藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
カテゴリ:二項対立( 8 )
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
更新される第三項
本日、和光大で第三項の話をした。その中で太極図がなぜ第三項につながるか。その話をし忘れた。Twitterでつぶやこうとしたら、長文になったので、こちらでつぶやく(だからいつもとちょっと文体が違う)。

太極図は、陰と陽が動的に均衡を保つのを示した図。陰陽は共存するもの。対立して弁証法的に高次の発展を遂げるわけではない。

常に動いているというのが、この均衡の大前提。もし静止していたらとてもバランスが悪いものでも、流れの中では均衡を保つことができる。つまり、同じ力の二項でもその均衡点は中央にあるとは限らない。極端にどちらかに振れている場合もある。

時代とともに、制約とニーズは常に変わる。問題解決のために同じ方程式を使っても、わずかな初期値が結果を大幅に変えることがある。その時その場所に最も有効と思われる均衡点を打つ作業が「第三項」を探すこと。

流れを見極め、二項の間に常に新鮮な答えがあると確信し、それを熱心に探し出す姿勢が必要となる。最強の矛が勝つか、最強の矛が勝つか。戦いが一発で決着がつく一回限りのものでなく、永遠に続くものであるとすれば、そこに「矛盾」は存在しなくなる。盾を半分貫いたが矛も傷ついた、といったグレーゾーンの状態が繰り返される。優勢劣勢は交互に入れ替わる。無限の戦いは宇宙の舞いとなり、それ自体が美しい。答えは常に更新され、有って無きものが如し。

デザインがパパネックが言うように秩序を求める作業だとすると、僕は答えの在処の有為転変にデザインの面白さを感じている。

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本ブログでの第三項に関連する記事は、こことかこことかここ
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by cabanon | 2009-11-13 21:12 | 二項対立
 
矛あっての盾。盾あっての矛。
「美しい矛盾」ということをずっと考えています。

矛盾の故事は、ご存じの通り「この矛はどんな盾でも貫く」「この盾はどんな矛でも防ぐ」といって矛を盾を売る者がいて、客に「ならばその矛でその盾を突いたら、どうなるのか」と問われて、返す言葉がなくなるという話です。

しかし、この商人はひどく愚かな人物です。もし機転の利く商人なら、矛と盾の対決で人を集めて見物料をとって儲けます。

ここで重要なのは「問い」を投げかける人がいることです。「問い」はチャンスです。商人が1人で「世界最強対決」と掲げて興行を打っても、見せ物小屋の刀を呑み込む男程度の集客力しかないでしょう。しかし衆人のもとで発せられた鋭い問いには、多くの人の関心を巻き込む力があります。

問いを投げかける人は、矛が強いか、盾が強いかを問うているのではありません。オマエの話はホントかウソかはっきり証明してみせろと言っているのです。どちらが勝っても、この商人は大恥をかくことになります。絶体絶命のピンチを商人に逃げ道はあるのか。観客はそこにスリルを感じ、恥をさらす愚者の姿(まさに謝罪会見)を見て、満足します。

問いを投げかける第三者の視点が、「矛と盾のどちらが強いか」という二項対立と同時に、「この商人は信用できるのか、できないのか」というもうひとつの二項対立を生じさせているのです。

中国のこの故事には、この客は真実を見抜く眼力を持つ賢者で、商人は人を騙す愚かな悪者という不可視の図式があるために、後者の二項対立は問題にされていません。

見物料をとってイベント化するというのは、商人がこの暗黙の了解を可視化させて疑問を投げかけようとする行為です。勇気のいる行為です。

やっぱり私はウソつきでしたと、最後に謝罪して、でも、興行としてはがっぽり儲ける自虐的商売の仕方もあるでしょう。問いを発する客を仕込んでおけば、各地で巡業ができます。

しかし、商人が問いを発した客以上の賢者だったら、商人は対決が終わった後に、見物人たちに向かってこう言うでしょう。

「あなたがたは歴史を見たのです。最強であることは最強のものを倒すことによってしか証明できない。だから最強の矛が、どんな盾でも突き抜くことができると宣言するのは正当であり、最強の盾がどんな矛を防ぐと宣言するのも正当です。最強の矛だけ売っている商人は、それをいつまで経っても最強であることを証明できないでしょう。矛あっての盾。盾あっての矛なのです」。

僕はこうした解決策を生むことがデザインだと思っています。

膠着関係となった二項対立に、衆人のもとで「問い」を投げかけて、多くの人を巻き込みながら第三の視点を生むこと。問いの行方をみなが注目していることが、最高のチャンスです。「問い」に対して沈黙してしまうのでなく、逃げるのでもなく、真っ向から立ち向かう。敵対し行き詰まった二項対立が、つながりあう柔軟な二項対立へ変えるのは、第三者の優れた問いです。矛と盾は、敵対関係でなく、共生の関係であることを示すには、優れた問いと、それを受けとめる勇気と知恵が必要です。

