藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
タイトルを変更します
突然ですが、blogのタイトルを変えます。
前のタイトル「悠悠研鑽」も好きなのですが、Designという言葉をタイトルに入れた方が、知らない人にも何のブログかすぐに分かると思ったからです。
「デザイン・パサージュ」と読んでください。
これからもデザインをめぐる断片的考察を、硬軟取り揃えて、書き綴っていきます。

パサージュといえばベンヤミン。いま僕が一番行ってみたい場所は、アーティスト、ダニ・カラヴァンのこの作品のある所です。
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by cabanon | 2005-07-05 12:19
 
スタイルとテイスト
前投稿の最後あたりの話、スタイルとテイストの話を補足する。

スタイリングデザインは行き過ぎた様式化で、見た目で売ろうという意思が見え見えの誠実さに欠いたデザインとして、否定的なニュアンスで使われることが多い。

メーカーやデザイナーの態度として、上げ底パッケージのようなデザインは確かに問題がある。が、僕がスタイリングデザインを語るときに非常に問題だと感じるのは、テイストの問題までスタイルの問題として語ってしまうことだ。

テイストは受け手の趣味の問題だ。見た目重視でもかっこよければいいじゃん、ボロさが味じゃんという人たちの趣向は、誰も否定できない。

たとえば、59年型キャデラックといえば、スタイリングデザインの象徴的存在だ。59年だけで実に15種類ものキャデラックを製造しているが、なかでも59年型キャデラック・エルドラドは最も華麗なアメ車の最高峰だ。

ゴージャスだけどデザインはやり過ぎ。ガソリンは食う。テールフィンは走行上の機能的な意味がない。40年代から50年代の、必要以上に大型化し、過剰にスピード感を強調したアメ車の外観デザインは、機能性や誠実さを尊ぶデザイナーから強く非難された。しかし、古き良き時代のアメリカ、強くて豊かなアメリカを愛する人が、テールフィンやクロームメッキがピカピカ光る巨大なボディを愛することを、誰が否定できるだろうか。

『ピンク・キャデラック』という映画がある。クリント・イーストウッド主演の1989年のアメリカ映画だが、ピンクの59年型キャデラック(シリーズ62)が準主役級で登場している。

映画の冒頭に、フォルクスワーゲンの追走をいとも簡単に振り切るというシーンがある。フォルクスワーゲン・ビートルがアメリカ市場を席巻し大型車の時代が終わっていくという歴史を知っているアメリカ人にとって、このシーンは実に痛快に映ったはずだ。フォルクスワーゲン・ビートルといえば誠実なデザインのシンボルのようなクルマである。

キャデラックは、スタイリングが繰り返し行われたせいで、スタイルが分裂し錯乱し爆発した結果、あの奇形的なクルマのフォルムが生まれる。ガソリンを食う無駄な、外観優先の穀潰しなカーデザイン──表現する側の態度としては不誠実きわまりない。しかしテイストとしては最強のクルマとして生き残る。

今アキバやウラハラでは、テイストが力を持ってスタイル化している。現在のデザインブームも、ミニマムでシンプルなデザインを愛する「デザイナーズテイスト」がマーケット側に先に生まれてた結果である。ポストモダンデザインの時のように、思想や運動が先にあったわけではない。現在のミニマリズムにはイズムとしての中身がない。

テイスト先導のデザインスタイルが悪いなどと主張するつもりはない。むしろ自然な現象である。受け手が作り手に育っていくわけだから。問題はテイストを、スタイルを評する時のようにグッド/バッドの判断基準で語ることだ。デザイナーが作り手の論理として定めた善悪の規準によってテイストを判断すると、レス・イズ・モアがお好みの「デザイナーズテイスト」しか生き残らなくなる。それは欺瞞である。

デザインの社会性を考えるときグッド/バッドを語ることは必要だが、かつてのように作り手が決めた善悪を世の中に啓蒙するという一方通行的な姿勢では済まなくなってきている。テイストとスタイルの違いに敏感にならないと、価値観の多様性を損ねることになりかねない。僕はそう思う。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-07-04 00:42
 
『デザイン史とは何か モノ文化の構造と生成』
d0039955_3124394.jpg『デザイン史とは何か モノ文化の構造と生成』 
ジョン A. ウォーカー著 
栄久庵祥二訳 
技報堂出版 1998年刊。


久々に書評します。


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世界は“もの言わぬデザイン”で溢れかえっている。デザイン史を書くにあたって、グッドデザインの歴史や有名デザイナーによる作品の歴史だけで済まそうと思うなら、研究は簡単だ。が、もの言わぬデザインの言葉に耳を傾け出すと、途端にデザイン史家の仕事はふくれあがる。コンビニの商品を時系列に並べて(通時的)研究してもいいし、ホームレスのブルーテントを同じ時期の他の建築や経済動向、社会現象と比べながら(共時的)研究してもいい。いずれもその深層まで掘り返そうとすれば、政治や経済、哲学、社会学、人類学などが複雑に関わってくる。

