藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
カテゴリ:お気に入りの過去記事( 51 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
らしさとそのもの自体
「らしさ」と「そのもの自体」を目指すことは全く別なことである。

「そのもの自体」とは、機能と主題を超えて、ものの存在自体を表現すること。20世紀以降のアートにその典型が見られる。キリスト教やギリシャ神話の主題を描くとか、美しい風景や依頼主の肖像を描くとか「主題」を描くことをやめれば、キャンバスに描かれるものは抽象へ向かい、描くという行為の身体性や、マチエールなどの絵画の物質性がクローズアップされ、絵画が絵画そのものとして評価されるようになる。

主題がないとは、絵画の持っている「意味」が、歴史的なコンテクストや日常的に私たちが縛られている肉体的制約や思考の枠組みや社会的制度から切り離されることである。「この絵画そのものを見よ」となるので、「わかりにくい」という反応が多くなる。

ドナルド・ジャッドの箱は、主題もないし、もちろん箱としての機能もない。ただ「もの」であるだけ。それまで「もの」を縛っていた意味から解放され、「もの自体」が顕わになる。制度や意味体系から自由になることで「もの」が孤立するわけではない。自律する。そして声を発する。声はつながりを生む。純粋芸術だけの意味体系への参加表明の声ではない。真に自律した声を持つアートは、芸術のための芸術を超え、芸術以外の何かとつながり始める。ジャッドの場合は、作品が設置場所と直接つながる。それがジャッドの言う「サイトスペシフィック」(敷地固有)と呼ばれる状態なのだろう。
d0039955_13235123.jpg
ドナルド・ジャッドの作品@元陸軍格納庫@テキサス州マーファ。
作家自身設置した、ここでしか見られないサイトスペシフィック作品。
Photo by Erimi Fujihara


「そのもの自体」をえぐり出し、ものの見方を決めていた見えない制度を暴き出し、政治や社会へ強いメッセージを放つアーティストもいれば、ナイーブでかよわく、人の眼にさらすと消えてしまいそうな「そのもの自体」を感じ取る力を他人と共有するために制作を続けるアーティストもいる。

人に見えないものが見える人。見えないものを見続けるためにはつくり続けないといけない。だからアートが止められない。現代のアーティストってそんな人たちが多いと思う。

一方、「らしさ」を目指すことは、見えない制度を直感的に感じ取ったり可視化して「おやっ?」と思うためのものでなく、見えない制度を不可視のままに強化するものだ。女らしさ、男らしさ、長男らしさ、高校生らしさ、管理職らしさ、日本人らしさとか……「男らしさ」が足りない、アナタには「アナタらしさ」が足りないと言われると自分が悪いだと思ってしまう。素直と言われる人は、「らしさ」の背後に存在する「制度」の是非を問うことはない。

最近、流行の「自分らしさ」願望は、「自分らしい私をみんなに認めてもらいたい」「社会が求める私でありたい」「自分の居場所を社会の中に見つけた」という願望であって、決して「自分らしく生きるためならば、社会と決別してもいい」といった、アウトサイダーへの覚悟に充ちた思いではない。オンリーワン願望が孤独を求めるものでないのと同じである。

「らしさ」づくりをカタチやイメージの上で担ってきたのは、デザイナーである。高級車らしいスタイリング、地球環境問題を考える企業らしいクリーンでグリーンなパッケージ、老舗らしい風格ある店構え、リゾートらしいリゾート、アバンギャルドらしいアバンギャルドなどなど。

「椅子、そのもの自体」と「椅子らしさ」は違うものだ。もちろん前者を考えたデザイナーもいる。

椅子とは何かを考え、機能は? 工法は? 椅子のあり方自体を追求する──道具の原形にまで迫ったから、バウハウスの仕事は今もデザインの原点なのだ。

バウハウス以降も、道具やそれを使う行為、素材や機能や色彩の根源的な意味を問うデザインは、デザイン史の真ん中で、細いながらも力強い流れとなって続いている。大量生産システムという中に身を置くからこそ見えてくる「もの」そのもの自体がある。ソットサスのカールトン。倉俣史朗のミス・ブランチ。三宅一生の一枚の布やA-POC……。棚であって棚でなく、椅子であってもその透明さを守るためには座れない椅子で、服とは一体何かと考えさせる服である。カスティリオーニやムナーリもイームズも道具や行為の根源を見つめて仕事をしていた。最近の例では、深澤直人の行為と無意識の関係に迫る仕事や、吉岡徳仁の素材へのアプローチもこの流れの中にある。「そのもの自体」を見つめている人は、求められれば「らしさ」を表出することも、「らしさ」を巧妙にひっくり返すこともお得意である。