以前書いた「優れたデザインは矛盾を美しく見せる力を持っている」というのは、こういう意味です。デザインの「知」は、論理の世界とかたちの世界を自由に行き来します。「矛盾が美しい」とか「つながりあう柔軟な二項対立」(まさに太極図の世界です)という表現自体が矛盾していると考えるのは、論理の世界の思考であって、かたちの世界の思考は、それを可能してくれます。論理の世界と違って、かたちの世界は、矛盾をやさしく包み込んでくれるのです。
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by cabanon | 2008-01-22 14:25 | 二項対立
 
PINK
PINKは赤と白の間の色です。

青と白の間は水色ですが、水色は「青い」と言ってしまえます。淡緑も萌葱も緑の属性の一部。薄紫は紫の一部です。

黄と白の間はクリーム、茶と白の間はベージュです。広く使われている人気ある色ですが、色としての個性は薄く、周囲との調和の媒介になる色として使われます。色としての象徴性はPINKに遠く及びません。

赤と白の間のPINKだけが、原色に匹敵する個性と象徴性を持っています。

黒と白の間のグレイは、PINK同様、黒からも白からも独立した個性を持っています。しかし、グレイを「色」と呼ぶか、「色彩の欠如」と考えるか、は意見が分かれるところです。

白は合理主義の色です。1920〜30年代のモダニズム建築の色です。脳みその色でもあります。
赤は血の色です。情熱や感情の色です。
その間に存在するPINKは、私たちの体の中の色です。理性も感情もPINKの中に包み込まれています。黒人も白人も黄色人種も、体を切り裂けばPINKです。桜、桃、薔薇、しあわせ、エロス、子供っぽさ、女性らしさといったさまざまなイメージを持ちながら、実は人間にとってこれほど普遍性を持った色はないのです。

岡崎京子の『pink』を久々に読み返しました。ありのままに、体の中の色のように生きてきて、いろんなヤな出来事の末、いつの間にか、性の記号としてのPINKと同化し、つまりOLしながら売春して家ではワニといっしょ暮らして、でも、それが妙に心地よく……という女性の話です。PINKが都市をふわりふわりと彷徨いつづけるのです。口紅の色もPINK、肉体の色もPINK。商品化された欲望も狂おしく体を駆り立てる欲望も、大人の分別も子どものイノセンスな心も、お金も愛も、すべてを平等に包み込んでくれる色──それがきっとPINKなんです。

* 僕のPINKの論考の大部分は、アーティストの笠原恵実子から教えてもらったことを、勝手に膨らませたものです。

**赤と白は弁証法で言うところの、どちらがテーゼでどちらがアンチテーゼというものではありません。だからPINKはジンテーゼではありません。その間にあるもの。赤と白を混ぜ合わせたら、そこにもうひとつの世界が開けていたのです。それが「三項目」です。否定の否定でなく、そこにすでにあるもの。ありうべきものとして存在する矛盾です。
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by cabanon | 2006-10-03 22:16 | 二項対立
 
第三項
昨晩(というか今朝早く)、デザイン概論用のパワポをつくっていて、二項対立に、第三項を設定し、そこを徹底的に掘り下げることが、現代デザインにとっていかにアクチュアルな問題かを再確認。アウフヘーヴェン不要の三項目です。
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でも、学生の反応は薄かったなあ。パワポを使って机に座って講師が一方的にしゃべってるだけですから、当然眠くもなります。
二項対立を考えると問題設定しやすいよ、くらいの話で止めとけば、わりやすいのでしょう。でも、それじゃあ当たり前の話だし。モダニズムという用語を使わないポストモダニズムの説明への試みだったりするわけです。もっともっとリファインさせなくちゃいけません。
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by cabanon | 2006-09-22 16:40 | 二項対立
 
二項対立(4)つながりを見つけること
2つのものを対比させると、ものの性格を分かりやすく描き出すことができる。雑誌でもテレビでも頻繁に使われる常套手段だ。たとえば、朝日新聞とNHKの徹底比較とか、二人の天才レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラーメン対カレーライス、アキバとウラハラの文化史など……。

朝日新聞と比較するのは読売新聞でもニューヨークタイムズでもいい。ダ・ヴィンチ対ラファエロでもいいし、ダ・ヴィンチとピカソの比較でもいい。まして相手がラーメンなら「どっちの料理ショー」のごとく、讃岐うどんでもスパゲッティでも寿司でもいい。アキバと銀座を比較するのも面白い。

つまり二項対立ではあるが、任意に2つの項目は選べる。ただ、対比させて語るには、お互いに共通点がないと、説得力を持たなくなる。支配的なマスメディアであること、ルネサンスの巨匠であること、天才と言われていること。国民食であること。人気麺料理であること、文化の発信地であること……、こうした共通点があるから、2つの比較がお互いが相手の性格を照らし出す対照的な関係になる。

