藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
通勤電車の居住空間学
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7年前BRUTUSのために書いた通勤電車のデザインを語った復活させます。

お気に入りの原稿です。とにかくこの取材は大変だった。一日中メジャーを持って電車に乗って、椅子の高さや幅を実測していたのだから。

長文です。

【通勤電車の居住空間学】
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-30 00:20 | Comments(0)
 
遊び心(6)大地の戯れ、遊びの親和力
このブログのトップの写真、何だか分かりますか?

ラジコン・グライダーとトンビが戯れているんです。
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一昨年の11月の終わりのこと。初北海道。日帰り。CasaBRUTUSのイサム・ノグチ特集で原稿を書くため、どうしてもノグチが基本設計したモエレ沼公園を見たくなって、締め切りが迫っていたのにもかかわらず、思い立ったように自腹を切ってモエレに行ってきた時に撮ったものだ。
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モエレ沼公園にはプレイマウンテンという人工の山がある。角度によって巨大なピラミッド見えたり、なだらかな丘に見える。山の頂には土で盛った小さなピラミッドがある。ピラミッドの上にあるもうひとつのピラミッド。その最頂部には祭壇のような四角い石壇が載っている。プレイマウンテンといっても遊具が置かれているわけではない。ただ山に登るだけ。頂上へ至る道はゆるやかな傾斜で、犬を散歩させている人たちもいる。
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下から眺めると、頂上に立つ人たちが豆粒のように見える。道は大きな弧を描いているので、歩を進めるたびに、眼前の光景は変わる。しかし頂上が視界から切れることはない。頂上の人は次第に大きくなり、気づくと空が近づき大地が遠ざかる。今度は眼下の人々が豆粒のようになっている。

頂上の石壇に立って360°広がるホッカイドーな雄大な光景を堪能していると、後から登ってきた人がラジコングライダーを飛ばし始めた。助走をつけて力いっぱいグライダーを天空めがけて投げて、ラジコンで操作する。
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これはいい写真が撮れそうだとレンズを向けていると、近くを飛んでいたトンビがやってきてグライダーと戯れだした。併走したり追走したり、近づいたり遠ざかったり。雲ひとつない青空でトンビとグライダーが即興の舞いを演ずる。グライダーを操作する人の意図なのか、トンビの遊び心なのか、おそらくその両方だろう。プレイマウンテンの斜面は、空を舞うものたちにとって最適の上昇気流を作り出していた。

その時、プレイマウンテンの意味がわかったような気がした。
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プレイマウンテン頂部のピラミッド。人が立っている。
ピラミッドの形はメキシコ型。最頂部には石壇がある


そもそも最初にプレイマウンテンをイサム・ノグチが考案したのは1933年頃にまで遡る。この頃ノグチの頭に新しい彫刻の概念が浮かびはじめていた。大地/地球を彫刻する──。その発想はまず鍬のモニュメントと題された作品案になって形になって現れる。ゆるい傾斜の稜線をもつピラミッド型の丘で、頂にはアメリカの開拓精神を象徴する鍬(くわ)が置かれる壮大なモニュメント案であった。鋼鉄の鍬がアメリカ建国の功績者ベンジャミン・フランクリントーマス・ジェファーソンが手紙のやりとりの中で考案され、その後の西部開拓に多大な役割を果たした逸話から想を得たものであった。

30年代アメリカは世界大恐慌の真っ只中。失業者対策の一環として政府機関WPAが芸術家の作品買い上げを行っていた。鍬のモニュメントはWPAに提出されたが却下。次にノグチがWPAに提出したのがプレイマウンテンであった。こちらはモニュメントでなくニューヨークに作られることを想定した遊び場であった。鍬のモニュメント同様、なだらかなピラミッド型の丘だが、背後にモエレのプレイマウンテンにあるような頂部に至る大きな弧を描いた道があり、水遊びする場所なども設けられた。プレイマウンテンでは「大地を彫刻すること」に加えて「遊び」が大きなテーマとなっていた。しかし、これもWPAに却下された。

