藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
トークのお知らせ
『ジャパンデザイン』刊行記念トークセッションの進行役を務めます。
お相手は、柴田文江さんと村田智明さん。すごいでしょ、この組み合わせ。2000年代日本のプロダクトデザイン界の新しい顔と言っていいこのお二人です。二人揃ってのトークは、他では聴けないと思います。どんなところに接点を見いだせるか。引き出し役のプロとして腕が鳴ります。

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『ジャパンデザイン』刊行記念トークセッション
【ジャパンデザイン黄金時代がやってきた!? 】

柴田文江(プロダクトデザイナー)×村田智明(プロダクトデザイナー)
進行役 藤崎圭一郎(デザインジャーナリスト)

日時:2月26日(日)14:00〜16:00(13:30開場)
会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山

※要電話予約
入場料:¥500(税込)
電話予約&問い合わせ:03-5485-5511(青山ブックセンター)
定員:120名

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ちなみにタイトルは僕がつけました。2006年頃から2010年代にかけて、日本デザインの黄金時代が来てほしい。そんな願いからつけたものです。1960年代イタリアに匹敵するデザイン黄金時代は到来するか。僕にはその予感があります。

バブルの頃のように「付加価値=デザイン」でなく、ユニバーサルデザインやエコロジーデザインなど、企業やモノの倫理を構築する力としてのデザインに対して理解が深まってきています。「外見の差別化=デザイン」でなく、コミュニケーションや生活を豊かにする術としてデザインの力も理解されつつある。そうした中、景気もよくなってきたし、一般メディアで注目を浴びるデザイナーが増え、若い才能も多くなってきた。

しかし、単なるデザインブームに終わる可能性も十分あります。

黄金時代が訪れるか、ブームで終わるか。今はその重要な分岐点です。デザインの時代の到来へ、やるべきことは、教育、ジャーナリズム、プロモーションの充実、技術力を持った中小企業の育成でしょう。

イタリアにはミラノ工科大学やドムスアカデミーがあり、『ドムス』や『アビターレ』があり、ミラノサローネやミラノトリエンナーレの見本市や国際展、コンパッソ・ドーロ賞を主催したで百貨店リナシェンテがあり、天才モデラー、ジョバンニ・サッキがいて、そのほか優れた職人たちがいたから、今も昔もデザイン王国として君臨しているわけですから。ただたくさんスターデザイナーを輩出したから黄金時代が来たわけではありません。デザインのインフラが揃っていたからなんです。

ですから、日本も世界レベルのデザインの大学院を作るべきだし、日本のサッキを育てないと。先日『室内』が休刊という話を聞きましたが、デザイン専門誌を充実させないといけません。『AXIS』『アイデア』といった老舗は老舗で頑張ってもらって、21世紀生まれの若いデザイン専門誌を育てないと。そしてJIDPOのようなデザインプロモーション機関が世界に向けてどんどん情報発信してほしい。

そんな状況が合わさって、黄金時代はやってきます。
2020年頃、海外でも国内でも、日本はデザイン王国だと言われるようになっていてほしいと願っています。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-31 16:56 | Comments(2)
 
追悼 ナムジュン・パイク
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ナムジュン・パイクが亡くなりました。2000年だったか初めてニューヨークに行ったとき、ソーホーで車椅子のパイクを見かけました。あの時も白いシャツで吊りズボンでした。

忘れもしません。ソーホーの地下鉄の駅の出口を出たら、ビョークが歩いていたんです。シルクの深緑のドレスを着ていて目の前を通り過ぎていった。目を疑って、振り返るともういなかった。そして30分後にパイクを見かけた。ソーホーってこんなに有名人が歩いてるんだと感激したものです。

1981年僕が広島の高校から東京の大学に入って、東京で最初に見かけた有名人は小森のおばちゃまでしたから。ニューヨークですれ違ったパイクとビョークという強烈な組み合わせに、20年の時間差があるとはいえニューヨークと東京の文化密度の違いを感じたものです。

よれよれの白いシャツ、吊りズボンのパイクの姿は、マリオ・ボッタがワタリウムを建てる前のギャルリー・ワタリで見かけしたのが最初だったと思います。84年東京都美術館で開かれたパイクの大回顧展の前後のことです。

