藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
続・デザインジャーナリズム
柳本様 前投稿へのコメントありがとうございます。
長文なので、投稿記事としてレスします。

おっしゃるとおり、せっかくのライブで、しかも編集者やライターなど、いろんな方が来ていたから、僕も積極的に会場に話を振れば良かったです。

後半のトークで清水さんと今井さんが見せてくれた「愛のバッドデザイン」も、僕はデザイン批評だと思ってます。それは新製品レビューなどでは忘れがちになりそうな、でも人の暮らしを支えるデザインを語る上では重要な、視点の集積です。

都築響一さんの仕事も批評活動だと思っています。たとえば『着倒れ方丈記』は素晴らしい。ファッション界が見せたがらないファッション界を支える人々のライフスタイルを見事に切り取っている。だけど、都築さんはファッションジャーナリズムという枠の中でその仕事をしたわけではありません。いやファッションジャーナリズムでは決してできないことをやっている。でもその仕事は極めてジャーナリスティックです。

既成のデザイン雑誌に頼らないデザインジャーナリズムは可能です。「キミは僕の仕事をデザインジャーナリズムって呼びたいんだね? なら呼んでもいいよ」ってスタンス。デザインという言葉にこだわりすぎて、なんでもデザインだって言いたがると、逆に広がるべき思考が広がらなくなる。だから僕は、デザインの書き手が「書くこともデザイン」と言うことに違和感を覚えます。エクリチュールという言葉で長年議論されてきた「書く行為」に、デザインという言葉がどれだけ新しい光を当てられるか疑問です。「デザインと呼びたければ呼んでもいいよって」ってスタンスの方が、結局デザインの可能性を広げると思うのです。

基本的にはデザインジャーナリズムなんて言葉にこだわらない姿勢が批評活動を活性化させると思っていますが、しかしデザインジャーナリズムが不要と言っているわけでありません。必要です。もし今あるものでは不十分なら新たなものを作っていかなければなりません。

デザイン誌には専門誌としての役割があります。柳本さんがおっしゃるように一つ一つの製品のレビューでは言説の力は弱く、デザインを語るなんて意気込んでも意味があまりないと思いますが、ある人の仕事や長く続くプロジェクトを総体として、取材を綿密にして語る必要はあります。

フィロソフィーの繋がり合うプロジェクトを3つ以上並べれば雑誌の特集になります。そしてそのフィロソフィーから時代を映し出すことが可能です。こうした特集は編集者の腕にかかっています。

腕のある編集者がいなくなると、しっかり批評的言説を書く場が失われ、デザインの評価は市場に任せることになってしまいます。紙媒体かウェブかの問題ではありません。メッセージをあるパッケージの中にまとめる力のある編集者がいるかいないかです。紙の雑誌とウェブマガジンの両方を使い分けられる編集者が理想だと思っています。

ブログに対する見方も、それが編集者不在のメディアなのか、それとも誰もが編集者になれる時代が来たと認識するかで変わっていきます。匿名メディアがこのまま増えれば前者。署名ブログが増えれば、後者の可能性が少しずつですが見えてきます。

ブログは機動性の高い面白いメディアだけど、ブログだけが批評メディアになってしまうのは、避けるべき事態だと思います。編集を生業にするプロは必要です。誰もが編集者というのは、言い換えれば編集者の素人化ですから、どうしてもクオリティは下がっていきます。

とにかく、ジャーナリストや評論家でなく、デザイナー同士がデザインを評価するにしろ、それが何故選ばれたかを言語化しなければならない。デザイン自体がいくら批評であっても、それを読みとる言説が必要です。いずれにせよ批評的言説を発表する場は不可欠です。

市場にデザインの評価を委ね、市場が受け入れるものはすべて良しとすると、デザインという言葉自体が市場に呑み込まれ、消費されてしまう危険性が出てきます。デザインという言葉が広義になればなるほど、デザインという言葉が市場に濫用され、言葉のイメージはボロボロになり、そのうち死語になるかもしれません。

デザインという言葉を守る人間が必要なんです。それがデザインジャーナリズムを担う人間の仕事だと思います。もちろんデザイナーの仕事でもあります。デザインという言葉を常に柔らかくオープンで新鮮に響くものにするには、その言葉の中核にいる人たちの努力がいるのです。

だから僕はデザインジャーナリズムを諦めていません。

ニッチなメディアでもいいんです。スモールメディアが世界を変える世界にするのが目標ですから。

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【おまけ】ミラノで見つけた「愛のバッドデザイン」藤崎版
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僕たちは硬くて鋭利な針で相手を刺す、
そんな攻撃的なヤツではありません。
針の尖りはいまいちだけど
円板をくりぬいた三本の針で、
プスプスプスっとやさしく刺して、
掲示板に書類を貼り付けます。
斜めになったりいたしません。
掲示板ってヤツはいつも無表情だけど、
やさしく接すると、ペタッと密着させてくれるんです。
くりぬかれた穴は矢印のよう。
回転してるみたいでしょ。
真ん中の穴は何のためかって。
実は僕らも知らないんです。
いつも鼻だと答えています。
タレ目のアンパンマンだと
言ってくれた日本人がいます。
TVアニメのヒーローだそうです。
でもイタリアじゃ放映してないんです。
きっとカッコいいんだろうな。

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では、こちらから清水久和さんの本家「愛のバッドデザイン」ウェブ版をお楽しみください。今井信之さんの文章も素敵です。

ちなみに上の画鋲はこんなものです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-18 15:02 | お気に入りの過去記事 | Comments(3)
 