「扱う素材の範囲が膨大かつ複雑なデザイン史を初めて学ぶ人に対し、水先案内人のような役割を果たすことを本書は目指している」。いみじくも著者がこう語る役割を、本書は目論見どおり果たしている。デザイン史研究とは、何を対象として、どのような手段でなされるべきか。イギリスのデザイン史家・美術史家ジョン・ウォーカーがその膨大で広範な知識を駆使して概説的に語っている。

著者は入門書という位置づけで書いているが、研究者のための入門書であって、デザイン初心者のための本ではない。デザイン、美術、建築に対する基礎知識や、構造主義、記号論などへの理解がないと、読み進めるのは苦労するだろう。著者が交通整理役に徹しているので、読み物としてはいささか退屈だ。

僕が興味深く感じたのは、後半の「様式/スタイリング/ライフスタイル」の考察と「テイスト」に関する考察。「ある様式の特徴が故意に誇張されることを、様式化、もしくはスタイリングという」という定義は新鮮に感じた。僕が知らなかっただけだろうか。スタイリングといえば、商品の流行廃りのサイクルを短くするため内部の機構に関係なく外観だけを変えること、という定義が一般的だったので。

「様式=スタイル」という言葉をめぐって、ゴシックや古典主義という美術・建築の様式と、1950年代のアメリカの自動車メーカーによるスタイリングによるクルマの差別化、70年代のパンク・ムーブメント、さらにはライフスタイルの産業化まで考察されている。

ゴシックとパンクをいっしょに文脈で語るのは無理があるだろうと思えたが、次章の「テイスト」の考察を読むと、それが理屈にあったものであることが理解できる。「様式=スタイル」とは、表現する側の個性の発露であり、「テイスト」は消費者の好み、つまり受け手側の問題として語られているからだ。表現側の個性とすれば、おのずとスタイルの幅は広がる。表現する主体が個人の場合もあれば社会全体の場合もある。意識的か無意識的かの問題もある。

といっても、スタイルとテイストの差異はあいまいだ。著者は「デザイナーがテイスト・リーダーなにしテイスト・メーカーになることはよくある」と語る。その例としてテレンス・コンランの名を挙げている。自分がデザインした家具を満足のいくディスプレイの中で売りたい。コンランはハビタを立ち上げ大成功する。デザインだけでなくテイストを売ったのだ。著者は同様にイギリスでは、デザイン協会やデザインミュージアムが「一般の人のテイストのレベルを引き上げる努力をしてきた」という。こうした現象は、90年代後半から今に至る日本の現状に通じるものがある。

コンランショップが新宿に進出した1994年頃からデザインブームが始まる。ブームの当初はセレクトショップやライフスタイル雑誌がテイストメーカーだったが、90年代末にはデザイナーが自分の作品を置く場としてカフェを作ったり、セレクトショップを経営する現象が起こる。
このブームの特徴は、デザイナーや建築家などがテイストリーダーとして、マーケットを引っ張ったことにある。ファッションにもインテリアにも他人とは違うこだわりを持ち、情報の変化に敏感で、旅をするにしても名所旧跡でなく現代建築を見に行く人たち。デザイナーでなくても大学や専門学校でデザインや建築を勉強したけど今は専業主婦している人、インテリアショップを勤める人たちなどデザイン・建築の裾野は広い。CasaBRUTUSやPenのような雑誌はそうした顧客をつかみ、デザイン・建築雑誌化していく。

一部の有名人を除き、作り手の現場では裏方で顔の見えないデザイナー・建築家たちが、個性的なテイストを持つマーケットリーダー/テイストリーダーとして消費の現場を先導していく。こうしてデザイナーおすすめのグッドテイストデザインが市場を席巻する。イームズにしろ柳宗理にしろグッドデザインである以上にグッドテイストなデザインとして市場に受けとめられる。

いいデザインをいかに作り出すかと、市場でのデザインの価値をいかに高めるか、この問題は根本的に違うものだ。今のデザイナーはその両方に関わらねばならない。が、この2つを混同してはいけない。前者はグッドデザインを巡る問題、後者はグッドテイストを巡る問題だ。

デザインが倫理的に善であること、環境や機会均等に配慮していること、消費者を騙さずクライアントにも使い手にも社会に対しても誠実であること──そうした「グッド」を否定するつもりはない。が、それはあくまで作り手側の善悪の判断である。作り手の論理が、受容する側の感性を支配していいものだろうか。なぜ無印良品や北欧デザインのようなミニマムでシンプルなデザインがグッドテイストで、パンクやアフロ、萌えやガンダムがバッドテイストなのか

本来、趣味に善し悪しはつけられない。あなたはいい趣味をお持ちだという、グッドテイストはきわめてエリート主義的な考え方だ。グッドデザインがマーケットに出るとグッドテイストデザインにすり替わる偽善の仕組みに、われわれはもっと敏感になるべきだ。シンプルで誠実でマジメな遊び心のあるモダンデザインを愛する傾向は“デザイナーズテイスト”とでも名づけたほうがいい。Gマーク商品がグッドテイストと喧伝される必然性など全くないのだ。──なことまでは本書に書いてない。グッドテイスト云々に関しては僕の意見。が、まあ、この本、いささか退屈だったんで、話が飛び過ぎちゃいました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-07-02 03:58


Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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