ノグチは遊び場だけでなく遊具もデザインした。1939年ハワイ・ホノルルのアラモアナ公園のための遊具はその時は実現しなかったが、そのデザインは後の遊具の原型となった。1952年にはニューヨーク国連本部のための遊び場を提案し、1961年〜66年には建築家ルイス・カーンと協働でリーヴァーサイド・ドライヴ公園を計画し、ニューヨークのハドソン川に面した敷地に「遊び場」を作り出そう試みるが、いずれも実現には至らなかった。

60年代後半になるとようやく時代がノグチに追いついてくる。建築家大谷幸夫とのコラボレーションで実現した横浜のこどもの国のプレイグランド(1965〜66年)が最初に実現したノグチの「遊び場」だった。1970年代半ばにはアトランタのピードモント公園の一角に、ノグチの遊具を設置したプレイスケープ(1975-76年)が作られた。1979年から計画が始まるマイアミのベイフロント・パーク(-93年)も「遊び場」的な要素を備えた28エーカーの大きな公園設計だった。

噴水も遊び(play)をテーマにしたものと言える。「play」とは「戯れ」であり同時に「操作」や「演出」であることは、遊び心(4)の投稿で述べた。大阪万博の噴水(1970年)もフィリップ A.ハート・プラザ(1972-79年)の中心に位置する巨大噴水ホーレス E.ドッジ・ファウンテンも、水の動きはコンピュータ制御されていた。ノグチの作品に限らず、そもそも噴水とは、水の戯れを華麗に演出する精緻なプログラミングに他ならない。

ノグチが亡くなる年の1988年に設計が始まったモエレ沼公園は、ノグチが地球を彫刻し、遊び場を作り出すという仕事の集大成であり、原点に立ち帰る作品でもあった。原点こそプレイマウンテンである。
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モエレ沼公園の遊具
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札幌・大通り公園にあるブラック・スライド・マントラ

プレイマウンテンは遊び山とも訳される。子どもたちが山を駆け上がり、滑り降り、無邪気に遊び、遊びの中から他人や自然との関係を身につけ、生きる術や世界の理を学び、創造の種を発見する。それもノグチの狙いのひとつだったはずだ。ノグチの遊具や札幌大通り公園にあるブラック・スライド・マントラなどは、まさに遊びながら学ぶ子どもたちのためにデザインされている。

が、プレイマウンテンで戯れるのは人だけに限らない。
むしろ戯れの主役は大地 (earth) である。

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金属の作品がテトラマウンド。
背後がプレイマウンテン。側面から見るとピラミッドのよう

大地が戯れる。地球が遊ぶ。プレイマウンテンでは視点の変化が完全に計算されている。緑の草で覆われたなだらかな山が、側面に回ると石段のあるピラミッドに見える。そのピラミッドは見る位置によって、横に設置された巨大金属パイプのピラミッド「テトラマウンド」に比べて大きくなったり小さくなったりする。山の上に立つ豆粒のように見える人が、どんどん近づき自分と等身大となる。人は最頂部の石壇の上に立つと、天と語らう崇高な存在に見えてくる。
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視点によってスケール感が変化する。上の写真と比べてください

形やスケール感や遠近感が徐々に変化したり豹変したりする。光や水や風がゆらめくように、大地がゆらめくのだ。どうすれば卓上の模型の段階で、これほどの規模の丘の周辺を歩き回るときに人が感じるスケール感やプロポーションのダイナミックな変化を想定し得たのか、不思議なくらいである。(たしかノグチは僕は模型の中に小さくなって入れてしまうんだ云々ということをどこかで語っていたはず)。

大地がゆらめき、その上をラジコン・グライダーとトンビが戯れる。ノグチは風の戯れまで計算に入れたのだろうか。斜面を昇る気流が空を舞うものの最高の遊び場になることを知っていたのだろうか──。