デザインジャーナリズム
柳本浩市さんのブログmetabolismを拝見して、やや反省。5.16のshop btfでの岡田栄造さんとのトーク、僕的には気持ちよく話せたのですが、デザイン批評は可能か?っていう話をもっと突っ込んだほうがよかったかもしれませんね。

最近こんなことがありました。

某雑誌から拙著『デザインするな』の書評記事のゲラがPDFで送られてきました。事前に著者にチェックしてほしいとのこと。「ゲラは読みません。チェックしません。そんなことをしたら書評の意味がない」とかなんとか書いて返信しました。著者インタビューを受けてコメント部分をチェックしてほしいというのならチェックします。しかし評論の事前チェックは評者に失礼。本を世に問うた以上、他者から批判は受け入れる覚悟はできています。その批評がたとえどんな理不尽なものであってもです。

出版後のいさかいを避けるため、専門誌でも原稿の事前チェックが当たり前になりつつあります。しかし記事の性格によっては事前チェックは全く必要のないものがあります。そうしないと批評・評論という分野が存在できなくなってしまう。

自分の発言内容や事実関係以外の部分まで直しを要求するのはルール違反です。レイアウトまでチェックさせろと言ってくる人もいます。レイアウトだって批評です。どの写真を大きく使うか、何をメインに見せるか、といったことは雑誌編集者とエディトリアルデザイナーの批評性が発揮される部分です。レイアウトチェックを要求できるのはタイアップ記事のクライアントに限ります。

そうした批評性への無理解に歯止めをかけるのが編集者の役割です。ここは直すけど、ここは直さないと判断し、執筆者を守るのが、編集者の力です。編集者は執筆者にとって第一読者だって話をトークの時にしましたが、それと同時に防波堤でもあるんです。このふたつの役割をこなして、批評の世界の質が上がる。自称デザインジャーナリストがたくさん増えても、編集者の質が向上しないと、デザインジャーナリズムは存在しないということになります。

デザイン批評は難しいものです。デザインはプロダクトの姿形だけでなく、その製品を実現させるためのプレゼンテーションの過程から、その製品が世の中に出てから、どのような反響があって、それがどう次の製品に反映されていったかまで評さないと、批評として意味がない。製品の使い勝手だって1年以上使い込んで初めて分かることがたくさんある。映画のように試写会を見て、評論が書ける分野ではありません。

各業界に精通した人がデジカメだけとかクルマだけ評することなら、ファーストインプレッションでもかなり精度の高い評論を書くことは可能です。だからデジカメ評論家や自動車評論家は成立します。しかしモードも茶碗もインタラクションデザインも産業機械も広告も絵本も住宅も、時にはアートもアニメも、横断的に語るデザイン評論家は成立しづらいのです。

結局日本では、デザインを評することは、デザイナー同士に委ねられています。デザイナーのほとんどはバウハウスを基礎とするモダンデザイン教育をみっちり受けてます。グッドデザイン賞にしろADC賞にしろ、だいたい同じような見方を持った人たちが、その製品が世に出てまだ日が浅いうちに審査して、デザインの善し悪しの合意を形成している。それが現状です。しかし、そのやり方以外に今のところ世の中に溢れる大量のデザインを評価する方法がないのだから、そうした制度はそれなりにきちんと機能しています。

じゃ、デザインジャーナリストなんて、やることないじゃん、批評なんて書いても意味ないじゃんって話になります。たしかに辛口批評とか毒舌ばかり標榜すると、最初は面白がられても、辛口のスタイルを守るために先細りしていきます。

たいていの本音トークは、経験に培われた眼で直感的にいいか悪いかを判断して、それを正直に言っているという程度のものです。映画や演劇評なら、それで通用しますが、その都度知らない業界や技術を勉強しなければならないデザインジャーナリストの仕事は、経験が好奇心を鈍らすこともあります。あの時ああだったから、どうせこれもツマラナイだろと勝手に決め込んでしまうわけです。

経験という色眼鏡を外したほうが、美しく見えるものがあります。プロダクトの背景とその後の影響を綿密に取材していけば、最初はツマラナイと思ったものが、とても興味深い事例に見えてくることがあります。どんなものにも何か面白い話が隠されている。そう思ったほうが世の中は豊かに見えてきます。

僕はデザインジャーナリストの仕事は、「批判」から入るのでなく、「認めること」から入るべき仕事だと思っています。

批評ができるのは文章だけではありません。デザインも批評ができます。わかりやすい例だと、トスカーニのベネトンの広告、スウォッチ創設時の戦略、無印良品のブランディング、ドローグデザインの仕事などは、その時代時代への企画者や表現者の批評精神をはっきりと読み取れることができます。デザインが持つ批評性を言葉に置き換え、それを広く伝えるのがデザインジャーナリストの仕事です。

一見批評性の無さそうなものに、批評性を発見するのが面白い。トスカーニのベネトンの広告の批評性を書くのは簡単です。ですが、コンビニに置かれた清涼飲料水の批評性を浮かび上がらせるのは難しい。「世界のキッチンから」に、カテゴリー売り上げ1位2位以外の商品は入れ替え制で、新商品は一発屋の若手芸人のような扱いで、商品を育てようとしない一部大手コンビニに対する批判的な思いがあることは、ドラフトの本(『デザインするな』)を書くという立場で、宮田さんにじっくり話を聞けたから知り得たことです。

僕が批評家や評論家と名乗っては、デザイナーが仕掛けた隠された批評を言葉にすることができなくなります。伝える人に徹することで、見えてくる批評がある。

建築家もアーティストもデザイナーも批評家なんです。キュレーターも批評家です。いや批評家以上に批評家です。それを「認める」ことから始めることで、建築・美術・デザインジャーナリストという職能の存在理由がある。ピンと来ないものは単純に無視すればいい。だからCasaBRUTUSでも批評は成立すると思ってます。編集者にそうする気がないと単なる情報誌になってしまいますが。

