藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
2016年 07月 18日 ( 1 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
ル・コルビュジエと国立西洋美術館
世界文化遺産が決定したことを記念して、以前書いた国立西洋美術館に関する原稿を加筆してアップします。
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 上野は、江戸城から北東の方位つまり鬼門に位置する。徳川家康の信を得て江戸の都市づくりに大きな影響力をもった天台宗の僧、天海は鬼門を鎮護するために、徳川家光に上野の山に寛永寺を建立をすすめた。寛永寺は、東の比叡山を意味する東叡山という山号をもち、不忍池は琵琶湖と見立てられ竹生島に模すかたちで弁天堂が建てられた。江戸時代を通じて寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺として大伽藍を誇ったが、戊辰戦争で上野の山に立てこもった彰義隊と新政府軍との激しい闘いで大半が消失し、明治時代に公園として整備された。

 第二次大戦後、東京は壊滅的な打撃を受け、焼け出された人たちが戦災で焼け出された人たちがそこにバラックを建て、700人規模といわれる集落をつくっていた。今の西洋美術館の敷地には、寛永寺の子院、凌雲院があり、南側には墓地があった。徳川家に関わる墓所が多かったために、その集落は葵部落と呼ばれ、その中には当時まだ合法だったヒロポン常用者や娼婦なども混じっていたという。1950年代前半、戦後混乱期の闇が生んだ浮浪者たちの立ち退き問題と並行して、西洋美術館の事業は起ち上がっていく。

松方コレクションについて

 歴史を辿ると、江戸の鬼門にオーギュスト・ロダンの「地獄の門」が設置されているのも偶然の一致とは思えなくなる。
「地獄の門」「考える人」「カレーの市民」などロダンの傑作を東京で見ることができるのは、実業家、松方幸次郎のおかげである。父は明治に内閣総理大臣を2度務めた松方正義。川崎造船所の社長だった幸次郎は、事業で得た収入を内外の絵画蒐集につぎ込み、美術館開設を夢みていた。

 松方は、絵画のことはわからないと公言していた。第一次大戦中にドイツが開発した潜水艦の設計図を手に入れるために、絵画蒐集が趣味の道楽者になりきりヨーロッパ中を旅していたのではないか、という話まである。
 画商が勧めるものを次から次へと買い集めたせいで、松方コレクションは玉石混淆だが、趣味的な片寄りの少ない、西洋美術の流れを見渡すには程よいコレクションとなった。

 第一次大戦の特需は終わり、軍縮、関東大震災などのために、川崎造船所は経営危機に陥った。国内にあった松方コレクションは売り払われ散逸していく。しかし松方がヨーロッパに行って直接買い付けた絵画は、パリとロンドンに残されていた。ロンドンのコレクションは1939年に倉庫の火災で失われる。一方パリのコレクションは、ひっそりと第二次大戦の終戦を迎えていた。

 1950年松方は84歳で亡くなった。戦後フランス政府によって敵国財産管理の措置がとられていた松方コレクションは、1951年のサンフランシスコ講和条約でフランス所有のものとされてしまう。それに対し、条約締結の際、吉田茂首相はコレクションの日本側への返還を申し入れた。

 フランス政府との交渉の末、返還でなく、寄贈という形で日本側へ370点が戻されることになった。ただしゴッホの「アルルの寝室」など一部の重要作品は、フランス政府が返還に応じなかった。寄贈に不可欠の条件として、フランス政府は、松方コレクションを展示するための特別の美術館を新設することを要求した。

ル・コルビュジエ選定の経緯

 1953年12月に日本側に「仮称フランス美術館設置準備協議会」が発足した。そして、翌1954年3月の協議会で、ル・コルビュジエの名が提案された。
 誰が言い出したのかは定かではない。

