藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
カテゴリ:お気に入りの過去記事( 51 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
冗長美論・前編
唐突ですが、僕の最近の大きなテーマ「冗長美」に関する論考をアップします。長すぎて字数オーバーになって投稿できないので、2つに分けました。この記事の下に、後編があります。

冗長美論
冗長系のデザインにおける新しい美学
Aesthetics of Redundant Systems


 実用性を追求し徹底的に無駄を省いたシンプルな形に美が宿るという機能美神話はかなりの部分、幻想にすぎない。耐震構造偽装されたマンションは、震度5の地震で崩壊する危険性があったとしても、そのことはまったく外観に影響を与えていない。免震マンションが頑強に見えるわけでもなく、姉歯秀次元建築士が構造設計したマンションがか細く見えることもない。姉歯元建築士が「だってレス・イズ・モアだから」って語ったら、モダニズムの神様はどんな思いをしただろうか。
「わしゃあそんなつもりでああ言ったんじゃない」。ミース・ファン・デル・ローエならギロリと睨みを利かせて語る。「バルセロナパビリオンやトゥーゲンハット邸に使ってる柱は知っとるか。ピッカピカのクロームメッキの十字柱。あれのどこがレスなんじゃい。ニューヨークのシーグラムビルではスチールより高価なブロンズをマリオン(窓の桟)に使っておる。21世紀風に言えばリダンダンシー。冗長性じゃよ」……なんて。
 冗長性は愚鈍でない。変化に対応するしなやかな適応力である。削ぎ落として冗長性を美しく際立たせる神業がレス・イズ・モアだ。美しい冗長性を機能美だと勘違いしている人たちが多すぎる。
 瀬戸大橋のような巨大な吊り橋は無駄を一切省き、力学的構造が形態に昇華した機能美の典型に見えるが、ふだんは横風や地震による揺れに備えてずいぶん力をもてあまして立っている。
 耐震強度、セキュリティ、ユニバーサルデザイン、さらには環境問題を考えれば、建築は冗長性を持たざるを得ない。だが、放っておけば冗長性と美との関係はかなり薄い。耐震強度を考えず壁は薄く柱は細くし、非常用階段を作らず、車椅子対応のスロープや手摺りは取り付けなければ、美しく見せるための設計はずいぶん楽である。F1マシーンもスペースシャトルも、ドライバーや飛行士の安全や故障したパーツの交換などを考えなければ、もっとエアロダイナミクスの理想形に近いものになるだろう。
 冗長性は建築家やデザイナーが強い意思を持って、それをしなやかな知性として表現しない限り、美とかカッコいいとかカワイイとかそんな美意識とは無関係なものになりがちだ。無駄を無闇に削ぎ落とすのでなく、無駄を整理し無駄の中に存在する知恵を見いだし、その知恵を美しく浮かび上がらせる意思こそ「レス・イズ・モア」なのである。
 フランク・O・ゲーリーのグッゲンハイム美術館ビルバオの、あの壁も屋根もないグネグネ建築がモダニズムの正統であるのは「削ぎ落とされた美しい冗長性」だからに他ならない。サンチャゴ・カラトラバや佐々木睦朗の構造設計は、冗長性を変化に対応する柔らかい知性として表現されているから美しい。

【コンピュータシステムのリダンダンシー】

 冗長性はコンピュータシステムの構築では欠かせない考え方だ。2006年1月18日、ライブドアに対して東京地検特捜部が強制捜査を行った翌日、東京証券取引所では売買が殺到し、システムがダウンする恐れがあると東証が取引の強制終了を行うという異例の事態が発生した。東証のシステムが処理できる最大約定件数は1日450万件。約定件数が400万件を超え、午後2時40分に「全銘柄取引停止」となったのだ。2005年11月1日、東証はバグ修正の際のプログラムミスで取引を半日間全面停止する前代未聞の事件を引き起こしたばかりであった。突発的な取引増加やシステム障害に対応できない東証のコンピュータシステムは、姉歯マンションの並みに冗長性が欠けるといっていい。
 コンピュータシステムでは冗長性を確保する技術が企業の業績や国家の存亡さえも左右する。バックアップをとらなければ貴重な情報資産が失われる。サーバーのダウンはネットでビジネスを行う企業を破綻に追い込むかもしれない。ウィルス対策やサイバーテロ、停電への備えもしなければならない。
 こうした障害に対処しシステムの信頼性を高めるために、複数のハードディスクに分散・並列的な処理を行わせる技術をRAID(レイド)という。Redundant Array of Independent (Inexpensive) Disksの略。独立したディスクの冗長な(Redundant)並列処理。RAIDによって常時自動バックアップ(ミラーリング)したり、システム停止をすることなく故障したドライブを取り替えることが可能になる。航空機や宇宙船の場合、制御系や動力系に何らかの障害を起これば、それが大惨事を引き起こすことになりかねない。メカにトラブルが発生したり、人為的なミスが起こっても、正しくシステムが運行され、場合によっては自己修復を行う技術は、フェール・セーフやフォールト・トレランスといった名で研究開発され、実用化されている。しかし、東証システムの事故が示すとおり、社会インフラを支えるシステムがすべて十分なフェールセーフ技術で守られているかといったらかなり怪しいものである。

【モダンサッカーとロバスト制御】

かつて「機能は死語となる」(『デザインとはどういうものか』デーヴィッド・バイ著 1964年 イギリス)といった指摘があった。しかしその予想は全く外れている。官邸は機能強化され、脳は機能別にマッピングされ、ケータイはワンセグやおサイフ、MP3プレイヤーなど新機能を売りにして販売競争をつづけている。クルマの美しいスタイリングは人の感情を動かす機能を持つとされ、森林や湿地や河川には癒しの機能があるとされる。機能は死語になるどころか、その効力は増し、人々を誘惑しつづけている。最高の機能を引き出す最適化技術を持つ者はヒーローとして扱われる。たとえばサッカーである。
かつてフィールドの中心には、神様や神童、皇帝や将軍、ファンタジスタと呼ばれるプレイヤーがいた。しかしオランダのトータルフットボールに始まる「モダンサッカー」が徐々に世界に浸透して、1990年代初頭には彼をフィールドから追放する。試合を支配するのは監督である。監督の戦術システムを実行できないプレイヤーは、たとえ人並み外れた才能を持っていてもベンチで座っていることになる。モダンサッカーにおいては、芸術的プレーはシステムが機能したとき初めて現れる。ロナウジーニョのような選手であっても、システムとして機能しなければならない。スタジアムでは芸術は機能に従う。モウリーニョやベンゲルといった90分間機能しつづけるシステムを構築し、対戦相手や試合の状況によって最適化する方策を即断する能力を持つ監督へのスポットライトが強まるばかりである。
しかし、監督はプレイヤーを機械の中の歯車のように扱う、固定システムを作るのではない。優れたチームでは、プレイヤーが戦局に応じて自分の判断でポジショニングを変える。退場者を出しても、守備システムは安定的に維持される。監督の役割はプレイヤーに一定の規律を課してコンセンサスを作り、自律分散型システムを安定して維持することにある。プレイヤーは自律して機能しなければならない。神なきフィールドで、私たちは機能する芸術家たちに魅せられる。システムは不確定性の高い未来に対応に対応するため新しい最適化の方法論を必要としている──。これはサッカーに限らず、今私たちの社会のあらゆる場面で求められている。制御工学の世界ならロバスト制御である。
 ロバスト性とは、ゆらぎ(摂動)、外乱、ノイズが生じた時でも、システムが安定的に動作することをいう。ロバストは頑強という意味だ。どんなモデルにも実世界に応用したとき誤差が生じる。ならば誤差があることを初めから想定して制御理論を作り出そうという発想で、ロバスト制御は1980年代初め頃から盛んに研究されるようになった。
 ロボットの設計には、ロバスト性や冗長性が不可欠だ。研究室や工場といった閉じた平板な環境から外に出れば、想定外の障害が現れる。故障の危険性も高まる。自動車のエンジンは一台ひとつで、一個の動力装置で走行するが、通常ロボットは、関節ごとにアクチュエータがつけられ、複数の動力装置を協調させて動作させる。より複雑な動きを実現するには、複数のアクチュエータを抱えて冗長になったシステムをいかにエレガントに協調行動をとらせるかが重要となる。複数のアクチュエータやセンサを持つことはそれだけ障害が生じる確率が増える。その故障へのバックアップも大切な設計の要因となる。冗長性を制するものがロボットを制するといっても過言ではない。プロダクトデザイナーの山中俊治と千葉工大のロボット工学者古田貴之による8輪車ハルキゲニアは、各車輪にモーター(アクチュエータ)が取り付けられていて、それらが分散協調行動をとることで、階段を上ったり、真横に移動したり、今までにない走行を可能にするロボット自動車だ。8つの車輪にモーターをつけること自体は通常のクルマに比べ動力システムとしては冗長であるわけだが、エレガントな冗長さを目指すことで、新種の生物のような街の中で新しい動きをする都市型ビークルを提案しているわけだ。

【冗長性と情調性】

 そもそも機能性やユーザビリティ(使いやすさ)と冗長性は決して相反するものではない。ハンドルの遊びがなければ安全な運転はできない。人間の動きにすべて機械がレスポンスしていたらものすごく運転しづらいクルマができてしまう。冗長であることが機能の一部になっている。
 機械の操作をする場合、原理的には、あるひとつの操作をするのに複数の入力方法があればユーザーは混乱する。リモコンに2つも電源ボタンはいらないが、テレビ本体に電源ボタンがないとリモコンが見当たらない時は困りものだ。ほとんどのパソコンのアプリケーションでは、マウスを使うGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)の操作とショートカットキーを使うキーボード操作の、2つの操作系が用意されている。ユーザーの慣れやスキルに合わせて使い方を選べるようにすることは、使いやすさ(ユーザビリティ)を向上させる。建築が地震や突風などあらゆる状況に対応するように、どんなユーザーがどんな状況でどう使うか予測もつかない使用状況に対応する配慮が必要になってくる。ユニバーサルデザインとはプロダクトのユーザビリティに冗長性を持たせる技術にほかならない。要はその冗長性が認知心理学や人間工学などの知見に沿って、わかりやすく美しく整理されているか否かである。
 意図的に使い勝手を冗長にして、使い方をユーザーに「発見」してもらうことで「共感」を演出するという手法もある。一例を挙げよう。2005年のグッドデザイン・ベスト15に選ばれたNECのウェブサイト「ecotonoha」(エコトノハ)。サイトへのユーザーの書き込みが100件集まると、ユーカリの木が一本、オーストラリア・カンガルー島に植えられる。ユーカリの木は生育が早くCO2の吸収効果が高い。NECがCSR(Corporate Social Responsibility/企業の社会的責任)の一環として進める環境保護活動を、広く世界にPRすることを目的にしたウェブコンテンツである。
 Flash(アニメーション作成ツール)の達人、中村勇吾が手がけたデザインは、決してユーザビリティが優れているわけでない。使い方の説明はない。「なんだろう?」と思ってオープニングの動画を眺めていると、CGの木が訪れた人の書き込んだメッセージによって生長していることがわかってくる。「きっとこの通りにクリックすればいいのかも」と木を2、3度クリックしてみると、なんとなく書き込み方が推察できる。使い方はユーザーが発見しなくてはならないのだ。
 期待感を抱かせ、飽きの来ないうちに使い方の「発見」を誘い、「ならば私も」とメッセージを書き残してもらって、そこに訪れた世界中の人たちと「私も参加した」という場の共有感を分かち合ってもらう。その仕掛けが実にうまい。「謎かけ」→「気づき」→「共有感」というプロセスを短い間に体験してもらうために、冗長性のパラメーターが程よく調整されているのである。必要な情報にできるだけ迅速に辿り着けることが使いやすいことという狭義のユーザビリティだけを追求していたら、こうしたコンテンツは生まれてこない。
 ウェブデザイン同様、プロダクトデザインでも「気づき」の演出は「共感」や「対話」を生み出す重要な手法だ。使ってみて「あっなるほど」と気づくことが、モノとの一段と深いつながり感を生む。モノやそれをつくったデザイナーと対話ができた気分になれる。深澤直人の傘には柄に窪みがある。雨がやんで交差点で立ち止まっているとき、そっと自然に柄の部分にスーパーのビニール袋をかけることのできるように。ティボー・カルマンの傘は開くと内側に青空の絵が描かれている。この空恋しいかもって。
 冗長性は情調性である。これは単なるダジャレではない。エモーショナルな部分が人とモノとのインターフェースの冗長性の中に潜む。そして、さりげなく美しい冗長性は、デザインの世界で遊び心と呼ばれるものにも昇華する。機能性がモチーフなら冗長性は余白。デザイナーはそのどちらもコントロールしなければならない。
 しかし冗長性が情調性に近づくほど、その美しさを表現する言葉は「機能美」から離れていく。ティボー・カルマンの傘を見て、遊び心があって面白いデザインだねと言う人はいても、機能美と形容する人はまずいないだろう。それにいくら心を和ます機能があったとしても。