「認める」ことから始めるからこそ、あっこの人、おかしくなっている、というのが分かるんです。そういうときは批判に転じる。僕は深澤直人さんの仕事はいつも気になってますから、21_21のチョコレート展の時は批判したわけです。逆に言えば、認めてない人は批判もしない。

成功している人は必ず何か理由があって成功している。酒の席ではとかく「実はあの人は…」と、悪い面ばかりを見た話ばかりになってしまいます。しかし僕にとってデザインジャーナリストの仕事とは、まずは相手の懐に入り込んで、いい面を引き出すことだと思っています。まず相手のことを認めないと、なぜ成功しているかを見極めるための材料が手に入りません。

もちろん悪い面も頭に入れておく必要はあります。じゃないと、懐に入ったまま戻って来れなくなってしまいます。ジャーナリストの本分は取材対象との距離感の操作。取材対象を一時的に好きになることも、距離感の操作の重要な技量です。そうやって引き出した成功者の「いい面」は僕自身にとってもものすごく勉強になります。それを人に伝える、それが職業です。

そんなこんなトークの後、ちょっと反省を交えて思いました。

優れたデザインは、それ自体が批評です。それを言葉にするだけだから、デザインジャーナリストの仕事は簡単? いや、それがとってもむつかしいですよ。

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なんて会話はしてません。左が岡田さん。

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by cabanon | 2009-05-18 00:36 | お気に入りの過去記事 | Comments(11)
 
カワイイ
30数年前、僕は小学校を卒業して、横浜から広島県尾道市へ引っ越した。「だからさあ」「それでさあ」と「さあ」を連発する僕の話し方を、中学校の同級生はからかった。あのさあ、誰誰がさあ、◎◎しっちゃって、△△じゃん。

僕にとっても彼らの話し方が面白かった。「すごい」を「ぶち」といった。「ぶちうまい」とか。が、高校は広島だった。同じ広島県でも、備後と安芸では言葉もイントネーションも違う。広島では基本は「ぶり」だった。

関西は「めっちゃ」「ごっつ」などさまざま、ネットによると、名古屋はジェネレーションがあって、年輩は「どえりゃ〜」、若い人は「でら」らしい……。

「とても」「ひじょうに」「すごく」などの程度を強調する副詞は、原稿を書くときは、なるべく使わないほうがいい。「東京タワーは美しい」「東京タワーはとても美しい」。ジャーナリストにとっては、前者のほうが覚悟がいる。言い切るには、取材を重ねて裏をとって客観的な事実だと確認する必要がある。「とても」を入れると「そう思ったのは私」という主観的なニュアンスが入り込む。

地域、世代、趣味嗜好、業界などさまざまなコミュニティで、「とても」という意の多様な表現が生成されるのは、仲間たちと主観を共有しあいたいという願望の表れだろう。僕は尾道弁を上手に使いこなせなかったが、「ぶち」と自然にいえるようになって、少し友達に馴染んできたと思ったものだ。

そう考えて「カワイイ」という言葉の意味がわかってきた。意味を定義しようと思ってはいけないのだ。これは英語の「pretty」や「cute」ではない。仲間と感情を共有しあう「機能」が、愛らしいといった「意味」を凌駕している。感情共有を促す機能は「超」「ちょ」と同じだ。

エロカワイイ、キモカワイイまで意味が拡大したのは、感情共有機能が肥大化したためだ。言い換えると、空気をつくる言葉。カワイイの意味は、それがどの仲間たちの中で発せられたかで変わっていく。しかも反論が許されない。「カワイイ」とみんなが盛り上がっている場面で「そんなのカワイクナイ」と否定すれば、空気の読めない子になってしまう。微妙な距離感が生まれてしまう。そう思ってなくても、自分のために、その場のために、とりあえず言っとくべき言葉、それがカワイイだ。

しかしカッコいいは違う。こちらは距離感を示す言葉だ。

カッコいいは、オレはオマエとは違うんだ、オレはこんなカッコいいクルマに乗っている、オレはカッコいいと思うのは、まだほとんどの人が分かってないけど時代の先端だと主張する。尖ったものを愛する言葉がカッコいいだ。

カッコいいは異化の言葉で、カワイイは同化の言葉である。しかし、カッコいいの単純な異化作用に比べ、カワイイの同化作用は、異質なものを取り込む仕組みを持っている。カワイイの定義は、微妙に揺らいでいるために、異質なものを取り込んで、広がっていく。

カワイイは共鳴の言葉である。互いの近しい距離感を確認し合うため、カワイイと言って、周りの人たちと感情を響かせ合う。

響かせ合うには、ユニゾンよりもハーモニーである。カワイイと同じ旋律を歌うだけでは、ジャニーズである。深みに欠ける。

相手のカワイイに合わせて、でも、微妙にそれとは違うものをカワイイと言ったり、異化効果のあるカッコいいのテイストをちょっぴり加えて、旋律を変えてみると、深みが出る。そこに真の共鳴が起こる。カワイイのハーモニー的連鎖が、カワイイの領域を広げていく。

「カワイイ!」と誰かが発すると、その「カワイイ!」が伝染するのだ。「言語は宇宙から来たウィルス」と言ったのは、ウィリアム・バロウズだが、カワイイこそウィルスだ。しかもそのウィルスは言語同様、想像を育む。
──などなどと、200個以上集めたご当地キティを見て、僕はこの自説をふむふむと確信しているわけである。