 協議会は、政治家や各省の役人、美術関係者など29名で構成されていた。メンバーには、ル・コルビュジエに師事した坂倉準三の、東京帝大美術史科時代の同級生2人、富永惣一と今泉篤男が名を連ねていた。
 富永はその後西洋美術館の初代館長に就任。パリ留学時代には、坂倉に案内され、ル・コルビュジエの事務所を訪ねている。今泉は美術評論家。のちに坂倉が設計した邸宅に住んだ。
 さらに協議会のメンバーには、坂倉の東大の後輩にあたる美術史家、吉川逸治と、坂倉が1951年に設計した神奈川県立近代美術館初代館長を務めた村岡良策もいた。

 こうした状況から推察すれば、ル・コルビュジエ起用の背後で坂倉が何らかの役割を果たした、と考えることは自然であろう。
 だが、設計者決定まで坂倉は表立って動いていない。1954年4月、ル・コルビュジエへの書簡で打診したのも、坂倉の兄弟子、前川國男である。
 ル・コルビュジエ以外の建築家も検討すべきという慎重論もあったが、ルーブル美術館館長ジョルジョ・サールに意見を求めるなど検討を重ね、1954年11月頃には内定、正式決定は翌1955年となった。

 ル・コルビュジエに協議会の意見が集約していく背景を、富永惣一は開館直後のインタビューでこう振り返っている。
「向こうの偉い建築がそれをやれば返還が有利になるという考えはたしかにあった。これは吉田(茂)さんなどもそうだったらしい。それと、もうひとつ別に、そういう機会に世界的な建築家の作品が日本にできるということはひじょうに意義があるという考えがあってね。それで、ぼくもル・コルビュジエに依頼するのに賛成したわけだ」(『美術手帖』1959年6月号より)。

 当初、土地買収を含め建設費は3億3500万円かかるとされた。国や都の予算がついたのは2億3500万円。残り1億円を民間からの寄付で調達するため、1954年7月「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が発足した。会長は、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎。1957年民間から外務大臣に起用され、1960年まで務めた。

ちなみに藤山はアメリカのインダストリアルデザイナー、レーモンド・ローウィの名著『口紅から機関車へ』(邦訳1953年刊)の翻訳を手がけるなど、戦後、日本の産業発展におけるデザインの役割をいち早く理解しその普及に努めた政治家でもある。そして、藤山の邸宅(57年竣工)は坂倉準三の設計であった。

ル・コルビュジエ来日

 68歳のル・コルビュジエは1955年11月2日、敷地視察のために来日した。当時彼は、インドのチャンディガール新都市建設の仕事に当たっていた。毎年11月は約1か月間インドで過ごしており、その往路に日本に立ち寄った。
 羽田空港には坂倉準三、3年前までル・コルビュジエの事務所に在籍した吉阪隆正、さらに丹下健三らが出迎えた。宿泊先はフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル。初日の夕食は銀座の小笹寿し。だが長旅の疲れのせいか、ル・コルビュジエはまったく寿司に手をつけなかった。

 4日目から3日間、関西へ。桂離宮や正倉院などを見学したが、ル・コルビュジエがいちばん関心を示したのは、京都・先斗町の路地の空間だったという。
 11月9日夜、羽田からインドへ発つ。滞在8日間で上野の敷地に計5回訪れた。

 翌1956年3月にル・コルビュジエから示された基本設計の素案は、大胆なものだった。美術館のほか、依頼されてもいない音楽・演劇ホールと企画展示パビリオンが加えられていた。まさに芸術文化村。しかし予算のない日本側にとって、とても受け入れられる案ではなかった。
 無茶な提案をして、相手の出方を見るのが巨匠の仕事の流儀だったのか。

 いや、そうでもない。現在、西洋美術館の向かいに位置する、前川國男設計の音楽ホール「東京文化会館」を考えれば、ル・コルビュジエの案が決して突飛なものとは言えないからだ。東京文化会館は、その配置計画や、石を埋めたプレキャストコンクリートの外壁、1階外周部に波状に並ぶ「律動ルーバー」など、明らかに西洋美術館との連なりを考慮している。師匠の複合文化施設の提案は、東京文化会館を設計する際、前川を触発するものだったに違いない。