【最適化テクノロジーとしてのデザイン】

「最適化」は私たちの社会の美徳である。最適化とは、ある制約条件下の中でもっとも機能する解を探し出すこと──。都市の最適化は「開発」「再開発」である。ただし環境問題という制約が年々大きくなる中、スクラップ・アンド・ビルドの開発だけを最適な解とする考え方は変わりつつある。会社の最適化は「リストラ」である。解雇という意味ではなく、組織の再構築という本来の意味でのリストラだ。教育は子どもたちを社会の構成員として最適化し、選挙は権力者のアップデートを繰り返す。コンビニの商品棚はPOSシステムによって常時最適化されつづけ、ケータイも家電も買い替えを迫られ、コンピュータはハードディスクの最適化を実行しなければならない。世の中のあらゆるシステムが最適化を繰り返している。
 デザインは、最適化のテクノロジーのひとつである。モノ、空間、メディアを「システム」として捉え、目的を定め、制約を見出し、最適解を作り出す。制約には、依頼者の要望、予算、納期、購買対象の嗜好、製造法、時代性、社会倫理などさまざまある。当初に定めた目的を実現するために、それらもろもろの制約に優先順位をつけ、システムを構築し、具体的な「形」へまで落とし込む。デザインが他の最適化テクノロジーと違うのは、企業家、技術者、工場従業員、販売店主、エンドユーザーなど誰もが見て触れて色や形の体験を共有できる最終形態まで仕上げる技術まで持っていることだ。最適化が「善」とされる社会においては、最適化の結果生まれた色や形には「美」が宿ると信じられている。その結果、グッドデザインは美的にも優れ、機会均等(ユニバーサルデザイン)で、エコロジカルで、出来ればインタラクティブ(対話重視)、フェイクの外装で構造や材料を覆い隠さず、値段設定も理に適ったものとなる。
 しかし最高は最適に限らない。最高の性能を引き出すことが必ずしも最適な解答にはならないのだ。
 トヨタのラウムとトヨタのF1カーはどちらが機能的か。ユニバーサルデザインを考え、室内空間が広くて乗降しやすいスライドドアの実用的なワゴン車と、レース中のサーキットという限定された時空間の中で最高のパフォーマンスを発揮するように特化されたF1カーは全く対照的な存在だ。ユニバーサルデザインは、カーレーサーのような訓練された特別な人間が、機械や道具に最高のパフォーマンスを発揮させようという発想とは正反対なもので、誰もが簡単に使えるという、人間側の視点に立った最適解を追い求める。従来、右利きの若い健常者だけを使用者として想定したときには、知らず知らずに無駄なものとして削ぎ落としていたものを再検討する。スイッチを大きくしたり、通路を広くとったり、大型ペットボトルにハンドルや窪みをつけたり、適度の冗長がより多くの人が利用しやすい道具や環境を生み出すという発想だ。閉じた系では最高が最適になり、そこに機能美が立ち現れる。顔の見えないユーザーを想定しなければならない開かれた系では最高は最適でなく、そこに立ち現れる美は、無駄を削ぎ落とした緊張関係から生まれる機能美とは、別の言葉を必要としている。
 用の美も閉じた系の美学を表す機能美とは異なるものだ。民藝運動を起こした柳宗悦が唱えた「用の美」は日々の生活で使う実用的な品物の中からにじみ出るとされる美である。茶碗も急須も、お茶を入れる時にその性能を最大限に発揮することなど誰も求めていない。機能性を極めようという作為ではなく、日常から自然に生まれる中庸の使いやすさに美を見出す。最適は有為転変。そこにデザインの多様性が生まれる。

【冗長美という新しい美意識】

 現代のデザイナーに課せられる問題は難題ばかりだ。企業のために収益を上げコストを下げ、ユーザーのために安全で使いやすく、地球環境のためにリサイクルやCO2排出削減を実現する製造法や材料を考える。そうしたおのおの相反する要件を両立させて、最適化を測らねばならない。モノ単体ではなく、製造から使用され廃棄されるまでをモノづくりと捉え、そのシステムを最適化しなければならない。しかも、モノが実際に機能するシステム(つまり使われる状況)を考えるときは、人間の感情や身体といった、システム自体を不安定にさせかねない因子を中心に据えなければならない。
 機能美という言葉は、単体のモノの中に生まれる形と機能の緊張関係を語る表現で、人間を中心に置き、地球環境まで含めた大きな開かれた系の中でのモノづくりを考えるデザインの美学を語るにはふさわしくない。複雑化したシステムを最適化するテクノロジーが進歩すれば、おそらく新しいデザイン美が必要となってくる。筆者はそれを「冗長美」と呼ぶ。デザインにおいて機能美の対となる装飾美から定義してみる。

【装飾美】 システムの最適化とは関係なく施される表層の美。
【機能美】 あらかじめ想定した状況下で、単一のシステムが「最高」に機能するように求めた「解」の中から自ずと立ち現れる美。
【冗長美】 さまざまに変化する状況に対応し、相反するシステムが共存し、それぞれ自律協調しながら、全体が「最適」に機能するように求めた「解」の中から生まれる美。

 冗長美の理想像は、生物や生態系に見ることができる。環境の変化に関わらず、生体の状態が一定に保たれるという恒常性(ホメオスタシス)は生物の一般的な特長のひとつである。生物は、自己修復能力を持ち、自己複製を繰り返す中で多様に変異し、環境適応能力を向上させる。進化の戦略に、無駄を削ぎ落とすという発想はなく、逆に無駄を大量に生むことで、突然変異の機会を増やし、進化を遂げる。多様な生命体が自律的に進化をしながら、食物連鎖などで相互関係を保ち、生態系を作り出している。機械システムをどれだけ生物に近づけるかは、ロボット工学や人工知能の研究のフロンティアである。

下の投稿につづく
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-07-07 19:42 | お気に入りの過去記事
 
冗長美論・後編
【冗長美から考える肉体美の系譜】

 ヒトの身体は冗長に計画されている。脳は東証のコンピュータよりはるかに冗長性に富む。脳卒中などで言語野が損傷し失語症になっても、程度にもよるがリハビリ次第で回復の可能性はある。必須パーツの眼や耳や腕は日常的には並列処理を行い、不慮の事故などで片方が失われても機能するように設計されている。
 筋肉は計画的に鍛えれば大きくなる。トレーニングで筋繊維を破壊し栄養を与えれば4〜5日後には筋繊維は以前より太くなって回復する。この過程を超回復といい、ボディビルダーはこれを利用して筋肉を肥大させる。正しく鍛えれば筋肉は盲目的に大きくなり全く実用とは関係ない肉体ができあがる。およそ肉体美とは生活に役に立つといったことからかけ離れた、機能美と見せかけた冗長美といっていい。
 冗長な肉体など美ではないと思う方がいるなら、システィーナ礼拝堂へ行かれることをお勧めする。ミケランジェロは「最後の審判」がゴールドジムで行われるとでも思っていたのだろうか。無駄な脂肪は削ぎ落とされているが、その分、無駄な筋肉の塊である。特にキリストの腰回りの太さは異常。筋トレを多少かじっている筆者の推察だが、デッドリフト250キロは余裕と思われる。
 約450年後の1980年代、ミケランジェロの絵空事が現実化しはじめた。理想の身体イメージが現実世界で筋肥大する。ブルース・リーのしなやかな肉体美は、アーノルド・シュワルツェネッガーの筋肥大全開の肉体美に取って代わられる。細身のアントニオ猪木はマッチョなホーガンに想定外の失神を喰らわされる。
 肉体の肥大化の背景には、トレーニング技術と栄養学の進展、それに薬物の開発がある。1960〜70年代、薬物は精神の拡張に使われ、ロックスターたちは痩せこけていた。1980年代、薬物は肉体能力拡張のために使われ、ステロイドがスポーツスターたちを生み出していく。しかし金メダルを剥奪されたり早死にしたり……。薬物による精神の覚醒と肉体の拡張は非合法の悪として徹底的に糾弾されることになる。しかし人間の能力拡張の夢が衰えたわけでない。薬物依存は悪だが、外部身体、外部知能、外部知覚、外部記憶への依存は悪と見なされていない。ネットワークが人間の知的能力を拡張させ、サイボーグ技術が肉体的能力を無限大に拡大させつつある。理想の肉体はサイボーグ化しはじめている。
 たとえば「攻殻機動隊」である。主人公、草薙素子は全身サイボーグである。「完全義体化」が意味するところは、彼女はきわめて重度の身体障害者だということである。幼い頃に全身を失い、ゴーストという人格が義体と呼ばれる人工身体を操る。彼女の脳は「電脳化」されている。脳にマイクロマシーンが埋め込まれネットと直接つながる状態となっているのだ。サイボーグ身体を使いこなす技量さえあれば、身障者のほうが五体満足な健常者よりはるかに優れた身体能力やコミュニケーション能力を持つことが可能になる。だから多くの人が進んで義体化したり電脳化をする。「攻殻機動隊」の描き出す世界は、障害と健常を隔てる境界が崩れはじめている21世紀の身体観をくっきりと映し出している。
「すべての人々はなんらかの障害を持っている」。そう語ったのはユニバーサルデザインの提唱者ロナルド・メイスである。1998年彼が急逝する10日前の講演で語ったこの認識は、草薙素子が体現する21世紀的身体と重なり合う。

【能力拡張がもたらすディスアビリティ】

 1990年代ユニバーサルデザインとユビキタスコンピューティングが、ほぼ同時並行で世の中に浸透していったのは単なる偶然ではない。ユビキタスコンピューティング環境とは特に人が意識しなくても一人の人間の周りに複数のコンピュータが存在する環境を指すが、そのことが意味するのは2つの方向性だ。ひとつはジョージ・オーウェルの『1984』型の監視社会。ひとつは街中に埋め込まれネットでつながったセンサやコンピュータを人間が外部知覚、外部記憶、外部知能として利用して人の身体が都市に融け出していく状況だ。
 前者では中央集権的な神経系が個人を呑み込む。後者では人が自発的にネットや都市と融合し、自律するノード(結節点)として多元的世界を支える。実際にはこの2つの方向性が複雑に絡み合いながら、景気さえ良ければみんな幸せという短絡的ビジョンのもと、ユビキタスコンピューティング環境は整備されつつある。ほとんどの人たちは身体の劇的な変容に対して自覚がない。
 身体は輪郭を失いつつある。どこへも行けて何とでもつながる。ユビキタス社会はコンピュータだけでなく人間の遍在ももたらすのだ。グーグルを使えば欲しい情報はすぐ手にはいるし、GPSは目的地までナビゲートしてくれる。
 しかしこうした人間の能力拡張が本当に意味するところは都市やネットや機械への極度の依存であり、生身の人間のディスアビリティの増大である。ケータイがないと友だちづきあいができない。サーバーがダウンするとビジネスにならない。電車が動かないと会社や学校から家へ帰れない。知らぬ間に私たちの身体にはコンセントが付けられているのだ。1か月いや1週間、東京の電気が止まればおそらく私たちは文明人の顔をしていられなくなる。私たちの身体の輪郭は都市や通信インフラによって形づくられており、それらが使えなくなると想像を超えるほど貧弱な身体を晒すことになる。
「能力拡張=ディスアビリティの増大」という流れに嫌悪感を抱く人たちは多いだろう。が、この流れはユビキタス社会以前から──特に産業革命以降ということではなく──人類が文明を形成し都市という外皮や文字という記録システムをつくった時から始まる大きな潮流であって、それを止めようと考えるのは時計の針が逆に回るのを期待するに等しい。こうした嫌悪感は技術の一人歩きを抑制するバランサーとして役割を持っているが、それ以上のものではない。その鈍感さは、ロハスな生き方に幸せを感じる人たちが、雑誌に載っているロハスグッズを買ってヨガしてオーガニック食品を食して、大量生産、大量消費型社会と一線を画していると自負するくらいのものである。肝心なのは現実で何が起こっているかをしっかり見据えることだ。

【サイボーグ研究の現在】

 現在もっとも知られたサイボーグ研究者といえば、イギリスのレディング大学のケヴィン・ウォーウィック教授である。1998年教授は手術で自分の左腕に電波を送信できるRFIDチップを埋め込み、自分自身がサイボーグとなるという実験を行った。チップを通してドアの開閉や自分の位置を知らせるといったことが試みられた。2002年には100本の電極が剣山のように並ぶ極小チップを腕に埋め込み、神経と直接つなぎ、ロボットアームを動かす試みなどを行っている。
 ブレイン・マシーン・インターフェースという研究はアメリカが先行し日本でも行われている。脳に直接電極アレイを差し、思いのままにサイボーグ身体を操ろうとする研究だ。
 脳や神経に直接電極をつなぐインターフェースは外科手術が必要で多くの人が手軽に使えるといったものではない。皮膚の上に電極を張り機械を操作する技術も進んできている。筋電と呼ばれる筋肉の動きに伴う電気信号の変位を読み取って電動義手を操作するというものだ。手を失った人にはかつて切断された腕のイメージが残っている。実際には手がなくも「握る」「開く」とイメージして残った部分の筋肉は動かすことができる。残された腕から筋電を読み取れば義手を思うがまま動かすことが可能になるというわけだ。
 現在の技術では、指で触った触感を操作者にフィードバックして、細かい作業をするといったようなことはできない。しかしネットを通じて複数の義手を同時に遠隔操作することが可能である。神経や脳と直接機械をつなぐインターフェースを駆使する達人たちは、キーボードやマウスでしか操作できない人間より高い能力を持ち得るのだ。頸椎損傷で全身が動かない人であってもだ。もはや健常者が身障者より身体能力が上とは言い切れなくなる。現在自動車メーカーが力を入れて開発しているコンピュータ制御の電気回路で自動車を操作する「バイワイヤー」技術が進めば、車椅子とクルマの境目がなくなるだろう。脳に電極を差し込んだF1ドライバーが登場することだって夢ではない。
 パワードスーツは格段にスマートなものになった。1960年代GEによって開発された「ハーディマン」は建設現場の重機のようであるが、筑波大学の山海研究室が開発した「ロボットスーツHAL」は現在世界でもっとも日常生活の場に近いサイボーグ技術と呼んでもいいだろう。40キロのものを数キロの重さくらいの感覚で持ち上げられるという。