徹底的に「らしさ」を追い求めることで偉大な足跡を残したデザイナーもいる。その代表格はレーモンド・ローウィだろう。彼は「機関車とは何か」「タバコのパッケージとは何か」といった問いを探求したデザイナーではなかった。その有名なデザインポリシー「MAYA」(Most Advanced Yet Acceptable:最も進んだものだけれども、受け入れられる)に示されるように、ローウィは最先端の「らしさ」を求めたデザイナーだった。ちょっと先行く「流線型の機関車らしさ」「タバコらしさ」を、生産や販売の仕組みまで考えながらつくり出すのが抜群にうまい。その点で彼は天性のデザイナーであった。

「らしさ」のデザインは、スタイリングデザインではない。「らしさ」を目指すか「そのもの自体」かは、外観だけのデザインか、仕組みからのデザインか、といった問題ではない。時代の先を行く「らしさ」をデザインするには、ものが生まれる仕組みからデザインしなければならない。(※注1)

「らしさ」のデザインとは、社会的に張り巡らせた見えない制度や思考の枠組みを懐疑し、自律した思考を促すことを目的にしたものでなく、逆に制度や既存の枠組みを積極的に生かしてものをつくるという制作者の「姿勢」である。姿勢が「そのもの自体」に向いているか、「らしさ」に向いているか。こう切り分けると、現代アートと親和性の高いデザインと、そうでないデザインとの違いが見えてくる。

「らしさ」と「そのもの自体」、どちらが上とか、どちらであるべき、という論議は不毛だ。どちらも社会に必要なものだ。アートの世界だって、日本画らしい日本画で生計を立てている画家や、最高に評価された「あの時の自分らしい」作品を一生再生産し続けるアーティストはあまたいる。

混同されるのが一番の問題なのだ。

近頃シンプルなデザインが増えている。冷蔵庫らしい冷蔵庫、テーブルの原形、ミニマルモダンと形容された住宅……。それが「らしさ」のデザインなのか、「そのもの自体」にまで迫るデザインなのか、きちんと見極める必要がある。


***********************

(※注1) 逆に外観だけで「もの自体」に迫るアプローチもありえる。80年代ポストモダンデザインは表層操作の手法によって現代文化の見えない構造を可視化しようと試みたが、最後は表層操作と悪ふざけの区別がつかなくなり、様式化し、挫折した。しかしその方法論自体が否定されたわけではない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-03-21 11:10 | お気に入りの過去記事 | Comments(6)
 
後付けニーズ、偽装ニーズ
最近激しく感じること。世の中でニーズと呼ばれているものの大半は、作り手・売り手のニーズでできている。

実は作り手のニーズで作られたものなのに、お客様のニーズや住民のニーズから生まれたとされているものが、この世にかなりあるんじゃないか。

地上デジタル放送は誰のニーズなのだろうか。コンパクトデジカメの1200万画素は顧客のニーズなのか。エコ出張は乗客のニーズだろうか。ニーズがあるから中国産にせざるを得ないというのは、あなたの会社が生き残るために「せざるを得ない」ニーズではないのか。「ニーズの創造」とか「ニーズの発見」と口当たりいい言葉で偽装して、受け手のニーズが後付けされていやしないだろうか。

そこにちゃんと顧客のニーズがそこに存在していれば、「実はあなたの会社のニーズでしょ」ってこと自体が悪いわけではない。商品は、作る側・売る側のニーズと買う側・使う側のニーズの両方がバランスよく並び立った状態から生まれるのが理想だからだ。

優れた企画者は、ユーザーのニーズだけでなく、企業自身のニーズも掘り起こす。松下の斜めドラムの洗濯機は、本当に楽な姿勢で洗濯物を出し入れしたいというニーズから生まれたものでもあるし、高価格帯の洗濯機市場をつくりたいというメーカーのニーズから生まれてきたものだ。

きめ細かい配慮で顧客のニーズをすくい上げ、それを大胆かつ慎重に企業のニーズと一致させることが肝要。斜めドラムの洗濯機や、TOTOの便器ネオレストのような優れた製品は、ユーザーのニーズ本位の製品と開発者が言い切れる「強度」がある。充電池や太陽電池技術で生き残りをかける三洋電機の事情など関係なく、「やっぱりこの地球はおかしな方向に行っているじゃないか、何かしなくては」と思う人にとって、エネループはありがたい製品だ。作り手のニーズと受け手のニーズが発展的な形で融合している。

