なんて。
 冗長性は愚鈍でない。変化に対応するしなやかな適応力である。削ぎ落として冗長性を美しく際立たせる神業がレス・イズ・モアだ。美しい冗長性を機能美だと勘違いしている人たちが多すぎる。
 瀬戸大橋のような巨大な吊り橋は無駄を一切省き、力学的構造が形態に昇華した機能美の典型に見えるが、ふだんは横風や地震による揺れに備えてずいぶん力をもてあまして立っている。
 耐震強度、セキュリティ、ユニバーサルデザイン、さらには環境問題を考えれば、建築は冗長性を持たざるを得ない。だが、放っておけば冗長性と美との関係はかなり薄い。耐震強度を考えず壁は薄く柱は細くし、非常用階段を作らず、車椅子対応のスロープや手摺りは取り付けなければ、美しく見せるための設計はずいぶん楽である。F1マシーンもスペースシャトルも、ドライバーや飛行士の安全や故障したパーツの交換などを考えなければ、もっとエアロダイナミクスの理想形に近いものになるだろう。
 冗長性は建築家やデザイナーが強い意思を持って、それをしなやかな知性として表現しない限り、美とかカッコいいとかカワイイとかそんな美意識とは無関係なものになりがちだ。無駄を無闇に削ぎ落とすのでなく、無駄を整理し無駄の中に存在する知恵を見いだし、その知恵を美しく浮かび上がらせる意思こそ「レス・イズ・モア」なのである。
 フランク・O・ゲーリーのグッゲンハイム美術館ビルバオの、あの壁も屋根もないグネグネ建築がモダニズムの正統であるのは「削ぎ落とされた美しい冗長性」だからに他ならない。サンチャゴ・カラトラバや佐々木睦朗の構造設計は、冗長性を変化に対応する柔らかい知性として表現されているから美しい。

【コンピュータシステムのリダンダンシー】

 冗長性はコンピュータシステムの構築では欠かせない考え方だ。2006年1月18日、ライブドアに対して東京地検特捜部が強制捜査を行った翌日、東京証券取引所では売買が殺到し、システムがダウンする恐れがあると東証が取引の強制終了を行うという異例の事態が発生した。東証のシステムが処理できる最大約定件数は1日450万件。約定件数が400万件を超え、午後2時40分に「全銘柄取引停止」となったのだ。2005年11月1日、東証はバグ修正の際のプログラムミスで取引を半日間全面停止する前代未聞の事件を引き起こしたばかりであった。突発的な取引増加やシステム障害に対応できない東証のコンピュータシステムは、姉歯マンションの並みに冗長性が欠けるといっていい。
 コンピュータシステムでは冗長性を確保する技術が企業の業績や国家の存亡さえも左右する。バックアップをとらなければ貴重な情報資産が失われる。サーバーのダウンはネットでビジネスを行う企業を破綻に追い込むかもしれない。ウィルス対策やサイバーテロ、停電への備えもしなければならない。
 こうした障害に対処しシステムの信頼性を高めるために、複数のハードディスクに分散・並列的な処理を行わせる技術をRAID(レイド)という。Redundant Array of Independent (Inexpensive) Disksの略。独立したディスクの冗長な(Redundant)並列処理。RAIDによって常時自動バックアップ(ミラーリング)したり、システム停止をすることなく故障したドライブを取り替えることが可能になる。航空機や宇宙船の場合、制御系や動力系に何らかの障害を起これば、それが大惨事を引き起こすことになりかねない。メカにトラブルが発生したり、人為的なミスが起こっても、正しくシステムが運行され、場合によっては自己修復を行う技術は、フェール・セーフやフォールト・トレランスといった名で研究開発され、実用化されている。しかし、東証システムの事故が示すとおり、社会インフラを支えるシステムがすべて十分なフェールセーフ技術で守られているかといったらかなり怪しいものである。