ノグチにとってのプレイグラウンドやプレイマウンテンとは、人の手で作り出された、光、水、大地、風が遊ぶ場であり、人はその遊びに接して自らも遊ぶ。

多くの遊びが重なり合うと、どこからがあらかじめ計算されたもので、どこからが即興なのか、判断がつかなくなる。大地の変化は偶然なのか必然なのか。トンビがグライダーと舞う姿は偶然なのか必然なのか。

遊びの時空間のどう作り出すか。その方法を探ることが、アートでありデザインとも言ってもいい。ここではジャンルの違いなど考える必要がないだろう。なぜならそれはスポーツや賭け事、映画や演劇、エンターテインメント、茶道や中国武術など他のジャンルにとっても共通する課題なのだから。

人は遊び場を緻密に計算して作り出す。時に光や水や風や人の動きの効果を演出し、時にその場にだけ通用する厳格なルールを決め、時にユーモアやウィットを織り込み、時にごっこ遊びや演劇やロールプレイングゲームのように何かの役割を演ずることで、特別な時空間を創出する。

が、本当に優れた遊び場においては、事前にプログラミングされた戯れが、予測を超え、他の戯れを引き寄せる。必然の遊びが偶然の遊びを呼び込む。遊びが共鳴し合う。遊びのシナジー効果と言えるものだ。
仕込まれた驚きや作りものの感動を超えた「発見」や「創造」は、こうした「遊びのシナジー効果」から生まれる。

戯れが親和力をもつ場──。それがノグチの目指したプレイグラウンドやプレイマウンテンではないだろうか。科学において親和力とは、化学反応の際、物質間に働くお互いを結びつける力のことをいう。遊びにも親和力がある。遊びの親和力を呼び起こし、遊びを重ね合わせ、共鳴させれば、遊びは“化学反応”を起こし、人智を超え、創造力の翼を大きく広げる。そのことをノグチは知っていた。僕はそう思う。

******
【関連リンク】
・イサム・ノグチの作品や略歴に関しては、ニューヨークのノグチ・ミュージアムの公式サイト(英語)The Noguchi Museum
・エクサイトismのイサム・ノグチ特集
・イサム・ノグチファンによる充実の個人運営サイト。日本語です。ISAMU NOGUCHI PRIVATE TOUR
モエレ沼公園の公式サイト。この春、海の噴水が完成し、7月1日グランドオープンする。
・現在モエレ沼公園園長の山本仁さんが語るモエレ沼公園建設の経緯
・モエレのグランドオープンに合わせ札幌芸術の森では「イサム・ノグチ展 ゼロからほとばしるエナジー」展が7月2日〜8月28日まで開催。 札幌芸術の森
・香川県牟礼町のイサム・ノグチ庭園美術館。元ノグチのアトリエです。いいですよ、ここも。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-27 23:49 | お気に入りの過去記事 | Comments(4)
 
デザイン優先?
今朝(25日)、朝日新聞の朝刊を開いたら、社会面のトップにこんな記事があった。
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「デザインを優先」って? 
安全を考えるのもデザインでしょうが。

ここで言う「デザイン」とは見た目、外観の美しさ、かっこよさ、商品差別化の手段…

朝日新聞でさえデザインへの理解はこんなものか。哀しくなった。

安全や使い勝手や環境への配慮まで考えるのが、デザインだ。
そんなこと、デザイナーはみんな分かっている(はず)。けれどデザイナー以外の圧倒的多数はそう思っていない。

記者は検察が法廷で使った言葉をそのまま引用しただけだ。が、記者は「デザイン=見た目」という認識に何の疑問も抱かなかった。
挙げ句の果てに、記者は記事の最後でこう結論づける。「安全対策よりデザインを優先した結果が事故を招いた形になった」と──。
えっ?そんな書き方したらデザインはまるで悪者じゃん。「見栄えを優先した結果」と書くべき。せめて「外観デザインを優先した結果」と書いてくれればいいものを。