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たまに以前書いた記事を、このブログに載せています。発売から1年経ってからというのがこのブログのルールです。このカワイイの原稿は、『デザインの現場』連載「コトバのミカタ」の1年前の号に載せたものに、かなり加筆してアップしました。

この記事はぜひブログにアップしたい、早く1年経たないかな、ルール破っちゃおうかな、と思っていたものでした。というのも、最初はブログ用につらつら書いてて、あっおもしろいと思って、急遽連載原稿に格上げしたものだったので。

最新号のデザ現では「RPG型インタラクション」について書いてます。これも面白いと思います。けど、ここ3号くらい、原稿がオヤジ臭くなっています。説教臭いというか。生活全般がオヤジに浸っているせいだと思ってます。是非ご一読を。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-01-27 23:32 | お気に入りの過去記事 | Comments(5)
 
シンクロ型文化伝播モデル
アール・ヌーヴォーの時代、まるで伝染性の熱病に罹ったように、欧米では有機的形態の装飾デザインが同時発生した。1895年、パリにS・ビングがアール・ヌーヴォーの名の由来となる「メゾン・ドゥ・ラール・ヌーヴォー(Maison de l'Art Nouveau)」という美術店を開設する。そして、メトロのデザインで知られるギマールが有名な「カステル・ベランジェ」を建てたのが1894~98年だ。

1896年、ドイツのアール・ヌーヴォー運動「ユーゲントシュティール」の名の由来となる同名の雑誌が創刊する。ベルギーではオルタ、アメリカではサリヴァンが植物文様を大胆に使った建築をつくり、オーストリアではゼツェッシオンと呼ばれる運動が起こり、建築家ワーグナーやホフマンが活躍する。イギリスではアール・ヌーヴォー運動に先立ちアーツ&クラフツ運動が起こり、やはり有機的形態をデザインに採り入れていた。有機的形態と言えば、スペインのガウディも忘れてはならない。

ルネサンスが、イタリアからフランドル、ドイツなど北方へ、時間をかけて伝播したのとは異なり、アール・ヌーヴォーは時間をかけずに伝播する。

アール・ヌーヴォーの広がりの速さの理由は、19世紀のメディアと交通機関の発展だと、結論を下してしまうのは簡単だ。新聞、雑誌が多数発刊され、情報が高速化し、国境を越えやすくなった。鉄道や蒸気船によって人が移動しやすくなった。情報が密集するパリやロンドンなど国際都市が形成された。世界中の文物が集まる万国博覧会が大流行した。──芸術文化が国境を越えて高速に伝播する要因は揃っていた。

しかし、メディアと交通機関と都市とイベントの発達だけで、芸術の興隆が語れるならば、21世紀の今ごろは、世界は芸術で溢れかえっているはずである。

たしかにモナリザのイメージは世界中を駆け巡る。しかしレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する人物が、世界中を駆け巡っているわけではない。

アール・ヌーヴォーの同時発生現象は、メディアと交通機関の発展があったから、と単純に解決してしまうわけにはいかないのではないか。

そう考えて、文化の伝播方法について「コピー型」と「シンクロ型」という2つのモデルを考えてみた。

コピー型文化伝播モデルというのは、情報が複製されて、ある地域から別の地域に文化を伝える方法である。たとえば『カラマーゾフの兄弟』や『資本論』が版を重ね世界各地にその翻訳本が広まっていくとか、コカコーラやマクドナルドがアメリカの大量消費文化を伝えたり、高度成長期の日本人がせっせとアメリカの半導体技術を盗んだり、老舗の料理店の板前が各地に散らばっていくといった、さまざまなケースが考えられる。

「コピー型」には大まかに分けて「大量生産式」と「パッケージ式」がある。

「大量生産式」は力業である。大量の商品を製造して、世界中にばらまく。コカコーラやハリウッド映画などは、アメリカ型文化を世界に浸透させる強力な兵器となっている。しかし、マクドナルドにしてもディズニーランドにしても、単純にコピーを生産し拡散させるだけではない。コピーをつくるだけでは、正確なコピーを伝えられない。より効率的に、しかも正確にコピーを世界に伝えるには「パッケージ式」をとる必要がある。

言語の違う文化圏に、本に書かれた情報を伝達させようとすると、そこには翻訳という作業が入る。翻訳にはどうしても翻訳者の解釈が入ってしまう。いろんな翻訳家の『カラマーゾフの兄弟』を読むのは楽しいが、これが宗教の聖典であったら、翻訳が多種存在することは、教団の混乱の原因となる。そこで解釈が1つの学問となり、どう聖典を解釈するかを叩き込まれた人間が、聖典を携えて、布教に当たる必要が出てくる。

「正典化」という言葉がある。ある日ふとつけた放送大学でこの言葉を知った。たしか音楽理論の講義だったと思う。クラシック音楽を学ぶ人は、バッハやベートーベンを揺るぎがたい「正典」として学ぶ。近代日本は西洋音楽を「正典化された音楽」として受容した。バッハは音楽の父、ベートーベンは楽聖、モーツアルトは神童である。そして、この正典を中心に完成された音楽理論、教育法、演奏・鑑賞スタイル、歴史、分類体系がセットになっていた。パッケージ化されているので、世に広めるためのシステマチックな教育が可能になる。

正典化という言葉から推測できるように、このスタイルの究極の形は、宗教にある。キリスト教の場合、聖書という正典=聖典があり、伝道師は、正典を中心に十字架、賛美歌、教会建築、偶像彫刻などをパッケージ化されたセットを展開させ、世界へ教義を広め、文化も生活スタイルもいっしょに運んでいく。