【モダンサッカーとロバスト制御】

かつて「機能は死語となる」(『デザインとはどういうものか』デーヴィッド・バイ著 1964年 イギリス)といった指摘があった。しかしその予想は全く外れている。官邸は機能強化され、脳は機能別にマッピングされ、ケータイはワンセグやおサイフ、MP3プレイヤーなど新機能を売りにして販売競争をつづけている。クルマの美しいスタイリングは人の感情を動かす機能を持つとされ、森林や湿地や河川には癒しの機能があるとされる。機能は死語になるどころか、その効力は増し、人々を誘惑しつづけている。最高の機能を引き出す最適化技術を持つ者はヒーローとして扱われる。たとえばサッカーである。
かつてフィールドの中心には、神様や神童、皇帝や将軍、ファンタジスタと呼ばれるプレイヤーがいた。しかしオランダのトータルフットボールに始まる「モダンサッカー」が徐々に世界に浸透して、1990年代初頭には彼をフィールドから追放する。試合を支配するのは監督である。監督の戦術システムを実行できないプレイヤーは、たとえ人並み外れた才能を持っていてもベンチで座っていることになる。モダンサッカーにおいては、芸術的プレーはシステムが機能したとき初めて現れる。ロナウジーニョのような選手であっても、システムとして機能しなければならない。スタジアムでは芸術は機能に従う。モウリーニョやベンゲルといった90分間機能しつづけるシステムを構築し、対戦相手や試合の状況によって最適化する方策を即断する能力を持つ監督へのスポットライトが強まるばかりである。
しかし、監督はプレイヤーを機械の中の歯車のように扱う、固定システムを作るのではない。優れたチームでは、プレイヤーが戦局に応じて自分の判断でポジショニングを変える。退場者を出しても、守備システムは安定的に維持される。監督の役割はプレイヤーに一定の規律を課してコンセンサスを作り、自律分散型システムを安定して維持することにある。プレイヤーは自律して機能しなければならない。神なきフィールドで、私たちは機能する芸術家たちに魅せられる。システムは不確定性の高い未来に対応に対応するため新しい最適化の方法論を必要としている──。これはサッカーに限らず、今私たちの社会のあらゆる場面で求められている。制御工学の世界ならロバスト制御である。
 ロバスト性とは、ゆらぎ(摂動)、外乱、ノイズが生じた時でも、システムが安定的に動作することをいう。ロバストは頑強という意味だ。どんなモデルにも実世界に応用したとき誤差が生じる。ならば誤差があることを初めから想定して制御理論を作り出そうという発想で、ロバスト制御は1980年代初め頃から盛んに研究されるようになった。
 ロボットの設計には、ロバスト性や冗長性が不可欠だ。研究室や工場といった閉じた平板な環境から外に出れば、想定外の障害が現れる。故障の危険性も高まる。自動車のエンジンは一台ひとつで、一個の動力装置で走行するが、通常ロボットは、関節ごとにアクチュエータがつけられ、複数の動力装置を協調させて動作させる。より複雑な動きを実現するには、複数のアクチュエータを抱えて冗長になったシステムをいかにエレガントに協調行動をとらせるかが重要となる。複数のアクチュエータやセンサを持つことはそれだけ障害が生じる確率が増える。その故障へのバックアップも大切な設計の要因となる。冗長性を制するものがロボットを制するといっても過言ではない。プロダクトデザイナーの山中俊治と千葉工大のロボット工学者古田貴之による8輪車ハルキゲニアは、各車輪にモーター(アクチュエータ)が取り付けられていて、それらが分散協調行動をとることで、階段を上ったり、真横に移動したり、今までにない走行を可能にするロボット自動車だ。8つの車輪にモーターをつけること自体は通常のクルマに比べ動力システムとしては冗長であるわけだが、エレガントな冗長さを目指すことで、新種の生物のような街の中で新しい動きをする都市型ビークルを提案しているわけだ。