検察官や新聞の社会部の記者といえば、社会的に地位が高く、広く深い知識が備わっているはずなのに……。そうした人たちでさえ、デザインへの理解はいまだこんなもの。デザインの啓蒙時代はまだまだ続く。

朝日新聞/asahi.comの記事はこちら【森ビル元常務ら起訴事実認める。ヒルズ回転ドア事故】
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by cabanon | 2005-06-25 19:52 | Comments(4)
 
谷口吉生展&アールデコ展
日曜日で終わってしまう展覧会を2つ見てきました。

まずは初台のオペラシティで行われている「谷口吉生のミュージアム」展。
昨年秋の再オープンで世界的に注目されたMoMAの増改築を中心に、これまで谷口氏が手がけた美術館・博物館の仕事を振り返っています。MoMAに関しては膨大な量の図面も閲覧できます。模型も完璧です。MoMAの歴史にも触れてあり、今回の増築がMoMAの歴史の中でどういう位置づけかがしっかり分かります。MoMA周辺のビルの建ち並び方を再現した模型もあり、敷地の様子も十分に理解できます。

が、もう少し谷口氏の思考のプロセスを多面的に映し出す展示が欲しかった。状況証拠はきちんと揃えてある。物証もある。が、自白や証言が少なく、谷口氏の頭の中でどんな思考回路が働いたのか探るにはいまひとつ資料が足らない。ラフなスケッチや本人や関係者の証言を多角的に使うなどして、創造の軌跡を再現してもらえたら、展覧会の充実度はさらに増したでしょう。

谷口建築は体験するに限ります。チョーが付くほど完璧主義なのですが息苦しさが全くない。純粋な空間構成の完璧さや、物体として建築の完璧さを求めるのでなく、人と向かい合う建築の完璧さを常に追い求めているからでしょう。だから写真や模型では冷たそうに見えても、実際に行ってみると冷たさを感じない。遊び心も感じる。広島のゴミ処理施設とか、ほんと良かったです。
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広島市環境局 中工場。谷口吉生設計。2004年竣工
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ゴミ焼却装置をガラス越しに見られるギャラリー通路

次は上野、アールデコ展。
アイリーン・グレイの漆の衝立とか、ナタリア・ゴンチャローヴァの衣装デザイン、ピエール・シャローのデスクなど、意外なものを見ることができました。感想はそれだけ。

ついでに国立科学博物館の恐竜博2005も (7月3日まで)。
お父さんお母さんに連れられた小さなお友達に混じって、僕のような一人で来ている大きなお友達もけっこういて一安心。それにしてもアールデコ展とは客層が対照的。あっちはゴージャスなマダムもいらっしゃいました。

恐竜のかたちはよくよく見ると非常に面白い。基本的に流線型をしている。やはり高速に動いたのだろうか。中にはサカナのように真正面から見ると薄っぺらい恐竜もいる。

ティラノサウルスは二足歩行なんですよね。どうやら人間は二足で立つものに強い共感を感じるようです。風太もASIMOもペンギンもそうだし。恐竜も四足歩行と翼竜だけだったら、これほど人気はなかったかもしれない。恐竜戦車、好きになれなかったし。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-24 23:51 | Comments(0)
 
高松伸2題@京都
1980年代の高松伸、好きです。いろいろ言われるけど、このデザインは誰も真似のできない。キレキレです。

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ARK  1983年。歯医者さんです。
駅舎に妙にマッチしていました。場所は京都南郊、宇治近く。京阪宇治線桃山南口駅前。京都駅から乗り換え2回で約30分くらいです。
メンテナンス中で足場が組まれていて最初ガッカリでしたが、よく見るとその姿がカッコイイ。