聖書だけが移動可能・複製可能なのではない。キリストやマリアのイメージ(イコン)、十字架、教会の建築方法、賛美歌、祭礼の行い方などもセットで複製される。パッケージごとコピーされるが、その土地に合わせて変化もする。
 
しかし正典は変わらない。完全な土着化はしない。変わるものと変わらないものがハッキリしているから、地域に根ざした柔軟な伝播が可能になる。

パッケージ化されると、正典を元に、教科書が生まれ、システマチックな教育が可能になる。正典さえ定めれば、正典の周囲には自由が生まれる。批評、土着化、異端、外伝が、正典を守るために機能する。絶対遵守だけが正典を継承する手段ではない。

現在の教育システムは、小学校から高校までは正典の絶対遵守を学び、大学に入って初めて正典への解釈──そこに懐疑や批評があることを学ぶことができる。もちろん正典絶対遵守しか教えない大学教授もたくさんいる。価値体系はそうやって次世代に伝えられる。

マクドナルドは、同じ味のハンバーガーを世界中で大量に製造して販売しているだけではない。フランチャイズの経営の方法も、接客の仕方も、品質管理のシステムも、マクドナルドのブランドが醸し出すイメージもまるごとパッケージ化された形で世界中に伝播している。それを程よくローカライズしているのが、現在のマクドナルドの世界的成功を支えている。たとえばインドのマクドナルドには牛肉100%のハンバーガーがないが、基本メニューがなくてもやはりマクドナルドはマクドナルドである。逆に言えば、完全にパッケージ化されているから、国ごとに統制のとれた効果的なローカライズが可能になる。

優れた企業は、正典の正統性を守るため、厳しいブランディング戦略を採る。ディズニーランドは東京やパリ近郊にロサンゼルスと複製テーマパークをつくったから成功しているのではない。映画などと連携したパッケージがディズニーの世界観を伝えているのだ。エルメスもルイ・ヴィトンも高度なブランディング戦略によって、製品は、価値観や企業文化ごとパッケージ化されている。

これらの企業が、違法コピーを激しく執拗に排除しようとするのは、正典の正統性を守るためである。「パッケージ式」文化伝達の使徒たちは、聖書を守るために、闘いつづける。

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「コピー型」とは別種の、もうひとつの文化伝播モデルが「シンクロ型」だ。同時発生的な文化伝播現象である。

シンクロ型は、aという地域で生まれたものがコピーされて地域bへ伝わるというものではない。地域aで生まれた文化のほんのわずかな断片が、地域bに伝わる。すると、その地域bの創造者たちが触発され、aでつくられたものに匹敵する創造物をつくり出す。

共鳴するのだ。地域bでつくられたものがまた地域aの創造者を刺激するかもしれない。地域cの創造者を刺激するかもしれない。文化の共振現象が、シンクロ型伝播モデルだ。

地域aから地域bへ伝えられるものは、パッケージ化されている必要はない。大量のコピーも必要ない。完全な形でなくてもいい。画家を触発するきっかけは、雑誌の一枚のモノクロ図版でいい。想像力の豊かな画家なら名刺大の粗いモノクロ印刷の図版からも、色を感じることができる。知的好奇心旺盛な旅行者の記憶が、新たな創造を生むかもしれない。

洞察力のある者は、断片を見た時・聞いた時・読んだ時に、「あっこういうことだったのか」と全体像を理解する。自分の方法と照らし合わせて、自分の方法に修整を加える。理解は正確である必要はない。むしろ間違った解釈が新しい創造を生む。音楽と絵画という異なるジャンル同士の共鳴効果を生むこともある。

創造者を触発するスイッチが何であるかを、事前に想像するのは難しい。いや後から歴史がそのスイッチが何だったかを追究するのも難しい。街角の広告なのか、いつか見た映画のワンシーンだったのか。系統だった因果関係では説明できない。

ただ、スイッチが入れば、創造者同士が共振する。社会が変革しようとするタイミングなら、地域aと地域bの文化全体が共振する。これが「シンクロ型伝播モデル」である。

現実には「コピー型」と「シンクロ型」が混じり合いながら、文化は世界を駆け巡っている。コピー型はメディアや交通機関の発展を恩恵を受ける。大量に情報や人や商品を運べれるほど、文化もそれに伴って伝わることになる。シンクロ型は情報のスピードより、洞察力や直観力のある人間がいるかいないかの問題となる。

アール・ヌーヴォーの伝播の速さは、コピー型とシンクロ型がちょうどよいバランスとなったからだと考えられるのではないだろうか。メディアと交通機関が発達し、大量の情報が行き交う基礎をつくり、そこでシンクロ型伝播が発生した。

創造者間の交流では当然「シンクロ型」が多い。この場合、誰が最初につくったのかや、どの作品がオリジナルか、という議論は微妙なものとなる。「コピー型伝播」にはオリジナルがハッキリとある。だからディズニーはコピーライトを主張できる。逆に言えばコピーライトの厳格な適用を主張する者は、創造者同士の文化伝播を否定する可能性がある。同期しているのだから、「シンクロ型伝播」では、オリジナリティ神話やコピーライトの概念は揺らぐのだ。

メディアが発達すれば、文化は盛り上がると思っているのは、現代人の思い上がりだ。もしかしたら芸術にとって、メディアは19世紀末のアール・ヌーヴォー誕生時くらいの規模で十分なのかもしれない。

現代のメディアは、「量」に関する技術は進歩しているが、「質」に関して進化してきたわけではない。新聞やテレビはどんどん信頼されるメディアになっているかと言ったら、その逆だし、ネットに書き込まれた情報は最初から疑って扱わないといけない。iTuneで音楽を聴くようになって音質が良くなっただろうか、写真がデジタルになって無理をしても仕事を頼みたくなるカメラマンが増えただろうか。写植時代に比べて雑誌のタイポグラフィは美しくなっただろうか。高速に莫大な量を安価に簡便に扱えるという新システムは、多くの場合「質」の進歩を犠牲にしてきている。

