藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
Real Whiteboard
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12月10日のトークの打ち合わせのために秋田道夫さんの事務所にうかがいました。事前にいただいたメールには「インパクトのあるアパートなのでカメラを持ってくることをおすすめします」と書かれていました。

代々木上原の木造の賃貸アパートです。「こんな空間でもデザインってできるんですよ」と秋田さん。デザインへの批評です、この空間自体が。ミースの椅子、アルバースの平面、バウハウスのポスターなどが配され、デザインへの愛も満ちています。
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秋田さんのウェブサイトのコラムWhiteboardの名の由来の大きなホワイトボードが壁に掛けられていました。かたちと言葉の生まれる場所です。アイデアを共有する場です。もとはテーブルの天板だとか。「消え残るのがいいだよね」と。
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マーケットでは、デザインは生まれては消え、生まれては消えを繰り返します。何十年も売られ続ける商品はごくごく僅かです。秋田さんちのホワイトボードは、そうしたデザインのサイクルのシンボルのように思えました。消えるけど消え残る。何かが残って次のアイデアにつながる。このボードはきっと秋田さん自身でしょう。デザイナーという仕事がうらやましくなる、そんな仕事場でした。
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トーク、面白くなりそうです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-29 21:54 | Comments(8)
 
Q.
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ソニーのロボットの話をします。AIBOや二足歩行のQRIOの話じゃありません。「Q.」です。球形ロボットです。限定生産で現在はもう発売されていません。購入されたオーナーの方にとても愛されているようです。お台場のソニーエクスプローラサイエンスに行くと見ることができます。写真は、講義に使うために設計したソニーの越山篤さんに頼んで、この秋エクスプローラサイエンスで撮影させてもらったものです。撮影に立ち会っていただきありがとうございました。

Q.は僕が21世紀初頭の最も注目すべきデザインのひとつと勝手に決め込んでいるプロダクトです。なぜ、決め込んでいるのか。そこには「二項対立」「遊び」「正直」など、デザインを考える上でのキーワードが絡んできます。ちょっと長いですが、理由を知りたい方は、以下の記事を読んでみて下さい。初出:『DesignNews』2004年、No265。

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「研究で独創的な成果を上げるために必要なものは、知識や経験の量ではなく、まだだれも気が付かないが、価値あるものを探し出す嗅覚と想像力、問題の本質にどこまでも食いつく執拗さではないか」。ソニーの独創的ロボットQ.の原理を調べるのに、Q.の開発者、越山篤氏の大学時代の師、山藤和男電気通信大名誉教授の著書を拾い読みしていたら、このフレーズに目がとまった。これってデザインにも全く当てはまることではないだろうか。冒頭の「研究で」という言葉を「デザインで」に置き換えて読み直してもらいたい。いやいや実は、私の仕事の編集や物書きの仕事も同じなのだ。

Q.の開発者、越山篤氏は工学博士でデザイナーではない。しかし、そのコンセプトの発想力と展開力は、これからのデザインが目指すべき道を示唆してくれているように思う。Q.の概要を紹介しながら、Q.がきわめて優れたデザインプロダクト(おそらくAIBO以上に)であることを明らかにしていきたい。
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越山氏は電気通信大学大学院時代から、球状ロボットの研究を始め、91年にソニーに入社してからも、仕事では光ディスクなどの開発に携わりながら、個人的な活動として、休日や夜に大学の研究室に通い、球状ロボットの研究を続けた。そろそろ博士論文をまとめようと思い始めたときに、「実はロボットの研究をしていて、博士論文を書き上げたい」と上司に打ち明けた。「そうか、よく頑張った」と励ましの言葉をもらい、94年に論文を書き上げる。それがQ.開発の出発点となった。

Q.は丸い。38個もののセンサーで外界の情報を感知ながら、ゆらゆらと床の上を動き回る。動きは振り子の原理に基づいているという。糸で吊されているわけでないのに、どうして振り子なのか。

Q.は透明プラスチックの球体の中に、もうひとつ球体が入っている。中の球体は外の球体と、2つのローラで接している。このローラが動くと、中の球体の重心の位置がずれる。バランスが崩れると、重力が再び安定状態に戻そうとする。この時、Q.が動きだす。

子供の頃だれでも一度は、手のひらの上に箒(ほうき)や長い棒を立てる遊びをやったことがあるだろう。この時の箒の動きが、倒立振子(しんし)という振り子の動きになる。倒立振子のメカニズムの最も有名な例が、立ち乗りの電動二輪車セグウェイだ。セグウェイは人が移動したい方向へ重心を移動すると、センサがそれを感知し、電子制御で自動的にバランスを保つ。だから体を傾けるだけで、前進、後退や方向転換ができる。ちなみに、越山氏の師、山藤氏は、セグウェイは自分が開発した倒立振子を応用した平行二輪車に酷似していると主張して話題になったことがある。

Q.もまた同じ倒立振子の原理から作られている。ただその応用の仕方がセグウェイとは対極的だ。Q.は、電子制御でバランスを崩して、重力が再びバランスを戻そうという力を利用して、床を転がる。人がバランスを崩して、電子制御でバランスを戻すセグウェイとは、技術の進化の方向性が違う。