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織陣Ⅲ 1986年
かなりメトロポリスですが、黒と赤がなんだか妙に京都っぽい。こういうのをとんでも建築とかバカ建築という人の見識を疑います。左右のマンションのほうがずっと景観を壊す、無節操・無美学な建築です。
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この頃の高松建築には強烈な異化効果があります。しかし京都の景観を壊したなどというのは間違い。バブル期に粗悪な模倣の建築が現れて、こんなのばっかり増えたら大変だという恐怖感が募りはじめ、こうした建築がまるごと一括りにされてしまった。斬新で濃密なデザインか、中身のない物まねのコテコテかを問われませんでした。一切合切が否定されたのです。
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実際この眼で見てみると、この2つの建築は周囲の景観など全く壊していません。特に歯科医院のARKのほうは、鉄骨の構造物や電線が剥き出しに使われている鉄道駅周辺の景観を完全に計算に入れて、エンジンのタービンのような姿がデザインされています。

無個性なマンションや建て売り住宅のような、質の悪いものに同化するだけの建築のほうが罪悪です。今の日本では、共存、共生、調和が尊ばれていますが、下のレベルに合わせる共存、共生、調和は劣化だという認識が欠けています。なあなあのうちに行われる同化に対する危機意識がないのです。糾弾すべきは“劣化同化”のほうだと思う。
良質の異化効果は新しい調和をもたらす。
それに京都は広いんです。町屋建築や寺社建築ばかりあるわけじゃありません。

そういえば高松伸の心斎橋のキリンプラザ大阪(1987年)も、異化効果があるのと同時に、あの猥雑な場所にあの光の塔のようなデザインが非常にマッチしています。スタルクの浅草のスーパードライホールなども異化効果が景観にハマった例でしょう。

織陣では、ビルのオーナーであるテキスタイルショップのスタッフの方が親切にしてくれて中まで見せてもらいました。雨漏りとかするそうです。でも、そんなのいいです。直せばいいんだし。
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中を見せていただいて、一番心に残ったのは空間構成などではありません。シルクの畳。元・茶室の部屋にあるもので、この畳が高松伸の意向かオーナーの意向によるものかはわかりません。
靴を脱いで、足を踏み入れると、シルクの優しさと繊細さが足の裏に伝わります。これぞ足の裏の最高の贅沢。靴下を脱いで素足で感触を確かめてくればよかったと後悔しています。こうした足の裏で踏んで感じる触感のデザインって、もっとあってもいいと思う。

【関連リンク】
高松伸建築設計事務所の公式HP
織陣のテキスタイルメーカー&ショップFactory Museum Shop SUNMOON 京都本店。親切にしてもらったからというわけじゃなく、いい商品がたくさんありました。お金があれば買ったんだけど。自由が丘にショップがあるんで今度見に行こ。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-22 02:49 | Comments(0)
 
生コラーニ、初体験
京都に行ってきました。
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ルイジ・コラーニの講演会を聴きに行くためです。京都工芸繊維大学で9月19日までルイジ・コラーニ展が開催されています。そのオープニングに併せて行われた講演会です。この眼で生のコラーニ様をぜひ見たいという積年の思いから、自腹を切って行ってきました。

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いや〜御大は77歳とはとても思えないほどパワフルでした。舞台に立っただけでカリスマチックな雰囲気が漂います。講演会場内では特に撮影が禁止されていなかったので、写真付きで臨場感を再現しながら、さわりを報告しましょう。

講演はスライドやPowerPointなど一切使いません。ホワイトボードに貼られた白い紙に、マーカーで直接絵を描きながら話をしていきます。

2時間弱の講演だったのですが、そのうち1時間半は質疑応答形式。さすが日本企業と数多くのプロジェクトをこなしたコラーニ。日本人の扱い方を知ってます。おどおど質問する人は元気づけ、長く質問する人は強制的に質問を止めさせ、若い女性にはやさしく、時に質問をはぐらかし、確信に満ちた熱い語りで生物学などを引用した突拍子もない話をしても「わからないのはきっと通訳が悪いんだろう」と思わせ、ふーむと納得させてしまう。