昨年ちょうど今頃、Casa BRUTUSのモダニズム建築特集で、編集者からブルーノ・タウトとアントニン・レーモンドの二人で記事を作ってくれないものか、と相談を受けた。外国人建築家であること。日本に滞在して、日本のモダニズム建築の基礎を築いたこと。日本に実作を残していること。二人にはたしかに共通点がある。しかし、あまりに違いすぎる。

タウトは1933年から3年半しか日本にいなかったが、レーモンドは45年間も日本にいた。タウトはドイツで名声を築いたが、ナチスに追われ日本へたどり着く。が、建築の仕事はほとんどなく、工芸指導をしながら群馬のお寺の草庵で隠者のような生活を送っていた。レーモンドは1917〜37年、戦後1947年〜73年日本にいて、住宅、オフィス、米軍基地、学校建築などバキバキ仕事をして、モダニズム建築の先駆者として地位を築き上げた。

モダニズムつながり、外人つながりだからって、何か具体的に二人の建築をつなげるものがないと記事が書けない、と最初はこの企画は無理だと言った。とは言いつつ、滞在期間が重なっているし、どこかで二人が会っているかもしれないと資料をあたってみることにした。

すると、井上房一郎という人物が浮かび上がってきた。井上は高崎の建設会社、井上工業の社長の子息で、パリでの遊学経験がありヨーロッパ文化への造詣が深かった。仙台の工芸試験所を半年で辞して東京に戻っていたタウトを、井上は高崎に招いた。郊外の達磨寺境内にある洗心亭を住まいとして世話し、地元の工芸指導を依頼した。
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タウトの暮らした洗心亭

井上は、銀座と軽井沢に「ミラテス」という工芸ショップを持っていた。銀座の店でタウトデザインの照明スタンドを気に入った実業家、日向利兵衛は、熱海の別邸の増築部分のインテリア設計をタウトに頼むことになった。それがタウトの日本に残る唯一の実作、日向別邸だ。
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井上房一郎邸。現・高崎哲学堂

井上とレーモンドもミラテスで知り合ったと言われている。戦後、井上は東京の麻布笄(こうがい)町にレーモンドの自宅を訪れた。その家をえらく気に入り、レーモンドに頼んで図面を借り受け、高崎にほぼ同じものを建てて、自分の家とした。レーモンドの後期の傑作、群馬音楽センターの設計を彼に依頼するように仕向けたのも、群馬交響楽団の理事長であった井上だった。
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群馬音楽センター@高崎

高崎という町、井上房一郎という男を通して、タウトとレーモンドはつながっていた。

物書きにとっての二項対立は見つけるものだ。解決するものでも、二者択一を迫るものでもない。矛盾は矛盾のままで面白い。2つがどうつながっているかを探り出し、つながりを対立軸にして2つを対照的に描き出す。逆に言えば、つながりさえ見つけ出せば、どんな二項対立も可能になる。

タウトとレーモンドはナチスの被害者という点でもつながっている。タウトは共産主義に傾倒したためナチスのブラックリストに載っていることを知人から知らされ、スイス経由で日本に来た。レーモンドはチェコ人で彼の兄弟姉妹は全員ナチスの侵攻によって殺された。レーモンドは戦時中アメリカ軍に協力し、爆撃のシミュレーション用に日本の家屋をアリゾナで再現した。どうやったら焼夷弾で日本の木造家屋を効率よく燃やせるか。その実験だった。ナチスと同盟関係にある日本をあの戦争から早く手を引かせたかったからだったという。レーモンドは戦後日本に戻りその惨状に涙したという。彼の中では日本への愛着よりナチスへの憎しみが勝っていた。

デザインを叙述することを仕事とする僕が二項対立にこだわるのは、おそらくデザインという作業もまた二項対立を見つけることから始まるものだからだと思う。二項対立を見つけることは、つながりはどこにあるかを探すことでもある。
デザインとは矛盾を解消する手段じゃない。“優れた矛盾”を創り出す作業だ。2つ前の投稿にも書いたが、デザイナーの役割は「実用性と造形美、高品質とコスト抑制、環境保護と経済発展、生産者の論理と生活者の視点、製造側の思惑とマーケットのニーズ、ユニバーサルデザインと個別対応性、伝統と先進性、地域文化と国際性、利潤追求と社会倫理といった矛盾をはらんだ問題をいかに解決するか」であり、取り組むべき問題は山積みだ。

だが、こうした二項対立の矛盾を完全にデザイナーが解消することは不可能だ。矛盾をどこかで両立させる解決策がどこかで必要となる。デザインとは、どう心地よい矛盾を創り出すかという知恵だと思う。それが“かたち”を司るデザイナーの領域だ。ここで言う“かたち”とは実世界の二次元・三次元的物体だけを指すわけではない。ソフトウェアも人とモノとの関係性も“かたち”である。