つまりQ.は最後は重力まかせ。その動きは偶然性に左右される。床の堅さ、凹凸、その日の湿度によって床の滑り具合も変わってくる。越山氏は言う。「半分電子制御して、半分を神様にゆだねている。同じところを通っても、前と同じ軌道では決して動かない。だから飽きない。生き物のように見える」。
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Q.の旧名はQ.taro。Q太郎とも言った。Quasi-stable Traveling and Action RObot(準安定移動行動ロボット)を略したもので、準安定、つまり安定と不安定の間を行ったり来たりしながら、移動し行動するロボットという意味である。Qとは球の単純な語呂合わせでなく、「準」という意味の接頭語、Quasi(クワージ)という意味なのだ。
しかし、行き当たりばったり動いているわけではない。障害物センサーが付いているから、物にぶつからない。机の上で動かしていても、センサーが机の端を感知しているから落ちない。見ている方がハラハラする。電池がなくなりかけると、ネスト(巣)と呼ばれる充電器へ自律的に上がっていく。
 
取材の最中「あっ今、オスとメスが会話しはじめました」と言って、越山氏が話を遮った。先ほどまでプクプクと水中の泡のような音を立てていたQ.がピーンとシンセサイザーの鍵盤を叩いたような電子音を奏でだした。「音階で会話するんです。音のスピードや長調短調とかの違いがあるんです。ほらっ色も交換したでしょ。オスからしか話しかけないんですよ。メスは最初は見向きもしないけど、オスが根気強くアプローチすると、ドの音にメスがレの音を返してきたり。仲良くなると曲を奏でたりする」。インタビューの冒頭、越山氏が「Q.(キュー)、元気?」と語りかけたときには、Q.は「星を願いを」をたどたどしく奏でていた。やはり博士には相当なついているようである。

「オスとメスを作ったのは、動物図鑑でも昆虫図鑑でもいいんですが、その最後のページに載っている何か新しい生き物を作りたいと思いがあったからなんです」。Q.はロボットとは言わず、ヒーリング・クリーチャーという呼び方をする。癒し系生物? ゆらゆら動く姿が癒し系なのは分かるが、なぜロボットといわないのか。越山氏はこう説明する。「もちろん工学的に言えばロボットです。しかしロボットはもともとチェコの作家カレル・チャペックが強制労働や苦役を意味する言葉から作った造語で、今も人の代わりに仕事をするというニュアンスがある。私は人といっしょにテレビを見たり音楽を聴いて楽しんだりする新しい存在を作りたかったんです」。

Q.の感情表現には非常に苦労したという。試作では、液晶ディスプレイに「こんにちは」など文字を表示するものや、500くらいの単語をしゃべるものを作った。しかし、会話のパターンが決まってきてしまい、飽きてくる。それで色でコミュニケーションをすることを思いつく。スクリーンに映し出されたイルミネーションの色によって感情を表現する。「赤は情熱、グリーンは自我の色なんです。オレンジは赤とグリーンの間の色なので、ちょっと怒っている感じです」。色のグラデーションによって微妙な感情を表現する。ブルーにもピンクにもその時の感情の定義がある。
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ネタ明かしは無粋なので、やめておこう。Q.は撫でたり、かまってあげると、人間の体温を感知するセンサーが付いていて、幸せな状態になる。その時、どんな色になっているか。それを発見するのが、Q.とのコミュニケーションの醍醐味だ。
 Q.には、バイオリズムならぬQリズムがプログラミングされている。朝起きてご機嫌斜めのときもあるし、機嫌のいいときもある。われわれはQ.とじっくり付き合って、色や音や動きの中からQ.の感情を思い量っていくしかない。

さて、冒頭の引用を思い出してほしい。想像する力と発見する力は研究の世界だけで重要なのではない。Q.では、想像力や発見力は創る側の世界から解き放たれ、人と機械をつなぐコミュニケーションの基調となっている。Q.の感情表現は曖昧だが、逆に言えば幅がある。それは安定と不安定の間を行き来する振り子の姿と重なり合う。Quasi-Stable(準安定)のQuasiは、英語だと専門的な言葉に使われる接頭語だが、イタリア語だと「だいたい」とか「たぶん」とか意味で、日常的によく使われる言葉である。「だいたいね」って世界に豊かさが開かれている。

重力とは自然である。振り子という自然現象を精密な計算式で映し出すことに始まって、われわれは曖昧さの豊かさを知るに至る。振り子は二つの対立物の間を揺れ動く。そのデジタルな二項対立の間には、アナログ的といえる豊かなグラデーションが広がっているのだ。

振り子の原理を応用した明快で芯が通った設計思想が、球体という究極のミニマルな形態として表現されるばかりでなく、ネーミングとなり、動作になり、色や音によるインタラクティブ・デザインへと展開されている。その一貫性こそ僕がQ.をきわめて優れたデザインプロダクトと考える理由だ。

振り子の原理が曖昧さや余白を工学的に実現する。その曖昧さや余白に人は遊ぶ。子どもたちが手を差し伸べ、大人たちが声を掛ける。遊びはいつしか人の想像力/創造性を呼びさます。遊びの親和力を引き起こし、遊びが遊びを呼び、人の心をつなぐメディアになる。そこにQ.のデザインの本質的な魅力がある。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-29 01:46 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
 