【サイボーグ技術のリダンダンシー】

 ここで問題になるのはサイボーグ技術自体の冗長性である。タフとスマートさは不可欠だ。サイボーグ技術を頼って生存する人間は、バッテリーが止まれば生存の危機にさらされる。2、3の部品が壊れても稼働してくれるパワードスーツでないと安心して装着はできない。転倒して中の人が大けがする強化外骨格では戦闘用には使えない。RAID的な並列化や、耐候・耐衝撃・耐熱といったタフさが信頼をもたらす。が、安心をもたらすのは技術的信頼性だけでない。アフターケアやスタイリングがもたらす心理的効果、さらには製造企業のブランドの信頼感まで関わってくる。
 スマートさとは変化に対応する知性である。使う人の身体的特長や運動能力、筋電などの生体信号を解析し、その人に最適な操作システムを機械がつくりだす。つまり、人間が機械に合わせるのではなく、機械が人間に合わせるという発想だ。
 そうやって学習するサイボーグはいつしか人間並みの知能を持つことになるかもしれない。NTTコミュニケーション基礎科学研究所の前田太郎は「パラサイトヒューマン」というプロジェクトを進めている。まだ多くが基礎技術開発段階だが、その発想の示唆する将来は意味深い。私たちの身体にウェアラブルな寄生型(共生型)の人工知能を装着させようという試みだ。別の意思を持ったもうひとつの感覚系・運動系が、私たちの意図を読み取りながら、協調分散化してタスクをこなす。体に装着した賢い機械が「それをやるのはこうやったほうが効率的」と判断して、ご主人様のプライドを汚さないようにこっそり行動をナビゲーションしてくれる。そんなことが可能になるかもしれない。サイボーグの知能化は、人間の冗長性の究極の拡張といっていい。
 テクノロジーはますます人の身体に近づいてきている。アラン・ケイの言い方を借りればテクノロジーはインティメイトになってきている。インティメイトには「親密な」といった意味の他に「下着のような」という意味がある。他人のケータイを触ったり自分のケータイをいじられるのにある種の気持ち悪さを感じるのは、テクノロジーがインティメイト化した証拠である。それに伴い、ふだんはその存在を意識しないが着ないで暮らすことが気持ち悪い下着のように、テクノロジーは私たちの生活になくてはならないものになっている。移動もコミュニケーションも食事も知的活動もそのほとんどがユビキタスなテクノロジーに頼り切ることになる。身体は拡張すると同時にディスアビリティ化しているのだ。人間の身体の輪郭が喪失しつつあるのである。
インティメイトテクノロジーにおいては、機能性や実用性を追求し無駄を徹底的に削ぎ落とし、「やっぱシンプルな形は美しい」とか「これぞ機能美だ」とか「素材の持ち味を生かすのが一番」と単純に喜ぶ20世紀的デザインが通用しなくなっている。冗長性をいかにデザインするか。冗長は愚鈍にあらず。最適は最高にあらず。情調に通じ遊び心を生み、対話と信頼、安全と安心をもたらす。スマートな冗長美の追求こそ21世紀デザインの新しいフロンティアなのである。


*************
本稿は、以下の二つの原稿をあわせて加筆したものです。
『美術手帖』2006年4月号「身体のリダンダンシーとしてのサイボーグ技術」
『InterCommunication』No.60 Spring 2007 (NTT出版)「冗長美とは何か?──本当のポストモダニズムへ」

*************
【メモ】
・RAIDをいかに機能的に無駄なく作るか。効率のよいバックアップ。冗長性を冗長に作ったもののなかには冗長美は現れない。冗長美は機能美の一種。

・機能美に見せかけた冗長美。G-SHOCKとか。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-07-07 19:38 | お気に入りの過去記事 | Comments(4)
 
ル・コルビュジエ連戦連敗
この前の日曜日(5/27)、パリのル・コルビュジエ財団の理事長ジャン・ピエール・デュポール氏と、同事務局長クロード・プレロレンツォ氏、森美術館の館長南條史生氏による、カッシーナ・イクスシー主催のシンポジウムのモデレーター(進行役)をやりました。お越しいただいた皆様、スタッフの皆様、有り難うございました。今、頼まれている原稿と内容が重なりそうなので、ここでは、その話は書きません。

で、その代わり、2002年『Casa BRUTUS』12月号に寄せた原稿を加筆してアップします。埋もれさせてしまうにはもったいないと前から思っていた原稿です。

僕がコルビュジエのイタコとなって、建築の闘士コルビュジエの戦歴を、負けた話を中心に書いたものです。

長いですけど、面白いと思います。ぜひ読んでみてください。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【ル・コルビュジエ 連戦連敗  itako by Keiichiro Fujisaki 】

アンドーくん、元気かね。1965年君がパリを訪ねてきた時、会うことができなくて残念だったよ。君が私に会うためパリに訪ねてきた数週間前に、南仏カップマルタンの休暇小屋の前の海で、いつものように泳いでいたら、心臓発作を起こしてな。パリの自宅にもセーヴル通り35番地の事務所にも帰れなくなってしまった。君の国際的な活躍はちゃんと天国からチェックしておるよ。

が、私は君にひとつだけ苦言を呈しておきたいことがある。君の著書『連戦連敗』のことだ。あのタイトルはいかん。連戦連敗は私のトレードマークだよ。最近の君は、悪戦苦闘は続けているらしいが、立て続けに大小さまざまなプロジェクトを実現させているじゃないか。

私は生涯、負け続けたよ。フェアじゃないコンペもあったがね。たらればはイカンが、もし私が提案したプロジェクトがすべて実現していたなら、今の21世紀の都市は、ずいぶん違ったものになっていただろうな。私も自分の連戦連敗を語ってみよう。それは人間のための建築を実現する激しい格闘の歴史だ。とにかく聞いてくれたまえ。

私は77年の生涯で320以上のプロジェクトを手がけた。そのうち実現したのはいくつか分かるかね?

いちおう答えは76件。つい最近竣工したフィルミニの教会も入れてだ。「いちおう」と断ったのは、部分的に実現したものをどうカウントするかなど、数え方によるからだ。概算すると、勝率2割3分。サッカーチームの監督ならクビ、野球選手の打率なら二軍行きだな。

つまり、7割以上が実現していない。しかしだな、そのほとんどはコンペで負けたものじゃない。誰からも頼まれもしないのに、自発的にプロジェクト案をつくって提案して、却下されたものだ。だから単純に「負け」とは言いたくない。

すべてが未来への提言なのだ。建築家は依頼を待っているだけでは、先に進めない。自分で問題提起をして、解決する。新しい建築はそうして生まれるものなのだよ。

 *闘いの始まり。理想都市をめざして

私は若い頃から、その姿勢を貫いた。ちょうど第一次世界大戦がの最中のことだ。私は20代後半で、まだスイスにいた。私はこの大きな戦争が終われば、戦場から兵士が戻り、住宅需要が一気に上がると予想した。そこで短い工期で安価に建てられる量産型の鉄筋コンクリート住宅を提案した。それが「ドミノ住宅」だ。地元スイスの議員の中には興味を示してくれた人もいたが、実現には至らなかった。だが、このドミノ住宅こそ、私の建築の、さらには20世紀モダニズム建築の基礎となったものだ。

もうひとつ、モダニズム建築と都市計画の基礎となった提案が、私が1922年に発表した「300万人のための現代都市」だ。これは具体的に敷地を想定した都市計画案ではない。緑あふれる街の中に、十分な間隔を空けて24棟の高層ビルが建っている。歩行者と自動車のための道路は分離され、交通渋滞や人身事故は回避される。これこそ新しい時代の理想の都市像だ。ニューヨークの密集した摩天楼とはまったく違う。住民は太陽、緑、空間をたっぷり享受できる。この案は政治家には無視されたが、心ある建築家や批評家には強い衝撃を与えたよ。

「300万人のための現代都市」を発展させ、1925年、敷地をパリに想定した「ヴォアザン計画」を発表した。パリの中心地に、近代的な高層ビルが緑の中に規則正しく建ち並ぶ街区をつくる。パリの古い街並みを破壊するのかと非難する者もいるだろう。しかし当時は、スラムの問題は放置して、豪奢な権威的な建物がつくるのが建築家の仕事だと思っていた連中が権力を握っていた時代だ。あのくらいの過激なマニフェストが必要だったのだよ。1937年にはパリ全体の街区を大規模なグリーンベルト(緑地帯)でつなぐ「パリ計画」を発表したが、また行政には無視された。グリーンベルトという発想は早すぎたようだな。
 
私のビジョンに共感してくれる依頼人も現れた。1924年からボルドー近郊のペサックに53戸の労働者用の住宅を建てた。依頼主は砂糖梱包用木箱メーカーの社長の息子。1920年にオザンファンとともに創刊した『レスプリ・ヌーヴォー』の私の論文を読んで感銘を受けたのだという。ペサックでは、タイプの異なるいくつかの住宅を設計したが、私は特に3階建ての2世帯住宅を「摩天楼」と呼んだ。「300万人のための現代都市」のミニチュア版であるという意味を含ませるためにな。

だが、ペサックのプロジェクトは予定の半分も完成せず中止に追い込まれた。私のデザインを景観の破壊と考える保守的な連中の干渉のせいで、町から販売認可が下りず、しかも水道会社からは水の供給を拒否された。依頼主の会社はとうとう倒産し、住宅地は8年間放置された。理想への道は険しい。敵は至る所に潜んでいて、不意に牙をむいてくるものだ。

 *国際連盟コンペのスキャンダル

私の最も有名な負けはやはり国際連盟のコンペだろう。今ニューヨークにあるのは国際連合。第一世界大戦後、スイスのジュネーヴにできたのが国際連盟。学校で習ったことを思い出してくれたまえ。その本部がレマン湖畔に建設されることになり、1926年にコンペが発表された。翌27年、私はいとこのピエール・ジャンヌレと共同でコンペに計画案を提出した。

国際連盟のコンペには世界中から367案ものの応募があった。バウハウスの二代目の校長を務めたハンネス・マイヤーは高層ビル案を提出しておった。もちろん19世紀的な、現代性のかけらもない作品もたくさん提出されていた。審査員の構成は、モダニズム派とアカデミー派に二分されていた。

アカデミー派とは過去の建築様式を模倣するだけの、ラテン語を操ることが偉いと思っておる、フランスのエリート美術学校エコール・ド・ボザールの出身者に代表される建築家どもだ。彼らは私のような近代建築家を毛嫌いしておった。

私の案は9件の入選作の中に選ばれた。明らかに私の案は他から抜きんでたものだった。自画自賛ではない。それはのちの多くの建築史家が認めておる。国際連盟のコンペでは2,600人収容の大会議場と事務局ビル、各種委員会室、図書室、食堂など、とても複雑なプログラムを処理しなければならなかった。それらを機能的な動線で結び、しかも湖畔という特長のある敷地を生かす設計は、私の案だけだったのだ。

しかしアカデミー派の審査員は、私の案を信じがたい理由で落選させてしまった。インクが違う! 応募した図面が規定のインクではなく、青焼きの図面だったという理由でだ。さらに悪辣なことに、審査員たちは責任を放棄した。最終選考を行わなかったのだ。結局、政治家たちが新たにアカデミー派の建築家チームを指名して、彼らが設計を行った。ああ、なんのための国際コンペだったのか。

私は怒り、ヤツらに宣戦布告をした。私は新聞に寄稿し、やつらの陰謀を暴いた。法律家に相談し連盟に提訴した。しかし個人のクレームは受け付けないというのが連盟の回答だった。出来上がったのはひどい建物だった。建設費は私の案の4倍もかかった。しかも彼らは私の案から設計アイデアを盗んでいた。

だが、彼らが駄作を建てたおかげで、われわれの近代建築がアカデミー派の建築より優れていることが証明された。これ以降、世界の建築の流れはアカデミー派から近代建築派に移ったといっていい。国際連盟のコンペは敗北であったが勝利でもあったのだよ。

国際連盟のことで闘いをしていた頃の1929年、同じジュネーヴに世界の文化を一堂に集めた文化センターの設計の依頼をされた。依頼者は国際連合でなく別の人物だ。そこで私ピラミッド型の世界文化センター「ムンダネウム」を提案した。実現できなかったが、私の美術館プロジェクトの基本となるものだ。その後、1939年に無限に成長する世界博物館を発表した。ピラミッド型はやめ、屋根は平たくし、真上から見ると正方形。らせん状の回廊を持ち、展示品が増えれば、渦が大きくなるように増床できる。パリのセーヌ右岸に建てようと動いたがそれも実現しなかった。東京の国立西洋美術館とインドの2つの美術館チャンディガールとアーメダバードの美術館は、この構想をもとに生まれたものだ。

 *政治的イデオロギーを超えて

もちろん私もコンペに勝ったことはある。28年にはソ連のセントロソユースのコンペに勝利した。その建物はいまもモスクワに残っておる。このころ私はソ連の共産主義者と懇意となり、新しい都市のあり方などについて闊達に議論した。

だが1931年のソヴィエトパレスのコンペでは悔しい思いをした。クレムリンの向かいに建つ15,000人収容のホールをもつ大プロジェクトだった。コンペにはグロピウスも参加しておった。私の案は吊り天井をもつ、きわめて斬新な革新的な建築だった。勝ったのはロシア人建築家による古典主義的傾向の設計案だ。

スターリンの大粛正がはじまりつつあった。芸術的にも反動的な傾向が強まり、シベリア送りになった芸術家もいる。ソ連では革命的な建築は必要とされなくなっていたのだ。私はソ連の共産主義者たちに見切りをつけた。

私は1928年にCIAM(近代建築国際会議)の創設に関わった。この頃から、私は積極的に都市問題に取り組んだ。1933年の第4回CIAMでは、私の提唱した考え方をもとに、機能優先のゾーニングなどの新しい都市計画のあり方を示した「アテネ憲章」が採択された。

1930年代半ばにかけて私は世界各地の都市計画を作った。パリ、ストックホルム、ジュネーヴ、バルセロナ、アントワープ、チェコのツリン、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブエノスアイレス、ウルグアイのモンテビデオ、コロンビアのボゴタ、アルジェリアのアルジェとヌムールなどだ。いずれも実現はしなかった。が、どれも役人から頼まれたものではない。私が自主的に作った、純粋な提案だ。

この中で私が最も熱く実現に向けて動いたのがアルジェだ。この町は美しい。カスバで有名なこの町は、長らくフランスの北アフリカの植民地の中心都市だった。1930年から1942年にかけて、私は7度もこの町の都市計画案を作成した。最初の案はもっとも大胆で優雅であり、いま見ても気に入っておる。海岸線に沿ってゆったりとしたカーブを描く高速道路を作り、その下は集合住宅や店舗に当てる。案の定、拒否された。私は実現できる好機を待つことにした。
 
第二次世界大戦がはじまり、パリはナチスに占領された。私は妻イヴォンヌとともにピレネーに逃げた。アルジェの計画を実現させるために、私はナチスの傀儡としてフランスを統治したヴィシー政権に近づいた。この時レジスタンス側についた、いとこのピエールと一時的に仲違いをしてしまった。ピエールと再び仕事をいっしょにするのは戦後インドのチャンディガールの仕事が始まってからだ。
 