著作権で創造行為を縛ることは、シンクロによって質を高め合う共鳴的伝達を疎外する。コピーをするライト(権利)をもったものは、同質なものしか世界に伝えない。

シンクロのためのメディアをつくる必要がある。

スイッチをどうつくるか。スイッチを探す人々を集う場をどう創出するか。それができれば、低解像度のメディアでも「質」は伝わる。僕はそういうメディアを創りたいと思っている。


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本稿はもともと『シーティーピーピーのデザイン 』(光琳社出版、1996年)のために寄せた、信藤三雄のデザインを論ずる原稿として書いたものです。久々に読んだら、面白かった。コピー型/シンクロ型の話は、1990年くらいからずっと考えていたテーマです。そこで、信藤論の部分を削り、新たに正典化の話、パッケージ式の話を加えて、最後に今感じていることを添え、新しい論考として仕上げてみました。
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by cabanon | 2008-12-11 15:47 | お気に入りの過去記事 | Comments(5)
 
プレイ・アラウンド:答えの周辺
11/2、SoCa2008の、グラフィックデザイナー松下計さんのレクチャーを聴きに行きました。デザインの現状に対する危機感と、これからのデザイナーの立ち位置を考えさせる、熱い講演でした。

その中で松下さんが、プレイ・アラウンド(play around)という話をしてくれました。問われたことに対して、答えを見つけるでなく、答えの周辺を探っていくこと。イギリスのデザイン教育の視察に行ったとき、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)で聞いた言葉だそうです。

ある課題を解決するために、町に出て写真をたくさん撮る。その写真が楽しければ、別に答えを出さなくてもOK。答えの周辺(アラウンド)で遊んじゃって(プレイ)しているわけです。従来のデザイン教育は、一人ひとりが問題を見つけて、自分独自の解決策を探し出していくことを重視してきました。課題に対して、期限までに無理をしても必ず必ずひとつ答えを出さないといけません。

プレイ・アラウンドは、答えをひとつに絞る必要がないのです。こんなのあってもいいし、こう広がるかもしれない。今は具体的になりそうもないけどこんなのありかも……。どんどん答えの周辺を膨らませる。優等生的な答えよりも、「答えの周辺」に未来へ繋がる想定以上のものが生まれてくるかもしれません。

問題を解決しようとして、ひとつの解答を選択する手前で立ち止まって、「答えの周辺」で遊んでみる。それってデザイナーならではの方法論だと思います。ふだんから問題解決型のクリエーションを実践しているわけですから。問題解決のためにリサーチをかけているうちに、創造力溢れるデザインナーは、リサーチに没頭し、答えを出すことをすっかり忘れて、「答えの周辺」に夢中になってしまう……。そして新しい創造の方法論を手に入れる。
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岡田栄造さんプロデュースした、清水久和さんの個展「日本史」を見て、僕はその「プレイ・アラウンド精神」を感じました。清水さんはキヤノンのインハウスデザイナーです。でも、個展には仕事とリンクするような作品はありません。出展されていたのは井伊直弼を題材にした鏡と、巨大なちょんまげの貯金箱の2点。
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井伊直弼は日本史の教科書に載っている。肖像画も載っている。安政の大獄や桜田門外の変のことは知ってても、はたしてどんな人物だったのか、善人なのか悪人なのか、よく分からない、微妙な立ち位置の人物です。日本史本流の人物ですが、その存在は隙間的です。井伊のイメージには輪郭があっても中身がない。それゆえ鏡なのでしょうか……。

髷(まげ)は、日本史→時代劇→チャンバラ→最後に髷がバサッと落ちる定番のシーンという連想から生まれたもの。日本史の大衆的イメージの隅っこにある強い光を放つディテールです。下の白い台はお城の石垣だとか。日本史というイメージをつくるには、なくてはならない影の主役です。
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日本史という岡田さんのお題に対して、清水さんは、正しい答えなど出すことなど最初からせず、答えを出す一歩手前で出てきた隙間や隅っこや背景の部分で、徹底的にしかも真剣に遊びまくって、鏡と貯金箱をつくってしまったわけです。まさにプレイ・アラウンド。ふだん企業で問題解決型のデザインに取り組んでいるデザイナーだからこそ、答えの周辺で遊ぶ極意を知っているわけです。

そのあたりの感覚は、もう一人のインハウスデザイナー界(そんなのあるのか)の奇才堀切和久さんのミニ盆栽なんかにも通じるんですよね。プレイ・アラウンドの手法自体は、Take your pleasure seriously(楽しいことは真剣に取り組め)と言ったチャールズ・イームズや、ブルーノ・ムナーリの仕事(たとえばフォークの本とか)にルーツを求めることができるかもしれません。

問題解決型クリエーションの専門家が、答えの一歩手前でプレイ・アラウンドしていると、たまたま現代アートに重なり合ってきたりします。「答えの手前」や「答えの周辺」では機能とか経済性などはシビアに問われることないわけですから。しかも市場分析などの詳細なリサーチを重ねて問題解決を図ることを生業としているデザイナーならではの方法論は、アート界では新鮮だったりします。それが今アートとデザインを近づけている理由かなとも思ったりします。