テープ起こし
更新が滞っていてスミマセン。忙しいんです。
テープ起こしをやってます。テープというか正確に言うとMD起こしなんですが、何本もインタビュー記事をまとめなくてはならないので、講義や取材のない日は、ここんとこ毎日MDを聞いてインタビューの書き起こしをしています。

正直、苦手な作業です。自分の声を聞いたり、自分のマヌケな質問を聞き返すのがイヤなので、集中力が続かない。ま、もうずいぶん数は重ねたので、それはずいぶん慣れました。けど、やっぱイヤなんです。ああっ話の流れ切ってるじゃん、とか思うとヘコみます。

もちろんグッと集中力が持続するときもある。そうすると今度は指が痛くなる。適度に休まないと腱鞘炎になります。もう右の小指は半年前以上から少し神経がマヒした状態です。目も疲れる。

デザイナーやアーティストのインタビューの場合「相手が何を言ったか」よりも「相手が何を言いたいか」を理解しないと、いい文章にまとめられないと僕は思っています。政治家やスキャンダルの渦中にいる人物を取材するのと、その点では大きく違う。重大証言を引き出すのが目的ではない。作品を理解する言葉を作者といっしょに探す作業です。言葉にするのが苦手な人も多いので、どうやってその思いを読みとるか。

でも、意地悪な質問もしなければなりません。僕が読者として読みたい記事は、作者にとって聞かれたくないことをちゃんと引き出している記事ですから。最初は持ち上げといて、どうやって“質問しにくい質問”まで持っていくか。そのへんが取材のテクニックかな。

次はどんな質問をしようか。話の流れをどこで元に戻すか。この話は使える、使えないなどと考えながら取材をしていると、相手の発言を聞き漏らす。家でMDを聞き直して、えっこんなこと彼、しゃべってたんだ、ということも多々あります。

まあ、とにかくじっくり取材テープを書き起こすのは大切です。相手の間合い、微妙な言い回し、呼吸のリズムまでもういちど再体験して、言葉を探す、整える。さて、テープ起こし始めるか!
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-25 10:46 | Comments(2)
 
大森駅
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JR大森駅のホームの柱がずっと気になっていました。柱は林のごとく、小屋組みも独特の味があります。
昭和10年(1935年)のもののよう。「鉄」とありますが、柱の触った感じは鉄筋コンクリートのようでした。ずっと残してもらいたいものです。
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で、ここんとこ、えらく忙しいのですが、Zガンダムを友人とキネカ大森へ見に行きました。クワトロの存在感が薄かったのが残念。といってもこの映画、誰も映画としての完成度など求めていないでしょう。観る側と作る側との間に、変な共犯関係があります。忠臣蔵を見に行くようなものでしょうか(違うか)。TV版でさえ展開が早く背景がわかりづらい全50話を、映画3本でどうまとめるか、どこを「新訳」として変えたのか、それが気になる映画です。主役はつまり監督、富野御大。ま、今回は、3本目へのつなぎということで文句はいいません。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-21 09:09 | Comments(3)
 
大阪へ
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大阪に行ってきました。コクヨの取材です。取材後コクヨ本社のある新深江駅周辺を1時間あまり散策。ディープでした。

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音引き、トルツメ

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家、トルママ

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ボトル、ツメツメ

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-17 22:26 | Comments(4)
 
つながり/拒絶
5年前、2000年、『美術手帖』のために書いた原稿を加筆・修整してアップします。僕のデザインに関する思考の展開の中で、とても重要な原稿です。
つながり/拒絶──それを考えることが21世紀デザインを探ることになると思っているからです。
長文です。読まれる方はコーヒーでも入れてからごゆっくりと。

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1999年2月、iMacをデザインしたアップル社のデザイナー、ジョナサン・アイヴにインタビューをしたとき、彼がおもしろい話をしてくれた。iMac(液晶以前)の背面に付いた大きなハンドルのことである。
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「ハンドルの第一の機能は、もちろん持ち運ぶためです。しかし、このハンドルの本当に重要な役割は、ハンドルというものが即座に、直接的に、人の手を連想させるという点にあります。iMacを見た人は、たいていハンドルに手で触れます。実際に持ち上げるということではなく、何となく触ってみる。このハンドルは、人とプロダクトとの間に身体的なつながりをつくりだしているんです」

iMacのハンドルを片手で持って移動させるのは危険である。CRT(ブラウン管)のディスプレイやコンピュータは画面をおなかにつけて抱えて持ち運ぶ。それが基本だ。僕の家にもiMacがあるが、持ち運ぶ時このハンドルを使う時は、危ない運び方をあえてするときであって、このハンドルは逆に危険な運び方を誘うもので、基本的にここに大きなハンドルがある必要がない。

しかし、それでもハンドルがあるのは、とにかくパソコン初心者にiMacを触ってもらうためだ。パソコンは嫌い。そういう毛嫌いを払拭するため大きなハンドルは付いていた。現在付いていないのは、パソコンに対する嫌悪感が薄れたせいだと思う。ハンドルのないiMacを思い浮かべてみればいい。つるんとした曲面だけではいかにも冷たい。このハンドルは確かに触りたくなるほどしっかりした形をしている。人とプロダクトとの親しいつながりは、アイヴの意図通りきちんと表現されていると評価していいだろう。