 美術館を正方形のプランにすることは最初の素案から定まっていた。ル・コルビュジエは1920年代後半からシステマチックに増築できる「無限に成長する美術館」を提唱していた。上から見ると正方形の渦巻きのような形をしていて、収蔵品が増えると、四角い螺旋を外に向かって広げて、繰り返し増床していく美術館の構想であった。

 ル・コルビュジエは東京の他に、インドのアーメダバード(1957年)とチャンディガール(1965年)に、無限に成長する美術館を彷彿させる正方形プランの美術館を設計した。建てられた順で言えば、東京は三兄弟の真ん中である。いずれも螺旋を伸ばす形で増築されることはなかった。

環境と共生する建築だった

 1956年7月に基本設計としてまとめられた国立西洋美術館は環境に配慮した建築であった。断面図を見ると、屋上の採光窓からたっぷり太陽光を入れるように描かれており、採光窓は通気窓も兼ねていた。図面には空気を屋上から外に出す矢印が描かれている。

 契約書では、温度湿度調整設備・電気設備・衛生設備は図面に含めず、日本の建築家が行うことになっていた。空気の流れを示した矢印は、ル・コルビュジエは自然換気の希望を示唆したに過ぎないだろう。屋上には花壇も描かれていた。屋上の植栽は開設時には設置されたが、現在はない。

 絵画を鑑賞するには、光は均一のほうがいい。美術品を守るには、太陽光や外気を採り入れないほうがいい。紫外線は避ける。温度湿度は一定に保つ必要がある。
 そうしたことは承知で、ル・コルビュジエは弟子たちに「可能性を探ってみなさい」とメッセージを送ったのではないだろうか。

 太陽と緑と風のエコロジカルな美術館は早すぎた発想だった。自然換気は採用されず、外光の採り入れも少なくする方向で、日本側はル・コルビュジエと交渉にあたった。

日本の弟子たちによる献身的貢献

 その後、日本側の要望を採り入れた実施設計の9枚の図面が送られてくる。しかし1枚を除いて寸法が記されていない図面だった。日本側で決めろというのだ。
 そば一杯20円の時代に、寸法もトイレも空調設備も依頼人任せの計12枚の設計図に、1000万円もの大金を払ったことを、面白おかしく書くことはできる。

 しかし契約は、ル・コルビュジエが基本設計、実施設計は日本側の建築家が担当することになっていた。先述したが衛生設備の設計は契約外。ル・コルビュジエは約束どおり、あくまで基本設計を担当したにすぎない。

 あとは前川、坂倉、吉阪に任せたのである。日本側に予算が残っていなかったので、3人の弟子は割に合わない報酬で、実施設計と設計監理と各方面との交渉を引き受けることになった。

 手弁当のような待遇で仕事をさせた役人たちにポロッと愚痴を言うことはあったかもしれないが、それは師匠に向けられたものではない。彼らが「ル・コルビュジエに師事した」ことで受けた恩恵は、お金に換えることのできないものだからだ。12枚の図面で師匠が、ごっそり設計料をもらったという言い方は、3人の弟子がおそらくもっとも嫌うところであろう。わずか半世紀前の建物が、国の重要文化財にして世界遺産。今にして思えば日本人が支払った設計料は安いくらいだ。

 寸法なしの図面をどう処理しただろうか。西洋美術館では細部に至るまで可能な限りモデュロールが採用された。モデュロールとは、ル・コルビュジエが考案した人体のサイズと黄金比によって定めた、設計の寸法に使うための数列。ヨーロッパ人男性の理想的身長を183センチ、片手を伸ばした時は226センチなど定め、その数字を元に、もっとも美しく見える比として知られる黄金比1対1.618を使って数列を導き出した。

 西洋美術館では、天井高も床の厚さも柱の間隔も手すりも家具も、小石を埋め込んだ外壁パネルも前庭の石畳も、みなモデュロールの数値によって定められている。モデュロールで体系的に寸法を決めておけば、将来の増築に対応しやすい。しかし、183センチの身長を基本に定められたシステムを適用することが、当時(1960年)、男性が161センチ、女性は151センチだった日本人にとってどれほど意味があったのか。