答えの手前で遊びまくれ!
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*「DEROLL Commisions Series 2:日本史」展はSPACE INTART(東京・北青山)にて10/28〜11/3に開催された。
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by cabanon | 2008-11-03 18:27 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
デザイナーは医者じゃない。
デザイナーの仕事を医者にたとえる人たちがいます。グラフィック系に多いです。間違いだと思います。仕事のプロセスを説明するための軽いたとえ話ならいいのですが、あの有名デザイナーも、この有名デザイナーも、デザイナーは医者だと、講演などで若い人たちに語るのはどうかと思います。

医者は凶悪犯罪者の命でさえ救わないといけません。それが医者の倫理です。しかしデザイナーは、姑息な手段で儲けている企業の仕事を受ける必要はありません。暴力団絡みの会社や武器商人から「ウチの会社はダメになりそうだからと看てください」と言われても、その命を救う必要はないのです。それがデザイナーの倫理です。

医者の倫理とデザイナーの倫理は「人のため、社会のため」という根本の部分では同じものですが、その実践においては決定的な違いがあります。医者は患者を選ぶことができません。それが医者の倫理です。しかしデザイナーには依頼者を選ぶことで初めて達成できる倫理があります。仕事を選んでいれば、食えない。けど、あの仕事はすべきでない。仕事を断らないとならない時があるのです。ここに勇気ある倫理が発生する。再生紙を使いました、CO2削減に貢献しました、ユニバーサルデザインを採用しましただけが、デザインの倫理ではありません。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-11-03 00:29 | お気に入りの過去記事 | Comments(3)
 
教えたいニーズ
学校をつくりたいと思っている。具体的な計画があるわけじゃない。ただアイデアはある。

義務教育の小中学校は別として、世の中の学校というものは基本的に「自分自身をもっと成長させたい」「キャリアをアップさせたい」という学ぶ側のニーズがあるから成り立っている。そうした「学びたい」というニーズでなく、「教えたい」というニーズで成り立つ学校もあってもいいじゃないか。

僕は大学や専門学校で「デザイン概論」や「デザイン文化論」なる講義を受けもっている。最初は原稿棒読みのひどい講義をした。正直いって最初の数年は手が震えていた。

まともになったと思えるようになったのは、自分の中の知識を洗いざらししゃべらないと学生はついてきてくれないと気づいてからだ。しかし全部しゃべるには、詰め込むにまかせてきたバラバラの知識を整理し体系化する必要がある。

講義のために、1980年代以降デザインの流れをまとめたり、デザインのさまざまなジャンルに通底する「知」について考えた。すると何かが見えてくる──。教えることは学ぶことにほかならない。

デザインがスキル(技巧)だけのものだったら、弟子に「真似ろ、盗め」で済むだろう。しかしデザインとは、ヒトを人間ならしめる「知」であり、人類が生きのびるための「技術」である。「知」や「テクノロジー」は体系化される必要がある。「真似ろ、盗め」だけでは、次の世代に伝えられない。体系化する近道は教えることだ。

教えることは学びの最終ステージである。会社を退職して初めて油絵を学んだり、陶芸を始めて、さまざま自分の新しい可能性に気づくことはあるだろう。しかし初歩に還るのでなく、今までの経験とノウハウを体系化し言語化し人に伝えることができれば、それこそ学びの最終段階である。過去を断絶させず、より豊かなものにすること──それが幸せと認識したときに「教えたいニーズ」は起ちあがる。

教えたいというニーズは掘り起こして、今までにないデザイン学校をつくりたいと思っている。各講座は独立採算性。お金を払っても教えたいという人が必ずいる。たくさんいる。

僕の夢みる学校は、独立採算制で教えたい人に教室とアトリエを提供するだけではなく、「教えることをデザインする」という意識を分かちあえる人たちと新しい教える仕組みを考えていきたい。目指すはボトムアップ式の、自律分散・並列協調型の学校だ。いろんなところで講師をやりながら、教える側が「ありがとう」と学生に言える関係を実践したいといつも思っている。そして教室という場にも一礼する。教える側と学ぶ側がお互いにリスペクトし、そうした関係をつくってくれた「場」にも感謝する──それが僕の理想の学校。まずは場所探しからやらなくちゃって思っている。

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『デザインの現場』(美術出版社)2007年6月号連載「コトバのミカタ」第一回原稿を加筆。最近このことをあちこちでよくしゃべる機会でここにのっけてみました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-09-25 01:14 | お気に入りの過去記事 | Comments(4)
 
最近心がけていること。ビジョンとディテール
人より遠くを見ること。人より細かく見ること。ビジョンとディテール。何か新しいものを作ろうと思ったらこのことが必須だと思います。これがないと人はついてきてくれません。お金と権力があれば別でしょうけど、そうしたものとは無縁なもので。

遠くだけ見てディテールが見えてない人と仕事すると、スタッフは尻ぬぐいばかりになる。ディテールだけ見ててビジョンがない人と仕事をすると、何のため仕事をしているか分からなくなります。

だから無理をしてでも、遠くを見る、細部にこだわる。ビジョンとディテールの両立はリーダーの資質──僕の経験則です。

もうひとつの経験則として最近心がけていることは、人に居場所を作ってあげること。

人を見切ることを安易にやると、眠っている才能を見出せなくなります。居場所と責任が人を育てます。人は切るのは簡単、活かすのは至難。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-07-06 18:29 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
 
ロバスト家電
洞爺湖サミットのせいで、都心の繁華街や駅や新幹線に警官がいっぱい、メディアはエコエコ大合唱。

クリーンエネルギーの推進やサスティナブルな社会のあり方を考える良い機会になっていると思いますが、政府の号令ひとつで同じ歌を大合唱しだす日本社会の体質には、地球温暖化以上の危険を感じます。