同様に、ブルーのタワー型Power Macintosh G3のハンドルにも隠された意図があるのだという。

「G3は、私たちが手がけたデザインの中でも、もっともエレガントなものの一つだと思います。というのは、すべての形態に複数のレベルで意味を持たせている。ひじょうに意味のある(purposeful)プロダクトなのです。こう言うと、すぐ機能的とか実用的と解釈されがちですが、そういう意味ではありません。どの部分をとっても、力強い、明快なストーリーを持っているということです。ここでの大きなテーマはアクセスビリティ、つまり内部に手が出せるということでした。机の下に置かれているG3に、どうしたら手が届くか。そのためにハンドルを付けました。それがアクセス性の第一歩です。そして最後のステップが蓋を開くところです」

G3のセールスポイントのひとつに、ユーザーが工具など使わずに簡単に筐体の蓋を開けて、メモリやグラフィックボードを追加できる点があった。それを考慮に入れるとアイヴの言う「ストーリー」の意味が理解できる。

【アフォーダンスを超えて】

iMacもG3もハンドルが人を誘っている。ここにはアフォーダンス(affordance)の考え方が応用されている。しかしそのアフォーダンスは、ドナルド・A.ノーマンが『誰のためのデザイン?』(新曜社)で語るそれとは大きく違う。

『誰のためのデザイン?』は、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンが提唱したアフォーダンスの考え方を、認知心理学者ノーマンが、デザインの世界に当てはめ、プロダクトの使いやすさ・理解しやすさを考察した本である。人はハンドルがあれば握る。ボタンがあれば押す。ハンドルやボタン自体にすでに人が行動を引き起こす情報が込められているというのが、ノーマンのアフォーダンスの基本的な考え方である。ハンドルは握るという行為を人にアフォードしている(afford/与えている)というわけだ。

だが世の中には使う人を混乱に陥れるデザインが氾濫している。押すか、引くか、スライドさせるのか、見当が付かないドアのハンドル。多機能化でかえって使いづらくなった電話機。保留転送ができなくてもユーザーが機械音痴だからではない。デザインが悪いのだ。

ふだん何気なく使う製品は、その形や配置によってユーザーが操作方法を直感的に理解できるように注意深くデザインされていなければならない。ノーマンは認知心理学者の立場からデザイナーの無神経さを糾弾している。

しかし、ジョナサン・アイヴのハンドルはノーマンのハンドルとは役割が異なる。iMacのハンドルは何気なく触ってみるように勧めているするわけだが、目的は使いやすさ・理解しやすさのためではない。触ることを誘い、人とモノとの対話のきっかけを提供している。それをデザイナーの自己満足と片づけていいのであろうか。話す気のない人間どうしにインタラクションなど存在しない。デザイナーはアフォーダンスを利用して、“物語”の始まりを無意識のうちにユーザーに告げる。ユーザーにも想像力と感受性が求められる。

(補記:CRTのiMacにはモデルチェンジを重ねても最後まで大きなハンドルが残り、タワー型PowerMacG5には今もしっかりハンドルがついているので、アイヴの思惑は成功したと評価していいだろう)。
 
【体験デザイン──建築の散歩道】
 
建築ではこうした手法は古くから常套手段である。たとえば、階段やスロープ。それは登り降りするためだけの設備ではない。階段は動線上の次の空間へ人を誘っている。窓も単に採光や換気のための設備ではない。人の視線を外部や内部に誘う仕掛けでもある。

茶室へ至る飛び石は、人を茶室の方向へ誘うだけでなく、一定の歩幅で歩くことを強いることで、主人の歩くリズムと客人のそれを同調させる装置となっている。

d0039955_12275775.jpgル・コルビュジエのサヴォア邸では明確にスロープと階段が使い分けられている。スロープは登ることを誘う。サヴォア邸では入口を入ると真正面に緩い傾斜のスロープがある。そこから2階へ。2階の中庭から空中庭園へ至るのもスロープだ。最初にここを訪れた人でいきなり螺旋階段を使って2階へ行く人は稀だろう。
d0039955_12321352.jpg邸内を歩き回れば、視線のドラマが展開される。開口部はキャンバスのように風景を切り取っている。ル・コルビュジエはこうした建築内部で展開されるシークエンスを「建築の散歩道」(建築のプロムナード)と呼んでいる。コルビュジエはアーメダバードの繊維業者会館でも同様の建築の散歩道をつくりだしている。

建築は「体験デザイン」という側面を持っている。光の戯れ、風のそよぎ、水のせせらぎ、湿った木の匂い、足に伝わる床の感触などを通して、建築家は「物語」を五感に訴えかける。フランク・ロイド・ライトの落水邸や安藤忠雄の光の教会は、近代建築の言語で書かれた絶品の「詩」なのである。