同じ時期、東京ではヨーゼフ・ボイス展が開催されていました。そして6月2日草月ホールでヨーゼフ・ボイスとパイクの伝説的なパフォーマンスが行われます。見に行きました。ボイスはマイクを両手で持ち雄叫びを放ちつづけます。パイクはショパンの曲や赤とんぼなどをピアノで演奏します。やがて鍵盤をマイクで叩いたり、ピアノの弦を直接引いたり、ピアノの下にもぐり込んだり、破壊的パフォーマンスに変わっていきます。こうして二人は東京へ“原アメリカ”の象徴であるコヨーテの魂を招きます。

霊媒師という意味でのメディアと、遠隔通信媒体という意味でのメディアが重なり合い、暴走します。メディアは本質的に魔術的非合理性から逃れることができない。パイクもボイスもそれを知っていたと思います。

84年のパイク展の会場では、衛星回線を使った世界同時パフォーマンス「グッドモーニング、ミスター・オーウェル」のビデオを流してました。いま考えると同時多発テロの予言のようです。

で、昨日、あのビデオに出演していたイギリスのポップバンドって何て名前だっけ?と思っていろいろ検索をかけました。トンプソン・ツインズ。完全に忘れてた名前です。感傷に浸るため、彼らの懐かしの曲「ホールド・ミー・ナウ」をダウンロードしようとiTunesのミュージックストアで探しましたが曲もバンドも検索でヒットせず。残念です。

パイク様、ありがとうございます。僕は深くあなたの仕事に影響を受けています。謹んでご冥福お祈りします。

*Link 朝日新聞の訃報記事
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by cabanon | 2006-01-31 10:16 | Comments(0)
 
コンセプチュアル対キャラクター
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横浜・みなとみらい駅のクイーンズスクエアには巨大なジョセフ・コスースの作品があります。コスースはコンセプチュアルアート(概念芸術)の第一人者。この作品「The Boundaries of the Limitless」では、ドイツの文学者シラーの言葉が御影石の大壁面に記されています。

で、隣に巨大スヌーピーがいます。こう並ぶと現代美術みたいですが、こちらは広告。単にスヌーピーのショップがあるから吊されているものです。コンセプト対フェティシズム 言葉vs物神。ファインアート対コマーシャリズム。対立しているじゃなくて意外と似た者同士だったりして。現代の縮図だなあ。
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by cabanon | 2006-01-28 23:31 | Comments(0)
 
デザ現のお仕事
d0039955_13191660.jpg本日発売の『デザインの現場』2月号でたくさん仕事しています。まずは特集「デザインを読む! ブックガイド300」の最初の6ページで世界デザイン史の本を64冊紹介してます。1冊50字という最小限解説に挑戦しました。「必読」とか「良書」とか常套句が多い文章になりましたが、微妙に辛口コメントも入れてます。64冊のうち9割は我が家の書棚にある本です。カメラマンに来てもらって我が家のリビングで撮影しました。

特集内の別のページでは、アレクセイ・ブロドヴィッチの作品集に関する記事も書いてます。

特集とは別に、五十嵐威暢さんのインタビュー記事も執筆しました。グラフィックデザイナーから彫刻家に転身した五十嵐さんの思いをうまく引き出せたと思っています。五十嵐さんの考えるアートとデザインの違い。なぜ彼は50歳の時デザイン事務所をたたんで、彫刻家としてアートの道を選んだのか。デザインにできなくてアートにできることって何なのか? そんな話です。

僕自身はかつてこのブログにも書いたように、アートとデザインを対立させて考えるのは不毛だと思っています。しかし、五十嵐さんはそう考えていません。

世界的に著名なデザイナーとしてサントリーの旧CIやMoMAのカレンダーなどを大きな仕事をこなしてきた先達が語る「デザインの限界」を、僕は否定することはできません。五十嵐さんの語るアートとデザインの違いは、デザイナーと名乗る時とアーティストと名乗る時の仕事への取り組む姿勢の違いだと僕は解釈しています。デザイナーの解答は常にクライアントに対して完璧なプランニングでないといけないのですから。

自画自賛ですが、いいインタビューです。『d』でナガオカさんのことを書いた以来の出来。写真も撮ってますので、ぜひご覧下さい。
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五十嵐さんの彫刻作品、愛称ニョキニョキ。
北海道・滝川市・一の坂西公園

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-27 13:37 | Comments(4)
 
記憶の銀行
大学院の講義で「記憶ビジネス」というテーマで学生に企画の発表をしてもらっている。プレゼンで「記憶の銀行」という言葉を使った学生がいた。といってもそれがどういうものか具体的な中身の言及はなく、来週までに考えるって話だったが、「記憶の銀行」という言葉がとても気になった。