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「ユークリッド(EUKLID)はまちがっとる(FALSE)。紀元前365年ユークリッドは点と点を最短距離で結ぶ線が直線と言ったが、それは宇宙の事実と反する。衛星の軌道のことを考えてみたまえ。(地球と月を行き来する)ロケットの場合、最短の軌道はこうなる。ぐるぐるカーブしておる。宇宙には直線が存在しないんじゃよ」

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「地球は丸い。だからわしは船底にカーブをつけたんじゃ」

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「未来のバイクに関しての質問か。アナタはホンダのデザイナーじゃな。顔を覚えとるぞ。今のバイクは空気の流れに合わせてデザインされておらん。わしがデザインするとこうなる(写真右)。ホンダはペケじゃ」

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「どうしてエロチックなデザインをするかじゃと? それならこれじゃ。バイオリンのデザインだ、ほれほれ」

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「サンキュー。ダンケシェーン。さらばじゃ、また会おう」

展覧会は充実します。オススメです。
奇天烈さの中に、誰も気づいていない真実をもたらす男、それがコラーニです。デザインの世界はこの20〜30年コラーニの後継者といえる人物を生み出していません。飼い慣らされていない猛獣系デザイナーは、デザイン界に絶対に必要です。
ある人がインハウスデザイナーは草食動物系、フリーは肉食系と言っていましたが、肉食系の中にも雑食系とか猛獣系というがあると思います。

それにしても会場の片隅に置かれていた1992年コラーニ作の卓上サイズの千代の富士の彫像。あれはなんだったのでしょうか? 千代の富士の土俵入りがそっくりに彫られているだけ。たしかにコラーニはデザイン界のウルフですが。

【関連リンク】
展覧会の概要。ルイジ・コラーニ バック・イン・ジャパン展
コラーニのウェブサイトcolani : VISIONS IN DESIGN ムービーがおすすめ。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-21 23:52 | Comments(4)
 
雨漏りの音楽
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またまた万博ネタ。
長久手日本館です。雨漏りがけしからん、と言いたいのではありません。(半屋外の場所ですし)。

ということじゃなく、このバケツの配列。素敵です。
リズムを奏でてます。楽譜のようです。

柱もリズムになってます。Chemical BrothersのStar GuitarのPVですな。

人の作った構築物と、自然が絡み合ってできた偶然のかたち──。いいですね。

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長久手日本館、竹カゴを編んだような表皮に覆われている

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-20 23:56 | Comments(0)
 
遊び心(5)アリスの戯れ
浦島太郎もアリスも別世界で遊ぶ。しかし、その遊びの意味は大きく違う──。

『遊び心(4)』で、遊びという言葉のニュアンスが、日本語と英語・フランス語とでは違うという話をした。結論だけ簡単にまとめると──、
日本語でもフランス語でも英語でも「遊び」は日常とは違う時空間に身を置くという意味では同じだが、日本語の「遊び」は日常から解き放たれて忘我の境地に至るという意味が強いのに対して、フランス語の「遊び」 jeu や英語の「遊び」 play は、スポーツ競技や賭け事など日常とは違うもうひとつのルールが支配する世界に身を投ずるという意味合いが強い。

この差は、浦島太郎とふしぎの国のアリスの「遊び」の違いにはっきり現れている。

浦島太郎は子供たちにいじめられていたウミガメを救って、お礼にウミガメは太郎を竜宮城へ連れて行き、乙姫の歓待を受ける。タイやヒラメも踊ってまさに極楽、別天地の享楽と美の世界を体験する。が、太郎は元にいた世界に帰りたいと言い出して、玉手箱を持たされて竜宮城を後にする。

太郎は竜宮城での「遊び」に身をゆだね、日常生活を忘れ、なぐさみを得るが、もうひとつの世界の時の流れは、太郎の日常世界よりずっと速かった。太郎は接待されるだけで、竜宮城では常に受け身の存在だ。時の流れが違うという、最も重要な別世界の理(ことわり)に関して全く知らされることはない。
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フラミンゴの槌でクロケー遊びをするアリス