【冗長性と情調性】

 そもそも機能性やユーザビリティ(使いやすさ)と冗長性は決して相反するものではない。ハンドルの遊びがなければ安全な運転はできない。人間の動きにすべて機械がレスポンスしていたらものすごく運転しづらいクルマができてしまう。冗長であることが機能の一部になっている。
 機械の操作をする場合、原理的には、あるひとつの操作をするのに複数の入力方法があればユーザーは混乱する。リモコンに2つも電源ボタンはいらないが、テレビ本体に電源ボタンがないとリモコンが見当たらない時は困りものだ。ほとんどのパソコンのアプリケーションでは、マウスを使うGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)の操作とショートカットキーを使うキーボード操作の、2つの操作系が用意されている。ユーザーの慣れやスキルに合わせて使い方を選べるようにすることは、使いやすさ(ユーザビリティ)を向上させる。建築が地震や突風などあらゆる状況に対応するように、どんなユーザーがどんな状況でどう使うか予測もつかない使用状況に対応する配慮が必要になってくる。ユニバーサルデザインとはプロダクトのユーザビリティに冗長性を持たせる技術にほかならない。要はその冗長性が認知心理学や人間工学などの知見に沿って、わかりやすく美しく整理されているか否かである。
 意図的に使い勝手を冗長にして、使い方をユーザーに「発見」してもらうことで「共感」を演出するという手法もある。一例を挙げよう。2005年のグッドデザイン・ベスト15に選ばれたNECのウェブサイト「ecotonoha」(エコトノハ)。サイトへのユーザーの書き込みが100件集まると、ユーカリの木が一本、オーストラリア・カンガルー島に植えられる。ユーカリの木は生育が早くCO2の吸収効果が高い。NECがCSR(Corporate Social Responsibility/企業の社会的責任)の一環として進める環境保護活動を、広く世界にPRすることを目的にしたウェブコンテンツである。
 Flash(アニメーション作成ツール)の達人、中村勇吾が手がけたデザインは、決してユーザビリティが優れているわけでない。使い方の説明はない。「なんだろう?」と思ってオープニングの動画を眺めていると、CGの木が訪れた人の書き込んだメッセージによって生長していることがわかってくる。「きっとこの通りにクリックすればいいのかも」と木を2、3度クリックしてみると、なんとなく書き込み方が推察できる。使い方はユーザーが発見しなくてはならないのだ。
 期待感を抱かせ、飽きの来ないうちに使い方の「発見」を誘い、「ならば私も」とメッセージを書き残してもらって、そこに訪れた世界中の人たちと「私も参加した」という場の共有感を分かち合ってもらう。その仕掛けが実にうまい。「謎かけ」→「気づき」→「共有感」というプロセスを短い間に体験してもらうために、冗長性のパラメーターが程よく調整されているのである。必要な情報にできるだけ迅速に辿り着けることが使いやすいことという狭義のユーザビリティだけを追求していたら、こうしたコンテンツは生まれてこない。
 ウェブデザイン同様、プロダクトデザインでも「気づき」の演出は「共感」や「対話」を生み出す重要な手法だ。使ってみて「あっなるほど」と気づくことが、モノとの一段と深いつながり感を生む。モノやそれをつくったデザイナーと対話ができた気分になれる。深澤直人の傘には柄に窪みがある。雨がやんで交差点で立ち止まっているとき、そっと自然に柄の部分にスーパーのビニール袋をかけることのできるように。ティボー・カルマンの傘は開くと内側に青空の絵が描かれている。この空恋しいかもって。
 冗長性は情調性である。これは単なるダジャレではない。エモーショナルな部分が人とモノとのインターフェースの冗長性の中に潜む。そして、さりげなく美しい冗長性は、デザインの世界で遊び心と呼ばれるものにも昇華する。機能性がモチーフなら冗長性は余白。デザイナーはそのどちらもコントロールしなければならない。
 しかし冗長性が情調性に近づくほど、その美しさを表現する言葉は「機能美」から離れていく。ティボー・カルマンの傘を見て、遊び心があって面白いデザインだねと言う人はいても、機能美と形容する人はまずいないだろう。それにいくら心を和ます機能があったとしても。

