藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
吉岡徳仁2題
今週と先週、立て続けに吉岡徳仁さんの仕事の記者発表会に行ってきました。今週水曜日に行ったのは、29日(土)オープンのスワロフスキー銀座です。クリスタルの世界的ブランドの旗艦店を吉岡さんがデザインしました。
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同店2階にある吉岡さんのインスタレーション作品「シューティング・スター」。28,000個のクリスタルがワイヤーで吊されています。使用したクリスタルは既製品。コンピュータを使ってひとつひとつ位置を確認したそうです。天から降り注ぐ水滴。その時間を止まった瞬間だとか。
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ファサードには1500枚のステンレス。銀座の周囲の光景を映し出します。夜も見に行かなくちゃ。
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店舗デザインのテーマはクリスタル・フォレスト。クリスタルの森に入っていくイメージです
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森の中ではクリスタルが「水」のように循環しています。階段には水が流れるように数十万個のクリスタルが敷かれ、床には人工大理石の中に水滴のようなクリスタルが埋め込まれています。上の写真はシューティング・スターの部分です。
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Vincent van Duysenがデザインしたシャンデリア「カスケード」。高さ5メートルのクリスタルの滝。写真はその瀑布の部分です。他にもトード・ボーンチェのシャンデリアもあります。


で、帰り道。天気がいいので一駅前で降りて咲き始めた桜を見に碑文谷公園へ。春の光の噴水が、銀座で見たクリスタルの残像と重なりました。
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先週19日は、セイコーインスツルのISSEY MIYAKEプロデュースによるウオッチの新シリーズ事前発表会。吉岡徳仁さんが手がける「TO」(ティー・オー)シリーズの上位機種、「TO」Automaticです。自動巻の機械式時計。形のコンセプトは「TO」シリーズとして統一されているので、写真で見ると以前のものと似ていますが、並べるとボリューム感(厚みアリ)、スケール感(大きい)、重厚感(機械式を実感できる重さ)、質感(革は革らしく、金属は金属らしく)が全く違います。

吉岡さんは「いかに形をつくらないか。時計らしく。前からあったもののように」を考えたとか。新たに形をいじらないという意味なのでしょうが、いやいや、形きれいです。革はしっかり肉厚でイタリアもののように見えますが、日本製です。500種類の革の中から選んだとか。御徒町で。革バンドタイプが105,000円。やや価格が高くなるステンレスバンドのタイプもあります。発売は6月。
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食事をしながらの発表会でした。幸運にも吉岡さんの真ん前に座っていろいろお話しをうかがえました。一番印象に残ったのは、この時計を吉岡さんが腕にするとき、ずっと欲しかった時計を買ってきて、初めて腕につけるときのような表情をされたこと。満足行く出来に仕上がったのだとお見受けしました。

【関連リンク】吉岡徳仁デザイン事務所。スワロフスキー銀座の写真がスライドショーで見られます。
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by cabanon | 2008-03-28 11:42
 
メタボリック
株価ではありません。
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今年1月29日からの体重の変化です。

昨日ある記者発表会で、久々に某社の編集者に会いました。
F「噂には聞いていたけど痩せたね」
A「あれ、藤崎さんも」
F「どうやって痩せたの?」
A「レコーディングダイエット」
F「おお、僕もやってる。いつから?」
A「去年の9月から」
F「僕は2月3日からで、まだ2か月弱。それまでは有酸素運動とかで減量してたけど、ちゃんと食事制限しないと効果が薄いから始めてみた。カロリー計算までやってないけど、口にしたものは朝昼晩全部書いている。トンカツ食ったとか書きたくないから自制になるんだよね。カロリーもつけてるの?」
A「うん、書いている。大まかにだけど」
F「すごい! どのくらい落としました?」
A「76キロから61キロ」
F「僕は去年の今頃86キロあったのが、今71キロ」
A&F「おお、お互いマイナス15キロ!」

痩せたせいで、2、3年顔を合わせていない人に挨拶すると「誰だっけこの人」という目線で見られます。しかし20年くらいぶりに会った人からは「太ったね」って言われました。けっこうショックだった。かつては59キロでしたから。「オレはパンク。太ったら死ぬ」とか言ってたし。ま、とにかくあと2キロ落とします。
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by cabanon | 2008-03-27 11:24
 
メタボリズム愛
ありゃ?
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解体決定と聞いていたのですが? 「テナント募集」とは? 本日(3/26)、中銀カプセルタワービル(黒川紀章設計、1972年竣工)の前をバスで通りかかりました。昨年(07年)4月、管理組合が取り壊しを決定したはずでしたが、猶予期間がけっこうあるんでしょうか。