たとえばエキサイトやライブドアなどのブログやmixiなどはまさに記憶の銀行だ。コミュニケーション機能ばかり強調されるが、基本的に書き込みは人の記憶である。

人は記憶を他人と共有できるフォーマットにするために文章を書く。写真を撮る。が、単に言語化したりJPEG画像にしただけでは、共有フォーマット化は完璧とは言えない。本にまとめたりホームページを作ったり個展を開いたり、メディアとして編集されなければ、個人のメモ書きや引き出しの中の写真や同僚とのどうでもいい会話で終わってしまう。

記憶は資産である。私たちは自分の記憶にコミュニケーション機能をつけて資産として運用する。書き込まれた記憶を通して人と人の輪が広がる。外部記憶装置としても機能する。

ブログとは記憶のメディア化を誰でも簡単に行えるようにするサービスだ。ブログサービスを提供するする会社は、サーバーを無料で貸してくれ、ブログツールまで用意してくれている。

だけど間違っちゃいけないのは、私たちの記憶を資産として運用しているのは、ユーザーである私たち自身以上に、ブログサービスを提供している会社のほうである、ということだ。

私たちは無料でサーバーを借りているのではない。記憶という資産を預けているのだ。銀行と同じである。銀行が客からの預金を運用して利益を得ているように、ブログサービス提供会社は預かった記憶を運用してビジネスをしている。

記憶預金者が増えるほど、アクセス数が増え、ポータルサイトとしての価値は高まる。たとえばライブドア。今回の事件で、株主たちは瞬時にライブドアというブランドに見切りをつけ株を処分したが、ライブドア・ブログのユーザーたちは引っ越しに関しては様子見だ(ま、さすがに御新規様は減っていると思うが)。僕の別室ブログはライブドアだが、ホリエモンは失脚してもライブドア・ブログはちゃんと残ってほしいと思うわけで、ホリエモン=ライブドアという構図が脳内で勝手に崩れ、なぜかライブドアの無事を願っている。意味不明だと自分でも思う。

記憶を預けている人のほうが、株を持っているドライな頭の人たちより、ブランドへの愛着度は高くなるのは確かだろう。

ブランドは記憶とともに作られる。優れたブランドが伝統や歴史を強調したり、極上のサービスを顧客に体験してもらうことに腐心するのは、記憶を共有することが、顧客のブランドへの強い愛情を育てる術になることを知っているからだ。似合う似合わないは別として「だって私はシャネルが好きだから」と言えたり、Windowsユーザーばかりの場所で「いろいろあるけど僕はMac」と言えるのは、ユーザーとの記憶の共有化の賜物に他ならない。不祥事を起こすとブランドの失墜は速く、取り返しのつかない深手となるが、それでも三菱のクルマを買ったり雪印の製品を買い続ける人たちがいることを忘れてはならない。共有した記憶の力は恐ろしい。

繰り返すが、ブログサービス提供会社は記憶を預かっている。膨大な数のユーザーが日々自発的に文章を書いたり写真を撮ったりして記憶を共有フォーマット化に書き換えている。ブログサービス会社はその顧客の自発性に頼っている。記憶を彼らが運用できる状態にまで引き上げているのは私たちユーザーのほうなのだ。

銀行が顧客が働いて「労働」を「お金」という交換可能な価値に換えてくれていることを基盤としてビジネスをしているのと全く同じである。記憶を交換可能にする時(コミュニケーション可能の状態にする時)、運用の可能性が生まれる──それこそ記憶の銀行のビジネスだ。もしブログやコミュニティの運営で利益が出ないと嘆く企業があれば、自分たちは資金運用ができない愚かな銀行だと自白しているようなものである。

このブログが使っているエキサイトブログは、構造がシンプルで使い勝手もいいのだが、時たまアナウンスなく仕様の変更が行われたり、メンテナンスが告知のないままズルズル長引きログインできない状態が続くなど「記憶の銀行」としてはあるまじき事態が起こる。

現在のように超低金利でも私たちが銀行にお金を預けるのは、銀行が安心とサービスを提供してくれるからだ。

タダでサーバーやブログツールを貸してあげているのだから、ユーザーは少々の不都合を我慢しろという論法はありえない。銀行がうちのATMシステムや金庫のスペースをただで使わせてやってるのだから多少のことで文句を言うなというようなものである。