かたちとは矛盾の器。僕はそう定義する。

概念上で二項対立の矛盾が解決できても、それを“かたち”にした瞬間に、かたちの中に矛盾が生まれる。たとえばユニバーサルデザインを考えればいい。完璧なユニバーサルデザインは存在しない。優れたユニバーサルデザインと呼ばれる製品でも誰かにとっては使いづらく、必ずユニバーサルデザインの理念に反する要素が含まれている。

が、心地よい矛盾というのがある。それは美しきコントラストとなる。矛盾は力強い逆説を生む。矛盾の美しさを創造する力こそ、“かたち”の創造に携わるデザイナーの力である。

矛盾というとネガティブな印象のことばなので、こう言い換えておく。
デザイナーの仕事とは、一見全く違う方向性を持ったものの間に、誰も気づかなかったつながりを見いだし、そのつながりを美しく見せること、それが美しい“かたち”を作ることだ。
”かたち”はつながりの器。共存の器でもある。

それを読みとるのが僕ら物書きの仕事だ。どんなつながりがあるのか。作った人間も気づいていない二項対立やつながりが潜んでいることも多い。それがあるから、この仕事は面白い。
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井上房一郎邸の苔。あの日も雨だったなあ

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by cabanon | 2005-06-02 19:32 | 二項対立
 
二項対立(3)デザインとアート
男と女というのは典型的な二項対立だが、世の中オカマもオナベもいる。ホモセクシャルとヘテロセクシャルだけでなく、バイセクシャルもいる。ゲイを溌剌と生きる人もいれば、性同一性障害に人知れず悩む人もいる。ゲイにはネコとタチがある。

ちなみにネットで調べたらネコとは動物の猫じゃなく、工事現場で使う土砂運搬用の一輪車をネコグルマということからきているそうな。ネコグルマが受け身のほうの、タチが一輪車を押すほうで、交わりの光景を想像させるらしいです。

性と一口に言っても生物学的セックスと社会的文化的なジェンダーがある。女性が「女性的なるもの」である必要はないし「女性としての役割」を背負って生きる必要もない。

男と女という二項対立を巡って、生物学、性嗜好、社会学などの次元にさまざまな対立軸が張り巡らされている。対立軸の在処に読みとり、絡み合う軸線を丹念に紐解いていけば、抑圧された人々の居所や社会の抑圧の構造が明らかになる。問題設定の方法として二項対立の有効性を示すひとつの例である。

では、アートとデザインという二項対立では何が描き出せるのだろうか。

アートとデザインを巡る対立軸をあれこれ考えていたら、答えが出ない。この2つの対立には有効な対立軸が見当たらないような気がしてきた。実用性の有る無し、目的の有る無し、制約や依頼者の有無、業界の違いなど、それらしい対立軸はあるが、ちょっと考えれば、それらがあまり有効でないのは誰でも分かる。たとえば、壁に掛かる一枚の絵には、癒し効果も空間を変える力も、持ち主の社会的地位を表す記号として意味がある。ギャラリストが自分の狭いスペースの画廊で行う企画展のために「自由に描いて」と発注した絵かもしれない。

かつては有効な対立軸が存在していた。ファインアートかコマーシャルアートか。純粋美術か商業美術か。この二項対立は、ファインアートの存在意義を語りたい人には今も有効かもしれない。個人的な印象だが、ヨーロッパにはこの差にいまだ敏感なアーティストが多い。が、コマーシャルアートの側にいるとされる人間にとって、これは全く正当性を欠いた不愉快な二項対立である。アートもデザインもその定義が拡大してしまった今、バックミンスター・フラーの仕事はファインアートかコマーシャルアートか問うことの無意味さを考えればいい。

ファインでないアート、正確に言うとファインであることを指向しないアート、より正確に言うと芸術のための芸術(Art for Art)を指向しないアートが、コマーシャルアートという言葉の中に一括りにされている。ファインな高みを指向しないアートは、利潤追求のために妥協を余儀なくされる商業指向のアートだと語っているのだ。

こう考えると、Design for Art という言葉も可能になる。芸術の高尚かつ形而上的領域を守るためにデザインが存在しているという意味だ。かなり皮肉な見方で、デザイナーにとって自虐的な考え方ですらあるが、Design for Artの意識がこの世に存在しないと言えるだろうか。

デザインはアートの対立概念である限り、アートの輝ける王国を守る先鋒隊として役割を果たすことになる。たしかに、この社会にはデザイナーが解決すべき問題が山ほどある。実用性と造形美、高品質とコスト抑制、環境保護と経済発展、生産者の論理とマーケットのニーズ、ユニバーサルデザインと個別対応性、伝統と先進性、地域文化と国際性、利潤追求と社会倫理といった矛盾をはらんだ問題をいかに解決するか。非常に大切な仕事である。適切で独創的な解答がなされれば、それは“グッド”と評される。