アリスは常に主体的に別世界の理を体験する。白ウサギを追って穴に飛び込んだアリスは、彼女が元にいた世界の因果関係が全く通用しないアナザーワールドに紛れ込む。女王と興ずるクロケー遊びにルールはなく、傍聴した裁判には法律がない。が、クロケー遊びは女王のための遊びとしてちゃんと成立しており、トランプたちに序列はあり、段取りは奇天烈だがとにかく裁判という制度は存在している。不条理であるが、それはアリスが元いた世界にとっての不条理であり、私たちの世界の因果関係や論理や規則が通用しないだけだ。
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グリフォンとともにすすり泣くウミガメの話を聞くアリス

まだ大人の世界の因果関係や論理に染まっていないアリスは、穴の中の広がった世界のもうひとつの理(ことわり)を主体的に体験する。アリスは水パイプを吸う賢者然としたイモムシや涙ウルウルのウミガメたちの話に耳を傾け、対等に会話のできる“子供の世界に”生きていた。アリスが元の世界に戻るのは、奇妙な裁判を「ばかばかしくて無意味だわ」と認識した時で、王や女王やその家来たちに対して「あなたたちはたかがひと組のトランプのくせに」と言った瞬間である。意味がないと感じた瞬間、遊びは終わる。
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ジョン・テニエル画。モノクロ挿絵の版権は切れてます

こういう見方もできる。「ふしぎの国のアリス」で描かれる滑稽な混乱は、私たちの世界の因果律や規則や論理と別のシステムが働いて安定していた世界が、アリスという異世界からの闖入者の登場によって引き起こされたシステムエラーだと。

続編の「鏡の国のアリス」では物語がチェスのルールに則って進む。日常とは違うもうひとつの世界を描き出すという、作者ルイス・キャロルの意図がさらに明確になっている。ちなみにルイス・キャロルの本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン、数学者・論理学者であった。
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Illustration by John Tenniel, from Alice's Adventures in Wonderland

遊びは2つの異なるシステムが出会わないと生まれない。浦島太郎は乙姫に手玉にとられた闖入者だ。彼は竜宮城にシステムエラーをもたらさない。乙姫は2つのシステムが衝突する危険を玉手箱に封じ込める。太郎は後から気づくのだ、そこに2つのシステムがあったことを。しかし気づいたときには太郎は老人となり、もう遊びの世界には戻れない。

一方、アリスは2つの異なるシステムを積極的に自らの意思で受けとめる。子どもの心は大人の規則や論理の世界と、夢想の世界を自由に行き来する。アリスは自分の背が高くなったり縮んだりする状況や、奇妙なクロケー遊び、トカゲやイモムシの話を受け入れられる。が、それを無意味と感じた瞬間に、あっけないほど簡単にアリスは元の世界に戻る。ゲームセット。アリスは少しずつではあるが大人になっていくのだ。
ただアリスが子どもの心を持ちつづける限り、いつでもまた異世界で遊ぶことのできる。だから続編が作られる。

アリスと太郎の違いは子ども心の有無ではない。別世界のルールを主体的に受けとめる心の有無だ。別天地の愉しみに身をゆだね日常を忘れリラックスするか、自分の力量で運や流れや偶然をも呼び込むゲームのプレイヤーとなるか。太郎の遊びとアリスも戯れ( jeu / play) との違い──そこに近代の遊び、モダニズムの「遊び心」の核心がある。

本日はここまで。次回に続きます。

【関連リンク】
山形浩生氏が翻訳著作権をフリーにしてネット上に公開している『不思議の国のアリス』 『鏡の国のアリス』
ルイス・キャロルに関してはThe Rabbit Hole
テニエルのイラストはこちらThe Victrian Web, John Tenniel: An Overview
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-18 23:54 | Comments(0)
 