ネットで調べると、少なくとも去年の夏からこの貼り紙はあったようです。さらに調べると、同ビル内の別の物件で、昨年12月に入居者を募集しています。
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う〜む、部外者には分からない事情がありそうですね。なにはともあれ残してもらいたいものです。都知事様、銀行を救済するお金があるなら、この20世紀文化財も救ってください!
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by cabanon | 2008-03-26 22:10
 
らしさとそのもの自体
「らしさ」と「そのもの自体」を目指すことは全く別なことである。

「そのもの自体」とは、機能と主題を超えて、ものの存在自体を表現すること。20世紀以降のアートにその典型が見られる。キリスト教やギリシャ神話の主題を描くとか、美しい風景や依頼主の肖像を描くとか「主題」を描くことをやめれば、キャンバスに描かれるものは抽象へ向かい、描くという行為の身体性や、マチエールなどの絵画の物質性がクローズアップされ、絵画が絵画そのものとして評価されるようになる。

主題がないとは、絵画の持っている「意味」が、歴史的なコンテクストや日常的に私たちが縛られている肉体的制約や思考の枠組みや社会的制度から切り離されることである。「この絵画そのものを見よ」となるので、「わかりにくい」という反応が多くなる。

ドナルド・ジャッドの箱は、主題もないし、もちろん箱としての機能もない。ただ「もの」であるだけ。それまで「もの」を縛っていた意味から解放され、「もの自体」が顕わになる。制度や意味体系から自由になることで「もの」が孤立するわけではない。自律する。そして声を発する。声はつながりを生む。純粋芸術だけの意味体系への参加表明の声ではない。真に自律した声を持つアートは、芸術のための芸術を超え、芸術以外の何かとつながり始める。ジャッドの場合は、作品が設置場所と直接つながる。それがジャッドの言う「サイトスペシフィック」(敷地固有)と呼ばれる状態なのだろう。
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ドナルド・ジャッドの作品@元陸軍格納庫@テキサス州マーファ。
作家自身設置した、ここでしか見られないサイトスペシフィック作品。
Photo by Erimi Fujihara


「そのもの自体」をえぐり出し、ものの見方を決めていた見えない制度を暴き出し、政治や社会へ強いメッセージを放つアーティストもいれば、ナイーブでかよわく、人の眼にさらすと消えてしまいそうな「そのもの自体」を感じ取る力を他人と共有するために制作を続けるアーティストもいる。

人に見えないものが見える人。見えないものを見続けるためにはつくり続けないといけない。だからアートが止められない。現代のアーティストってそんな人たちが多いと思う。

一方、「らしさ」を目指すことは、見えない制度を直感的に感じ取ったり可視化して「おやっ?」と思うためのものでなく、見えない制度を不可視のままに強化するものだ。女らしさ、男らしさ、長男らしさ、高校生らしさ、管理職らしさ、日本人らしさとか……「男らしさ」が足りない、アナタには「アナタらしさ」が足りないと言われると自分が悪いだと思ってしまう。素直と言われる人は、「らしさ」の背後に存在する「制度」の是非を問うことはない。

最近、流行の「自分らしさ」願望は、「自分らしい私をみんなに認めてもらいたい」「社会が求める私でありたい」「自分の居場所を社会の中に見つけた」という願望であって、決して「自分らしく生きるためならば、社会と決別してもいい」といった、アウトサイダーへの覚悟に充ちた思いではない。オンリーワン願望が孤独を求めるものでないのと同じである。

「らしさ」づくりをカタチやイメージの上で担ってきたのは、デザイナーである。高級車らしいスタイリング、地球環境問題を考える企業らしいクリーンでグリーンなパッケージ、老舗らしい風格ある店構え、リゾートらしいリゾート、アバンギャルドらしいアバンギャルドなどなど。