先鋒隊の役割はグッド/バッドでしか判断されない。そこから先は王国軍の本隊であるアーティストたちが闘う領域である。本隊の領域に足を踏み入れ活躍するデザイナーもいる。が、しかし、デザインの専門家集団は、グッド/バッドの基軸を巡る言葉しか持たず、この基準を超えたデザイナーを評価する言葉を持たない。アートの語る言葉を操る人たちの評価を待つしかない。こんな棲み分けは妥当なのだろうか? アートへのコンプレックスなのか、それとも居心地のいいせいなのか、少なくとも現代のデザイナーはDesign for Art の呪縛から解き放たれていないような気がする。

本当に複雑なこと、ミラノでなくアフリカで起こっていること、誰かの善が誰かの善でない場所で起こる悲しいことに対してデザイナーは闘っているのだろうか。気づいているのに、考えまい、感じまい、としていることが多すぎやしないか。新しいとか古いとかいう基準だけで物事を判断しすぎじゃないのか。五感を解放すると言いながら逆に閉ざしている感覚があるのではないか。企業のため、国益のためにグッドと評価されることに殉じるだけでいいのだろうか。

アートとデザインの二項対立はデザイナーにとって危険なものだ。デザイナーの役割を限定しすぎてしまう。アートの立ち位置は示すかもしれないが、もはや未来のデザインのあるべき位置を指し示してはくれない。

ならば、デザインと対立させて、デザインの輪郭を示してくれるものって何だろうか? 

考えときます。

矛盾を解決し新しい道を指し示す手段であるデザインが、そろそろちゃんと向き合わなくてはならないのは「世界の本当の姿」だ。やっぱパパネックの『Design for The Real World』(邦題・生きのびるためのデザイン)は読み直さなくちゃ。フラーがアートにもデザインにも建築にも工学にも分類不能なのはまさしくDesign for The Real Worldだったからなのだし。

本当に複雑なことを解決する知恵と力、それがデザインです、きっと。

【まとめ】 デザインとアートの比較は、デザイナーにとって考える必要のないことかもしれません。アーティストと言われる人もデザイナーと言われる人も本当は同じ問題に立ち向かわなくてはいけないのですから。
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by cabanon | 2005-05-31 21:15 | 二項対立
 
二項対立(2)逆説
3つ前の投稿の二項対立の話の続きです。
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二項対立にはさまざまな種類がある。二項対立というと、男と女、表と裏、理性と感情、愛と憎しみ、デジタルとアナログように、ほぼ対等なものどうしが対立する関係だと思いがちだが、2つの項がそのように対称性を持って対立している関係はむしろ珍しい。二項対立には、著しく非対称なものや、本来対立関係が成立しないものもある。二項対立は対称性でなく対照性を明らかにするものだ。そのため任意に二項が決められ、やや強引に対立関係に置かれるケースも多い。

【有と無の二項対立】
非対称の極端なケースとして「有と無」型の二項対立がある。「無」とは存在しないものだから、本来、2つを比べることもできないし対立させることすらできない。「有と無」「在と不在」といった対立は、ただ概念上の対立だけが存在する。たとえば東洋思想のように「無」や「空」はひとつの概念として捉えれば、有と無の対立は非常に示唆的なものとなる。0と1も同じだ。0を哲学的な無と捉えるか、2進法の記号として捉えるかで、その対立の性格は変わる。本来対立できないものを対立させてしまうことで、もうひとつの側面が見えてくる。

【逆説の力】
生と死の対立も有と無のような対立だ。生物学的に考えれば、死を生物としての活動が途絶えた状態、つまり生の欠如と捉えることができる。しかし、死を生を完結する絶対的な瞬間や再生のプロセスと捉えれば、死は生を照らし出す鏡となる。死のない生は怠惰で退屈なものだろう。その認識が「死を生きる」という逆説を可能とする。

陰翳礼讃、無知の智も同じだ。無を通して有を語る。死や闇や無知を物理的な欠如や不在と考えず、死や闇や無知をひとつの世界として捉えることで、「生」や「光」や「知」の新たな姿が見えてくる。無に対する見方を変えれば、有と無には新たな対立軸が生まれるのだ。

こうした逆説は、デザインコンセプトを語るのに有効だ。無印良品やノーデザイン、アノニマス(無名性)という考え方がそう。「無」「デザイナーの不在」を語ることで、逆にブランドやデザインの価値やデザイナーの存在意義をアピールできる。

深澤直人と企業デザイナーたちによる「without thought」も逆説的な表現だ。「考えないでおこなう行為」をひとつの世界として捉えることで、無意識の中に埋もれた、もしくは意識と無意識の狭間に埋もれた人間の行為を発掘して新たなデザインを生み出している。「思考の不在」という逆説的タイトルが指し示すのは、デザイナーの「思考」に他ならない。

フィリップ・スタルクのように「デザインは死んだ」と言う手段もある。「建築は死んだ」「モードは死んだ」「モダニズムは死んだ」と語る手もありだ。
余談だが「!?」を付けると雑誌のタイトルになる。「デザインは死んだ!?」「モードは死んだ!?」「日本経済は死んだ!?」「プロ野球は死んだ!?」とかね。