【最適化テクノロジーとしてのデザイン】

「最適化」は私たちの社会の美徳である。最適化とは、ある制約条件下の中でもっとも機能する解を探し出すこと──。都市の最適化は「開発」「再開発」である。ただし環境問題という制約が年々大きくなる中、スクラップ・アンド・ビルドの開発だけを最適な解とする考え方は変わりつつある。会社の最適化は「リストラ」である。解雇という意味ではなく、組織の再構築という本来の意味でのリストラだ。教育は子どもたちを社会の構成員として最適化し、選挙は権力者のアップデートを繰り返す。コンビニの商品棚はPOSシステムによって常時最適化されつづけ、ケータイも家電も買い替えを迫られ、コンピュータはハードディスクの最適化を実行しなければならない。世の中のあらゆるシステムが最適化を繰り返している。
 デザインは、最適化のテクノロジーのひとつである。モノ、空間、メディアを「システム」として捉え、目的を定め、制約を見出し、最適解を作り出す。制約には、依頼者の要望、予算、納期、購買対象の嗜好、製造法、時代性、社会倫理などさまざまある。当初に定めた目的を実現するために、それらもろもろの制約に優先順位をつけ、システムを構築し、具体的な「形」へまで落とし込む。デザインが他の最適化テクノロジーと違うのは、企業家、技術者、工場従業員、販売店主、エンドユーザーなど誰もが見て触れて色や形の体験を共有できる最終形態まで仕上げる技術まで持っていることだ。最適化が「善」とされる社会においては、最適化の結果生まれた色や形には「美」が宿ると信じられている。その結果、グッドデザインは美的にも優れ、機会均等(ユニバーサルデザイン)で、エコロジカルで、出来ればインタラクティブ(対話重視)、フェイクの外装で構造や材料を覆い隠さず、値段設定も理に適ったものとなる。
 しかし最高は最適に限らない。最高の性能を引き出すことが必ずしも最適な解答にはならないのだ。
 トヨタのラウムとトヨタのF1カーはどちらが機能的か。ユニバーサルデザインを考え、室内空間が広くて乗降しやすいスライドドアの実用的なワゴン車と、レース中のサーキットという限定された時空間の中で最高のパフォーマンスを発揮するように特化されたF1カーは全く対照的な存在だ。ユニバーサルデザインは、カーレーサーのような訓練された特別な人間が、機械や道具に最高のパフォーマンスを発揮させようという発想とは正反対なもので、誰もが簡単に使えるという、人間側の視点に立った最適解を追い求める。従来、右利きの若い健常者だけを使用者として想定したときには、知らず知らずに無駄なものとして削ぎ落としていたものを再検討する。スイッチを大きくしたり、通路を広くとったり、大型ペットボトルにハンドルや窪みをつけたり、適度の冗長がより多くの人が利用しやすい道具や環境を生み出すという発想だ。閉じた系では最高が最適になり、そこに機能美が立ち現れる。顔の見えないユーザーを想定しなければならない開かれた系では最高は最適でなく、そこに立ち現れる美は、無駄を削ぎ落とした緊張関係から生まれる機能美とは、別の言葉を必要としている。
 用の美も閉じた系の美学を表す機能美とは異なるものだ。民藝運動を起こした柳宗悦が唱えた「用の美」は日々の生活で使う実用的な品物の中からにじみ出るとされる美である。茶碗も急須も、お茶を入れる時にその性能を最大限に発揮することなど誰も求めていない。機能性を極めようという作為ではなく、日常から自然に生まれる中庸の使いやすさに美を見出す。最適は有為転変。そこにデザインの多様性が生まれる。

【冗長美という新しい美意識】

 現代のデザイナーに課せられる問題は難題ばかりだ。企業のために収益を上げコストを下げ、ユーザーのために安全で使いやすく、地球環境のためにリサイクルやCO2排出削減を実現する製造法や材料を考える。そうしたおのおの相反する要件を両立させて、最適化を測らねばならない。モノ単体ではなく、製造から使用され廃棄されるまでをモノづくりと捉え、そのシステムを最適化しなければならない。しかも、モノが実際に機能するシステム(つまり使われる状況)を考えるときは、人間の感情や身体といった、システム自体を不安定にさせかねない因子を中心に据えなければならない。
 機能美という言葉は、単体のモノの中に生まれる形と機能の緊張関係を語る表現で、人間を中心に置き、地球環境まで含めた大きな開かれた系の中でのモノづくりを考えるデザインの美学を語るにはふさわしくない。複雑化したシステムを最適化するテクノロジーが進歩すれば、おそらく新しいデザイン美が必要となってくる。筆者はそれを「冗長美」と呼ぶ。デザインにおいて機能美の対となる装飾美から定義してみる。

【装飾美】 システムの最適化とは関係なく施される表層の美。
【機能美】 あらかじめ想定した状況下で、単一のシステムが「最高」に機能するように求めた「解」の中から自ずと立ち現れる美。
【冗長美】 さまざまに変化する状況に対応し、相反するシステムが共存し、それぞれ自律協調しながら、全体が「最適」に機能するように求めた「解」の中から生まれる美。