作り手のニーズは見えにくい。商品が市場に出るときは、企業側のニーズは巧妙に隠される。必ず顧客のニーズ、消費者のニーズ、生活者のニーズだけで生まれてきたように宣伝される。「地域住民のために作りました」と喧伝される道路や橋には、見えないところで政治力学が生むさまざまなニーズが働いている。

最も面倒な事態は、受け手が、作り手のニーズまで自分のニーズだと宣伝などによって信じ込まされてしまうことではない。作り手が自分のニーズを受け手のニーズだと信じてしまう事態である。つまり、作り手が、自分たちの背後に働く複雑な政治力学から目を背け、自分がそうせざるを得なかったことをお客様のため・住民のためと信じ込んでいる場合である。これはたちが悪い。

社内プレゼンに勝つというニーズがあったことは、商品化される頃にはすっかり忘れ去られてしまう。必要は発明の母だし(“Necessity is the mother of invention.”)、ニーズはデザインの母であるが、企業の「必要」は、自分の欲しいものが無かったから発明したという素朴な発明家の「必要」と同じものではない。受け手にそれが見えにくいのはある程度仕方がないことだが、作り手はそのことを自覚していなければならない。

前回の投稿の「わかりやすさ」の話でいえば、「わかりやすさ」というニーズは情報の送り手の勝手に判断したものであることが少なくない。中学生だってジョン・ケージを聞くし、高校生だってフーコーを読む。背伸びするから人は育つ。実は中学生でもわかる「わかりやすさ」は、辞書を引きこともグーグルで検索することもやりたがらない上司に対する「わかりやすさ」だったりする。

こういう些細で特別な悪意のない偽装ニーズが世間に積もり積もっている。最近それを強く思う。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-02-28 12:15 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
わかりやすさ
「答え」を求めるか。「問い」を求めるか。ここには、大きな違いがあります。たとえば、多くの現代美術が難解だといわれるのは、それが「答え」ではなく「問い」だからです。

大方の現代美術作品は、芸術家の高尚な答えを聞いて、頭が良くなったような気分になりたい人には、たいてい失望をもたらします。

芸術はソリューションビジネスではありません。自分の代わりに誰かが出してくれた名解答ではありません。そこにあるのは「問い」です。問いを受けとめることは面倒なことです。答えは自分の頭で考えなければならないのですから。

投げかけられた問いに対する応えは、解決のための答えである必要がありません。問いを感じとり、さらなる問いを世界に投げかけること。必ずしも言葉で答えを考える必要はない。大切なのは、問いの波紋を広げ、共振を起こすこと。

そこにあるのは、わかりやすい/わかりにくいの問題ではありません。伝わるか/伝わらないか。伝わった結果と、行動を起こすか/起こさないか。

優れた芸術に出会えば、すぐ行動したい気持ちになるといった単純なものではありません。行動を引き起こすメカニズムは複雑で繊細です。伝わるためには、受けとめる側の準備も必要です。ある条件が整ったとき、受け手の心の中で何かが発動する。

頭を使わないで「答え」を受けとめ、頭が良くなる気分にさせるのが昨今の「わかりやすさ」。頭を使って「問い」を受けとめ、足を動かし「問い」を広げる行動を促すことが「わかること」。

最適解は問いである。それは優れたデザインでも同じことだと思ってます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-02-28 10:06 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
 
ビジョンの視覚化
ビジョンをビジュアライズする。──と、原稿に書いていて、あれ?この表現おかしい、同語反復みたい、と思いました。しかしよくよく考えると、そうじゃないんです。ビジョンというものは、必ずしも視覚化されたものではない。

たとえば20世紀前半の未来へのビジョンの傑作──トニー・ガルニエの「工業都市」やアントニオ・サンテリアの「新都市」、ル・コルビュジエの「300万人のための現代都市」、ノーマン・ベル・ゲッデスの「フューチュラマ」などは、ドローイングやジオラマという「見るメディア」として多くの人を刺激し、彼らの未来へ見方を変えました。