【非対称の二項対立】
「有と無」型ではないにしても、対称性が著しく損なわれている二項対立は多い。神と人、個人と社会、現在と過去、全体と部分、ディテールと全体、瞬間と永遠、表層と深層、一と多、中心と周縁など。こうした二項対立においても逆説は力を発揮する。「部分は全体である」「瞬間に永遠を見た」「ディテールに神が宿る」などの言葉は物事の核心に迫る。

【2つの対立軸】
「中心と周縁」も一見、著しく非対称な対立だ。規模や広さを考えれば周縁が圧倒的に広い。しかし「中心と周縁」の中には「広さ」という対立軸のほかにもうひとつの対立軸が潜んでいる。密度だ。中心は凝縮されている。「都心と郊外」を例に考えてみればいい。都市は人も情報も凝縮されている。「密度」という隠れた対立軸を意識すれば、「周縁こそ濃密」「東京の中心、皇居という空虚」といった、やはり意味深い逆説的な表現が生まれる。

【もうひとつの対立軸が生む逆説】
同じように「表層と深層」は非対称だ。表層はうすっぺら、深層には奥行きがある。が、「表層と深層」にも隠れた対立軸がある。コミュニケーションである。表層とはインターフェイスである。外と内の情報が接し、衝突し、融合する“場”だ。深層には本質に根ざした不変の価値があるかもしれない。が、現代社会では、高速に情報交換が行われ、情報が共有され、新しい価値を生産しつづける“場”が求められている。コミュニケーションという対立軸から考えれば、「表層」と「深層」の立場は逆転し、「表層に構造がある」という逆説が力強い言葉となる。

ミース・ファン・デル・ローエによるデザインの金言“Less is More”の中にも、対立軸は2つある。MoreとLessは量で考えると、ひどく非対称だ。しかしLess is Moreの語ることは、質の問題だ。量や大きさの問題ではない。Moreが質の次元の話だから、Less is Moreの逆説が成り立つ。ミースはたった三つの単語の中で、量と質という2つの対立軸を巧妙に操作しているのだ。

【まとめ】
二項対立の対立軸はひとつとは限らない。対立軸を操ることで、有効な逆説を生む。特に二項対立が、有と無のような関係である場合や、極端に非対称である場合、対立軸を複数設定し、隠れた対立軸をあらわにするような逆説を考えれば、デザインの奥義に迫るような力強い言葉となる。これが言葉の力。それが本日の結論。

次回は対称・非対称とは違う二項対立の話をする予定。赤と白とか赤と青とか、ワインと日本酒、みのもんたと久米宏とか任意で選べる二項対立の話をする。今日はここまで。
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寄り添う二冊。古書店にて。本文とは関係ありません。

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by cabanon | 2005-05-27 19:02 | 二項対立
 
二項対立(1)
「デザインをいかに言葉で表現するか」というのが僕の大きなテーマだ。言い方を変えると「デザインにおける“言葉の力”の探究」となる。
物書きとしての経験からの分析だが、デザインや建築の特長を読みとり言葉で表現するには大まかに言って2つの方法がある。「二項対立」と「類推」だ。
二項対立による叙述は、光と影、人工と自然、中心と周縁、見えるものと見えざるもの、理性と感情、合理主義と神秘主義、対称と非対称など、相反する項目の対立をデザインの中に見つけ出す方法だ。デザイナーは相反する項目の、どちらかを選択したのか? 止揚したのか(つまり、ひとつ次元の高い観点から統合的に問題解決を図っているのか)? 共生を考えているか? 共生の場合、優先しているのは混ぜ合うことか、バランスか、お互いの違いを強調してコントラストを見せているのか?  二項対立による叙述は、対立を見つけ、それがどう解決されたかを言葉によって表現する方法だ。

類推による叙述は、「のようだ」「みたいだ」「に似ている」「連想させる」と類似するものを挙げる方法だ。「デッサウのバウハウスの校舎は機械の時代の神殿のようだ」「アアルトの花瓶はフィンランドに無数にある湖を思わせる輪郭をしている」。
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ヴァルター・グロピウス設計バウハウス校舎@デッサウ。実際見ると意外と小さいです

全然関係のない文脈や、事象の深奥に構造的な類似を発見するアナロジーの力は、最も創造的な力で、直観の力にもつながってくる。ものの仕組みを捉えるアナロジーとは別に、表面上の類似を語るアナロジーもある。これは使い方が難しい。