 冗長美の理想像は、生物や生態系に見ることができる。環境の変化に関わらず、生体の状態が一定に保たれるという恒常性(ホメオスタシス)は生物の一般的な特長のひとつである。生物は、自己修復能力を持ち、自己複製を繰り返す中で多様に変異し、環境適応能力を向上させる。進化の戦略に、無駄を削ぎ落とすという発想はなく、逆に無駄を大量に生むことで、突然変異の機会を増やし、進化を遂げる。多様な生命体が自律的に進化をしながら、食物連鎖などで相互関係を保ち、生態系を作り出している。機械システムをどれだけ生物に近づけるかは、ロボット工学や人工知能の研究のフロンティアである。

下の投稿につづく
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-07-07 19:42 | お気に入りの過去記事
 
冗長美論・後編
【冗長美から考える肉体美の系譜】

 ヒトの身体は冗長に計画されている。脳は東証のコンピュータよりはるかに冗長性に富む。脳卒中などで言語野が損傷し失語症になっても、程度にもよるがリハビリ次第で回復の可能性はある。必須パーツの眼や耳や腕は日常的には並列処理を行い、不慮の事故などで片方が失われても機能するように設計されている。
 筋肉は計画的に鍛えれば大きくなる。トレーニングで筋繊維を破壊し栄養を与えれば4〜5日後には筋繊維は以前より太くなって回復する。この過程を超回復といい、ボディビルダーはこれを利用して筋肉を肥大させる。正しく鍛えれば筋肉は盲目的に大きくなり全く実用とは関係ない肉体ができあがる。およそ肉体美とは生活に役に立つといったことからかけ離れた、機能美と見せかけた冗長美といっていい。
 冗長な肉体など美ではないと思う方がいるなら、システィーナ礼拝堂へ行かれることをお勧めする。ミケランジェロは「最後の審判」がゴールドジムで行われるとでも思っていたのだろうか。無駄な脂肪は削ぎ落とされているが、その分、無駄な筋肉の塊である。特にキリストの腰回りの太さは異常。筋トレを多少かじっている筆者の推察だが、デッドリフト250キロは余裕と思われる。
 約450年後の1980年代、ミケランジェロの絵空事が現実化しはじめた。理想の身体イメージが現実世界で筋肥大する。ブルース・リーのしなやかな肉体美は、アーノルド・シュワルツェネッガーの筋肥大全開の肉体美に取って代わられる。細身のアントニオ猪木はマッチョなホーガンに想定外の失神を喰らわされる。
 肉体の肥大化の背景には、トレーニング技術と栄養学の進展、それに薬物の開発がある。1960〜70年代、薬物は精神の拡張に使われ、ロックスターたちは痩せこけていた。1980年代、薬物は肉体能力拡張のために使われ、ステロイドがスポーツスターたちを生み出していく。しかし金メダルを剥奪されたり早死にしたり……。薬物による精神の覚醒と肉体の拡張は非合法の悪として徹底的に糾弾されることになる。しかし人間の能力拡張の夢が衰えたわけでない。薬物依存は悪だが、外部身体、外部知能、外部知覚、外部記憶への依存は悪と見なされていない。ネットワークが人間の知的能力を拡張させ、サイボーグ技術が肉体的能力を無限大に拡大させつつある。理想の肉体はサイボーグ化しはじめている。
 たとえば「攻殻機動隊」である。主人公、草薙素子は全身サイボーグである。「完全義体化」が意味するところは、彼女はきわめて重度の身体障害者だということである。幼い頃に全身を失い、ゴーストという人格が義体と呼ばれる人工身体を操る。彼女の脳は「電脳化」されている。脳にマイクロマシーンが埋め込まれネットと直接つながる状態となっているのだ。サイボーグ身体を使いこなす技量さえあれば、身障者のほうが五体満足な健常者よりはるかに優れた身体能力やコミュニケーション能力を持つことが可能になる。だから多くの人が進んで義体化したり電脳化をする。「攻殻機動隊」の描き出す世界は、障害と健常を隔てる境界が崩れはじめている21世紀の身体観をくっきりと映し出している。
「すべての人々はなんらかの障害を持っている」。そう語ったのはユニバーサルデザインの提唱者ロナルド・メイスである。1998年彼が急逝する10日前の講演で語ったこの認識は、草薙素子が体現する21世紀的身体と重なり合う。