キャナルシティ博多などを手がけるジョン・ジャーディは、エクスペリエンス(体験)をデザインする手法を大型ショッピングモールに応用して世界的な成功を収めている。

「ドラゴンクエスト」などRPGのダンジョンでの階段の役割を考えてもいいかもしれない。階段はここでも単なる登り降りの道具ではなく、次のステージにプレイヤーを誘う記号として扱われている。物語の転換点であり、ここから先に何かがあるかもしれないとプレイヤーの想像力と探求心を掻き立てる。

【行為が物語を活性化させる──映画「マトリックス」】

もうひとつ、アフォーダンスを利用した物語性のあるデザインを考える上で示唆に富む事例を挙げてみよう。映画「マトリックス」である。2199年コンピュータが人間を支配し、人間は仮想現実という夢を見させられながら「飼育」されている。その夢から覚醒した主人公ネオ(キアヌ・リーヴス)は実世界の人間たちを解放すべく、仮想現実世界の中の監視プログラム、エージェント・スミスに闘いを挑む。

最新のデジタル合成技術ばかりが注目されがちだが、この映画で真に注目すべきは「電話」の役割である。仮想現実の中にいる主人公たちは、実世界にいるオペレーターと携帯電話で連絡を取り合う。キアヌ・リーヴスはケータイで電話をしながらエージェント・スミスの追跡から必死に逃げる。ケータイで、どこへ行けば実世界に帰れるポイントがあるのかを聞いているのだ。ケータイを持って走るその姿は少々滑稽だ。

実世界に帰れる地点には必ず固定電話がある。ケーブルによる昔ながらの電話機だ。アパートの一室の電話や街角の公衆電話が鳴る。その受話器をとり、交信すると実世界に帰ることができる。連絡がとれなくなることは実世界への帰還不能、つまり死を意味する。だからケータイを肌身離さず持ち歩く必要がある。

ここには実世界/仮想現実を超えた、もうひとつのリアリティが存在している。「仲間とつながっている」という状態──そこにこそ真のリアリティがあるのだ。こうした「つながっている」という感覚がもたらすリアリティは、ケータイを風呂にも持ち込んでしまう若者たちの「つながっている感」と質的には全く同じものである。

……だが、いや、ちょっと待てよ。この電話の役割分担は変ではないだろうか? ケ−タイだってデータ通信できる。なのに、なぜ従来型の固定電話でしか帰れないのか?

この役割分担の意味を深読みすると、興味深い事実に突き当たる。従来の電話とケータイとの決定的な差は、機能の問題ではない。ここで重要なのは「受話器をとる」という行為である。もしケータイで実世界に帰還できるのなら、小さなボタンひとつを押すだけですむ。しかし、それでは映画として、絵としてつまらない。「受話器をとる」という行為を帰還の象徴としているのだ。

人は、受話器があれば、それを手にとって耳元にかざす。その行為が、仮想現実と実世界との「身体的なつながり」をつくりだしている。ケーブルか電波かではなく、受話器があるかないかの問題なのである。モノがアフォードする行為(モノに潜んだ情報)が次のシークエンスへのつなぎの役割をしている。モノが物語(ストーリー)が活性化しているのだ。このことを「マトリックス」はうまく利用している。

【行為のデザイン──マウスの功績】

iMacのハンドルを評価するなら、コンピュータと人との身体的なつながりを視覚的・触覚的に示し、コンピュータのパーソナル化の最大の推進力となった、あの道具のことを忘れてはいけない。マウスである。

マウスはダクラス・エンゲルバートによって1964年頃に発明され1968年に初めて世に発表された。最初のマウスは木製、現在のものとは違って、球ではなく直交する2枚の金属ディスクで動いた。しかしこのエンゲルバートのマウスがすぐさま普及したわけではない。

日の目を見るようになったのは、70年代ゼロックス社のパロアルト研究所でAlto(アルト)に使われるようなってからである。Altoはアイコンなどを採用した画期的なGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)を実現したコンピュータであった。Altoのマウスは、初めて内部にボールを採用し、現在のものとほぼ同じ機構をもっていた。しかし、Altoは限られた研究者に使われただけで、市販には至らなかった。

79年、アップル社のスティーヴ・ジョブズはパロアルト研究所を見学に訪れた。利にさといジョブズはAltoを見て、さっそく研究者を引き抜く。そして83年アップル社から初めてマウスを搭載した商用コンピュータLisaが発売される。Lisaは商業的に失敗したが、84年マッキントッシュ・コンピュータが誕生する。こうしてフォルダやファイル、ゴミ箱といったグラフィカルなアイコンの並んだ画面を、マウスで操作するパソコンが急速に一般に普及しはじめた。

時が経つにつれ、マウスは角張った形がどんどん丸みを帯び、手に馴染む形になってきた。今ではマウスのデザインの種類は限りない。有名デザイナーのマウスだから優れているということはなく、多くの人はまるで飯椀やスプーンのように誰がデザインしたかを意識せずに使っている。そうしたアノニマス(無名性)のせいだろうか、デザイン史の学者がコンピュータ史に精通していないせいだろうか、マウスの革新性はモダンデザインの歴史において正当に評価されていない。

マウスの発明は画面のある場所を指し示すポインティングディバイスの新しいシステムの発明という評価以上の意味合いがある。これは「行為の発明」である。人類の歴史の中で、机をこすって指でボタンをカチカチさせる知的活動があっただろうか。