リニモのサイン計画
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おととい行った万博関連の小ネタ。
会場からの帰路はリニモを利用した。リニアモーターカーだけど、ゆりかもめに比べて乗り心地が特別快適というわけでもなくガッカリ。お台場のゆりかもめや神戸のポートライナーのような新交通システムは軌道上をゴムタイヤで走る、いわば電車型バス。それと超伝導駆動のリニアモーターカーが体感的に大して変わらないとは、夢のない話というか、う〜ん。

しかし、リニモのサイン計画は秀逸。駅ごとに抽象形態のシンボルマークが作られている。抽象形態にありがちな冷たさや難しさは皆無で、パズルみたいで楽しいデザインだ。駅にはそれぞれカラーが決められている。並べたときに統一感を出すために必ずグレーと組み合わせてあるデザインが実にうまい。

誰がデザインしたか、ネットで調べたが、出てこなかった。知っている方がいれば教えてください。

*********
【2008年2月14日追加】
デザイナーは白木彰さん(愛知県立芸術大学教授)とのことです。
愛知県芸の卒業生の、KHKさんから情報をいただきました。
有り難うございました。
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-17 21:27 | Comments(2)
 
愛・地球博へ
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5時起きして、万博へ行ってきました。

6月9日から19日まで開催されている「プロトタイプロボット展」を見に行くのが主目的です。ロボット展の話は明日にでも詳述します。

で、今日他に見たのは、長久手日本館。60分待ち。シンガポール館。10分待ち。なぜかブルネイ館。待ち時間なし。日立グループ館。140分待ち。
それだけで疲れてしまいました。

長久手日本館の「360度全天球型映像システム」は、僕が今まで体験した中で最高に没入感のあるVR(ヴァーチャルリアリティ)映像でした。いやあ、行ってよかった。たった2分の映像で、終わった瞬間は「なんだこれだけ、もっと見せて感」もありましたが、でも僕はあれを倍やられたら確実にひどい3D酔いをしてたでしょう。
それと日本館のもうひとつの隠れた見所は、鯛と鯉、熱帯魚と金魚がいっしょに泳いでいる水槽。ナノバブル技術とかいったけ。最初は何がスゴイか気づきませんでした。海のサカナと淡水のサカナがひとつの水槽の中にいるなんて、高精細のCG映像かと目を疑いました。いや実世界の出来事なのです。

日立グループ館の「メインショー」も期待通り面白かった。MR(Mixed Reality/複合現実感)技術によるものと言っていますが、あれはVRです。MRとは実世界と仮想世界を継ぎ目なく自然に(シームレスに)融合させる技術のこと。メインショーでは乗り物に乗って双眼鏡型ディスプレイを覗きながら、5つのジオラマのあるゾーンを体験します。だいたいジオラマを実世界というのは無理がある。
が、細かいことは置いといて、最先端技術が完成度を持ったエンターテインメントにしっかり仕上がっていた点は高く評価します。140分待ちのせいで、足の裏が帰宅してからも痛いけど。

日本館と日立館のこの2つのVRは、一般の人が体験できる現在日本最高峰のVR技術でしょう。この2つに、プロトタイプロボット展と“合わせ技一本”で、名古屋に行った甲斐あり、でした。

大阪万博と比べるのは可哀想です。全体的には2000年のハノーバー万博に近かったような。会場の規模も、地元のお年寄りの団体客が目立って客層にあまり国際色がないのも、コンパニオンに美人がいないのも……。ただしハノーバー万博のほうが、坂茂ありMVRDVありズントーありシザあり、さらにジャスパー・モリソンのトラムありで、建築・デザイン的には面白かったけど。そういえばデザインと言えば、89年名古屋・世界デザイン博というのがありました。あのやたら中途半端な地方博の記憶が16年越しで噛ませ犬として働いて、今度の万博を引き立てています。
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囚われのキッコロ? プロトタイプロボット展にて

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-06-15 23:59 | Comments(0)


Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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