しかし今、未来はどんどん視覚化しにくいものになっています。フューチュラマは1939-40年のNY万博のGM館で展示されたハイウェイ網が整備された20年後(1960年)の未来のジオラマです。けれど、今から20年後の2028年のフューチュラマを製作するのは難しい。というか、つくっても意味がない。絵空事の便利で快適な未来生活を描いても、「環境問題どうするの?」「アフリカの貧困は放っておくわけ?」「それがホントに豊かなの?」「進歩だけを描いたユートピアは19世紀や20世紀の産物だよ」といった問いや批判が必ず発せられます。

笑顔の未来はトリミングされた未来です。トリミングされたものの中に、苦痛に顔をゆがめる人々が写っているのです。未来は多元化しています。数枚の絵に描ける未来など、とうてい信用できるものではありません。

しかし、ビジョンが失われたわけではありません。今も昔もその必要性は変わっていません。未来への展望があるから、万能細胞や燃料電池などの技術が進歩していきます。「未来はきっとよくなる」という信念なければ、科学も技術も発展しないのです。インターネットや携帯電話のように、私たちの暮らしを劇的に変化させるテクノロジーが今後も現れてくるでしょう。

20年前の1988年、ネットやケータイを欠かすことのできない生活をビジュアライズした人は存在しませんでした。しかし地球規模のネットワーク社会は、マーシャル・マクルーハンがすでに1960年代グローバルビレッジという考え方の中で予見していました。ウィリアム・ギブソンは1984年の小説『ニューロマンサー』においてネットに没入する人間の姿を描きました。ビジョンはすでにあったのです。(そうした動向をいちはやく視覚化したのは、デザイナーでも建築家でもなく、攻殻機動隊などアニメやマンガでした。)

グローバル化が進む中、未来のビジョンが一元化することは、世界が何者かによって支配されるということと同義です。ひとつの未来をみなが信じることがみなを幸せにすると信じられていた時代には、ビジョンは単純に視覚化は絵やジオラマや映画にまとめることができました。しかし、一点透視の予想図を全員で共有するだけでは、未来は切り開けなくなっています。

各地域の経済や文化を背景にした、自律分散型の未来が求められています。そしてそれらが協調して働き、環境問題や貧困の問題、エネルギーの問題に取り組んでいかねければなりません。

自律する者どうしが協調するには、互いのリソースを出来る限り公開し、議論を積み重ね、問題意識を共有し、ともにビジョンを構築していく姿勢が必要です。姿勢だけではなく、その姿勢を促す仕組みが必要です。

言語、映像、音、身体表現などを駆使し、見えないものを触知できるものに変え、多点透視の未来を描き出す能力。それが21世紀のビジョナリーに求められる資質だと思います。さらに加えて、その多点透視のビジョンをつくるために、才能あるビジョナリーどうしがコラボレーションし、直観とリソースを自発的に交換しながら、ビジョンを構築する仕組みまで構築すること──それが未来提案者の最重要課題になるでしょう。もちろんデザイナーだけの仕事ではありません。しかしデザイナーという職能が、この複雑なタスクで大きな役割を果たせることは間違いありません。

"""""""""""""""""""""""""""""

本日(25日)AXISギャラリーのフィリップスデザイン展のオープニングレセプション前に行われた非公開のセッションの司会をしました。そのセッションのために事前に書いたメモ(結局、会場でこんな話はしませんでしたが)を整理してアップしました。

展覧会は2020年(トゥウェンティ・トゥウェンティ)を「スキン」というキーワードで予測した興味深いものです。説明してもらわないとわからないものがあるので、会期中毎日5時から行われるプレゼンを見たほうがいいでしょう。皮膚をディスプレイ化する提案「エレクトロニック・タトゥー」を体験するだけでも、行く価値があります。

その後、21_21の目玉展のオープニングへ。正直あまり期待をしてなかったのですが、面白かったです。世界各国のクリエイターの虹彩の写真が圧巻。吉岡徳仁さんがヤマギワとともに開発した照明「Tear Drop」がとてもいい。「ToFU」とセットで欲しくなりました。

************
ベル・ゲッデスのフューチュラマの様子を伝える映像「To New Horizons」(1940年/23分)がネットにありました! フィリップスのデザイナーは、未来予測をHorizon1( 1〜2年後)、Horizon2(3〜5年後)、Horizon3(15年後/数字はうろ覚え)と三段階で考えていると言ってましたが、ネーミングはベル・ゲッデスのHorizonにかけているでしょうね、きっと。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-01-25 14:28 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
グレースフル・デグラデーション
『AXIS』の最新号が届きました。連載「未来技術報告」で、産総研の合体変形ロボット「M-TRAN」について書いています。このプロジェクトのリーダーの黒河治久さんに、「グレースフル・デグラデーション」(グレースフル・デグレデーション/graceful degradation)という素敵な言葉を教わりました。