私はフランス本国と植民地の都市計画の責任者のひとりに任命され、再びアルジェに乗り込んだ。しかしヴィシー政権の連中とはうまが合わなかった。1941年に職を解任され、それでも私は都市計画を実現させようと動いたが、最後にはとんだ邪魔が入りおった。ある批評家が、私のソヴィエトでの仕事などを例にとり、私を共産主義者で、親ユダヤだと新聞に書き立てたのだ。それで終わった。こうして1930年代半ばから戦争を挟んで約10年、私はほとんど建築物を建てる仕事をすることがなかった。
 
戦後パリに戻ると戦争で破壊された南仏の小さな町サンディエの都市計画に取り掛かった。都市計画も実現しなかったが、サンディエで建てたデュヴァル氏の工場が約10年ぶりの建築となった。実現はしなかった。私の復興計画への思いはマルセイユで実現する。マルセイユのユニテ・ダビタシオンは私がフランス政府から依頼を受け実現した最初で唯一の仕事だ。この時も、私は容赦ない攻撃にさらされた。フランス医師会の会長に「精神に異常をきたす空間」と言われたり、公衆衛生協会理事長には「衛生学の原則に反している」とまで言われたよ。
それでも私は屈しなかった。

 *天敵アメリカ。屈辱ふたたび

1945年、国際連合本部ビルの話が私のところに舞い込んできた。さっそくアメリカに渡り、建設委員会のフランス代表として国際連合本部の敷地の調査・選定などに携わることになった。正直言って、20年前の国際連盟のリベンジという思いもかなりあった。ニューヨークのあの猥雑で密集した摩天楼の代わりに、太陽と緑と空間をたっぷり享受できる私流の摩天楼を建てる最高の機会でもあった。なのにまた妨害が入った。今度の敵はアカデミー派ではない。アメリカ人だ。商業主義の亡霊どもだ。
 
建築委員会はアメリカ人のウォレス・K・ハリソンが仕切っていた。ロックフェラーセンターの設計でレイモンド・フッドのもとで働いた経歴をもつ建築家だ。たしかにニューヨークの事情に通じた、高層建築のプロフェッショナルかもしれない。しかし政治的な建築家だった。ハリソンの妻はロックフェラー家の出身だ。現在の国連の敷地はロックフェラーが提供した土地だ。
 
国連本部の設計は11カ国の代表による建築委員会で行われた。1947年、その建築委員会は、私とブラジル代表のオスカー・ニーマイヤーの合同案を選定した。ニーマイヤー案とも言われるが、もとのアイデアは私のものだ。ニーマイヤーが描いたのは、私の案のバリエーションにすぎない。ニューヨークでは、ニーマイヤーは私とともに働いていて、彼は私の案の建物の配置を変えたものを提出した。それはニーマイヤーも認めるところだ。設計案が選定されると、委員会は解散された。私はパリに戻った。その後の実施設計や施工管理はウォレス・K・ハリソンに任された。
 
なんとハリソンは、私たちの案を勝手に改悪してしまった。総会議場は改変され、事務局ビルにはピロティやブリーズソレイユを採用しなかった。ニューヨークはナポリと同じ緯度にある。日除けであるブリーズソレイユは夏の強烈な陽射しを防ぐ最高の手段だ。ヤツは空調設備を導入するからと言って、国連ビルを勝手にガラスのカーテンウォールにしてしまった。空調には無駄なエネルギーがかかりすぎる。ハリソンは私の計画案のうわべだけなぞっただけで、国連本部を凡庸なビルにしてしまった。

ユネスコでも同じような屈辱を味わった。私は1952年頃、ユネスコ本部ビルの5人の建築委員会のひとりに選ばれた。そこにはグロピウスやルチオ・コスタら、国連の時より話の分かる連中が集った。敷地はパリだ。私の地元だ。グロピウスらは、私が主任建築家になることを、ユネスコ側に推薦してくれた。

しかしアメリカ国務省代表がその案を拒否した。アメリカはこのプロジェクトの大きなスポンサーだったので、誰もその意向に逆らえなかった。私は委員を辞退したかったが、グロピウスが説得するので私はしぶしぶ協力してアイデアを出した。
 
出来上がった建物を見てみたまえ。ユニテのようなピロティもあるし、会議場も私の国連の案に近い。あのビルは5人の建築委員が選んだマルセル・ブロイヤー、ベルナール・ゼルフス、ピエール・ルイジ・ネルヴィの3人の共作とことになっているが、本当は私のアイデアで建てられた建築なのだよ。
 
1951年から私はインドのパンジャブ州の州都チャンディガールの都市計画を手がけた。まっさらの土地に新しい都市をつくり、私が長年温めてきた都市計画プランを実行に移すことができた。ネール首相をはじめ私の建築を理解してくれたインド人たちには感謝している。闘いつづければいつかは報われるものだ。

 *パリでの最後の闘い

パリでの公共の仕事は私の悲願だった。1958年ドゴールが大統領になると、ドゴールはパリを現代都市に生まれ変わらせる大改造計画を次々に行った。ラ・デファンス開発などがそれだ。しかし私は蚊帳の外だった。私はパリ改造をもう30年以上前から唱えていたのに、である。

しかし私の建築の理解者で、文学者で当時文化省大臣だったアンドレ・マルローから、興味深い依頼があった。20世紀美術館である。当時パリには20世紀美術の大きな展覧会を行う適切なスペースがなく、マルローは美術館と芸術学校を含む巨大なプロジェクトを考えていた。1962年私はその設計案をつくった。しかしドゴールはこの計画にあまり興味を示さず、話はうやむやになってしまった。

パリの中心に大きなプロジェクトを実現するチャンスは、ないわけではなかった。1961年私はオルセー駅再開発のコンペに参加した。34階建てホテルと会議場、文化センターを合わせた大きなプロジェクトだった。だがラ・トゥーレット修道院と同じ183センチ幅の客室が、アメリカの共同出資者には気に入らんようでな。ヤツらは瞑想や静寂のための空間を理解せず、とにかく部屋はデカければ、それでゴージャスだと思っておった。

結局、再開発計画自体が中止になった。そしてその地に1986年、旧駅舎改築というかたちで、いまのオルセー美術館ができるわけだ。マルローの20世紀美術館構想も70年代になってポンピドゥーセンターとして再復活した。オルセーとポンピドゥー、私はあの観光客でいっぱいの建物を見ると、いまも複雑な思いに駆られてしまうよ。
 
1965年8月27日午前11時すぎ私の心臓は海の中で突然止まった。やり残したことは山ほどあった。しかし地中海で死ぬというのは、私が夢見たことでもあった。運命とは皮肉なものだ。

皮肉と言えばフランス政府もそうだ。私の亡骸はパリに運ばれ、政府が国葬を行った。たったひとつの集合住宅以外、一度も国家的な大プロジェクトを依頼したことのない建築家のためにだ。アンドレ・マルローが私のために読んでくれた弔辞は、実に素晴らしいものだった。

私はいつも勝ち目のない闘いを挑んだ。それはドンキホーテの遍歴の旅のようなものだ。人間のための建築を追い求める長い旅である。私はただ前へ前へと進みつづけた。だから負け戦(いくさ)も勲章だよ。なあ、アンドーくん。


*************

【参考文献】
『ル・コルビュジエ─理念と形態』 ウィリアム J.R.カーティス著 中村研一訳 鹿島出版会 1992
『ル・コルビュジエの生涯 建築とその神話』 スタニスラウス・フォン・モース著 住野天平訳 彰国社 1981
『The Final Testament of Pere Corbu: A Translation and Interpretation of Mise au point by Ivan Zaknic』 Ivan Zaknic (Editor) Yale University Press, New Haven and London, 1997

* 基本的な流れを参考にしたのは上の3冊です。『The Final Testament of Pere Corbu』は晩年のコルビュジエのエピソードが満載の面白い本です。『ル・コルビュジエ─理念と形態』は良書です。再版を望みます!

『ル・コルビュジエ』 チャールズ・ジェンクス著  佐々木宏訳 鹿島出版会 1978
『ル・コルビュジエ』 ノルベルト・フーゼ著 安松孝訳 PARCO出版 1995
『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』 フィリップ・ブードン著 山口知之+杉本安弘訳 鹿島出版会 1976
『伽藍が白かったとき』 ル・コルビュジエ著 生田勉+樋口清訳 岩波書店 1957
『輝く都市』 ル・コルビュジエ著 坂倉準三訳 鹿島出版会 1968
『Le Corbusier: Oeuvre Complete』 Birkhäuser Publishers, Basel Boston Berlin 1995  (First edition 1946)
『ル・コルビュジエ 1996-1997』展覧会カタログ セゾン美術館、広島市現代美術館、神奈川県立近代美術館。1996-1997
『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』展覧会カタログ 森美術館 2007
「ル・コルビュジェ DVD-BOX」 ジャック・バルザック監督 1987年制作、フランス、販売元レントラックジャパン
『連戦連敗』 安藤忠雄著 東京大学出版会 2001


*原稿の冒頭のコルビュジエの作品数に関しては以下を参照させていただきました。
『ル・コルビュジエ 建築・家具・人間・旅の全記録』(エクスナレッジ 2002) 234〜238頁「ル・コルビュジエ全作品データ」 作成=松政貞治+疋田訓之
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-06-02 18:19 | お気に入りの過去記事 | Comments(10)
 
チョコレート展とSENSEWARE展
展覧会と展示会。同じ「Exhibition」でも、どちらの言葉を使うか、原稿を書く時に使い分けるようにしています。21_21 DESIGN SIGHT の深澤直人ディレクションのChocolate展(7/29まで)と、スパイラルの原研哉ディレクションのSENSEWARE展(4/29まで)。僕の書き分けからすれば、前者は「展覧会」で、後者は「展示会」です。Chocolate展もSENSEWARE展も、ディレクターが「ひとつのテーマ」を定め、「参加者」を選び、彼らに「作品」をつくってもらうグループ展であることは全く同じですが、本質的な違いがあります。

展示会はプロモーションが目的です。TOKYO FIBER'07 SENSEWARE(センスウェア)展は、新しいハイテク繊維や知られざるユニークな繊維素材を世の中に知らしめるための「Exhibition」です。デザインの力で日本の繊維業界のポテンシャルを引き出し、同時に繊維の力でデザイナーや建築家たちの創造性を引き出して、日本のものづくりの総合力を底上げし、それを世界に示そうという明快な目的があります。6月にはファッション業界の本場、パリで巡回展が行われます。参加作家それぞれの世界観を繊維によって表現した作品が並ぶ「展覧会」と呼んでもいいような「Exhibition」ですが、その明快な目的から考えれば、これは「展示会」です。

一方、前者はチョコレート業界の活性化とは何も関係がありません。誰もが知ってて子どもの時から慣れ親しんでいるチョコレートという素材を使って、「世界」を捉え直す「Exhibition」です。作品には、参加作家の世界観、つまり世界を見つめる視点と批評性が問われます。ディレクターもデザイナーで参加作家もデザイナーが多く、会場が「デザインサイト」と名付けられているので、デザイン展のように思えますが、同時代の先端の創造力を結集して、チョコレートという日常的な題材に「あっそうか!」とビックリマークがつくくらい、世界のものの見方を変えようと試みているわけですから、これはまさに「コンテンポラリーアートの展覧会」です。

昨日、この2つの「Exhibition」のオープニングパーティーに行きました。SENSEWARE展は「展示会」として大きな成功を収めていると思いました。山中俊治氏のロボット「エフィラ」やソニー クリエイティブセンターの「手のひらにのるテレビ」、松下電器パナソニックデザイン社の生きもののような暖房機、セイコーエプソンの超極薄繊維を使った多重スクリーンなど、原デザイン研究所の撥水性加工された繊維を使った「WATER LOGO」など、非常に興味深い作品が多く、ついつい会場に長居をしてしまいました。企業参加の作品に良作が多く、なかなか外へ発信する状況をつくりにくい企業デザイナーたちの創造性も見事に引き出しています。

「フランスやイタリアで大きな産業となった“ファッション”という枠組みの中で、日本の“繊維”の可能性を語ると、どうしても一歩踏み出せないところがある。一度“ファッション”という言葉を使わずに、プロダクトデザインやグラフィックデザインや建築などさまざまな分野を結びつける素材として“繊維”を考え直してみたかった」と原研哉氏は会場での立ち話で語ってくれました。

原氏はディレクターとして竹尾ペーパーショウでREDESIGN展とHaptic展を成功させました。紙の素材としての可能性を示すというペーパーショウとしての本来のミッションの背後に、もうひとつのミッションをありました。デザインの力を世に示したい。そのシンプルで力強い隠れミッションをディレクターの原氏が参加者たちと共有しあえたことが、「展覧会」と呼んでいいようなレベルの高い「作品」で構成される「展示会を超えた展示会」になった理由です。

SENSEWARE展でも基本の構造を同じです。ファッションという枠組みとは違う、「SENSEWARE」という繊維の新しいデザインの枠組みを日本のデザイナーたちの力で創造し、それを世界に定着させていけるのか。パリでどう受けとめられるか楽しみです。

Chocolate展は「世界を捉え直す作品」と評価するには、あまりに力の弱い作品が並んでいました。それぞれクオリティの高い作品であることは確かです。しかしそのクオリティとは仕上げとか素材感とかカラーとかフォルムとかそうした意味でのクオリティであり、チョコレートから世界を捉え直す「批評としてのクオリティ」は低いものでした。

「ねえねえ、みんな分かるよね。そうそう、あれよ、あの感じ」って代名詞だけで会話が通じる共有の記憶の中にひきこもり、狭い世界の中で日常空間の見方を変えるだけの、極めて私小説的な作品が非常に多い。「私は知覚過敏でチョコを食べると歯が痛くなる」ということをテーマにしている人、銀の包み紙へのノスタルジックな記憶、紙パッケージを開けるときの感覚──。中でも、マーブルチョコ、アポロチョコ、パラソルチョコをテーマにした作品は、日本限定の、同世代感覚に訴える、「ねえねえ、ほら、あれ」の最たる作品です。

