藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
2008年 03月 21日 ( 1 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
らしさとそのもの自体
「らしさ」と「そのもの自体」を目指すことは全く別なことである。

「そのもの自体」とは、機能と主題を超えて、ものの存在自体を表現すること。20世紀以降のアートにその典型が見られる。キリスト教やギリシャ神話の主題を描くとか、美しい風景や依頼主の肖像を描くとか「主題」を描くことをやめれば、キャンバスに描かれるものは抽象へ向かい、描くという行為の身体性や、マチエールなどの絵画の物質性がクローズアップされ、絵画が絵画そのものとして評価されるようになる。

主題がないとは、絵画の持っている「意味」が、歴史的なコンテクストや日常的に私たちが縛られている肉体的制約や思考の枠組みや社会的制度から切り離されることである。「この絵画そのものを見よ」となるので、「わかりにくい」という反応が多くなる。

ドナルド・ジャッドの箱は、主題もないし、もちろん箱としての機能もない。ただ「もの」であるだけ。それまで「もの」を縛っていた意味から解放され、「もの自体」が顕わになる。制度や意味体系から自由になることで「もの」が孤立するわけではない。自律する。そして声を発する。声はつながりを生む。純粋芸術だけの意味体系への参加表明の声ではない。真に自律した声を持つアートは、芸術のための芸術を超え、芸術以外の何かとつながり始める。ジャッドの場合は、作品が設置場所と直接つながる。それがジャッドの言う「サイトスペシフィック」(敷地固有)と呼ばれる状態なのだろう。
d0039955_13235123.jpg
ドナルド・ジャッドの作品@元陸軍格納庫@テキサス州マーファ。
作家自身設置した、ここでしか見られないサイトスペシフィック作品。
Photo by Erimi Fujihara


「そのもの自体」をえぐり出し、ものの見方を決めていた見えない制度を暴き出し、政治や社会へ強いメッセージを放つアーティストもいれば、ナイーブでかよわく、人の眼にさらすと消えてしまいそうな「そのもの自体」を感じ取る力を他人と共有するために制作を続けるアーティストもいる。

人に見えないものが見える人。見えないものを見続けるためにはつくり続けないといけない。だからアートが止められない。現代のアーティストってそんな人たちが多いと思う。

一方、「らしさ」を目指すことは、見えない制度を直感的に感じ取ったり可視化して「おやっ?」と思うためのものでなく、見えない制度を不可視のままに強化するものだ。女らしさ、男らしさ、長男らしさ、高校生らしさ、管理職らしさ、日本人らしさとか……「男らしさ」が足りない、アナタには「アナタらしさ」が足りないと言われると自分が悪いだと思ってしまう。素直と言われる人は、「らしさ」の背後に存在する「制度」の是非を問うことはない。

最近、流行の「自分らしさ」願望は、「自分らしい私をみんなに認めてもらいたい」「社会が求める私でありたい」「自分の居場所を社会の中に見つけた」という願望であって、決して「自分らしく生きるためならば、社会と決別してもいい」といった、アウトサイダーへの覚悟に充ちた思いではない。オンリーワン願望が孤独を求めるものでないのと同じである。

「らしさ」づくりをカタチやイメージの上で担ってきたのは、デザイナーである。高級車らしいスタイリング、地球環境問題を考える企業らしいクリーンでグリーンなパッケージ、老舗らしい風格ある店構え、リゾートらしいリゾート、アバンギャルドらしいアバンギャルドなどなど。

「椅子、そのもの自体」と「椅子らしさ」は違うものだ。もちろん前者を考えたデザイナーもいる。

椅子とは何かを考え、機能は? 工法は? 椅子のあり方自体を追求する──道具の原形にまで迫ったから、バウハウスの仕事は今もデザインの原点なのだ。

バウハウス以降も、道具やそれを使う行為、素材や機能や色彩の根源的な意味を問うデザインは、デザイン史の真ん中で、細いながらも力強い流れとなって続いている。大量生産システムという中に身を置くからこそ見えてくる「もの」そのもの自体がある。ソットサスのカールトン。倉俣史朗のミス・ブランチ。三宅一生の一枚の布やA-POC……。棚であって棚でなく、椅子であってもその透明さを守るためには座れない椅子で、服とは一体何かと考えさせる服である。カスティリオーニやムナーリもイームズも道具や行為の根源を見つめて仕事をしていた。最近の例では、深澤直人の行為と無意識の関係に迫る仕事や、吉岡徳仁の素材へのアプローチもこの流れの中にある。「そのもの自体」を見つめている人は、求められれば「らしさ」を表出することも、「らしさ」を巧妙にひっくり返すこともお得意である。

徹底的に「らしさ」を追い求めることで偉大な足跡を残したデザイナーもいる。その代表格はレーモンド・ローウィだろう。彼は「機関車とは何か」「タバコのパッケージとは何か」といった問いを探求したデザイナーではなかった。その有名なデザインポリシー「MAYA」(Most Advanced Yet Acceptable:最も進んだものだけれども、受け入れられる)に示されるように、ローウィは最先端の「らしさ」を求めたデザイナーだった。ちょっと先行く「流線型の機関車らしさ」「タバコらしさ」を、生産や販売の仕組みまで考えながらつくり出すのが抜群にうまい。その点で彼は天性のデザイナーであった。

「らしさ」のデザインは、スタイリングデザインではない。「らしさ」を目指すか「そのもの自体」かは、外観だけのデザインか、仕組みからのデザインか、といった問題ではない。時代の先を行く「らしさ」をデザインするには、ものが生まれる仕組みからデザインしなければならない。(※注1)

「らしさ」のデザインとは、社会的に張り巡らせた見えない制度や思考の枠組みを懐疑し、自律した思考を促すことを目的にしたものでなく、逆に制度や既存の枠組みを積極的に生かしてものをつくるという制作者の「姿勢」である。姿勢が「そのもの自体」に向いているか、「らしさ」に向いているか。こう切り分けると、現代アートと親和性の高いデザインと、そうでないデザインとの違いが見えてくる。

「らしさ」と「そのもの自体」、どちらが上とか、どちらであるべき、という論議は不毛だ。どちらも社会に必要なものだ。アートの世界だって、日本画らしい日本画で生計を立てている画家や、最高に評価された「あの時の自分らしい」作品を一生再生産し続けるアーティストはあまたいる。

混同されるのが一番の問題なのだ。

近頃シンプルなデザインが増えている。冷蔵庫らしい冷蔵庫、テーブルの原形、ミニマルモダンと形容された住宅……。それが「らしさ」のデザインなのか、「そのもの自体」にまで迫るデザインなのか、きちんと見極める必要がある。


***********************

(※注1) 逆に外観だけで「もの自体」に迫るアプローチもありえる。80年代ポストモダンデザインは表層操作の手法によって現代文化の見えない構造を可視化しようと試みたが、最後は表層操作と悪ふざけの区別がつかなくなり、様式化し、挫折した。しかしその方法論自体が否定されたわけではない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-03-21 11:10 | お気に入りの過去記事 | Comments(6)


S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。