「椅子、そのもの自体」と「椅子らしさ」は違うものだ。もちろん前者を考えたデザイナーもいる。

椅子とは何かを考え、機能は? 工法は? 椅子のあり方自体を追求する──道具の原形にまで迫ったから、バウハウスの仕事は今もデザインの原点なのだ。

バウハウス以降も、道具やそれを使う行為、素材や機能や色彩の根源的な意味を問うデザインは、デザイン史の真ん中で、細いながらも力強い流れとなって続いている。大量生産システムという中に身を置くからこそ見えてくる「もの」そのもの自体がある。ソットサスのカールトン。倉俣史朗のミス・ブランチ。三宅一生の一枚の布やA-POC……。棚であって棚でなく、椅子であってもその透明さを守るためには座れない椅子で、服とは一体何かと考えさせる服である。カスティリオーニやムナーリもイームズも道具や行為の根源を見つめて仕事をしていた。最近の例では、深澤直人の行為と無意識の関係に迫る仕事や、吉岡徳仁の素材へのアプローチもこの流れの中にある。「そのもの自体」を見つめている人は、求められれば「らしさ」を表出することも、「らしさ」を巧妙にひっくり返すこともお得意である。

徹底的に「らしさ」を追い求めることで偉大な足跡を残したデザイナーもいる。その代表格はレーモンド・ローウィだろう。彼は「機関車とは何か」「タバコのパッケージとは何か」といった問いを探求したデザイナーではなかった。その有名なデザインポリシー「MAYA」(Most Advanced Yet Acceptable:最も進んだものだけれども、受け入れられる)に示されるように、ローウィは最先端の「らしさ」を求めたデザイナーだった。ちょっと先行く「流線型の機関車らしさ」「タバコらしさ」を、生産や販売の仕組みまで考えながらつくり出すのが抜群にうまい。その点で彼は天性のデザイナーであった。

「らしさ」のデザインは、スタイリングデザインではない。「らしさ」を目指すか「そのもの自体」かは、外観だけのデザインか、仕組みからのデザインか、といった問題ではない。時代の先を行く「らしさ」をデザインするには、ものが生まれる仕組みからデザインしなければならない。(※注1)

「らしさ」のデザインとは、社会的に張り巡らせた見えない制度や思考の枠組みを懐疑し、自律した思考を促すことを目的にしたものでなく、逆に制度や既存の枠組みを積極的に生かしてものをつくるという制作者の「姿勢」である。姿勢が「そのもの自体」に向いているか、「らしさ」に向いているか。こう切り分けると、現代アートと親和性の高いデザインと、そうでないデザインとの違いが見えてくる。

「らしさ」と「そのもの自体」、どちらが上とか、どちらであるべき、という論議は不毛だ。どちらも社会に必要なものだ。アートの世界だって、日本画らしい日本画で生計を立てている画家や、最高に評価された「あの時の自分らしい」作品を一生再生産し続けるアーティストはあまたいる。

混同されるのが一番の問題なのだ。

近頃シンプルなデザインが増えている。冷蔵庫らしい冷蔵庫、テーブルの原形、ミニマルモダンと形容された住宅……。それが「らしさ」のデザインなのか、「そのもの自体」にまで迫るデザインなのか、きちんと見極める必要がある。


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(※注1) 逆に外観だけで「もの自体」に迫るアプローチもありえる。80年代ポストモダンデザインは表層操作の手法によって現代文化の見えない構造を可視化しようと試みたが、最後は表層操作と悪ふざけの区別がつかなくなり、様式化し、挫折した。しかしその方法論自体が否定されたわけではない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-03-21 11:10 | お気に入りの過去記事
 
日本の軸線
お寺の写真です。何かおかしいと思いませんか?
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拡大してみます。
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そう、お寺なのに、しめ縄があるのです。福井県小浜にある若狭神宮寺。神仏習合のお寺です。予備知識なく行ったのですが、衝撃的な信仰の場でした。
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本堂の中は撮影できなかったのですが、薬師如来と、ワカサヒコとワカサヒメの神が並んで祀られています。明治の廃仏毀釈とその後の国家神道の形成によって、神仏習合の寺はほぼ姿を消しました。神社とお寺が隣り合っていて、神仏習合の名残を示すものは残っていますが、ここまではっきりかつての信仰形態が残っているのは、住職によると、日本全国でここだけだとか。戦前はここの縁起を語ると憲兵が飛んできて、戦争が長引いていれば、この寺の存在もどうなったか分からない状態だった、と。

奈良・東大寺で毎年3月に行われる「お水取り」で使う水は、このお寺の境内に湧く水が使われます。歩いて運ぶわけでもクルマで運ぶわけでもありません。遠敷川の約2キロ先上流にある「鵜の瀬」の水中洞窟と、東大寺 二月堂の井戸「若狭井」が地下でつながっているそうです。最初にこの地のカミが奈良に水を送るとき、東大寺の井戸から白い鵜と黒い鵜が飛び出したそうです。