直訳すると優美な減衰とか優雅な劣化という意味です。性能劣化が余儀なくされた場合でも、その劣化を出来るかぎり緩やかにとどめ、全体のシステムへの影響を最低限に抑えることです。何らかの故障や誤操作があってもシステムが正しく運行され、故障自体を修復してしまう自律分散並列システムをつくりだす「フェール・セーフ」や「フォールト・トレランス」の研究から生まれた言葉です。冗長性(リダンダンシー)やロバストネスにも深く関連します。

その話を聞いて、あっサッカーでもあるなと思いました。退場者を出したときとか、後半選手が疲れて動けなくなったときに、監督が選手を交代させてシステムを変更する。ベンゲル監督とか上手いですよね。

ネットで調べると「グレースフル・デグラデーション」はWebデザインの世界でも使われるようです。古い性能の低いブラウザでもコンテンツを表示できるようにすること。適切な低均化と訳すようです。Flashがないと見られません、なんていうサイトは、確かにグレースフルじゃありません。

サッカーのことが頭にあったので、elegant = graceful だと思ってました。1人退場者を出しても機能するのがエレガントなサッカーだとか。でも、金沢美術工芸大学の横川
教授にその話をすると、graceには恩寵という意味があって、elegantの優雅さとは違うという指摘を受けました。エレガントは科学的精密さと理論としての簡潔さ&明快さを併せ持つものに使われますが、グレースは神から授けられた恵みです。前者は能動的で後者は受動的です。

つまり、故障も誤動作も昔のブラウザで閲覧するユーザーも、審判のレッドカードの判定も神から恩寵として受け入れるというニュアンスが「グレースフル・デグラデーション」という言葉にはあるのです。


日本では高齢化社会が進展し社会が膠着化しつつあります。世界的に見れば地球温暖化や中国・インドの急成長、人口爆発などで環境が激変しつつあります。iPS細胞に代表されるように、科学技術はこれからも進歩し続けるでしょう。発展する国家もあるでしょう。しかし一方で、私たちは社会や環境の「劣化」を受け入れていかなければならない時代に来ています。その劣化を恩寵(グレース)として真っ向から受けとめる力が、いま人類に問われています。

劣化や減衰などと言うと、ネガティブな感じがしますが、そこに「graceful」とつける。ここに逆転の発想があります。衰えることが恩恵であるという発想に、私は21世紀を感じます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-12-30 18:21 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
書く仕事
忙しいので、昨日の夕食中の会話を書きます。
最近、原稿書きが進まず、悩んでました。
書くの遅すぎだし、ライター仕事を減らそうかな、とか。
妻にボソッと弱音を吐きました。
「もう書く仕事やめようかな」
「えっなんか、言えないことがあったの」
「うんだから、書く仕事は限界かな」
「何よ、早く言いなさいよ」
「だから書く仕事を……」
「隠し事って何よ。コンピュータの中のエロ画像とか」
「カクシゴト……」

最後まで噛み合わず、悩んでるのがバカバカしくなりました。
さあ原稿書こうっと。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-11-26 14:22 | お気に入りの過去記事 | Comments(5)
 
地球温暖化について
アル・ゴアがノーベル平和賞を受賞しました。

『デザインの現場』8月号の、僕の小さな連載で「サステナブルデザイン」に関するコラムを書きました。800字という枠では、とても書ききれないことがありました。地球温暖化とは何が問題なのかという話の詳細です。ゴアのニュースを見て、書きたくなった。で、記事を大幅に改変してアップします。

***************

アル・ゴアの映画「不都合な真実」はよく出来た映画です。映画館を出ると、地球温暖化は深刻の問題だ、出来ることからなんとかしなくちゃ、と思うようになります。しかしこの問題をよく考えると、いったい何が危機に晒されているか、という問題に突き当たります。危機に瀕しているのは、地球なのか、生命なのか、人類なのか、現代世界の政治経済システムなのか。リチャード・フォーティ著の『生命40億年全史』を読むと、 気候変動は、46億年前の地球創成以来の日常茶飯事で、生命は寒冷化や温暖化の繰り返しの中で、しぶとく生き残ってきたことがよく分かります。