とはいっても、僕も最近エコ関係の取材がけっこうやってます。編集者としては「時流に乗れるときには思いっきり乗ってしまえ」という魂がうずきます。ジャーナリストとしては大合唱に参加することへの危うさを感じます。ま、相剋とか葛藤というほど思い悩んでいるわけではないのですが。やっぱり僕の中では、編集者としての職業意識のほうが強いからかもしれません。

で、この際だから、日頃思っていたエコの話をひとつ書きます。

重電部門を持つ総合電器メーカーの洗濯機は壊れてはいけない。

原子力発電のタービンや制御システムを作っている会社が製造している家庭用洗濯機が、10年で壊れてしまうことはあってはならない。毎日洗濯している家庭でもモーターが回っているのは一日1時間くらい。特別過酷な環境下で24時間フル稼働しているわけじゃないのですから。

屋外で使用しているならいざ知らず、屋内の安定した環境で、週に7〜10時間稼働するモーター製品は、少なくとも50年はもつべきです。うちのはもうキャリア20年のベテランですが、外蓋のプラスチックが劣化してボロボロです。

20年使い込むと味が出てくるくらいの洗濯機はないものでしょうか。材料が劣化するとかヒンジが壊れるとか、スイッチやボタンといった物理的な故障の回避に細心の注意を払った設計をして、流行り廃りの激しい○○機能といった○○洗いといった特殊なプログラムを組み込まず、ロバスト性(頑強さ)を高める方向の製品づくりをすれば、ロングライフな洗濯機は可能なはずです。

原子力発電の開発で培った低コスト・高ロバストの技術を家電製品にも活かしてほしい。それこそエコロジーだし、サスティナブルデザインだし、地球温暖化防止対策だと思います。

日立や東芝や三菱電機といった重電部門を持つ総合電機メーカーは、松下やシャープとは違うビジネスモデルで、家電製品の開発にあたってほしい。日本のエネルギー産業を支えている会社だからこそ実現できるロングライフ家電があるはずです。頑強な家電ということで、ロバスト家電ってネーミングもいいかもしれません。

現在の家庭はモーターがいっぱいです。CDやDVDプレイヤーのディスクを動かすモーターにトレイを動かすモーター、ミキサーやフードプロセッサー、ドライヤーやヒゲ剃り、さらにはウォシュレットのノズルにもモーターが使われています。

なかでも洗濯機、冷蔵庫、掃除機、エアコンは家庭4大モーター製品といえるでしょう。24時間稼働の冷蔵庫や、夏はどうしても長時間稼働となるエアコンは、今後の技術開発でさらに消費電力を下げて、買い換えたほうが省エネにつながることはあるでしょう。しかし洗濯機や掃除機は使う時間が限られているので、長持ちすることがサスティナブルにつながる商品です。こうした製品は「ロバスト家電」として売り出してもらいたいです。「うちのモーターは100年壊れない」と言い切って──。

もちろんエアコンも冷蔵庫も、重電部門をもつメーカーならではのブランディング戦略の一環として、ロバスト家電化してほしい。高度な技術力でロングライフデザインを実現し、サスティナブルな社会に貢献する企業ということで、確実にブランドイメージは上がるはずです。

すべての家電をみんな10年くらいで買い換えさせるビジネスモデルはそろそろ終わりにしてもらいたいです。5年で買い換えさせる製品もあれば、50年買い換え製品もあるといった柔軟なラインナップを考えるべきだと思います。

「わが家の洗濯機5年で壊れたし、冷蔵庫は3年でいかれちゃったんだけど、あの原発のタービン作ってるメーカーの製品なんだよな」って会話がないように。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-07-06 11:23 | お気に入りの過去記事 | Comments(5)
 
サルでもわかるデザイン
デザインとは「わかる」とか「わからない」というレベルで語るべきものなのでしょうか。わかりやすくデザインを語るという人がいたら、ちょっと気をつけた方がいいと思っています。(僕もそんな仕事をたくさんしてきたわけですが、だからこそ……)

みんながわかること、それは善いこと。易しいことは優しいこと。「わかりやすさ」願望の背後には、常に教育的な道徳観が見え隠れしています。「わかる=いいこと」「わからない=よくないこと」であり、「わかる子=よい子」「わからない子=悪い子」です。「わかる」という言葉は、私はよい子でありたいという強迫観念を刺激します。

やさしく巧みな語りができる人なら、何となくわかった気分になった「よい子」をたくさん増やすことができます。「わかる人」が生まれるということは、「わからない人」が生まれるということです。まだ、わかりやすい話の啓蒙を受けていない人は、すべて「わからない人」となるわけです。

「わかる」か「わからない」かという線引きをすることで、「わかる人」という仲間意識と、「わからない人」という外部を発生させるのです。よい子どうしの仲間意識は強烈です。顧客になります。ファンになります。信者になります。

「5分でわかる」とか「わかりやすい」という言葉を導入する意味はここにあるのです。この仕組みは宗教の布教と同じです。本来、神や信仰や祈りは、わかる、わからないとは別次元のものなのに、布教する人はわかりやすく神の奇蹟や仏の世界を語ります。

わかりやすさのこの仕組みの危うさに気づいた人による、自己パロディ的な表現が「サルでもわかる」です。たとえば竹熊健太郎さんの『サルでも描けるまんが教室』とか。よい子のみんなはお猿さんと語って、わかること・できることで優越感を持たせて仲間意識を育てる仕組みを皮肉っているのです。

だから有名デザイナーによるプロダクトを売るショップに集まる人たちや企業のプランナーを相手に堂々と「サルでもわかるデザイン」を語る人がいたら、その人は本物です、きっと。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-06-25 09:44 | お気に入りの過去記事 | Comments(7)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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