「誰々のようだ」「××の作品に似ている」という他人や他人の作品との類推は、デザイナーやアーティストは極端に嫌がる。インタビューの時の禁句である。「あなたの仕事は●●さんの仕事に似てますね」と言おうものならザッツエンド。デザイナーやアーティスト、建築家へのインタビューのコツは、いかに相手の独創的な活動を理解しているか、態度を示して相手の懐に入ること。話を聞く際、机の上に相手の著書や資料を並べるといった小手先のテクニックも重要だ。怒らせて本音を言わせるインタビューの方法もある。が、デザイナーやアーティストの取材には適切でない。いい話を引き出したいなら、瞬間的でも相手を愛すること。類推は豊穣だが独創性を語る言葉としては少々弱い。
近代が生んだオリジナリティ幻想が、誰かに似ているという類推はすなわち真似、パクリだという妙な偏見を生んでいる。オリジナリティ幻想に懐疑を持っているアーティストでも「誰々に似てますね」と面と向かって言われたら、やはり気分を害する。それが近代だ。だから二項対立という問題設定が重要性が増す。それは独創性がどこにあるかを語るのに実に効果的だ。

といっても、類推による叙述は、読み手の想像力や記憶を喚起してイメージを広げるのに効果的だ。味覚や嗅覚に関する叙述には欠かせない。ワインのソムリエたちは類推の表現を駆使している。ただし多用しすぎると、形容詞の羅列と同じ、中身のない表現になる。イメージを広げる効果はあるが、逆に問題の本質がどこにあるか表現するのは難しい。
類推(アナロジー)の問題は、メタファーやシンボルの問題にも通じる。メタファー(隠喩)やシンボル(象徴)は豊かで微妙で奥深い表現を生み出す。前近代的と思われがちだが、超近代的といったほうがいい。このあたりはのちのち考える。

今ここで話したいのは、二項対立の話である。

二項対立の叙述法とは、デザインや建築の特長を、相反する項目の対立として描き出す方法だ。弁証法の二律背反であるが、叙述法として用いる場合は、決してロジカルに対立を解決する必要がない。明と暗の対立は二者択一にする必要がない。明と暗の違いを際立たせコントラストの美を強調すればいい。がちがちの初期モダニズム的解決を諦め、東洋的な解決として、明と暗の境界のあいまいさの美を語る方法もある。
建築における光と影の対立は、時間という要素を導入して語れば、詩的な叙述が生まれる。たとえばユイスマンスは小説『大伽藍』でシャルトル大聖堂の、漆黒の森のようなゴシック空間に朝の陽光が差し込む様子を感動的に描写している。光と影の二律背反を時間という要素を持ち込んで止揚する。
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太極図

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の光と影の対立は、西洋的な光と影の対立とは違う。西洋の光は真理である。闇は真理が欠如した状態だ。。つまり有と無の対立であり、直線と曲線、抽象と具象、東洋と西洋といった両方とも“存在する”対立とは性格が全く異なる。(ただしゲーテは色の生成において闇を光と同等の役割をするものと考えた。一概に西洋と括って話すのは単純化しすぎかもしれない。08年10月付記)。谷崎は陰の美、闇の美を礼讃して、影を無でなく有として語ったのだ。闇は光の種を宿し、光は闇の種を宿す。それは太極図の世界に通じる。有と無という対立、として捉える西洋的な認識を、東洋的な知見で超えようとする。だから『陰翳礼讃』はデザイナーや建築家にとって重要な書物なのだ。
二律背反を矛盾と捉えることなく、そのコントラストを最大限に生かす。それが二項対立の奥義を知る者だけが出来る力業だ。

建築の問題設定がバイナリー(二元的)に成り立っているのは、多木浩二も篠原一男論で書いていたし、建築家は昔から知っていることだが、最初に僕がそれを強く意識するようになったのは、安藤忠雄の建築を書くときだった。安藤建築のわかりやすさはコントラストを空間にはっきり描き出していることから来ている。コントラストを読みとれば伝わりやすい文章が書ける。数年前、仕事で大阪、神戸、淡路島の安藤建築を集中的に巡って、彼に関する本を読んで直接話を伺って、そう思った。コントラストがあるから闘える。その後、ルイス・バラガンやアルヴァ・アアルト、ル・コルビュジエ、ルイス・カーン、ジャン・ヌーヴェルなどの建築を書くときも、コントラストを意識した。最近はどんな原稿もまず二項対立を読みとることから始めている。
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ルイス・バラガン設計ガルベス邸@メキシコシティ。建物の上にブーゲンビリア

一番コントラストを意識してその世界を叙述しやすかったのがメキシコの建築家でルイス・バラガンだ。「バラガンのピンクはブーゲンビリアのピンクのよう」という類推法を織り込みながら、「メキシコは光と影の国、生と死の国、祭りの喧噪と祈りの静けさの国。そのコントラストがバラガンの建築に見事に映し出されている。ピンクは矛盾を包括する色。人体の内部の色。母なる色、子宮の静けさの色でもある」と叙述できるのだ。(バラガン→ピンク→子宮は友人のアーティストから教えてもらった発想です)。