ブログやネットコミュニティを運営する企業は、自分たちは記憶という資産の運用をする銀行であるという自覚をしっかり持っていただきたい。これは記憶ビジネスです。うまく運用しないとブランド価値を下げますぞ。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-22 12:14 | コモン | Comments(2)
 
グッドデザインのイヤーブック
d0039955_222710.jpg出来たてホヤホヤの『ジャパンデザイン グッドデザインアワード イヤーブック2005-2006』(日本産業デザイン振興会・刊)が届きました。グッドデザイン賞「ベスト15」の取材記事のうち5点ほど書きました。トヨタのi-unitなど愛知万博のプロジェクトと、ヤマハの電動バイク「EC-02」、コクヨのノート「パラクルノ」、NECのウェブサイト「エコトノハ」、それと「触れる地球」。どの取材も面白かった。i-unitは実際に乗ることできたし。エコトノハの取材ではウェブデザイン界の神、中村勇吾さんの話を聞けたし。中村さんはまた是非取材したい。惹かれました。「何か」に気づいている人、という印象です。今度はその「何か」を探り当てたい。
本自体、いい出来です。テキストも写真も読者に伝わりやすいものになっています。僕は「ベスト15」のページを企画段階からお手伝いしたインサイダーですから、客観的評価はできませんが、記録メディアから伝えるメディアにだいぶ変わってきたような気がします。

【関連リンク】
*『ジャパンデザイン』の詳しい書籍情報はこちらへ。
*NECのecotonoha エコトノハ
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by cabanon | 2006-01-20 02:25 | Comments(3)
 
自分らしさ(3) 記憶ビジネス
人は記憶の塊である。渋谷のハチ公前交差点や新宿駅のホームの雑踏で「この人たちみんな違う記憶データを積んでるんだ」と思うと少しばかり身震いがする。生まれてからこのかた見てきた光景は人それぞれ全く違う。住んできた所も1時間前の体験も違う。しかも、外見からだと誰も他人がどんな記憶を持っているか分からない。それぞれ違う記憶の塊がうじゃうじゃ町を歩いている。

その「読み取り不能の似てなさ」に身震いするのだ。外国で初めて地下鉄に乗ったときの感覚──周りの人たちが顔立ちも言葉も匂いも違うのにおののき、異邦人を自覚するときの身震いである。

人は親しい人と記憶の共有化を行う。いっしょに映画を観て、いっしょに旅行して、いっしょに飲んで食べて……重なり合った記憶はお互いのコミュニケーションの基盤となる。しかし旅の記憶で他人と完全に同じデータを共有できるのはスナップ写真くらいである。同じ場所に行ったり同じ本を読んだからといって、他人と全く同じデータが脳に書き込まれるわけではない。視点も感じ方も違う。忘れ方も異なる。僕と弟の子どもの時の記憶は似ていない。

人の脳にある記憶はそのまま複製することはできない。本やブログを書いて言語化したり、写真やビデオで映像化することで、共有化用フォーマットに変換はできる。しかし、その記憶は編集されている。

再生不能の記憶もある。たとえば匂いの記憶──5月の雨の降りはじめにアスファルトから立ち上げるホコリっぽい乾いた匂い。空間の記憶──視覚的記憶は定かでないのだけれど「あっここ、むかし来たことがある」と軒の高さとか塀との距離感とか坂の傾斜で想起する空間感覚。そうした記憶の集積の上に「自分」がいる。

いま子どものときから「自分らしさ」を探し求めてきた人たちが、高齢化しはじめている。ポテンシャル探しの欲望は果てしない。定年退職して油絵を始めたり旅行に行ったり……。学習への意欲を持続させること自体は「生」にとって不可欠である。しかし若いときほどのポテンシャルは望めない。

「自分探し」のもうひとつの選択肢が「自分らしさ=記憶」である。「自分らしさ=能力」に成功した人も失敗した人も、記憶に関しては平等に機会が開かれている。僕らの世代が老人ホームに世話になる頃には、TVゲームをやってたり、ロックを聴いてたり、昔のテレビ番組を見たり、ネットで昔話に花を咲かせたり、そんなジジババが増えてるのは確実だ。TSUTAYA併設の巨大介護老人ホームなんていうのも将来できるかもしれない。

かつて親戚や地域社会は記憶装置だった。祭りをしたり、老人が子どもに話を聞かせたり、幼い頃から顔見知りの人たちが近所に暮らしている。生まれた土地に暮らし続けることが、記憶を保ち、共有化することであった。個人の記憶は変わらない風景と地縁・血縁の人々によって自動的にセーブされる。田舎では記憶がかなりの部分共有化されているから、人がたくさん集まっても都会の雑踏で感じるような違和感がない。