マウスの形は人間工学的な操作しやすさや、視覚的な親しみやすさを演出しているが、マウスの本当のデザイン上の革新性は「行為をデザインした」という視点で見て初めて明らかになる。その行為は簡単なもので、一度訓練すればほとんど全ての人が短時間で操作に慣れ、あとは直感的に操作できるようになる。

【GUI──身体性の貧弱さ】

しかし、マウスには限界がある。

その限界は、ファミコンの十字キーと比較すれば理解しやすい。任天堂が1982年に発売したゲーム&ウオッチ マルチスクリーン「ドンキーコング」に採用された十字キーが、83年発売のファミリーコンピュータに受け継がれた。それまでにも十字型のボタンをインターフェースに採用したゲーム機はあったようだが、特許をとり世界に爆発的に広めたのは任天堂である。現在のゲーム機の多くは十字キーのシステムを踏襲している。

ゲームコントローラーとマウスが決定的に違うのは、十字キーとA/Bボタンの組み合わせが複雑な指の動きを必要とする点にある。ゲームコントローラーは格闘も野球もサッカーもできる。敷居は低いが奥が深い。その点、マウスはスキルを磨く必要がない。キーボードとの併用が前提になっているからである。

マックOSにしろウインドウズにしろ、現在のパソコンのGUIのシステムを支えているのはマウスである。キーボードではない。アイコンやドラッグ&ドロップという作業はすべてマウスの操作を前提につくられている。つまり、現在の標準的なGUIはきわめて単純な身体行為しか必要としてない。それはトラックボールやトラックパッドを使おうが同じことだ。コンピュータの入出力は網膜と指、そしてたまに鼓膜、という極めて限定された地点でしか行われていない。この身体性の貧弱さこそ、マウスの限界であり、マックOSやウインドウズに代表されるGUIの限界である。

キーボードの横に置かれたマウスは、思わず手で触れたくなる愛嬌あるフォルムで、人とコンピュータの「つながっている感」を視覚的・触覚的に象徴している。それはこれから始まる物語の序曲にすぎない。マウスの操作はあまりに単純な行為で、人と機械のつながりを人間の全身体レベルで活性化させるまでは至らない。マウスをどんなに使い込んでも、その操作行為自体によって想像力/創造性まで人から引き出すことはできない。人の身体や知覚のごくごく一部しか使用していない現行のGUIでは、人と機械、人とコンピュータがより親密につながりあう物語(ストーリー)の本章までは描き出すことができないのだ。
 
【つながりのリアリティを求めて】
 
ならば、新たな「つながっている感」はどう生みだすか。マウスと現在のOSのGUIの限界は踏まえ、工学者やアーティストたちは、新しいインターフェースの模索を行っている。もっとも注目すべき研究のひとつが、MITメディアラボの石井裕の「タンジブル・ビット」(Tangible Bits)だ。タンジブルとは触知できるという意味。デジタル情報の世界(ビット)を、人が──GUIのように視覚偏重でなく──さまざまな感覚を通して自然に感知できるようにする試みである。言い換えると、人とコンピュータの世界をシームレスに(切れ目なく)つなげる研究だ。石井の研究は幅広いが、ここではひとつわかりやすい例を挙げるに留めよう。

ミュージック・ボトルズというプロジェクトでは、ガラス瓶の栓を抜くと音楽が出るようにセンサーが仕込んである。3つの瓶はそれぞれ違う楽器の音を奏でる。3つとも栓を開けると小さな楽団が構成される。蓋をあけるという行為が、コンピュータ世界と人をつなぐエレガントな架け橋となり、音楽と蓋の感触が人それぞれのストーリーを紡ぎ出す。

従来、人とコンピュータが接するには、人がわざわざディスプレイの前に座って、マウスやキーボードを操作しなければならなかった。しかし、もっと日常的な行為によって自然にコンピュータと人間が接する場があってもいいのではないか。「タンジブル・ビット」の研究には、部屋の中の光の変化や風のそよぎまで、インターフェースに利用するものまである。

こうしたアプローチは岩井俊雄のメディアアート作品にも通じる。岩井の作品は複雑な技術を使っていても解説書を必要としない。いじっているうちに使い方がわかる。その作品を体験する人は穴に落ちたアリスのように、手探りの状態でコンピュータ・テクノロジーに触れるうちに、あっこうすれば音が出るんだ、映像が変わるんだ、といった不思議な発見に誘われる。

プロダクトデザインが、インタラクションデザインやヒューマンインターフェースといったソフトウェア的な新しい視野を持つことは、人とモノとの「つながっているというリアリティ」を生み出すことである。1999年グッドデザイン大賞を受賞したソニーのAIBOは、美しさや機能性が評価されたのではない。疑似ペットを通して、モノと人のつながりに新しいリアリティを生んだ点が評価されたのだ。