二律背反を矛盾として捉えるのでなく、豊かなコントラストと捉えるのには、リズムを読みとることが大切になる。作り手は、相反するものをリズミカルに配置することで、二項を動的に共存させられる。リズムは心地よい時間の経過となり、時にサプライズとなる。ザラザラした感触と滑らかな感触が交互に体験できること。暗く狭い空間からドアを開けると明るく広い空間へ至る驚き。軽いと思って手にしたらズシリと来たとき意外さ、無機質で冷たい表情なのに使えば使うほど曲がり具合ひとつにも温かみが感じられ味が出る道具(柳宗理のステンレスボウルとか)──。

二項のコントラストのリズムをいかに空間やプロダクトに配置するか。それがデザイナーや建築家のセンスであり感性である。それは人が教えられるものではない。そこを描き出すのがデザインを文章で表現するときのツボだ。問題設定という合理的な側面と、リズムという作者の身体や記憶に由来する不確かなながら確実にそこにある「センス」「感性」の存在する位置を、この叙述法で示すことができる。

ポストモダニズムという考え方は、モダニズムの対立項である限りモダニズムの呪縛から逃れられない。そもそも「二項対立」と「類推」と2つの項目を立てている僕の思考が、もうモダニズムの思考法だ。

僕がこんな指摘をするまでもなく、二項対立の問題設定は広くデザインの世界で行われている。デザインの二項対立は、哲学のそれといささか違う。必ずしも弁証法のように対立する二極を「止揚」(アウフヘーベン)する必要はない。

いや、こうとも言える。二項対立の問題設定をした時点で、問題設定をした視点は二項を高所から眺めていることになる。二項対立(二元論、二律背反、バイナリーの思考)が始まる瞬間に、人はメタな次元に移行する。止揚を意図した瞬間に止揚は始まっているのだ。それゆえその後は一概に論理で解決する必要はない。メタの次元に飛んだ感性や直観やカンやひらめきによるあいまいな解決法もあり得る。そこが面白い。

もうひとつ別の言い方をするとこうなる。かたちにすること自体が「止揚」に匹敵する「高昇」なのだ。かたち→理念、肉体→精神へが高昇でなく、理念→かたち、精神→肉体というベクトルを高昇と考えること。だから矛盾を論理的に解決する必要はない。かたちや色こそ、高みなのだ。そう考えると、デザインがとても興味深い世界に見えてくる。

僕が経験的にライター仕事で培った二項対立でデザインを描き出すポイントをここにまとめてみる。

【とにかく】 コントラストに注目すること。

【メインコントラスト】 主題になっているコントラストを見つけ出す。二項対立を探り出すことが、すなわち何がデザイナー、建築家の主題を浮き彫りにする。伝統と現代、透明と不透明、可視と不可視、静と動、アノニマスと作家性、権威とストリートなど。メインコントラストはひとつであるとは限らない。むしろ内と外、光と影など相互に関連するコントラストが絡み合い、ひとつの作品の中に複数コントラストが埋め込まれている場合が多い。が、叙述方法としては、コントラストを絞り込むと読者に伝わりやすい文章となる。主な二項対立は右をクリック《二項対立リスト》

【サブコントラスト】 表現を豊かにするために使われているコントラストをなるべくたくさん見つけ出すこと。これは形容詞で表現できる場合が多い。広いと狭い、柔らかいと硬い、閉鎖的と開放的など。形容詞的対立と「類推」を織り交ぜて使うと、詩的な描写が可能になる。形容詞的対立だけでなく、上の二項対立リストの項目がサブコントラストになるケースも多々ある。形容詞によって表現されるリストはこちら《主な形容詞的二項対立》

【解決法】 二項対立は必ずしも二者択一で解決されていない。二項対立の解決法をどう読みとるかが、デザインや建築を描写する鍵になる。さまざまな解決法があり、たとえば、内と外の空間の対立の解決策は、テラス、パティオ(中庭)、坪庭、縁側であったり、大胆にガラス張りの空間をマッシブな建物に突き刺す相互貫入の時もあれば、障子や半透明ガラスだったりする。

【リズム】 対立する二項をどう配置するか。複数の二項対立をどう並べるか。リズムという視点で見ると、そこに作者の感性が見えてくる。光と影、未来と記憶、インターナショナルと地域性、狭いと広い、光沢とマット、曲面のボリューム感と平面のフラットさ、などがリズミカルに表現されたデザインや建築は、例外なく豊かな体験を提供してくれる。それは二項の動的共存であり、「体験デザイン」である。サプライズ、感動、長く使って飽きの来ない愛着の体験などを提供してくれる。

【まとめ】 コントラストを描き出すことは、作者がどう問題設定しどう問題解決をしたかという合理的な側面を明らかにするとともに、言葉から常に逃れつづける作者の「感性」がどの位置に埋め込まれ、どのくらいの強度を持っているかを明らかにすることができる。

今日はここまで。二項対立の話は、もっともっと続きます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-05-24 22:00 | 二項対立


Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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