だが、地域社会や家のつながりはかつてほど支配的な力でなくなっている。同じ趣味や似たような価値観を持つ仲間たちのコミュニティに参加して、他人とのつながりを求める人々が増えている。血縁や地縁から自由になるということは、共有化していた記憶媒体を失うことを意味する。隣人と会話したこともない都会のマンションで一人暮らしていては誰もあなたのことを自動的にセーブしてくれない。だから昔のドラクエをやったりクイーンを聴いたり「風の谷のナウシカ」を見ながらネット実況をする。老人になる前に、30〜40歳代でもふつうに今でも行っていることである。記憶を共有化できるメディアを欲しているのだ。

記憶探しに老若はない。地縁や血縁に頼った外部記憶装置が機能しなくなっているのだから。デジカメで大量の写真を撮り、子どものムービーを撮り、画像の鮮明さにこだわりどんどん新製品を買い、ブログで日記を書き、あちこち旅して思い出を作り、習い事して「作品」を作る。人は必死になって「何か別の外部記憶メディア」を探し続けている。ファミコンの十字キーの感触は再現できるが、あたり一面マンションに建て替わってしまった故郷の風景は元に戻せない。

何か別の外部記憶メディアが、失われた記憶を補完し、脳に眠る未編集の記憶を呼びさます。メディアに記録された記憶はテイストや価値観の似た人たちと共有する。そして個体の死を超え記憶を残す──個の自由を手に入れた代わりに、従来の記憶装置を失った人たちが自分探しの旅の途上で、自分のユニークさを確認するための新たな記憶装置を望むのは当然のことである。それは現代人の大きなニーズであり、記憶を巡って果てしないビジネスチャンスが広がっている。僕はそれを「記憶ビジネス」と呼ぶ。

いま金銭的に余裕ができて「ゆとり」とか「癒し」が欲しいと思っている人たちもおそらく自分探しの最終章として「記憶」にこだわるようになるだろう。記憶こそ自分が自分であることの証明なのだから。癒しビジネスより記憶ビジネスである。

記憶メディアの容量とCPUの計算スピードは上がる一方なので、自分の一生を動画で撮り続けるとか音を録音するとか、そんな力業も可能だろう。実際、すでに記憶をテーマにしたヒューマンインターフェースの研究は盛んである。

記憶ビジネスは時間的スパンの長い仕事だ。記憶は過去のものほど価値がある。どう使うか、どう膨大な記録を編集するか、は後から考えてもいいかもしれない。記憶メディアがどんどん大容量化して安価になりコンピュータが高速化し、素人でも簡単に使える高性能編集ソフトが生まれるはずと見越して、とにかく先に人生のログ化を行う必要がある。

画像や音声やテキストだけでなく、身体感覚や空間感覚の記憶や再現は、記憶ビジネスの成否の大きな鍵になるはずだ。たとえばこんなアイディアをひとつ思いついた。ホンダの二足歩行ロボットASIMOの身長は120センチだ。もしASIMOと視線を共有できたら小学校1年生の頃の目線に戻ることができる。それで小学校の校舎を歩き回りたい。あの時よじ登った塀の高さを眺めてみたい。高いなって思うんだろうな。

ある人から「あなたの失った大切なものを教えてください」と質問をされたことがある。で、こんな答えをした。「体型」。僕は58キロだった大学生の頃の身体感覚をいまだに引きずっている。でも今80キロ(うそ、83キロ)もある。週に3〜4日ジムに行ってんのに。行かなかったらどんな体型になっていたことだろう。ジャバ・ザ・ハットか。体を丸ごとデータ化して保存しておきたかった。細い二の腕を握ったときの感覚も記憶しておきたかった。オレはパンクだから太ったら死ぬ、40歳で死んでやると言っていた(スミマセン、来月で43歳です)無茶な思いって、あの時の痩身だった身体感覚に密接につながっていたのだから。

記憶ビジネスは過去の回想ばかりする後ろ向きの人間を生み出す産業ではない。記憶ビジネスではもう一度「マルチメディア」という言葉の重要性が浮かび上がることになるだろう。この言葉が死語になったのは、90年代半ばCD-ROMを媒体としたマルチメディアコンテンツ産業がインターネットの普及でネットコンテンツ産業に取って代わられたせいで、マルチメディアの理想が陳腐化したのではない。身体感覚をコンピュータに取り込み、視覚、聴覚などに分断された感覚を統合し、肉体的束縛から感覚の解放を図る──そうしたマルチメディアの精神を記憶ビジネスは受け継ぐことになる。