カカオは非常に政治的な農産物です。多国籍企業の利益や先進国の人々の豊かな生活のために、非常に安い労働力の国で、本来、その国の人々の農産物を栽培されるべき土地で育てられます。サトウキビやコーヒー豆、バナナのような、労働力と土地を貧しい国から収奪する農産物なのです。そのチョコレートの政治性や経済的背景を正面切ってテーマにした作品は、約30組の作家が参加しながら、ジェームズ・モリソンの写真作品と、マイク・エーブルソン+清水友理のインスタレーションだけでした。日本の作家のリサーチの甘ったるさには、哀しいものがあります。既製品を特別にチョコレート色にした作品のどこに“世界を捉え直す批評性”があるのでしょうか。

「展示会」は、何を展示するか、それを展示することで誰が利益を得るのか、はっきりしていますから、「いま、なぜ」繊維なのかということを明確に示す必要がありません。「ハイテク繊維がいま面白い、これからもっとスゴくなる」と思ってもらえればいいわけです。

しかし同時代の事象や作家を採り上げる「展覧会」は、「いま、なぜ」を語れなければいけません。結局、チョコレート展で見えないのは、そこです。チョコレートはスゴい、って話ではないのですから。いま、なぜチョコレートなのかという「答え」をディレクターの深澤氏が持っておらず、「問い」だけが作家のほうに投げかけられているように思えます。

そこがキュレーションとディレクションの違いだと思います。原氏は「展示会」ですからスゴいの連鎖を仕掛ければいい。スゴい答えの返ってきそうなスゴい才能ある人たちに「問い」だけを投げかけて、「繊維はスゴい」「日本のデザイン力はスゴい」という結論を導いていく。

しかし「展覧会」は「スゴい」の連鎖を仕掛ける場所じゃない。結局チョコはスゴいって結論だけだったら、入場料を1000円も支払う価値はない。チョコレートを題材にした展覧会なら、キュレーター側が「いま、なぜ、チョコレートか」という答えを用意して、たとえば、チョコと記憶、チョコと共有感覚、チョコと環境、チョコと政治、といった起承転結のある形で構成していかなければならないと思います。じゃないと、伝わらない。

で、もしキュレーターの想定した答えを超える「作品」が出てきても、それを投げかけたテーマを深め広げる「ポジティブな振幅」として受け入れ、「伝える」ために起承転結を再構築する柔軟さもキュレーターには必要です。

やはり、デザイン専門のキュレーターが必要だと思います。チョコレートというテーマ自体は興味深いのですが、展覧会のキュレーションに展示会のディレクションの手法をそのまま採り入れたことで、答えの見えない展覧会になってしまったように思います。展示会の答えは「スゴい」という分かりやすい答えでいいのですが、展覧会の答えは分かりやすい必要はありません。同時代の世界に対する批評であるべきなのですから。展覧会を見た人が受け取る答えもまちまちでいい。しかし、展覧会が批評空間として展開されていて、「いま、なぜ」という問いへの答えをつかむ道筋は用意してあげる必要がある。その仕事こそ、展覧会のキュレーションだと思います。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-04-27 12:27 | お気に入りの過去記事 | Comments(23)
 
ジャン・ヌーヴェル
4年前、カーサに書いたフランス人建築家ジャン・ヌーヴェルのインタビューをアップします。電通のビルのこととか、『陰翳礼讃』的世界への思いとか、いい話を語ってくれています。
d0039955_1782429.jpg
Q ヨーロッパの絵画は、光と影で世界を描きますが、日本や中国の墨絵では、濃淡によって世界を描写します。墨絵の遠近法は、湿度のある大気に色も形も消えていく形で表されます。電通本社ビルには、東アジア的な濃淡による描写に通じるものを感じますが?
A そうですね。この建築は障子紙をイメージしています。白やグレイのセラミックをドット状にガラスに付着させて、透明から白へ、さらにグレイへの至る、濃淡のグラデーションが出るようにしました。セラミックのプリントは、日除けの効果もあります。こうして濃淡のあるビル全体が、白い半透明の障子紙のように見え、空や雲に溶け込み、周囲と連続して見えるようになることを考えたのです。私は日本の伝統建築や文化から多くのことを学びました。たとえば“はかなさ”です。カルティエ財団現代美術館でもアラブ世界研究所でも電通本社ビルでも、はかなさが感じられるように試みました。はかないものが、かえって生き生きとする。日本の建築、たとえば桂離宮には、そうしたはかなさを感じます。障子紙に植裁が映る、その“ひととき”に永遠が感じられるのです。すべてが一瞬に見渡せてしまったら、何が面白いのでしょうか。見えないもの、不確かなものがあるから、そこに欲望が生まれ、エロティシズムが生まれるのです。

Q 谷崎潤一郎の『陰影礼讃』の世界ですね。リヨン国立オペラ座で漆黒の空間に金のカーテンが浮かぶ写真がありますが、『陰影礼讃』の金屏風を語った一節を思わせるのですが?
A どこが出所かなんて話しはしませんよ(笑)。黒の中に金というのは、最初、東京のオペラ劇場(第二国立劇場)のコンペ案で考えたものなんですよ。それをリヨンで再解釈して使ったのです。

Q 第二国立劇場のコンペ案(実現せず)と電通ビルは対照的な外観を持っています。一方は黒い彫刻的な塊で、一方は透明で軽やか。なぜ、同じ東京で、そこまで対照的な提案となったのでしょうか?
A 第二国立劇場は、黒い御影石が太陽を映し出すひとつの塊になっています。中で公演が行われるので、外の世界から隔絶する防護的な意味合いを強調しています。人を内部の世界へ引き入れるという役割もある。一方、電通ビルは、外の世界に開かれています。周囲には東京湾が広がり、浜離宮や銀座があります。コンテクストや求められるものが違うから、当然違ったものになるわけです。

Q 電通ビルではガラスを巡って、衝突があったと聞いていますが。
A 特に、北西側ファサード(新橋側)は私の意図とはまったく違うものになってしまった。もっと透明なガラスを使いたいと主張したのですが、政治的経済的な理由で実現しませんでした。鉛が入っていない、つまりクリスタルガラスでない、緑がかった普通のガラスが使われています。南側ファサード(浜離宮側)の最上階は、レストランが窓を閉じているため、透明で空に消失していく感じがなくなっている。改善してくれなければ、私のサインをこのビルから消したいと言っているのですが。

Q 物質性を消すために素材にこだわるわけですね?
A ええ、素材を感じとることには、とても微妙な要因があります。素材の象徴的、幻想的な意味まで深く感じとらなければならない。もはやバーチャルな世界です。しかしそれをどう表現するか、どう見せるかという時には、できるだけシンプルで自然に表現することが大切になります。それが難しいんです。ただ努力したからといって、できるものではない、微妙なものなのです。

Q ガラスの魔術師などと呼ばれ、ガラスを魔法の鏡のようにお使いになられますね?
A ええ、確かにカルティエ財団現代美術館ではそうですね。エッフェル塔がガラスに映り込んで、二つあるかのように見えます。まるで右岸にもあるようにね。木や雲もガラスに映り込みます。透過したり反射したイメージが、実際の木の枝葉や雲と入り交じり、重なり合い、ずれたり、ぼやけたりして、不確かなものが戯れる。バーチャルな世界が、そこに広がるわけです。

Q コルビュジエは、「建築とは、光の下に集められたヴォリュームの巧みな、正確な、壮麗な戯れである」だと語っていますが?
A コルビュジエの唱えたことは、私のアプローチとは全く違います。コルビュジエにとって建物は確固たるものです。彼はそれを確信をもって光のもとの影の幾何学として扱っています。もちろん太陽は動きとともに影は変化しますが、その変化は不安定なものではありません。コルビュジエの命題の中には、物質的か、非物質的か、という疑念は生まれてこないわけです。 (注*コルビュジエの語る「戯れ」に関する過去記事はこちら

Q “消えゆく建築”ということを唱えられているようですが?
A 私が言い始めた言葉ではありませんよ。建築を消すというのはポール・ヴィリリオ(フランスの思想者・都市計画家、ヌーヴェルは彼のもとで働いていたことがある)が言っている言葉でもあって、都市的、哲学的な考え方に基づいてそう言ったと思う。私自身は“消える”と同時に“現れる”ということにも関心がある。消えるということは、美学的に考えて、“消えなかった”ということまで含まれるわけだからです。消すというのは複雑なものを純化する、無駄なものを省くという方向にもなるわけです。そこには一種の拒絶が存在します。これ以上はもっと哲学的に話になるけれども、話を進めてもいいのかな?

Q やめときましょう。ところで、レス(Less)という名のミニマムなデザインのテーブルを発表されていますね。ミース・ファン・デル・ローエの金言「レス・イズ・モア」には、どういう立場をとられていますか?
A 私はミースをとても尊敬しています。しかし、私のテーブルはミースの「レス・イズ・モア」のアプローチとは違います。彼はミニマリズムの先駆者です。ミースは現実の中から引き算をして、それを抽象化を行い、形やプロポーションにおいて、最もシンプルで、ピュアなものを目指しました。が、ミースはイリュージョン(幻影)というものを使っていません。一方、私のレスというテーブルでは、イリュージョンが大きなテーマになっています。天板は一見5〜8ミリの極薄に見えますが、中央部に行くほど厚みがあって、強度を確保している。錯視的なイリュージョンによって、物質性/非物質性のコントラストが感じられるようにしているのです。

Q 実現していない(アンビルトの)プロジェクトがたくさんありますね。それはあなたにとって、どういう意味を持つものですか?
A 私はアンビルトの建築家ではありません。ピラネージやブーレなど、他にもユートピア描いた偉大なアンビルトの建築家はいますが、私は現実にこだわっています。ユートピアに興味をもつことは素晴らしい。紙の上だけの建築を描き出すことは、建築についての本を書くようなものだと思います。しかし、私は実現可能でないプロジェクトは手がけません。あまりにたくさんのコンペに落選しているので、アンビルトの建築家のように見えるかもしれませんがね。実際に、東京のオペラ劇場や無限の塔など、伝説の白い狼のように実在しないのに有名なプロジェクトもありますしね。しかし、どのプロジェクトも実現を前提にしています。何がこの仕事で素晴らしいかというと、夢みていること、頭の中のコンセプトが、現実のものとなって現れることです。アラブ世界研究所もカルティエ財団現代美術館もルツェルン文化・会議センターにしても、実際に作られない限り、そのイリュージョンを体験することは不可能ですし、物質/非物質の対比を建築の問題として提示するのも難しいわけです。

Q 実現はしませんでしたけどサクラやモミジを使った東京のグッゲンハイム美術館案や、リオのグッゲンハイム美術館案など、植物を使うプロジェクトが多いのですが、建築にとって、植物とはどんな意味を持つものなのでしょうか?
A 植物は都市の建築のマテリアルです。植物は季節を感じさせ、「時」を豊かにし、その土地の植物を使うことによって、どこに建っているかという「所属性」を明らかにします。景観的な視点からも、持続ある発展という環境的な視点からも、植物が都市で果たす役割は大きい。たとえばグリーンベルトは、都市の中にひとつの連続性を生みだします。また、人の気分をリフレッシュするような心理的な効果もあります。もはや植物なしに都市の建築を考えることは不可能と言えるでしょう。(2003年11月1日、東京にて、写真は10月31日撮影)
d0039955_171448.jpg
初出:『CasaBRUTUS』2004年1月号 マガジンハウス

*LINK ジャン・ヌーヴェルのウェブサイト
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2007-03-05 17:09 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
 
デザインは進化しているか? 柳宗理論
学生から、僕が11年前に書いた柳宗理さんのインタビュー記事を読みたいと言われたのですが、『BRUTUS』95年6月1日号がもうほとんど入手困難なので、少々加筆訂正してここにアップします。

***************

 およそ一般のデザイン事務所とは、かけ離れた風情の仕事場である。大きな作業台には椅子の原寸大模型など制作中の仕事がいくつか置かれている。入り口側の壁際には轆轤があり、轆轤の回りには石膏を削るためのノミのような道具が掛けられている。いかにも工作機といった重厚なドリル機、流し台の手拭い……。棚の上には、椅子の小模型がずらり、さらにここでデザインされた陶器やガラス器の名品などが無造作に並ぶ。片隅にはイームズの椅子も何気なく置かれて、眺め出すと次から次に民藝やデザインの名品に出会うことができる。密度の濃い空間である。

 いわゆるデザイン事務所のイメージ──埃ひとつなく掃除されたフローリングに打ち合わせ用の大きなテーブルが置かれ、奥にはスタッフ用のコンピュータやドラフターが整然と並ぶ、というイメージは、こことは無縁である。まさに工房。それは、主、柳宗理が多大な影響を受けたという、バウハウスのワークショップの考え方を体現した空間だ。機械で作られる製品の原型は、言うまでもなく手で作られる。未来の手工芸は、工業生産の実験作業になる。こうした、バウハウスの創始者グロピウスの考え方が実践される場が、ワークショップなのである。

 この空間やワークショップの考え方を時代遅れ、と考えるのは安直である。もし、デザインには進化論は通用しないとしたら? つまり1990年代のデザインは1950年代のデザインの進化形とは決して言えない、ということが事実であったら? 