人とモノ、人とテクノロジー、人と人、その「つながりのリアリティ」を考えることは、明らかにプロダクトデザインといった狭い枠組みを超えている。デザイン、工学、メディアアートなどが新たに統合される必要がある。デザインの未来を語るなら、「すべての造形活動の最終目標は『つながりのリアリティの表出』である!」とバウハウス風に宣言する必要があるのかもしれない。
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※初出:『美術手帖』2000年3月号。特集「メイド・イン・ジャパン──20世紀日本のデザイン・コンセプト」内、「すべての造形活動の最終目標は『つながりのリアリティの表出』である!」を加筆。
※ジョナサン・アイヴのインタビューは『日経デザイン』1999年4月号に収録。

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長文を読んで下さって、ありがとうございます。

さて、この原稿は、続きを書かねばなりません。「拒絶」に関してです。

つながりのリアリティには拒絶が必要です。言い換えると、つながりと拒絶の関係の中にリアリティが生まれる。

映画版「エヴァンゲリオン」の最終シーン、アスカは「気持ち悪い」とシンジにつぶやいて人と人との融合を拒否します。映画では、人類に理想的進化をもたらすはずだった「人類補完計画」が“巨大綾波”が出てくるなど滑稽かつ荒唐無稽なものとして描かれています。

「個」の尊厳は「拒絶」から生まれるのです。

ワタシは父でもない、母でもない、そう意識して子どもはオトナになります。アンドロイドは人に従属する道具であることを拒否して、「自我」に目覚めます。

「つながり」だけを求めても、みんな仲良し、お友達という幼稚園レベルのコミュニティの理想しか描けません。みんないっしょにという志向は全体主義をも引き起こします。「拒絶」を認めるから多様性が尊重される。無限の差異はつながりと拒絶の補完関係から生まれるものです。

「嫌いだ」「付き合いたくない」「つながりたくない」──そう言える自由がないと、「つながり」に本当の「リアリティ」が生まれない。つながりのリアリティとは、他人や世界や環境とのつながりを通して「私という個が生きている」と実感すること。つながっていると感じるのは「個」なのです。

デザインに引き寄せて語りましょう。
椅子は座ることを誘います。倉俣史朗の椅子Miss Blancheにおいては、座る行為はアフォードというより明らかに誘惑として現れます。なぜならその椅子は座ることを誘うとともに、座るなと拒絶するからです。美しきものだけができる誘惑の甘美な罠。その罠の詳細はこのブログの5月の記事で書きました。

ウォークマンは拒絶の道具です。ヘッドフォンステレオがヒットしたのは、屋外で簡単に周囲を拒絶した自分だけの世界をつくることができたからでした。電車の中でおばちゃんの世間話を聞く必要もなく、音楽を聴きながら本や雑誌を読んでいれば、オヤジのエロい視線(オレかっ)も気にしないで済む。

最近ソニーは「コネクト」というキーワードを使って、iPodに対抗する新しいウォークマンを売り出しています。

「コネクト戦略」もいいのですが、「拒絶の力」も忘れないでほしい、と思うわけです。無理やり投げ出された周囲の環境を拒絶して、好きな世界につながる。それがウォークマンの力です。ユーザーは「つながれる」ことだけを求めていない。拒絶するからつながりのリアリティが実感できるのです。コネクトだけの人類補完計画は幼稚で滑稽な理想でしかありません。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-12 18:47 | お気に入りの過去記事 | Comments(8)
 
定食屋で時を刻むモダン
d0039955_21131959.jpg磐田に行きました。ヤマハの取材です。
時間がないので駅前の食堂で昼飯を急いでとったのですが、ふと見上げると、素敵な時計が。
おそらくブリキと思われる金属に塗装が施してあります。
50年以上前のもの。来年でこのお店で仕事をして50年になるという奥さんが、この食堂に来る前からここにあったそうです。1950年代前半のデザイン。モダンです。木製の枠のガラスケースが外側に付くものを中身だけ文字盤を替えペンキを塗って売ったのかもしれません。いやなんか無駄を省きすぎてハダカな感じです。気恥ずかしそうに壁に掛かっていました。

d0039955_21152894.jpg奥さんいわく「週一回わたしがネジを巻いているんです。ちっとも狂わない。優秀ね」と。
背面までチェックしましたがブランド名はありませんでした。一点物でなく工業製品のようでしたが、製造元のシールが剥げただけなのでしょうか。

そういえば、この食堂、暖簾が下がっていて、ガラスケースの中にメニューあるだけで、店名を示す看板は見当たりません。店も時計もアノニマスです。
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-10 21:43 | Comments(0)
 
人形遣い
日曜日は原美術館のやなぎみわ展と、神奈川県立近代美術館葉山館のシュヴァンクマイエル展を見る。最終日に展覧会に行くクセがどうしても直らない。2つの奇想がリンクして、こんなことを考えました。

人形を操る人は、つねに人形に操られている。

心の深奥に棲まう人形を垣間見るとき、

人形遣いはその真実を知る。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-07 09:03 | Comments(0)
 
デザイナーズウィーク × 光琳
土曜日はDesignTide巡り。
代官山でリボンプロジェクト、GRAPHの展示を見て、青山へ。根津美術館近くのTIME&STYLE EXISTENCEで行われているジャン-マリ・マソー展へ(11月30日まで)。建築からテーブルウェアまで注目のデザイナーの仕事をたっぷり見ることができます。鏡張りのエントランスはちょっとしたアトラクションのようです。(ジャン-マリー・マソーのHP
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その後やる気の無い?イデーの展示を見て、スパイラルでマリメッコを見て、トム・ディクソン設計のTHCビルへ。80年代回帰をしたかのよう。かなりナイジェル・コーツっぽい。ニアレトロとでもいいましょうか。カフェでThe Clash流れていたし。