ですから、若狭はお水送りで、東大寺はお水取りです。

小浜と熊野大社本宮は、南北一直線でつながっています。その軸線上に、京都も奈良もある。まさに日本のAXIS(軸線)です。昨年秋に熊野に行って、死者の国に充ちていた「死と再生」の力を肌で感じてきたばかりなので、偶然の神宮寺との出会いが心を強く揺さぶりました。

住職がお寺の歴史をお堂で説明してくれました。一神教こそ最高の宗教形態という固定観念から離れ、カミとホトケの2つの宗教を堂々と同時に祈る日本人の心性の可能性を考え直してみること勧めるその話は、カタチに宿る美しき矛盾に関心がある私にとっていろいろと考えさせられる話でした。
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「さきほどトカゲを撮っていた人がいるけれども、そのトカゲにも何か意味があるかもしれません」と住職。それ撮ってたのは私です。「しっぽ切れてましたか?」って住職が聞きました。

帰ってきて、よく考えてました。トカゲのシッポ、つまり再生です。熊野のカラスは、死者の国を導く使いです。つまり日本の軸線は死と再生とつながっている。そして再生の水を送るのは鵜……などなどと思いを巡らしました。

非合理を混沌のまま置くのではなく、真っ直ぐな軸線という合理のかたちの中に置くのが日本人の心性じゃないか。神宮寺の本堂のホトケとカミの配置は非対称、と住職は解説してくれました。シンメトリーというオーダー(秩序)を基本にしながら、異質のものを同時に受け入れるために、わざとずらす。合理のためのオーダーでなく、非合理を並び立てるためのオーダー。それが日本人が長く培ってきた心性かも。そんなこと、若狭から帰ってきて考えました。
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本堂の裏手にはカミの依り代のような大きな老木が数本。
手前には不動明王らしき石仏。

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-03-19 23:16
 
日米親善
若狭を旅しました。今もっともニュースな名前の地方都市。
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車中からシャトルを発見。土井さんの無事の帰還を祈ります。
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-03-18 22:39
 
ソットサス追悼記事
10日発売『CasaBRUTUS』4月号に、下の写真のような記事を寄稿しました。
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昨年12月31日に90歳で亡くなったエットレ・ソットサスの追悼記事です。全8ページの1ページ分が僕の原稿です。インドやビートニクの詩人たちとの交流の話を書いてほしいと編集者にオファーされて、でも、原稿の冒頭は7年前2001年にミラノでソットサスをインタビューしたときの話から始まります。
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Photo by Ramak Fazel

ミラノ在住ジャーナリスト田代かおるさん(写真左から3人目)が、僕の質問も加えてくれる形で、ソットサスにインタビューしました。答えを通訳していると時間がなくなるので、僕とCasaの編集のS氏はソットサスの声を(話じゃない!)うっとり聞いていました。このときの原稿は田代さんがまとめました。

で、このインタビューの最後にソットサスが机を激しく叩いたんです。今度の原稿はそこから始まります。とても気に入っている原稿です。僕の前のページの田代さんの原稿も、ソットサスの要点が詰まった素敵なテクストです。写真もじっくり見てください。長山智美さんのスタイリングは奇跡的です。どこから集めたのって。日本にこんなソットサスがあったのか!って感じです。

カーサの今回の記事を書きながら、多木陽介さんが著したアキッレ・カスティリオーニの本のことを思いました。ソットサスとカスティリオーニは正反対の方向の道を歩きながら、実は同じところへ向かっていたのではないか。

カスティリオーニは合理主義者です。身体と道具の関係を合理主義的アプローチで突き詰めると、そこに見えてくるのは「身体の非合理性」です。カスティリオーニの仕事が私的なのは、脂肪がそぎ落とされたダンサーの動きが合理よりも神秘を見せるのと同じことだと思います。

ソットサスは合理主義的アプローチでは見えにくくなるものを、1960年代の数ヶ月のインド旅行と腎臓の難病と闘った長期にわたる入院生活の末に、はっきり認識します。生と死をありのままの姿を、形や色で解放しようと試みます。本来のありのままの生と死は日常生活の中の出来事です。修行僧になって神を通して死を見つめることも、孤高の画家となってアトリエに籠もり生を描くということもしませんでした。産業社会と日常生活に積極的に関わり続けるられる場──デザインが、彼が世界の神秘を見つめるフィールドでした。

おっとこれ以上書くとカーサの原稿のネタバレになりますので、やめときます。ぜひご一読ください。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-03-11 12:27


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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