 そう、きっとこれは事実なのである。コンピュータの登場などでテクノロジーは進歩した。また、一般の人がデザインを見る眼も発達した。しかし、現代のデザイナーはイームズの椅子やブロイヤーの椅子、ウェグナーの椅子を超えるデザインを生み出しているだろうか。
 だから私たちは、柳の話にじっくり耳を傾ける必要がある。

【バウハウスとペリアン】

 柳宗理は1915年、民藝運動の創始者、柳宗悦の長男として生を享けた。東京美術学校(現・東京藝術大学)で油絵を学ぶが、「たまたま聴講しにいった」当時建築科で教鞭をとっていた水谷武彦の授業に感銘、デザイナーを志すようになる。水谷は、バウハウス留学経験者であった。「そこでワークショップとか、バウハウスの話を聞いてすっかり感心してしまって、今まで絵を描いていたんだけれど、これからは人間の生活に密着したものを作らなければならないと思うようになった」。

 大学卒業後、建築事務所に勤めた柳の前に、もうひとり、多大な影響を与えた人物が現れる。シャルロット・ペリアンである。近代建築の巨匠、ル・コルビュジエの一連の家具デザインのパートナーとして知られるフランスの女性デザイナーある。柳は1940〜42年工芸指導のため日本に招かれた彼女のアシスタントを務め、日本各地を回った。「彼女は本当に素晴らしいデザイナーでした。デザインの方法はだいたい彼女から学んだ」。

 しかしペリアンはただ柳にデザインの方法を教えただけではない。ペリアンは当時柳が「カビ臭い」と反発していた父、宗悦の仕事への見方も変えた。「ペリアンがしばしば民藝館に来るわけよ。田舎を回っても茅葺きの民家なんかに興味を持つ。これは父の趣味が似ていると気づいてね。父も今後のデザインのあり方を衝いているんだと思うようになった」。

 ちなみに柳の醜悪なデザインに対する辛辣な批判精神もペリアンから学んだもののひとつらしい。ペリアンは滞日中、東京で展覧会を行ったが、「そこでル・コルビュジエが『アール・タパラ』と言って、アカデミー系の華美な工芸を嫌ったように、ペリアンも日本のそういうものもけしからんと、日本の有名工芸作家の作品にバツを付けて展覧会に出した。でも、結局、エライ先生方や彼らを扱っていた銀座の和光が怒るわで大騒ぎになって、会場になった高島屋も困って、のけちゃったけどね」。

 戦争が始まった。ペリアンはベトナムに逃がれ、柳は徴兵される。しかし戦地でも柳のデザインへの思いは立ち消えることはなかった。フィリピンでの柳のリュックには、「どうせ死ぬのだからこの本と一緒に」とル・コルビュジエの著作『輝く都市』があったという。

【いいデザインが売れるとは限らない】

 戦後。辛くも戦地から帰還した柳は焼け野原の東京で、本格的にデザイン活動を開始する。「デザインしようにも何にもない。残っているのは土しかない。だから焼き物を始めた」。だが、窯で陶器を焼くための燃料になる石炭がない。

「それで、東京湾に沈んだ船からびしょびしょになった石炭を手に入れて、それを工場に持っていって焼いてもらった」。それがのちに柳の代表作のひとつと数えられるようになる「ティーポット」などの陶器シリーズ(松村硬質陶器)だ。白無地ゆえに強調された柔らかな曲面を持つフォルムはこの上なくモダン。しかし、太く大きい取っ手などは、見方によっては湯桶などの民具を連想させる。

 この無地の陶器は、戦後間もなくの日本人にとってはかなり過激なデザインであったようだ。柳はこれを三越で扱ってもらうように売り込みに行ったが「模様のない陶器は半製品だ」と言われて突き返されたという。

「いいデザインが必ずしも売れるわけではない」と柳は言う。「いいものはたとえ売れたとしても5年か10年で消えてしまうね。飽きられるか、もしくは企業が儲からないから、やめてしまう。イームズのこの椅子も、長い間作られなかったわけだしね」。インタビューの時、柳はイームズのLCWに座っていた。

 例えば、1960年に柳がデザインした「セロファンテープ・カッター」。鋳鉄を台にしたずっしりとした重量感、柔らかなフォルム、台にボールベアリングが組み込まれ自由に回転する使い勝手を考慮した細やかな配慮など、実に素晴らしいデザインが、現在は生産されていない。

「今は要するに経済戦争だよ。例えば、自動車のデザインでも、去年作ったデザインは古いと見せなくてはならない。自動車がまだ動いても新しいデザインが出てくる。で、ゴミがいっぱい出て、どうしようもない。ものをどんどん作るのが経済の成長というわけだ。経済の成長がすなわち人類の幸福だと思っている。それは間違いだね。今にこういうのはダメになる。そんな中にデザイナーが巻き込まれているから、本格的にデザインに取り組んで、いつまでも長持ちするデザインを作る暇がないんだ」。

 時間をかけ、納得のいくまでフォルムや構造を検討し、常にベストのデザインを心がけている柳のデザインスタイルに、わざと次の年には古く見せるような購買欲だけをそそるデザインが合うはずがない。

「絵から出発して、スマートな絵が出来たら、それをそのまま商品化するというのは、もってのほかだ。いいデザインというのは中身からにじみ出たものだ。構造を知らないで外側だけ描いたって、いいデザインは出てこないよ。だから僕のところでは初めから1/4か1/5の模型を作る。それでいろいろ試してみて、これでいいと思うと原寸の模型を作る。だいたい椅子は1〜2年はかかるな。絵だけ描くなら1週間あればデザインはできる。今のデザイナーはそのほうが食えるから、みんなそうなんだよね」。

【アメリカ批判の大きな反響】

 柳は経済優先・効率優先のデザインには一貫して批判的な態度を表明してきた。1956年、柳はコロラド州アスペンで開催された国際デザイン会議に出席するため渡米した。車のモデルチェンジを際限なく繰り返し、大量生産・大量消費に寄与する、アメリカのデザインを実際目の当たりにする。

「まず会議の前に、ロサンゼルスの『アートセンタースクール』という有名なデザインの学校に招待されて行った。でも、そこに入った途端にこれはコマーシャルの学校だなと思った。みんなここでは絵を描いていたんだ。プレゼンテーションのためのレンダリング。つまり、人をびっくりさせるための絵だ。そういうのは絶対僕は描かない。ペリアンもそんなもの描かなかった。こういう教育はホントにひどいと思ったよ。その後、アスペン会議に出たから、僕はムカムカしちゃって、アメリカの批判を痛烈にした。そうしたら聞いてる人がびっくりしてね、シーンとなってしまった。拍手ひとつないんだよ。それで、これはまずいことになったなと思ってね。でも、その後、質問がいっぱい来て、『柳さんはいいことを言った、でもあんなふうにアメリカのことをやっつけられたら黙っているほかしょうがないんだ』と聞いて、ああ、これで助かったと思ったよ」(笑)

 柳はこの時、彼の講演に感銘したというドイツ・カッセルのデザイン専門学校の校長の熱心な誘いを受けて、1961年に同校で一年間教鞭をとることになった。また1957年、第11回ミラノ・トリエンナーレの参加のきっかけも、このアスペン会議でイタリア人デザイナーにアルベルト・ロッセッリと知り合ったことから始まった。

 当時ミラノ・トリエンナーレは、国ごとに出展する形でデザインを各国が競い合う、デザインのオリンピックとも言える最大の世界的デザインイベントだった。柳が代表作を招待出品したブースは金賞を獲得。傑作「バタフライ・スツール」など、柳のデザインが一躍世界に知られるキッカケとなった。

 柳の打ち鳴らした警鐘は、デザインの将来を真剣に考える世界のデザイナーの心を動かした。すでに50年代から、うわべだけ飾って、消費社会を際限なく拡大させていくデザインに対して、デザイナーたちは危惧の念が寄せていた。現在もこの状態は続いている。問題はなんら解決がされていない。事態は悪化したまま、放置されている。

 この56年のアメリカへの旅では、さまざまな出会いがあった。イームズ夫妻との面会。それと──。「金門橋とハイウェイには感心したね。当時は日本にハイウェイなんかない。これは新しい芸術だと思ったよ」。この体験が、のちの東名高速道路の遮音壁や関越トンネルのデザイン、東京湾横断道路のゲートの仕事が繋がっているということは言うまでもない。

【デザインのゴールデン・エイジ】

 1950年代とその前後、つまりミッド・センチュリーがデザインの黄金時代だったという考え方がある。40年代の後半から、イームズ夫妻やハンス・ウェグナーが名作椅子を発表し、50年代になるとイタリアではジオ・ポンティやマルチェロ・ニッツォーリ、北欧ではアルネ・ヤコブセンやカイ・フランクがデザインの名作を次々と生み出す。そのどれもが過飾に走らず使い勝手が慎重に追求され、造形はシンプルだけれども、使うたびに味が出るデザインであった。モダンデザインという言葉の正確な定義はないが、この頃生み出されたデザインこそ「モダン」という語を冠するに最も相応しいデザインであることは衆人が認めるところであろう。

 「日本でもそう(黄金時代)だったね」と柳は言う。確かに、全盛期を迎えていた北欧のデザインやイタリアなどのことなら黄金期というのは分かる。しかし日本で1950年代といえばまだインダストリアルデザインの草創期だ。

51年レイモンド・ローウィが来日して、タバコ「ピース」のパッケージデザインで破格の150万円のデザイン料を受け取り、総理大臣の月給が11万円の時代に、と世間を騒がせた。日本人にインダストリアルデザイナーの存在を知らしめる大きな出来事であった。52年にはJIDA(日本インダストリアル・デザイナー協会)が発足し、同じ年、毎日新聞社主催の工業デザインコンクールが初めて行われ、柳が第1席に輝いた。ようやく意匠とか工芸といった言葉が、デザインというカタカナ文字に変わり始めた頃である。

 日本のインダストリアルデザイン史で、デザイナーの個人名が中心になるのはこの時代だけである。柳氏がライバルとしても意識したという小杉二郎のほか、豊口克平、剣持勇、小池岩太郎、佐藤章蔵など、少数精鋭ながら個性的人物がデザイン界をリードした。「当時は、企業家もいいデザインをすぐにやらしてくれたよ」と柳は振り返る。

 しかしその後、デザイナーは企業に雇用され、企業内にデザイン部が作られ、日本のインダストリアルデザイン界はインハウスデザイナーが中心となる。デザインは、企業の利潤追求のシステムの中に完全に取り込まれ、柳の仕事も次第に環境デザインが増えていった。

【民藝とデザインの狭間で】

 柳は父が創設した日本民藝館の館長を務めている。いま考えれば、柳が若かりし頃、父の民芸運動に反発をしていたこと自体不思議に思える。彼の傾倒していたバウハウスは手工芸と機械テクノロジーの融合を図ったし、ル・コルビュジエも貴族的な装飾的工芸を嫌った一方、実用から生まれてきたアノニマスな道具のデザインを賛美した。

 柳はモダンデザインの最先端という回り道をして、父の民藝に戻った。そして民藝と向かい合うことで、作家不詳のデザイン──アノニマスデザインの力を知る。そこには、もっぱら実用のために作られ、長い時間をかけ、時に何世代かかり改良された真摯な形があった。柳は、デザイナーがデザインをしていないアノニマスデザインを自分のデザインへの姿勢と照らし合わせてきた。

「普通の人や職人が生活のため作った道具が持った美しさ。これをアンコンシャス・ビューティ(無意識の美)という。それは自然に発生した原点だから、美の始源体ともいえる。そこに美の根源があるわけだ。今のデザイナーやアーティストは、民藝品とかアフリカのプリミティブアートとかを見ると、自分の中にいろいろな雑念が入ってしまって自分が純粋に生きていないのが分かるんだ。非常に意識的で派手なポストモダンのデザインみたいなものではなく、もっと根源にある美に打たれて、そこに現代の人は新しいモダンな感覚を見出す」。

「でも、民藝館にあるものをそのまま真似るのはダメだね。今は環境が違うんだから。江戸時代に作られたものをそのまま真似たら、おかしなレプリカになってしまう。やはり現代は現代に生きたものでないと。精神を学ぶだけですよ。僕らは知恵の実を食っているのだから、やはり美しいものを作りたいという意識はある。デザイナーが作れば、必然的にアンコンシャス・ビューティにはならないんだ。だからその意識をどう実現させていくかということになる。するとやはり構造や材料、使い勝手──例えば椅子なら腰掛けやすいということから出発して、そこからにじみ出たものがいいデザインになる」。

「にじみ出る」という言葉を柳がよく使う。デザインを徹底的に意識して、意識することによって無意識的なものの到来を待つ。そして無意識的ににじみ出たものをまた意識ですくい取り、次のにじみ出る瞬間を待つ。そうした逆説的なデザインの方法を可能にしていることは《手》であり、《デザインを常に意識する眼》である。

知恵の実を食べてしまったデザイナーは、逆説的にしか美しきエデンの園には帰ることはできない。20世紀のデザインは、進化論の物語ではない。失楽園の物語なのである。

************
初出・『BRUTUS』95年6月1日号 No.342 p50〜p55 「デザインは進化しているのか?」
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-12-11 17:14 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
マッシブチェンジ ?
1日1ドル以下で暮らす人が12億人いる、という統計は、それ自体がグローバリゼーションであって、世界の人々の生活を「ドル」を基準に測り、1ドル以下でも幸せに暮らせる地域文化が存在する事実を無視している。グローバリゼーションによる貧困問題を解決しようと努力する人たちの思考の枠組みは、グローバリゼーションから逃れられない。

「Design Quarterly 4号」を読んだ。ブルース・マウが提唱する「マッシブ・チェンジ」の概念には、進歩主義の行き詰まりを進歩主義で解決しようとする、薄気味悪さを感じる。デザインが世界を変えるなら、愛が地球を救っているはずだ。

「デザインが世界を変える」という考え方は魅力的で否定はしない。何かを変えようと実際に行動を起こしている人たちは尊敬する。しかし、世界が変わっていくときに、変化に付いていけない人や変化を好まない人にそっと手を差し伸べるやさしさを培うこと──それもデザインだ。誰のための望ましい結果をもたらそうとしているのか。すべての人にとって望ましい方向に世界を変えることなんて出来やしない。そんな諦めから生まれる「やさしさ」もある。地球は救えないけど、誰かは救える。

エネルギー、情報、交通、輸送、金融市場などのインフラストラクチャーは、人によってデザインされたものであり、それら各システムは背後で相互に連関しあっている。肥大化し制御不能になりつつあるそのシステムを再構築することを「デザイン」と呼ぶのに異論はない。ただし、この世界が孕む破綻の可能性を、相互に絡み合う複雑なシステムから読み解き、その中に潜むポジティブな再構築の動きを発見し収集し整理し編集し共鳴させ増幅させる「大きなデザイン」ばかりが「デザイン」ではない。