【能力拡張がもたらすディスアビリティ】

 1990年代ユニバーサルデザインとユビキタスコンピューティングが、ほぼ同時並行で世の中に浸透していったのは単なる偶然ではない。ユビキタスコンピューティング環境とは特に人が意識しなくても一人の人間の周りに複数のコンピュータが存在する環境を指すが、そのことが意味するのは2つの方向性だ。ひとつはジョージ・オーウェルの『1984』型の監視社会。ひとつは街中に埋め込まれネットでつながったセンサやコンピュータを人間が外部知覚、外部記憶、外部知能として利用して人の身体が都市に融け出していく状況だ。
 前者では中央集権的な神経系が個人を呑み込む。後者では人が自発的にネットや都市と融合し、自律するノード(結節点)として多元的世界を支える。実際にはこの2つの方向性が複雑に絡み合いながら、景気さえ良ければみんな幸せという短絡的ビジョンのもと、ユビキタスコンピューティング環境は整備されつつある。ほとんどの人たちは身体の劇的な変容に対して自覚がない。
 身体は輪郭を失いつつある。どこへも行けて何とでもつながる。ユビキタス社会はコンピュータだけでなく人間の遍在ももたらすのだ。グーグルを使えば欲しい情報はすぐ手にはいるし、GPSは目的地までナビゲートしてくれる。
 しかしこうした人間の能力拡張が本当に意味するところは都市やネットや機械への極度の依存であり、生身の人間のディスアビリティの増大である。ケータイがないと友だちづきあいができない。サーバーがダウンするとビジネスにならない。電車が動かないと会社や学校から家へ帰れない。知らぬ間に私たちの身体にはコンセントが付けられているのだ。1か月いや1週間、東京の電気が止まればおそらく私たちは文明人の顔をしていられなくなる。私たちの身体の輪郭は都市や通信インフラによって形づくられており、それらが使えなくなると想像を超えるほど貧弱な身体を晒すことになる。
「能力拡張=ディスアビリティの増大」という流れに嫌悪感を抱く人たちは多いだろう。が、この流れはユビキタス社会以前から──特に産業革命以降ということではなく──人類が文明を形成し都市という外皮や文字という記録システムをつくった時から始まる大きな潮流であって、それを止めようと考えるのは時計の針が逆に回るのを期待するに等しい。こうした嫌悪感は技術の一人歩きを抑制するバランサーとして役割を持っているが、それ以上のものではない。その鈍感さは、ロハスな生き方に幸せを感じる人たちが、雑誌に載っているロハスグッズを買ってヨガしてオーガニック食品を食して、大量生産、大量消費型社会と一線を画していると自負するくらいのものである。肝心なのは現実で何が起こっているかをしっかり見据えることだ。

【サイボーグ研究の現在】

 現在もっとも知られたサイボーグ研究者といえば、イギリスのレディング大学のケヴィン・ウォーウィック教授である。1998年教授は手術で自分の左腕に電波を送信できるRFIDチップを埋め込み、自分自身がサイボーグとなるという実験を行った。チップを通してドアの開閉や自分の位置を知らせるといったことが試みられた。2002年には100本の電極が剣山のように並ぶ極小チップを腕に埋め込み、神経と直接つなぎ、ロボットアームを動かす試みなどを行っている。
 ブレイン・マシーン・インターフェースという研究はアメリカが先行し日本でも行われている。脳に直接電極アレイを差し、思いのままにサイボーグ身体を操ろうとする研究だ。
 脳や神経に直接電極をつなぐインターフェースは外科手術が必要で多くの人が手軽に使えるといったものではない。皮膚の上に電極を張り機械を操作する技術も進んできている。筋電と呼ばれる筋肉の動きに伴う電気信号の変位を読み取って電動義手を操作するというものだ。手を失った人にはかつて切断された腕のイメージが残っている。実際には手がなくも「握る」「開く」とイメージして残った部分の筋肉は動かすことができる。残された腕から筋電を読み取れば義手を思うがまま動かすことが可能になるというわけだ。
 現在の技術では、指で触った触感を操作者にフィードバックして、細かい作業をするといったようなことはできない。しかしネットを通じて複数の義手を同時に遠隔操作することが可能である。神経や脳と直接機械をつなぐインターフェースを駆使する達人たちは、キーボードやマウスでしか操作できない人間より高い能力を持ち得るのだ。頸椎損傷で全身が動かない人であってもだ。もはや健常者が身障者より身体能力が上とは言い切れなくなる。現在自動車メーカーが力を入れて開発しているコンピュータ制御の電気回路で自動車を操作する「バイワイヤー」技術が進めば、車椅子とクルマの境目がなくなるだろう。脳に電極を差し込んだF1ドライバーが登場することだって夢ではない。
 パワードスーツは格段にスマートなものになった。1960年代GEによって開発された「ハーディマン」は建設現場の重機のようであるが、筑波大学の山海研究室が開発した「ロボットスーツHAL」は現在世界でもっとも日常生活の場に近いサイボーグ技術と呼んでもいいだろう。40キロのものを数キロの重さくらいの感覚で持ち上げられるという。