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長くなったので今回の「記憶ビジネス」の話はここまで。いつになるか分からないけど続きを書きます。きっと「記憶の共有化」について。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-14 17:00 | お気に入りの過去記事 | Comments(6)
 
自分らしさ(2) そのカラクリ
「じぶん、新発見。」とは糸井重里の1980年の西武百貨店の広告コピーである。美術館もあったし、アールヴィヴァンもあったし、昔の西武はたしかに新しい自分を発見できるような気にさせてくれた。青い鳥のように自分らしさを探し、シンデレラのようなまだ見ぬ理想の自分に憧れる。そんな物語は今も広告の世界で語られ続けている。

「自分らしさ」探しは広告だけの話じゃない。「ひとりひとりの個性を生かし、自己実現の力を育む」となれば教育の話だし、「適材適所で、やる気を刺激し、持ち味を発揮させる」となれば会社の人事の話にもなるし、野球の監督の談話にもなる。

「持ち味」という言葉は、日本で一番教育的な意味合いの強いスポーツ、高校野球で頻繁に使われている。このスポーツの観戦のポイントは「高校生らしさ」と「自分らしさ」が重なり合う姿を見ることになる。坊主頭でユニホームを着た個性を消された選手たちが、チームのために日頃鍛えた「持ち味」を発揮する。炎天下、大声援と応援歌の際限ないリフレインの中、テレビカメラが向けられる。非日常的な祝祭空間の中に放り出された高校生たちは、チームプレイに徹しようと努力するほど、自分の感情を素直に出した生き生きした表情をする。ミスをした悔しさ。勝利の瞬間の喜び。そこをカメラは捉え、新聞は記事にする。

「自分らしさの発見」を謳うエステやコスメは「女性らしさ」を売っている。「自分らしい精悍なスタイリング」と謳う高級車の宣伝コピーは、地位と所得に見合った「らしさ」を買うことを勧めている。昇進したんだからそろそろヴィッツは卒業しろと。

個性としての「らしさ」を謳いながら、社会が求める「らしさ」の枠組みに収まるように仕向けるのが教育や広告の役割である。組織の規律を破ってまで個性を発揮することを誰も期待していない。セグメント化できなくなるまで消費者が個性に目覚めてもらっては困る。広告は常に「時代から外れるな」「空気を読め」と叫び続ける。教育者は言う。自分らしさと自分勝手は違うんだと。

そもそも「自分らしさ」とはきわめて道徳的な言葉だ。自分らしくとは自分に正直に生きることであり、その根底には「正直であること」は「善」という揺るぎない倫理観が存在する。

自分らしさ探しに熱心な人ほど道徳的になる。社会のコード(規範、価値体系)に組み込まれていく。これがカラクリだ。西武セゾンは文化コードを発信して、自分らしさを素直に求める消費者の心を捉えようとした。西武セゾンはすっかり解体してしまったが、流通が生んだブランドとしてセゾンが生んだ最大の成功、無印良品は「良品」という道徳的な側面をアピールしつづけているから、自分に正直に生きたい個性を大切にする消費者に「文化」として受け入れられるのだ。

人をコード化する「自分らしさ探しの二重性」を教育も広告もひた隠しにしているから、自分らしさ探しに行き詰まる人が増える。社会の規範に根本的な懐疑を感じる人に対して、この社会は自分らしさの拠り所をほとんど用意していないのだから。

本来、革新的な人間は自分らしさなど求めない。転がる石に自分らしさを考える余裕はない。さまざまものを巻き込んで突き進むだけ。自分も時代も突き抜けないと新しい表現など生まれない。ラディカルに新しい表現を求める人を「自分らしい、個性的な人」と呼ぶ時に欺瞞は始まる。システムは抜け目なく規範を守り続ける。個性神話とはそういうものだ。


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次世代の「自分らしさ」を書こうと思っていたら、筆が進んで、自分らしさのウソの話になってしまった。次こそこの話の本題、自分らしさ=記憶という話をします。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-08 16:21 | Comments(3)
 