その文化的意義について

 1959年6月国立西洋美術館はオープンした。上野の新名所と話題となり、開館当初で1日8000人超の来場者のあることもあった。
 さて、出来映えはどうだったのだろうか。

 坂倉準三が開館時に雑誌に寄せた次に引用した文章がもっとも正直なところではないだろうか。
「日本のコンクリート打ち放しの技術その他繊細に過ぎて、反ってル・コルビュジエの豪壮な迫力をそいだ点などは、秘かに気にかかるところではあるが、日本における彼の作品として、まずこれでよいと思っている」(『美術手帖』59年6月号増刊より)

 筆者は西洋美術館と似た正方形プランをもつインドのアーメダバードとチャンディガールの美術館を訪れたことがある。最初に建てられたアーメダバードの「サンスカル・ケンドラ博物館」は、レンガやコンクリートの仕上げは荒々しく、ピロティにある池と柱とスロープの関係性も造形的で、それに比べると東京の西洋美術館は端正でおとなしい。西洋美術館の向かいの前川國男の東京文化会館はあきらかにチャンディガールの議事堂の造形を意識しているが、こちらも師匠の建築にあるコンクリートの可塑性を活かした彫塑的豪放さはなりを潜めている。コンクリートなのに木造建築のような「収まりの良さ」が目立つ建築となっている。

 西洋美術館の外壁のコンクリートパネルには、当初高知の桂浜の青石が埋め込まれていた。剥落が激しく、全面的にパネルを取り替え、現在はフィリピン産の石を使用しているが、いずれにせよインドで使われた日干しレンガの荒々しさとはずいぶん印象が違う。ちなみに同じアーメダバードでもルイス・カーンがインド経営大学で使った日干しレンガは表面が滑らかにコルビュジエのそれとはずいぶん印象が違っていた。まさにブルータル。それはロンシャン礼拝堂の造形的なブルータルさよりも荒々しい。

西洋美術館本館中央19世紀ホールの円柱は姫子松の木製型枠で成型。表面に転写された木目の表情は、日本の大工技術の高さの証しといえる。私たちは、このル・コルビュジエの作品を通して、むしろ日本のものづくりの気質を再確認できるのだ。

 ル・コルビュジエが日本にもたらしたのは、国立西洋美術館だけではない。彼の直接の弟子だけなく丹下健三や安藤忠雄をはじめ日本の主な近現代の建築家は、ル・コルビュジエの思想や手法をどう咀嚼するか、どう再構築するか、どう距離を置くか、どう離れるかをめぐって思考をくり返してきた。それこそが「遺産」である。もし、ル・コルビュジエの日本への優れた受容のあり方を体感したいなら、西洋美術館よりも丹下の香川県庁舎や坂倉の旧神奈川県立近代美術館などを訪れたほうがよい。

 しかし、「日本にル・コルビュジエ建築がある」という事実が、これらの近代をめぐる思考の軌跡というレガシーをさらに輝かせてくれる。日本建築における近代の受容と相克──、それがル・コルビュジエという近代建築の巨人の作品というモニュメンタルな形をとって顕現していることが、国立西洋美術館の建築の意義である。

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もっとコルビュジエのことを知りたい方は→
当ブログ内「ル・コルビュジエ連戦連敗

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参考文献
『開館50周年記念 ル・コルビュジエと国立西洋美術館』国立西洋美術館刊、2009年
『国立西洋美術館本館歴史調査報告書』国立西洋美術館刊 2007年
『芸術新潮』2009年2月号 新潮社刊 特集「国立西洋美術館のすべて」
『建築文化』1996年10月号 彰国社刊 松隈洋「ル・コルビュジエと日本、そして国立西洋美術館プロジェクト」

初出:『Casa BRUTUS特別編集 ル・コルビュジエの教科書』 マガジンハウス 2009年
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2016-07-18 12:00 | Comments(0)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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