藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
伊東豊雄 × takram「風鈴」展
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25日、伊東豊雄と takram design engineering のコラボレーションによる「風鈴」展(8/22まで)のオープニングレセプションに行きました。いいです。知的興奮と詩的情感が同時に味わえます。

会場は紀尾井町のホテルニューオータニ内のオカムラ ガーデンコートショールーム。そこに280個の風鈴が天井から吊されています。ガラスの風鈴の中は白色LED。各風鈴の上、天井には白い円盤が設置されています。赤外線センサーが人の動きを察知して、下を人が通ると白色LEDが明滅し、音を鳴ります。
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録音ではありません。ガラス風鈴ですがガラスを打つ音ではありません。天井に設置された円盤の中に金属棒が入っており、モーターがその棒を叩いて音を出します。金属棒の長さの違いで、6段階の高低の音が出るといいます。

おもしろいのは、この空間が知能化されていることです。人を感知して光った風鈴が隣り合う6つの風鈴に信号を発します。信号を受け取った風鈴は自ら判断で光り、光が波紋のように広がります。人が動くと波紋が干渉し合い、予測のつかない光り方をします。

隣の風鈴に渡す信号のパラメータを変えることで、全体の光り方が変わります。激しくなったり穏やかになったり。実際にオープニングレセプションの会場ではtakramの方が、いろんな明滅のパターンを見せるために、何回かパラメータを変えに走っていました。

各ユニットに非常に単純な行動ルールを与えて、各ユニットは隣接したユニットだけと交信しています。しかし各ユニットが自律的に行動を判断すると、その総体はまるで誰かが指揮をしているのような知能を持つかのような複雑な振る舞いを行う。もともと知能とはそうした分散処理から生まれたものかもしれない。なんだかMITのロドニー A・ブルックスの知能ロボット論を思い出しました。

分散並列・自律協調のロボットはおもしろいです。何度か取材したこともあります。けれど、今回のこれには「身体」がありません。車輪のついた機械がダンスしたり、合体することはありません。自律しながら協調する分散型の知能が顕現するのは、物質的な身体ではなく、光と音を通してです。

伊東さんは、透明ガラスで柔らかな曲面を描き、空間に浮かび上がることで、重力や物質性といったフィジカルな要素を消しています。もちろん、ガラスは物質で、風鈴は重力によって天井から吊されているわけですが、物質から完全に逃れているわけではありません。しかし、透明性や浮遊感を強調することで、この空間のイメージは虚実の境界を漂わすことができます。

光と音は波であり「物理学的」であっても、「物質的」とは言い難い。それはフィジカルの臨界点にあるものです。

伊東さんが現出した虚実を彷徨う空間で、takramが仕掛けた分散型ロボティクスは、光と音という身体を持ちます。フィジカルなイメージを消し去った空間で、人のフィジカルの動きに反応して、本来フィジカルなものでない光と音が意思を持っているかのように振る舞うので、光と音がフィジカルなものとして感じられるのです。
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だからついつい手をかざしたり、カメラを向けて、虚実の境目にある身体を追いかけようとする。

電源が発するノイズのせいで、人がいなくてもポルターガイストみたいな光り方が発生して調整に苦労したと、takramの田川さんはおっしゃってました。

ゴーストは人の身体に宿るのでなく、人の身体の動きに宿るものかも。「囁くのよ、私のゴーストが」という「攻殻機動隊」の草薙素子の言葉の拠り所がなんとなくわかったような気がしました。

「見るということは、受動的なプロセスではない。人間の目は常時その視点を移しており、自分を取り巻く世界の断片をあちこちから集めている」と、ロドニー・ブルックスは『ブルックスの知能ロボット論』の中で語っています。見ることは身体の能動的行為です。

この展覧会場で部屋の隅に座って、風鈴の明滅を眺めていても、全体の光の波紋の動きはなかなか分かりません。真上から空間全体の光の動きが見られたらいいなと思いました。けど、小さな画面の中の出来事のように全体が見えたら作品の魅力が減るかもしれません。視線が固定されてしまい、サッカード(眼球運動)の楽しみがなくなってしまいます。サッカードするから、人はゴーストの囁きを聞けるのです。(「囁くのよ、私のゴーストが」という言葉には、私という主体の本体とされるゴーストの囁きを聞く「私」とはいったい誰?という問題がある。運動する主体と立ち止まる主体と二分すると理に適うかも……。このあたりが最高におもしろい)。

会場の中では、人が同じ場所にいつづけていても、その人の周囲の風鈴はずっと同じ明るさで光りつづけているわけではありません。何かに呼応して明滅しています。なぜなんだろうと思いながら、光と音に現れたゴーストの身体を追う。捕まえようと思っても決して捕まえられない──そのダイナミズムに、このインスタレーションの深さがあるのだと思います。しかもそのけっこうシリアスになるテーマが、風鈴という癒し系・納涼系・職人の手わざ系物体に体現されているのがおもしろい。

つまらないと思ってそぞろ歩くだけだと限りなくつまらない。おもしろいと思って、ここに顕現しているのは何かを考えて、光の波紋をサッカードし、音階の違いに耳を澄ますと、限りなくおもしろくなってくる。そんなインスタレーションだと思います。
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※会場の休日にご注意ください。7月28日~8月22日 10時~18時(土・日、8/13〜15休)
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by cabanon | 2008-07-28 19:07 | Comments(2)
 