自分らしさ(1) 下流社会
最近「自分らしさ」という言葉について思いを巡らしている。
下流ほど自分らしさ志向が強い──三浦展(あつし)氏の『下流社会』(光文社新書)にはそう書かれている。新聞広告でこのフレーズを読んで、いったい何故とえらく気になって3か月前だったか書店でこの本を買った。僕らの世代は小さい頃から自分らしく生きることがいい生き方だと思い込まされて生きてきたので、えっ、どうして?と思ったからだ。

読んだ。どうせオイラは下流だよとスネた気持ちにはならなかったけど、読後感のいい本じゃない。

本書の分析は興味深い。が、先に結論ありきの分析という感が否めない。統計データは豊富だが、都合いいデータをピックアップしている。たとえば、「上」も「中」も「下」も所得に関わりなく8割近い女性が自分の子どもに「自分らしく生きること」を望んでいるという調査結果が書かれているが、それに関しての考察はない。「自分らしさ=下流」という印象を強調するために、こうした都合の悪いデータは無視されている。

ま、でも、非常に勉強になる本だった。見出し・小見出しが絶妙なのだ。「下流の女性は歌ったり踊ったりしている」「700万円をとるか子どもをとるか」とか。小見出しをパラパラ見ているだけで本の内容が分かる。いずれも人のコンプレックスを刺激するフレーズだ。数字データを駆使しているので、果たしてどんな裏付けで書かれているか読みたくなる。買って帰りの電車で読んでみるか、って気分になる。

小見出しというのはグレーゾーンだ。著者がつけたのか編集者がつけたのか分からない。本文より思い切ったことを書くことができる。読み進める人の休憩所であり、途中から読む人たちのための入口であり、人の心をつかむためのランドマークである。だからここはキャッチーなことを書いてもある程度許される。本文で正確な考察を行えばいい。

『下流社会』はこのグレーゾーンを巧妙に利用している。そこまで言うか、という発言を見出しに集中させている。本文を読むとそこまで書いてないじゃん、という部分もある。「地方出身者は『上』になりにくい」と小見出しで謳って、本文では「23区出身者で『上』が少なく、三多摩出身者で『下』が非常に多いが、理由はわからない」と申し訳なさそうに小見出しと矛盾したデータを披露している点とか……。

で、著者はあとがきに「見出しに『?』が多いように本書に書かれているのは仮説である」とエクスキューズしている。たとえば「第4章 年収300万円では結婚できない!?」とか「第5章 自分らしさを求めるのは『下流』である?」──。「?」とか「!?」とか付ければ許されるって、それは仮説というより煽り。『BRUTUS』の見出しと一緒じゃん。

よく読めばボロが出てくる本だが、それだからこそ優れたマーケティング専門家&雑誌編集者の才能を感じるのだ。コンプレックスを刺激して人を釣る。売れる雑誌をつくれる人は、お金を出してくれそうな人たちのコンプレックスに敏感に察知する感性を持っていて、そのコンプレックスを見出しにできる。時にコンプレックスを刺激していることを意識させないように美しい柔らかな言葉に言い換え、時に“遅れるぞ”と煽り、時にむき出しの言葉で劣等感を直接刺激する。僕の知っている優秀な編集者には、そういう能力を持った人が多い。意識的にやっているか天性かは人それぞれだが……。著者の三浦氏は元『アクロス』編集長だ。

本書の統計には設問が明らかにおかしなものがある。「結婚も仕事もあまり関心がない。あくまで自分らしく生きたい」という質問に、「そう思う」と答えたのは「上」はゼロで「下」が22.6%。だからって「上流は女性らしさ、下流は自分らしさ」という小見出しにはならない。仕事や家庭で自分らしく生きようと考える人のことを意図的に無視している。

しかも、このデータを披露した後、著者は「上」の女性は従来の男女観を肯定してリーダー的な性格を併せ持つという分析している。それが次の文章では「才色兼備型」となり、さらに次の文章では「仕事ができて、容姿も端麗」となっている。容姿のデータなどどこにもないのに。これは思い込みというより意図的なイメージ操作だ。

同様のイメージ操作は「シルバーシートで眠る若者」という図版などにも現れている。空いてる電車なんだから疲れてるなら寝てもいいじゃん、と冷静なツッコミが入れる感性が統計という数字の魔術に惑わされる。地下街か駅で寝ている人の写真を撮って顔にモザイクをかけて「希望を失った若者が街中に倒れ込んでいる」というキャプションをつけるなんて情報操作しすぎ。雑誌的悪ノリとしか思えない。