雑誌には、マウの著書『マッシブ・チェンジ』の序文が掲載されている。序文は歴史家アーノルド・J・トインビーの引用で始まっている。
未来の世代は、政治的衝突や技術的発明の時代としてではなく、主に人間社会が人類の繁栄を、実際的な目標としてとらえようと挑んだ時代として、20世紀を思い返すことになるだろう。
健忘症になれ、と言うのだろうか。歴史の勝者たちが挑んだ「人類の繁栄」の影で、数え切れない戦争・紛争や貧困がどれだけ憎しみ、悲しみを生んだのか。それを単に修復可能のシステムエラーと見なすと、抜け落ちていくものがたくさんあるのではないだろうか。さあ、「グローバルコモン」というのを作って、みんなで議論しましょう、思考しましょうでは、1人ひとりの痛みは癒せない。現に今、世界のシステムエラーが引き起こしている憎しみや痛みや悲しみをひとつひとつ浮かび上がらせ、きめ細かくそれに対処すること。そしてその対処の軌跡を次の世代へ伝えていくこと。

たとえばパレスチナやイラク──。政治家が握手すれば憎しみや悲しみが消えるわけではない。悲しみや傷はそれぞれの心に深く刻まれ、人はそれを一生背負い続ける。
持続可能の成長が実現しようとしまいと、社会は誰かをはじき落とす。どうしても今いる社会に馴染めなくなる人へ何かをしてあげられるかもしれない。1人ひとりの心に届く、きめ細やかな「小さなデザイン」は絶対に必要だ。

デザインとは「システムをデザインする」と同時に「世界のディテールまでデザインする」こと。現象の細部に笑顔や涙がある。変革など必要ない人たちもたくさんいる。

デザインって言葉の定義は伸び縮みするものだ。拡張ばかりする必要はない。デザインとは色や形だけの問題ではないが、色や形の問題でもある。ものづくりや伝達だけの問題ではなく、世界を動かすシステムの問題でもあるが、隙間や辺境にそっと潜む忘れ去られているものの問題でもある。デザインとは、マッシブに世界を変えることでもあるが、絶望し涙する人にハンカチを差し伸べる心でもあったりする。


*********

*LINK / Bruce MauのMASSIVE CHANGEのHP

Change the World──クラプトンの曲みたいに聞き流しとけばいいのかな。で、たまに頭の中でリフレインさせて、考えてみる。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-11-30 17:43 | お気に入りの過去記事 | Comments(1)
 
モダニズム ・ ポストモダニズム
---------(○-ω-)ノ【 Fujipedia 】ヽ(-ω-●)--------

【モダニズム】
「今。ここ」の特殊化。「今。ここ」を世界の中心のゼロ地点とみなし、未来と過去を分断。「今。ここ」という中心から時空間を細かく分節化し、世界の意味や価値を体系化する動き。

【ポストモダニズム】
モダニズムが内包するモダニズムを再構築する動き。モダニズムが世界を際限なく細かく分節化した結果、歴史の連続性が崩れだす。同時に科学がミクロの単位で世界を記述するようになると、「今。ここ」が人間の体感からずれていく。

たとえば、0.1秒後の未来を予知できても、生身の人間には何も役に立たない。人間の意識の中では、今から0.1秒前も後も現在であり、体感として0.1秒単位では未来と過去の区別はない。しかしテクノロジーの世界では0.1秒後の世界ははっきり未来である。人間の筋肉の電位差を読み取れば、0.1秒後にその人がどんな状態でいるかを予知できる。こうして「今。ここ」が人間をはるかに超えて細分化している。

「我思う、ゆえに我あり」が近代哲学を生むように、元来人間を「今。ここ」の主体に据えることからモダニズムは生まれたのだが、科学技術、経済、メディアの進展により、「今。ここ」の特殊化が一人歩きしはじめて、人間が追い出される。これを「モダニズムの怪物化」と呼ぶ。

「今。ここ」から人間が疎外される状況に対して、「今。ここ」の主体に「個として人間」を据え直す動きがポストモダニズム。世界が細分化されすぎ、歴史や教養主義といった軸やヒエラルキーが失われた状態で、モダニズムの内部の動きとして発生する。ヒューマニズム回復運動ではない。個人ひとりひとりの視点から「今。ここ」からモダニズムを再構築する動きで、人間総体をモダニズムの中心に据える動きではない。再構築の結果として、ヒューマニズムに全く無関心の偏向性の強い世界が生じる場合が多く、反人間中心主義も現出しかねない。

フラグメンテーション化(断片化)した歴史や教養の再構築。記憶を拡張する装置を作ることで、「今。ここ」の拡大も行われる。

「今。ここ」という世界の中心が、世界のあちこちに生まれ、それぞれが恣意的に世界を再構築する。個々の再構築された世界は分断されているために、「つながり」を求めて浮遊する。オタク的空間はこのひとつ。分断された世界をつなぐ共有空間(コモンスペース)が必然的生まれ、そこでは「今。ここ」が共有され拡張される。たとえばネットは記憶する……。そうした場こそポストモダニズム空間と呼ぶにふさわしい。

イオニア式円柱やミケランジェロ設計のカンピドリオ広場やハイテク建築を引用し編集した建築デザインのポストモダンは、建築家たちによって強制終了させられてしまった。引用や再編集は、手法として確かに「ポストモダニズム的」だった。しかし、建築として現出された空間は、「今。ここ」を個人に取り戻し、共有し、拡張するポストモダニズム空間とはあまりに無関係なものだった。

むしろ建築家が現代美術館をつくる試みのほうがずっとポストモダニズム的である。そこは「今、ここ」の最前線が繰り返し再生産される「場」である。現代のアーティストが、空間とコラボレーションして、その強烈な個性が位置する「今、ここ」から世界を捉えた表現を制作する。ニュートラルだけれども個性のあるホワイトキューブをつくり、空間との対話を促す。同時に美術館の運営(ソフト)も大切な鍵となる。磯崎新のMOCAや水戸芸術館から、現代のSANAA設計の金沢21世紀美術館などに続いている動きである。「今、ここ」の主体が入れ替わり立ち替わり変わり多元的な世界観が展開され続ける仕組みを戦略的に編み出しているという意味で、ポストモダニズム的といえるだろう。

1980年代当時に「建築デザインのポストモダン」とされたものは、無数にある再構築を試みた実験のひとつでしかない。あの当時ポストモダンに見えなかったものがよりポストモダニズム的ということもある。1980年代前後の実験のひとつが失敗したからといってポストモダニズム自体が終わったわけではない。

再構築は無限に繰り返される。ただ、最終的に人間性の回復に繋がるかは不明。再構築は怪物化のスピードを高めるだけかもしれないし、怪物化したモダニズムに対するドンキホーテなのかもしれない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-10-13 14:20 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
だいたい80年代なデザイン用語集
ある人にメールを書いてたら、80年代用語集みたいなものができてしまいました。おもしろいから加筆して載せます。
80年代といっても正確に言えば70年代後半から92年バブル崩壊あたりまでの話です。実はこの時代、今とほとんど価値観は変わりません。バブルの崩壊があったので断絶しているように見えるだけですが、行き過ぎた軽薄短小の中に、現代文化の重たい本質が隠されている──僕はそう思っています。さて、じゃあ、用語集、始めます。
※注/このエントリーはどんどん加筆していきます。最初にアップした状態とはずいぶん変わると思います。


---------(○-ω-)ノ【 Fujipedia 】ヽ(-ω-●)--------

【近未来】
冷戦が終わり、ブレードランナーやAKIRAのような「核戦争以降の汚染され荒廃した大都市=近未来」というイメージは少なくなりました。80年代廃墟のイメージは、磯崎新のつくばセンタービルやナイジェル・コーツの建築などに使われました。だけど「ピクチャレスクな廃墟+ハイテク」のイメージは今もしっかり生きています。押井守はその正統な継承者です。阪神淡路大震災やグラウンドゼロはまさにそのイメージの現実化。どんよりした近未来の雲は今も世界を覆っています。

【ポストモダン】
ポストモダニズムは終わっていません。モダニズムも終わっていない。建築デザインでの狭い意味でのポストモダンがあっけなく消え去っただけ。モダニズムのエッセンスを巧みに編集し直している安藤忠雄や、フランク O. ゲーリーの構造と意匠の従来の棲み分け方を崩した建築や、佐々木睦朗の構造設計こそ、ポストモダニズムと言ったほうがいいと思います。70年代後半から80年代に起こったことは「モードとしてのポストモダン」。しかし本質的なポストモダニズムは現代的問題だとしっかり定義し直したほうが、90年代から00年代の建築の流れは見えてきます。建築の方々は様式論的にものを見ることが好きなようですが、様式論ではもはや21世紀は区分できなくなっています。
プロダクトデザインも同様で、ポストモダニズムは過去のものと思い込んでるデザイナーが多すぎます。モダニズムは悪辣な本性を現し、現在の世界を支配しています。それに対抗する力は、21世紀の人々が考えなければならないことです。

【文化戦略】
西武セゾンの文化戦略は経営的失敗で挫折したけれども、企業がブランディング戦略やCSR(企業の社会的責任)活動の一環として文化戦略を行う意味は増大しています。ルイ・ヴィトンが村上隆とコラボしたり、プラダがヘルツォーク&ド・ムーロンに店舗を設計させたり、エルメスがレンゾ・ピアノに設計させたビルで現代美術の展覧会を行うのはしっかり文化戦略ですからね。
とにかく最先端の「情報発信基地」をめざすため、現代美術や現代音楽、演劇、映画の砲弾をターゲットを定めずとにかく打ちまくっていたのがセゾンの80年代の文化戦略だと言えるでしょう。貧乏な美大生や舞踏青年を相手にしてどうすんの?ってのがありましたから。それに比べて現代の文化戦略はかなり洗練され標的もしっかり定められてます。

【DCブランド】
デザイナーズ&キャラクターズ・ブランドの略。死語化してますが、ブランドビジネスにデザイナーのキャラが大切なのは、今も昔も変わりません。±0は深澤キャラでもっているブランドですし。
いま発売の『BRUTUS』を見て驚いたのですが、NIGOは自分の名前の横に小さくRと登録商標マークを入れてます。なんだかな。DCが流行していた当時は、デザイナーズブランドとキャラクターズブランドは微妙に別物だったのですが、ここでは完全に「デザイナー=キャラクター」になっています。デザインビジネスというよりキャラクタービジネス。進化した究極のDCブランドとでもいいましょうか。

【なんとなくクリスタル】
現・長野県知事のデビュー小説。出てくるブランドは隔世の感がありますが、記号論的生活を浮遊する虚無感は25年後の今も変わりません。メディアはその虚無感を否定するのにあの手この手で必死です。いまやラーメンも建築家もブランド化の時代ですから。1981年刊で1980年の東京が舞台。主人公はいま息子が大学生くらいのお母さんかもしれません。
「なんとなく」というあいまい表現が時代を先取りしています。なんか〜、みたいな〜、感じ。今なら「ビミョーにクリスタル」ってとこでしょうか。

【マルチメディア】
CD-ROMコンテンツ業界が衰退したせいで、この言葉は死語となりましたが、五感や身体感覚のデジタル化の重要性は現在も増す一方です。

【ソビエト連邦】
いまや地球連邦やジオン公国くらいのリアリティになってます。

【パンク】
リアルにパンクを体験した人たちは1970年代後半ですが、80年代にも余韻が残ります。セックスピストルズとかクラッシュとかデッドケネディーズとかモッズとか聴いてた人たちは、パンクがここまで根強く、しかもファッションとして広がりをもって生き残ると、誰が想像したでしょうか。パンキッシュなんて言葉もあってオジサンビックリです。NANAと見るとNENAかと思うし。ネーナの曲はポップスだけど脇毛はパンクだったなあ。

【ヘタうま】
言葉自体は死語化してますが、今もヘタうまのパワーは強烈です。ヘタうまの元祖、湯村輝彦はいいイラストを描き続けているし、花くまゆうさくとか白根ゆたんぽとかしりあがり寿とか継承者もしっかりいます。ニューペインティングとグラフィティとコミックスとパンクを結ぶ美意識ですし、反抗的「ゆるさ」とでも言い換えられましょう。

【新人類】
もう40〜50歳です。ホントに新人類だったんでしょうか。今は勝ち組とかいって、がっちり保守層を形成しています。

【イラストレーション】
ダンボールを使ったオブジェで注目を集めた日比野克彦が、1980年代のイラストレーション界を変えました。
当時NYで「ニューペインティング」(新表現主義絵画)と呼ばれた現代美術の新しい潮流が起こります。現代美術界では、1960代後半から1970年代、コンセプチュアルなアートが流行したため、作品の商品化が難しくなります。絵画というのは最も流通させやすい美術の形態なのです。欧米では現代美術のディーラーの後押しもあり、絵画の復権が起こります。
日本にもこの動きが入ってきます。しかし不思議なことに、日本では現代美術界で絵画の復権より、イラストレーションやデザインのアート化という現象を引き起こします。当時イラストレーションの世界ではエアブラシを使ったスーパーリアリズムが流行していました。超絶技巧がないとイラストは描けない。かといって日本の現代美術の閉鎖的な世界に違和感を感じる。そうした若者たちが、ヘタうまの流行、欧米のニューペインティングの影響を受けて、新しいイラストレーションを目指します。グラフィックデザイナー横尾忠則の画家転身もニューペインティング現象抜きには語れません。
日比野克彦が1982年日本グラフィック展で大賞を獲ると、日グラ展や日本イラストレーション展(JACA展)といった公募展に若者たちが大挙してニューペインティングな作品を持ち込みはじめます。榎本了壱は当時彼らを「デザイン難民」と呼んでました。
Macの浸透のせいでイラストレーション事情が一時がらりと変わり、オブジェ化した作品が減りました。しかしあの頃の日グラ展やJACA展の祝祭的勢いはGEISAIやデザインフェスタ、デジスタなどに引き継がれています。

【バブル】
いま再び。

【スウォッチ】
限定、アーティストとのコラボ。おそらくケータイデザインはスウォッチの道をなぞるでしょう。もちろん時間を刻むという単機能とケータイの超多機能とではえらい違いはありますが、あれほど多くのデザインのバリエーションを出して、出せば出すほどブランドアイデンティティを強めたスウォッチの戦略は、いまだそれに比すものありません。どちらかというとデザイン言語を絞り込みじわじわ広げるApple流のほうが本流ですから。