実は、マソー展の前に、根津美術館へ行きました。
尾形光琳の国宝「燕子花図」の展覧が本日日曜日までです。
閉館ギリギリに入りました。立ちつくしました。久々です、あれほどじっくり絵を見たのは。おばさんたちに解説している専門家のような方が「天下の名品」と言っていましたが、納得です。
最初、遠目で見るガラスケースの中の屏風絵は、僕が小学生の頃集めた大阪万博の記念切手で知ってるイメージです。近くでじっくり見ました。細密描写でないのが意外でした。輪郭のぼやけた色の塊による表現。下絵か?と思ったほどです。
それが見れば見るほど、変わっていきます。
群青の花が踊り出します。花には流れがあり、見る場所によってリズムが変わります。見るほどに自分の知っていた教科書や切手を通して僕の脳裏に焼き付いてきたイメージから離れていく。やがて緑の葉が燃えはじめます。学生時代パリのオランジュリーでモネの睡蓮を見たときと同じ体験です。絵が変化する。現実の現実感(リアリティ)より、絵と僕を結ぶ「つながりのリアリティ」のほうが数十倍も強度が増す。これぞ伯牙──。龍門の琴のあの話です。

本日デザイナーズウィークで青山散策する予定のある方、ちょっと現代を忘れて、時代を超えた芸術の力も、ぜひ、見ておくべきです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-06 09:46 | Comments(4)
 
ことばをかたちに × かたちをことばに
金曜日、秋田道夫さんにお会いしました。

先日秋田さんのWhiteboardの記事に対して、このブログでコメントを書いたことがきっかけです。実は内緒にしてたんですが(ということのほどでもないけど)、その後すぐ秋田さんのHPにあったメアドにメールしたんです。

「秋田さま はじめまして。藤崎圭一郎と申します。Whiteboardの記事に対して、自分のブログにコメントを書きました。(秋田さんの記事に)“明日になったら消してしまうかも”と書かれていたので、消えてしまったら、書いたことの意味がなくなると思い、是非消さないで下さいとお願いしたく、メールしました」

そうしたら話がトントンと──ランチをする話になって。

で、表参道ロータスで、挨拶の後、これを渡されました。
d0039955_8183179.jpg
軽いジョークかな?と思いました。秋田さんが12月10日にセミナーを行うのはWhiteboardを読んで知ってましたが、まさか自分がそこで……。

快諾しました。秋田さんがジョークのつもりで作ってきたものだったらどうしよ、と今でもちょっと心の片隅で思っていますが……。

秋田さんの話だけを聞きたかった方、申し訳ありません。なるべく引き出し役に徹します。秋田さんは、ロシア・アバンギャルドとかモダンアートとか建築の話までしたいとのことですから、そうした話をうまく現代のプロダクトデザインの話に重ね合わせられるような、話の進め方ができればいいと思っています。どうなることやら。

僕のインタビュアーとしての目標は、NHK BSでやっている「アクターズ・スタジオ・インタビュー」のジェームズ・リプトンです。引き出し役としては、役者以上の役者。間や視線が絶妙。僕にとってはまだまだ遙か遠くの頂上に立つ人です。近づけるように頑張ります。


☆参加希望の方はWhiteboardを読んで下さい。メールでの予約が必要です。



******
事のついでと言ったら失礼ですがWhiteboardで取り上げられていた話をちょっと受けます。
「デザインしないことをデザインする」というフレーズのアビューズ(乱用)は確かに目に余るものがあります。逆説はある共通の理解や知識を持った人の中で初めて生きる。経験を積んだデザイナーどうしの話ならそれでいい。でも、逆説を逆説と思わない人が出てくると始末が悪い。そのことを秋田さんは心配されているのだと思います。

マーケティングのプロたちが期待する付加価値としてのデザインを生み出す手法を拒否しても、デザイナーは価値を生み出せるんだ、という強い自負が、「デザインしないことをデザインする」という言葉の裏には存在してたんだと思います。でもノーデザインが付加価値になってしまった現在では、この言い回しの使い方を慎重にしないといけない。

「デザインしないこともデザイン」「デザインしすぎることもデザイン」「黙ってデザイン」「語ってデザイン」

大阪のおばちゃんたちにとってのデザイン、渋谷の女子高生たちにとってのデザイン、医療機器メーカーにとってのデザイン、デザイナーズウィークに出展しているデザイン、世の中にはいろんな「デザインへの認識」がたくさんあって、デザインする人はその違いを受け入れ、“次元が違う”といっていいほど異なるさまざまなデザインへの認識を軽快に横断しなくちゃならない。そのうちのひとつの方策が「デザインしないこと」であって、デザイナーがこのフレーズが最近の流行だからと逆説の危険を認識せずに使うのはやはりまずいことなのかもしれません。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-11-06 08:22 | Comments(4)


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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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