このまま現在の温暖化が続けば、砂漠化が進み、島が水没し、多くの人たちが生活の場を失うことになるでしょう。しかし人類はごく最近まで、今まで住んでいた土地に暮らせなくなると移住をしました。宗教的迫害や、土地が痩せたり天災に遭ったりといったさまざまな事情があったはずです。つい100年前でさえ、アメリカへ向けて多くの移民が海を渡ったのです。

もちろん移住には苦難が付きものだったでしょう。命を落とした人も多かったでしょう。闘いもあったでしょう。しかし、安住の地を自分たちの力で見つける権利がありました。

しかし、それが今できなくなっている。今まで暮らしていた土地を離れ、国境を越えようとする人たちは「難民」や「不法移民」のレッテルが貼られます。

現在の国境は、ふたつの異なる政治体制の境界を意味するだけではないのです。経済格差の境界線でもあります。富める国は、国境を越えて、貧しい国の人々が永住の地を求めて自国に流れ込んでくるのを極力避けようとしています。歓迎されるのは莫大な税金を支払うことのできる者たちだけです。

海外旅行がかなり自由にできるようになったので、私たちには移動の自由があると勘違いしがちです。実際には、何人たりとも国家の許可がない限り、国境を越えることはできません。EUにしても、富める国どうしがさらなる富を求めて国家どうしで契約して、移動の自由を保障しているにすぎません。

国境は柔軟さを失いつつあります。かつて国境は国家にとって辺境の地にあり、そこには、首都で権力を握る人々と違う民族が暮らしていることも多くあります。国境を挟んで同じ民族が暮らしていることもある。

しかし国境が厳格に管理されるようになると、人々の往来もままならなくなり、辺境の民族たちは分断される。そこで辺境の民族は、自分たちの新しい国家を求めて独立運動を興す。既存の国家はそれをテロと呼んで弾圧しようとする……。

地球温暖化の中心的な問題は、柔軟さを失った国境に囲われた近代国家が、気候変動に対して機能不全を起こしつつあることです。自由主義経済が地球規模に広がりグローバリゼーションが進めば進むほど、各国家は軍事力を増強させています。

自由な経済活動は世界中の人々の欲望を解放すると同時に、世界中の人々を際限なく富のあるところに富を集中させるシステムの中に組み入れてしまいます。経済強者が自由に国境を越えて活動するためには、欲望を解放された貧困層が自由に国境を越えたり、情報化された辺境の民が自由と独立を求めることに対して歯止めをかけて、システムを安定化させなければなりません。そのために軍事力が強化され、国境はますます強化されています。

地球温暖化は国境を不安定化させる重大な危険因子ですが、テロや独立運動のように軍事力や暴力で抑制することができません。ならば、どうやって国境を守るのか? こうした視点から見ると、地球温暖化はきわめて複雑な政治問題なのです。浮かび上がってくる本質的な問題は、経済成長のサステナビリティ(持続可能性)の背後にある、国境のサステナビリティ、近代国家のサステナビリティなのです。

テロリストたちだけが、アメリカの軍事的覇権を背景に全世界的に広まった自由主義経済(市場主義経済)を脅かすものではない。だから政治家ゴアが生涯を賭けて、地球温暖化問題に取り組んでいるのです。

アメリカをはじめ自由主義経済の恩恵を独占している国家が困るのは、気候変動によって国境が不安定なものとなり、民族が移動を始めて、「自由」が抑制不能のものとなり、グローバリズムと民族主義国家の危ういバランスを保っている世界のシステムが崩壊してしまうことなのです。

繰り返します。地球温暖化問題は政治問題です。危機に瀕しているのは、地球ではなく、国家です。急激な気候変動が起こると、近代国家のシステムではその被害に遭う人たちを救うことができず、現在、自由主義経済システムと危ういバランスを保ちながら、曲がりなりにも安定している世界の政治システムを揺るがしてしまうことになりかねないのです。

しかし映画「不都合な真実」は、地球や人類の危機といった抽象的な不安に言い換えて、近代国家の機能不全という本当の不都合な真実から、衆人の目をそらしている面があるように思います。それがあの映画の口当たりの良さとなっている。ゴアは政治家ですから──しかも世界の覇権を握る国家の大統領にもう少しで手の届いた人物ですから──、本当の不都合な真実を語るわけがありません。

同じような口当たりの良さは「サステナブルデザイン」という言葉にも感じます。誰にとってのサステナブルなのか。持続可能の経済成長の恩恵を受けるのは誰なのかを議論しないで、この言葉を喧伝する人たちは胡散臭い。