【Be-1】
坂井直樹プロデュースの日産の小型車。Be-1を考えると今、日産がデザインを売りにして、ニューデザインパラダイスなどのスポンサーをしているのが時代遅れに感じます。曲面の質、かたちの力、プロポーションは今の日産デザインにはるかに劣りますが、デザインによって乗る楽しさ、所有する喜びを伝える「メディア」としては、モダンリビング云々と歯が浮きそうな言葉で商売している現行の日産車に負けていません。いやむしろそれ以上です。後継のPAOはそこそこでしたが、坂井直樹プロデュースでいえばオリンパスのO-PRODUCTが名品。1934年MoMAのマシーンアート展に出品されていたアノニマスな機械あたりを巧みにリミックスしてます。引用やリミックスにもセンスと才能が必要です。M2とは違います。

【感性】
この時代、一人歩きし始めた言葉の代表です。大切な言葉ですが乱用されすぎました。西友のデザインワークを集めた本のタイトルは『感性時代』。で、いまだに感性品質とか感性デザインといった一人歩きをしてます。人間の感覚や感情、嗜好を定量化して科学的記述を試みる感性工学の存在意義は分かります。でも、感性デザインって何ですか? 大学の学科名にもなっているようですが意味不明です。

【ニューアカ】
ニューアカデミズムの略。みなさん、今も逃げてますかあ? 僕は逃げてるかも。結局、浅田彰以外誰がいたんだろう? あっそうか中沢新一。

【ファジー】
この言葉もマスメディアによって一人歩きさせられた言葉です。いまは故郷の工学の世界に戻って地味に暮らしています。捕らえ所のない曖昧なものに「感性」や「ファジー」「新人類」といった学術用語っぽい言葉をのせ畏怖の念を加えて商売していた人たちがいたわけです。

【ハイテク】
難解な哲学用語を駆使する若い学者は「ニューアカ」、上の世代にとっては異質だけど才能のある若者は「新人類」、文化の目新しい動きは「ニューウェーブ」……そうした中身はよく分からないが注目すべきものを一括りにする便利な言葉のテクノロジー版が「ハイテク」でした。技術が高そうならなんでもハイテク。ハイテックともいいました。ホログラムとかビデオとか使うと「ハイテクアート」。宮島達男のLEDのカウンターも出てきた当時はバリバリのハイテクでした。
ノーマン・フォスターの香港上海銀行ビルは「ハイテク建築」と呼ばれていました。今、ゲーリーの建築を見て、あのビルはコンピュータで構造解析して斬新な構造を持つから、ハイテク建築だなんて呼ぶと失笑を買います。ハイテク産業って何のことを指したのでしょう。きっとIT産業という言葉も同じ運命を辿るんだろうな。

【空間プロデューサー】
松井雅美、山本コテツ、シー・ユー・チェンといった方々がおりました。松井雅美の著書は『空間の神はディテールに宿る』です。あれミース? モデルのような出で立ちの写真も掲載された芸能人本っぽい本です。バブル経済崩壊とともに人気空間プロデューサーたちはメディアからいっせいに姿を消しましたが、今も活躍されているようです。
彼らの打ち出した方向性自体は間違っていません。というより彼らはナラティブデザインの先駆者です。ナラティブとは物語性のあるってこと。インテリアデザイン、サービス、メニュー構成、ユニフォームまでトータルにディレクションし、空間に物語を展開する彼らの手法はいまや飲食の王道です。たとえば、テレビなどで有名な、紅虎餃子工房などを持つ際コーポレーションの中島武社長はデザインのこと、かなり詳しいようです。
※参考/中島武と仲佐猛の対談。

【スタルク】
この人こそ、1980年代の胡散臭さと21世紀をつなぐ象徴的人物。うんこか炎か。どっちにも見えるからスゴいんです。浅草のビルのことですよ。

【記号論】
思想的な流行とか関係ない基本中の基本です。ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』はデザイナーの必読書です。過去の思想だと思う人はブランディング戦略に無知な人たちです。

【メンフィス】
1981年エットレ・ソットサスが立ち上げたデザイン集団。組織というよりゆるくて広がりのある“集まり”だったので、デザイン運動といったほうがいいかもしれません。
ソットサスはデザイン思想の創造者というよりはトリックスター、お騒がせ役です。ポストモダンの世界的な流れを大々的に利用したにもかかわらず、あれはポストモダンじゃなくニューインターナショナルスタイルだと言っていたわけですから。考えてみればメンフィス以前のソットサスはペリー・キングと共作の赤いABS樹脂製ポータブルタイプライター以外、目立った代表作がない。ただMoMAのニュー・ドメスティック・ランドスケープ展に参加するなど重要な場所でしっかり存在感をアピールしていた。お騒がせ役じゃなんなんで、知的で詩的なトリックスターといっておきましょう。
トリックスターがその時歴史を動かします。それが1981年の第一回メンフィス展です。ラディカル路線が行き過ぎ、国際的に力を失いかけていたイタリアデザイン界にカンフル剤を打ったのです。日本から倉俣史朗や磯崎新らが参加したメンフィス展は、一流デザイナー&建築家の国際ネットワークを張り巡らせ、ラディカルデザインの余韻が残るミラノこそ世界最先端のデザインの中心地だと宣言したようなものです。アレッサンドロ・メンディーニも同じような仕掛けを行い、二人はデザイン王国イタリアを復活させます。その功績はもっと評価されるべきです。
現在、行かない人間はちょっと引くくらいの盛り上がっているミラノサローネは、メンフィスのカンフル剤のおかげといっていいでしょう。

【CI】
中西元男率いるPAOSは1970年代マツダやダイエーなどのCIを手がけ、1980年代日本のCIデザインを一気に花開かせます。もちろんCIはパオスだけがやってわけじゃありませんが、あまりにどの企業も幾何学的でモダンな、パオスっぽいロゴになり、あえて手描きっぽさで勝負した吉田カツが描いたフジテレビのマークが実に新鮮に見えました。
バブル崩壊でCIブームは去ります。しかしブランディングという観点からいえば、CIの大切さは今も変わりません。楽天もソフトバンクもライブドアも企業ロゴはえらく安っぽい。消費者金融と変わらない。IT企業の経営者はCIの勉強をし直したほうがいいでしょう。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-02-05 02:27 | お気に入りの過去記事 | Comments(9)
 
自分らしさ(3) 記憶ビジネス
人は記憶の塊である。渋谷のハチ公前交差点や新宿駅のホームの雑踏で「この人たちみんな違う記憶データを積んでるんだ」と思うと少しばかり身震いがする。生まれてからこのかた見てきた光景は人それぞれ全く違う。住んできた所も1時間前の体験も違う。しかも、外見からだと誰も他人がどんな記憶を持っているか分からない。それぞれ違う記憶の塊がうじゃうじゃ町を歩いている。

その「読み取り不能の似てなさ」に身震いするのだ。外国で初めて地下鉄に乗ったときの感覚──周りの人たちが顔立ちも言葉も匂いも違うのにおののき、異邦人を自覚するときの身震いである。

人は親しい人と記憶の共有化を行う。いっしょに映画を観て、いっしょに旅行して、いっしょに飲んで食べて……重なり合った記憶はお互いのコミュニケーションの基盤となる。しかし旅の記憶で他人と完全に同じデータを共有できるのはスナップ写真くらいである。同じ場所に行ったり同じ本を読んだからといって、他人と全く同じデータが脳に書き込まれるわけではない。視点も感じ方も違う。忘れ方も異なる。僕と弟の子どもの時の記憶は似ていない。

人の脳にある記憶はそのまま複製することはできない。本やブログを書いて言語化したり、写真やビデオで映像化することで、共有化用フォーマットに変換はできる。しかし、その記憶は編集されている。

再生不能の記憶もある。たとえば匂いの記憶──5月の雨の降りはじめにアスファルトから立ち上げるホコリっぽい乾いた匂い。空間の記憶──視覚的記憶は定かでないのだけれど「あっここ、むかし来たことがある」と軒の高さとか塀との距離感とか坂の傾斜で想起する空間感覚。そうした記憶の集積の上に「自分」がいる。

いま子どものときから「自分らしさ」を探し求めてきた人たちが、高齢化しはじめている。ポテンシャル探しの欲望は果てしない。定年退職して油絵を始めたり旅行に行ったり……。学習への意欲を持続させること自体は「生」にとって不可欠である。しかし若いときほどのポテンシャルは望めない。

「自分探し」のもうひとつの選択肢が「自分らしさ=記憶」である。「自分らしさ=能力」に成功した人も失敗した人も、記憶に関しては平等に機会が開かれている。僕らの世代が老人ホームに世話になる頃には、TVゲームをやってたり、ロックを聴いてたり、昔のテレビ番組を見たり、ネットで昔話に花を咲かせたり、そんなジジババが増えてるのは確実だ。TSUTAYA併設の巨大介護老人ホームなんていうのも将来できるかもしれない。

かつて親戚や地域社会は記憶装置だった。祭りをしたり、老人が子どもに話を聞かせたり、幼い頃から顔見知りの人たちが近所に暮らしている。生まれた土地に暮らし続けることが、記憶を保ち、共有化することであった。個人の記憶は変わらない風景と地縁・血縁の人々によって自動的にセーブされる。田舎では記憶がかなりの部分共有化されているから、人がたくさん集まっても都会の雑踏で感じるような違和感がない。

だが、地域社会や家のつながりはかつてほど支配的な力でなくなっている。同じ趣味や似たような価値観を持つ仲間たちのコミュニティに参加して、他人とのつながりを求める人々が増えている。血縁や地縁から自由になるということは、共有化していた記憶媒体を失うことを意味する。隣人と会話したこともない都会のマンションで一人暮らしていては誰もあなたのことを自動的にセーブしてくれない。だから昔のドラクエをやったりクイーンを聴いたり「風の谷のナウシカ」を見ながらネット実況をする。老人になる前に、30〜40歳代でもふつうに今でも行っていることである。記憶を共有化できるメディアを欲しているのだ。

記憶探しに老若はない。地縁や血縁に頼った外部記憶装置が機能しなくなっているのだから。デジカメで大量の写真を撮り、子どものムービーを撮り、画像の鮮明さにこだわりどんどん新製品を買い、ブログで日記を書き、あちこち旅して思い出を作り、習い事して「作品」を作る。人は必死になって「何か別の外部記憶メディア」を探し続けている。ファミコンの十字キーの感触は再現できるが、あたり一面マンションに建て替わってしまった故郷の風景は元に戻せない。

何か別の外部記憶メディアが、失われた記憶を補完し、脳に眠る未編集の記憶を呼びさます。メディアに記録された記憶はテイストや価値観の似た人たちと共有する。そして個体の死を超え記憶を残す──個の自由を手に入れた代わりに、従来の記憶装置を失った人たちが自分探しの旅の途上で、自分のユニークさを確認するための新たな記憶装置を望むのは当然のことである。それは現代人の大きなニーズであり、記憶を巡って果てしないビジネスチャンスが広がっている。僕はそれを「記憶ビジネス」と呼ぶ。

いま金銭的に余裕ができて「ゆとり」とか「癒し」が欲しいと思っている人たちもおそらく自分探しの最終章として「記憶」にこだわるようになるだろう。記憶こそ自分が自分であることの証明なのだから。癒しビジネスより記憶ビジネスである。

記憶メディアの容量とCPUの計算スピードは上がる一方なので、自分の一生を動画で撮り続けるとか音を録音するとか、そんな力業も可能だろう。実際、すでに記憶をテーマにしたヒューマンインターフェースの研究は盛んである。

記憶ビジネスは時間的スパンの長い仕事だ。記憶は過去のものほど価値がある。どう使うか、どう膨大な記録を編集するか、は後から考えてもいいかもしれない。記憶メディアがどんどん大容量化して安価になりコンピュータが高速化し、素人でも簡単に使える高性能編集ソフトが生まれるはずと見越して、とにかく先に人生のログ化を行う必要がある。

画像や音声やテキストだけでなく、身体感覚や空間感覚の記憶や再現は、記憶ビジネスの成否の大きな鍵になるはずだ。たとえばこんなアイディアをひとつ思いついた。ホンダの二足歩行ロボットASIMOの身長は120センチだ。もしASIMOと視線を共有できたら小学校1年生の頃の目線に戻ることができる。それで小学校の校舎を歩き回りたい。あの時よじ登った塀の高さを眺めてみたい。高いなって思うんだろうな。

ある人から「あなたの失った大切なものを教えてください」と質問をされたことがある。で、こんな答えをした。「体型」。僕は58キロだった大学生の頃の身体感覚をいまだに引きずっている。でも今80キロ(うそ、83キロ)もある。週に3〜4日ジムに行ってんのに。行かなかったらどんな体型になっていたことだろう。ジャバ・ザ・ハットか。体を丸ごとデータ化して保存しておきたかった。細い二の腕を握ったときの感覚も記憶しておきたかった。オレはパンクだから太ったら死ぬ、40歳で死んでやると言っていた(スミマセン、来月で43歳です)無茶な思いって、あの時の痩身だった身体感覚に密接につながっていたのだから。

記憶ビジネスは過去の回想ばかりする後ろ向きの人間を生み出す産業ではない。記憶ビジネスではもう一度「マルチメディア」という言葉の重要性が浮かび上がることになるだろう。この言葉が死語になったのは、90年代半ばCD-ROMを媒体としたマルチメディアコンテンツ産業がインターネットの普及でネットコンテンツ産業に取って代わられたせいで、マルチメディアの理想が陳腐化したのではない。身体感覚をコンピュータに取り込み、視覚、聴覚などに分断された感覚を統合し、肉体的束縛から感覚の解放を図る──そうしたマルチメディアの精神を記憶ビジネスは受け継ぐことになる。

****
長くなったので今回の「記憶ビジネス」の話はここまで。いつになるか分からないけど続きを書きます。きっと「記憶の共有化」について。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-14 17:00 | お気に入りの過去記事 | Comments(6)


S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。