【サイボーグ技術のリダンダンシー】

 ここで問題になるのはサイボーグ技術自体の冗長性である。タフとスマートさは不可欠だ。サイボーグ技術を頼って生存する人間は、バッテリーが止まれば生存の危機にさらされる。2、3の部品が壊れても稼働してくれるパワードスーツでないと安心して装着はできない。転倒して中の人が大けがする強化外骨格では戦闘用には使えない。RAID的な並列化や、耐候・耐衝撃・耐熱といったタフさが信頼をもたらす。が、安心をもたらすのは技術的信頼性だけでない。アフターケアやスタイリングがもたらす心理的効果、さらには製造企業のブランドの信頼感まで関わってくる。
 スマートさとは変化に対応する知性である。使う人の身体的特長や運動能力、筋電などの生体信号を解析し、その人に最適な操作システムを機械がつくりだす。つまり、人間が機械に合わせるのではなく、機械が人間に合わせるという発想だ。
 そうやって学習するサイボーグはいつしか人間並みの知能を持つことになるかもしれない。NTTコミュニケーション基礎科学研究所の前田太郎は「パラサイトヒューマン」というプロジェクトを進めている。まだ多くが基礎技術開発段階だが、その発想の示唆する将来は意味深い。私たちの身体にウェアラブルな寄生型(共生型)の人工知能を装着させようという試みだ。別の意思を持ったもうひとつの感覚系・運動系が、私たちの意図を読み取りながら、協調分散化してタスクをこなす。体に装着した賢い機械が「それをやるのはこうやったほうが効率的」と判断して、ご主人様のプライドを汚さないようにこっそり行動をナビゲーションしてくれる。そんなことが可能になるかもしれない。サイボーグの知能化は、人間の冗長性の究極の拡張といっていい。
 テクノロジーはますます人の身体に近づいてきている。アラン・ケイの言い方を借りればテクノロジーはインティメイトになってきている。インティメイトには「親密な」といった意味の他に「下着のような」という意味がある。他人のケータイを触ったり自分のケータイをいじられるのにある種の気持ち悪さを感じるのは、テクノロジーがインティメイト化した証拠である。それに伴い、ふだんはその存在を意識しないが着ないで暮らすことが気持ち悪い下着のように、テクノロジーは私たちの生活になくてはならないものになっている。移動もコミュニケーションも食事も知的活動もそのほとんどがユビキタスなテクノロジーに頼り切ることになる。身体は拡張すると同時にディスアビリティ化しているのだ。人間の身体の輪郭が喪失しつつあるのである。
インティメイトテクノロジーにおいては、機能性や実用性を追求し無駄を徹底的に削ぎ落とし、「やっぱシンプルな形は美しい」とか「これぞ機能美だ」とか「素材の持ち味を生かすのが一番」と単純に喜ぶ20世紀的デザインが通用しなくなっている。冗長性をいかにデザインするか。冗長は愚鈍にあらず。最適は最高にあらず。情調に通じ遊び心を生み、対話と信頼、安全と安心をもたらす。スマートな冗長美の追求こそ21世紀デザインの新しいフロンティアなのである。


*************
本稿は、以下の二つの原稿をあわせて加筆したものです。
『美術手帖』2006年4月号「身体のリダンダンシーとしてのサイボーグ技術」
『InterCommunication』No.60 Spring 2007 (NTT出版)「冗長美とは何か?──本当のポストモダニズムへ」

*************
【メモ】
・RAIDをいかに機能的に無駄なく作るか。効率のよいバックアップ。冗長性を冗長に作ったもののなかには冗長美は現れない。冗長美は機能美の一種。

・機能美に見せかけた冗長美。G-SHOCKとか。
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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