議論なきサステナブルデザインは、近代国家のあり方を問う根本的な政治問題を、「もっと皆さん地球のことを考えましょう」という善意の問題に巧みにすり替えてしまいます。企業や個人の自覚と努力と工夫で地球温暖化は抑えられる。やらないアナタが悪い。さあ、実行実行と──。「地球のためにできること」といったほうが「国家のためにできること」というよりも断然口当たりがいいわけです。

誤解しないでいただきたいのですが、僕は、地球温暖化の防止のために何もしないでいい、なんてことは思っていません。CO2排出削減は急務と考えます。急激な温暖化は一人ひとりの生活者が、企業が、地域コミュニティが、国家が知恵を出し合い、行動を起こすことで、抑えていかなければならない問題です。僕も電気をこまめに切ることやゴミを減らすことから努力していきたいし。

しかし、問題の本質を明らかにせず、不安を掻き立て、人々の善意でこの問題を解決しようとする動きには、抵抗を感じるのです。一般の人々が、国家のあり方に疑念を呈してもらっては困るからといって、「地球のために」と善意を呼びかけ対症療法だけ行っても、地球温暖化問題は解決しないでしょう。世界の政治システムの機能不全を論議しないサステナビリティは、問題の先送りでしかありません。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-10-14 18:22 | お気に入りの過去記事 | Comments(6)
 
未来でもない、過去でもない
d0039955_12154635.jpg
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」を観た。とても仲良かったけど、卒業以来ぜんぜん連絡を取ってなかった友人に、久びさ会う感じがした。気恥ずかしい。とりあえずお互いあんまりしゃべらない。相手の様子を見て、変わったなとか、変わってないなとか。成長したなとか、声、昔のまんまだなとか。で、そのうちいろいろ思い出して熱くなる。

気恥ずかしいから、画面の隅の方ばかり見てました。シンジは12年前のままDATで音楽聴いてましたね。第3新東京市の建築は、可動式の未来の建築ですが、日用品のデザインは未来のものではありませんでした。ネルフのセキュリティゲートも磁気カード式だし、ケータイより緑の公衆電話のほうが目立っています。ケータイはシンジが圏外だと冒頭で言っていました。ミサトも持っていたけどほとんど使わない。電車の中でもケータイしている人はいなかったし。ケータイは映画制作者にとって使いにくい小道具です。あまりにデザインの移り変わりが速くて、時代を特定してしまいます。第1作で最先端の機種を出しても、4部作の最後の作品の頃にはえらく古めかしいデザインになっている可能性がありますから、出来るだけ登場させないという選択はありですね。

中学生は全員ノートパソコンを使って授業をしているけど、そのパソコンは5年くらい前のデザインの筐体でした。厚いし液晶画面も小さい。クルマは、ミサトのルノー・アルピーヌA310以外、車種を特定できないような描き方をしていました。街中のクルマは時代を感じさせてしまいますからね。ただ一瞬、街角に並ぶクルマの中に、オレンジ色のマーチを確認。ローソンやUCCみたいに、日産ルノーもスポンサーなのかな。相田くんはHDビデオカメラを使ってましたけど、手からはみ出す大きさで、ちょっと前の機種って感じがしました。

プロダクトデザインは「未来」を象徴する小道具ではありませんでした。この映画では、日用品のデザインは、生活感、記憶、既視感、喪失感など人間的なリアリティを感じさせる道具として使われています。

CGは素晴らしい。描画技術は確実に12年前より「未来」です。しかし、エヴァンゲリオンの世界自体が「未来」とは言いがたい。進んでいるのか、進んでいないのか。時が融けています。止まっているのか進んでいるのか、いや逆行しているのか。速いのか遅いのか。エヴァの世界は未来でも過去でもない、もちろん「今」でもありません。しかし、時が融けだしている感覚は、「今」の同時代人が共有する感覚ではないでしょうか。

リメイクですから、多くの観客には既視感があります。庵野さんはその既視感を、真っ直ぐに進まなくなった時の流れを実感させる小道具として、意識的に使っているような気がしました。

かつて20世紀の人々は、時間が未来へまっしぐらに突き進む世界にリアリティを感じていたのですが、どうやらエヴァ以降の世界で、時間へのリアリティの感じ方が変わってきているように思います。未来に向けて同一の速さで進んでいた時間が融けだして、渦巻き歪み加速化し澱む。そこに強いリアリティをある。エヴァ誕生は1995年、阪神淡路大震災やオウム事件の年です。日本では6年早く21世紀が到来したのだと、僕はそう思ってます。