自分らしさを求めることはコンプレックスの裏返しだ、という秘かな設定が『下流社会』の隠されたコンセプトだと思う。「自分らしさ」を「コンプレックス」と言い換えてみればいい。下流はコンプレックスが強い……とか。

今も女性誌や女性向け商品の広告では「自分らしさ」というフレーズが使い続けられている。「自分らしさを魅力的に演出」ならファッション、「自分らしく輝きたい」ならコスメ、といった具合だ。自分らしさとは女性のコンプレックスをやさしく刺激する魔法の言葉だからだ。クルマや住宅などステータスを表す商品の広告にも「自分らしさ」というのはしばしば使われる。

この本の真のターゲットは上流とか中の上と自分で意識しているけど、今もずっと自分らしさを求めている人たちだろう。つまり地位も所得も手に入れたのにコンプレックスを持ちつづけている人たち。彼らはコンプレックスを隠している分、刺激されると敏感だ。ステータス意識をデータを駆使した学問風に刺激すれば彼らはお金を落としてくれる。

コンプレックスを持ち続けているなんて──自分らしさを求めるなんて下流だよ、と彼らに語りかければ「商品=本」は売れる。上流はゆとりを求めなさい、あの自分探しが行き詰まったニートの若者たちを見なさい、と。先に結論ありきの小見出しこそ、『下流社会』という本の本質である。

といってもこの本は、マーケティングや広告の専門家にとってゆゆしき問題を提示している。自分らしさを求める若者がニートになって、生産も消費もしなくなっているのだ。コンプレックスを感じていてもそれが消費につながらない。自己表現のために働いて学んで消費するという図式が成り立たない。彼らには今までの広告の常套手段が通用しない。消費スタイルで人間を分類していたのだから、そんな人たちが増えてもらってはマーケティング屋の商売が成り立たない。

若者よ、コンプレックスを感じているなら物を買え、自己表現したいならひきこもるな、朝からパチンコ屋に並ぶようじゃ困る(じゃ、デイトレードならいいのか!)、消費こそ個性だ、という叫びが、やりすぎの感があるイメージ操作写真に漂う。その必死さが物悲しい。


さて、次回(おそらく)の投稿では次世代の「自分らしさ」とは何かについての記事を書くつもり。お楽しみに。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-06 18:02 | Comments(2)
 
復刊望む
デザイン史の必読書ジークフリート・ギーディオンの『機械化の文化史』は現在品切れ中。Amazonでは古本が1.5倍のプレミアがついている。定価10,290円。もともと気軽に手に入れられる本ではないが、それがさらに入手困難になっている。僕は数年前、第四版を古本屋で手に入れた。

で、正月、原稿書きのため、この700ページの大著を書棚から引っ張り出し、かなり大雑把に斜め読みをした。サクッと分かったのは本の内容より、品切れの原因。Atokじゃ変換できない言葉が何度も出てくるのだ。トサツ。

ギーディオンは近代のアッセンブリー・ラインの起源を19世紀のアメリカ・シンシナティの食肉産業に見る。豚を殺して、煮沸し、毛を削ぎ、吊して解体していく。分業化された流れ作業となったこの過程を、ギーディオンはヘンリー・フォードによるT型フォードの組み立てラインに先立つものとして、詳細に分析している。丁寧な説明だから例の差別用語が頻出する。読んでてイタタタって感じ。

翻訳は差別用語をうるさく言わなかった1977年のものなので、この言葉が使われたことは仕方ない。ところどころキ×ガイとかツ×ボとか出てきながら学術的・歴史的価値があるということで再版されている本ならたくさんある。といっても、ここまで頻出しているとさすがに重版を控えたくなるだろう。直すのは大変な作業だ。版の全面変更が必要になるので金がかかる。

しかし、である。鹿島出版会は修正作業を速やかに行うべきだ。知らないでやったことだからもう知らない。金がかかることはしたくないからお蔵入り、というのは名著の版権を持つ出版社のすべきことではない。耐震基準が1970年代と現在では全く違うように、差別用語の基準も変わる。みなが使う公共の建物は過去の法律の耐震基準が甘かったから放っておけばいいというものではない。もし危険なら早急に補強しなければならない。それと同じ責任が出版社にもある。

できることなら文庫版にして欲しい。建築デザインの基本図書の文庫版化、どこかの出版社で進めてもらえないものだろうか。手軽に新刊で買える学生に勧められる基本図書が少なすぎる。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2006-01-04 23:55 | Comments(2)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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