12年の間に、未来へ進んでいた時間のどこかに、巨大ながらんどうができた。映画館の大画面で、ジオフロントの空洞を見て、そんなこと思いました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-10-02 12:05 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
テンセグリティの作り方 How to make a Tensegrity
先週の桑沢の「デザイン概論」集中講義で、学生にテンセグリティを作ってもらいました。
d0039955_21191469.jpg
テンセグリティ (Tensegrity) は、tensional と integrity の造語。引っ張る力と圧縮する力によって均衡を保たれる構造。バックミンスター・フラーの指導を受ける学生だった、ケネス・スネルソンが考案したものです。投げると弾むくらい構造は安定しています。が、輪ゴムを一か所外すと途端にバラバラになります。

いろいろなバリエーションがありますが、今回制作してもらったのは、輪ゴムと木の棒で作る最も単純なものです。エレガントな構造を自分の手で体験してもらうのが制作の目的です。

東急ハンズで買ってきたラワン材とバルサ材の2種類の丸棒で使いましたが、バルサ(6mm径)のほうが加工しやすく、見た目もいいようです。糸鋸を使いました。カッターでは両端に溝を入れるのが難しい。木を切るときに怪我をした学生がいました。軍手を用意すればよかったですね。申し訳ありませんでした。
d0039955_20275029.jpg
この講義のためにKeynoteで作った「テンセグリティのつくり方」をアップします。講義の時は、もっと出来損ないの図解でしたが、学生の反応を参考にして改善しました。
d0039955_2020918.jpg
d0039955_2022145.jpg
棒の長さ11センチというのは目安です。つくりやすい大きさということ。長さ20センチでも可能(輪ゴムの大きさは市販のふつうの大きさで)。溝はしっかり開けましょう。溝が小さいとつくりにくいです。
d0039955_1122675.jpg

下が、今回の講義で制作してもらった学生作品のベスト。両端を黒く塗るひと手間が、デザイナーにとって大切な心がけだと思います。
d0039955_22104016.jpg

【関連リンク】 テンセグリティを考案したケネス・スネルソン(Kenneth Snelson)のウェブサイト
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-09-19 20:31 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
冗長美とデモクラシー
「寛容」こそ民主主義の要だと信じています。

他人の自由や平等を認め、対話を重んじ、共に生きる知恵を育むことは、すべて「寛容」の精神から生まれると思っているからです。

2005年12月の投稿でそんなことを書きました。

冗長美とは、民主主義の美意識です。選挙って、えらく冗長な意志決定システムじゃないですか。死票は多いし、今回の参院選のように、惨敗した党首が政権が居座ることはできるし。

ま、でも、居座れることを許せる柔軟性こそ、民主主義の特長なのでしょう。毎年選挙をやってそのたびに政権が替わっていたら、それもそれで国が危うい。民意は滔々と大河のように流れ、ゆっくりと政治に反映されたほうが公正な国家運営ができるはずです。一時的な激しさに左右されていては、政治がアジテーションや情報操作によって動かされることになりかねない。

即断即決こそ競争に勝ち抜く秘訣なのでしょうが、民主主義は、あえてひじょうに冗長で回りくどい意志決定システムを国家の根幹に置くことで、その公正さを保っています。

私たちは民主主義国家に生きているという側面と、競争社会である資本主義国家に生きているという2つの側面を持っています。競争に勝つためには、中央集権的な高速意志決定システムが必要です。こちらの世界では、民主主義的な選挙や裁判制度のような、判断の遅さや手続きの面倒さは、死活問題となっていきます。

無駄を省いて、スピードを優先し、責任の所在を明確にしていくこと。強きものを目指すため、出来る限り高速に意志決定するシステムの美意識が「機能美」です。

これに対して、デモクラシーのような、あえて冗長のシステムを中心に添えることで、弱者への配慮が行き届いた公正な意志決定を行なうシステムの美学が「冗長美」です。僕はそんな使い分けをしたいと思っています。

機能美は、もとを質せば、弱肉強食の美学などでなく、プロテスタンティズムの倫理観から発した美学です。しかし、今で倫理的側面が失われた、ビジネスの論理が支配したため、機能主義の美学を2つに分けてみるのです。勝つための機能美と、共生するための冗長美と──。

冗長美は寛容の美学です。経済競争ももちろん闘いですが、それ以上に、寛容でありつづけることこそ「闘い」です。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-07-31 15:05 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)


S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。