おトクの演出
お得感を演出するなら、料金体系は複雑にしたほうがいい。

ヤな商売の仕方です。典型はケータイの料金体系。対面接客で「お客様こちらのプランの方がお得ですよ」と営業担当に言わせたほうが、たしかにお得感は増大します。けど、そうしたマッチポンプのようなお得感自作自演の商売はやめてもらいたいです。

僕がそう思ったのは、東京電力の太陽光・風力発電からの余剰電力の購入単価の表(PDFファイルです)を調べていてです。ていねいに解説してあるようで、ちっとも理解できない。ホントは買いたくないからでしょうか。
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by cabanon | 2008-07-23 22:59 | Comments(4)
 
だからブログはやめられません
更新が滞ってます。忙しいです。人の原稿をチェックするのと、自分の原稿を書くのと、このふたつは使う頭の場所が違うようで、切り替えがむずかしい。ここ10年くらいずっと後者に専念していたので、まだ慣れません。で、とてもブログのことまで手が回らないでいます。

といってもブログはやめられません。最近、当ブログの別館KoKoAnnexの2年前の記事にコメントをいただきました。秦野のお花屋さんの看板が素敵だと写真を載せたのですが、そのお花屋さんの店員の方からです。うれしいです。

店名をテキストでは書いていないので、店名を検索しただけではたどり着きません。だから、よくぞこんな僻地のブログ(更新も少ないし、アクセス数はココカラハジマルの20分の1以下ですから)を見つけていただいた、という感じです。こういうつながりを生んでくれるからブログっていいんですよねえ。

ちなみに、かつてこんな出会いもありました。
「モエレで起きたちょっとした奇跡のお話」
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by cabanon | 2008-07-22 14:41 | Comments(0)
 
DAGODA
フリーペーパーを作っています。名前は『DAGODA』。ダゴダと読みます。アメリカの州の、サウスダコタとかノースダコタって変な名前だよなって思って、頭に浮かんできた名前です。けど、あっちはダコタ(DAKOTA)。こっちはダゴダ。濁点3連発です。

DAGODAという単語に辞書に載っているような意味はありません。しかし思いは込めています。GO DADA!──ダダで行こうぜ! 20世紀初頭の前衛芸術運動ダダイズムの実験的精神を、未来を見ることを忘れた21世紀に蘇らせようというメッセージを込めたネーミングです。

雑誌を実際に作っているのは学生たちです。法政大学大学院システムデザイン研究科の美学意匠論を授業の一環です。アートディレクション&デザインは東京藝大の松下計研究室に依頼しています。市ヶ谷と上野を結ぶコラボレーション企画です。

僕自身は2月から動き出して、授業は4月に始まって、ようやく6月終わりくらいになって形が見え始めました。なんて悠長なことを言っておられず、8月後半には印刷完了・納品の予定です。

5月あたりは眠れない夜が続きました。本来は講師が一人でしゃべっていればいい講義で、雑誌を作るなんて、はたして学生たちはついてきてくれるのだろうか。クオリティや面白さに関して、どこまで学生と認識を共有できるだろうか。僕はあくまで非常勤講師。ゼミ生を抱えている教授という立場ではないので、学生に無理強いは出来ない……。

学生と雑誌を作っていると知り合いの編集者に話をすると、たいてい「学生がねえ…」てあまり興味のなさげな視線を返されました。それがひどく悔しくて。絶対アリエナイレベルのもの作ってやるぞって思いました。そんなこんな、原稿書きと重なったせいもあり、この2か月はジムにも行けない日々が続きました。(先週末から筋トレを再開しました。やっぱり筋肉痛は最高の友です)。

みんながよく頑張ってくれています。今はワクワク感でいっぱいです。かつてない面白いものが出来そうです。内容はtakramや櫻井圭記さんの公開インタビューや、津村耕佑さんの特別取材など盛りだくさんです。きっとアリエナイレベルへ行けそうです。あとは、印刷代を大学側がどこまで出してくれるか。明日がプレゼン。頑張ります!
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by cabanon | 2008-07-08 18:14 | Comments(2)
 
機能しないことが機能
2つ前の投稿の「ロバスト家電」のまーさんのコメントの返事を書いていたら、長文の面白い内容になったのでこちらに投稿します。

>まーさん

ちょっと前の「サルでもわかるデザイン」という表題の投稿に書いた「わかる子=よい子」「わからない子=悪い子」と同様の、「機能すること=よいこと」「機能しないこと=悪いこと」という教育的倫理観が、この世の中を強力に支配しているように、僕は考えています。

それが拡大解釈され「たくさん機能があること=便利でよいこと」という通念が生まれている。

「機能なんて幻想だ!」と誰かが叫んでも、もう通じないでしょう。「機能することはよいこと」という意識は社会に深く浸透しています。機能しない人はリストラされ、機能しない建物は処分され、機能しない植物は伐採されます。

機能しないと烙印を押されたあらゆるものが、誰かが機能を発見してくれるのを待っています。歴史的な遺産として集客効果がある、知る人ぞ知る建築家が手がけた作品だ、癒し効果がある、CO2を吸収する……、なんらかの機能が見出されれば、それらは生き残る。

誰も気にしなかった隠れた機能を探し出すことは、新たなビジネスチャンスにもなります。

そうした世の中ですから、「余計な機能はいらない」という主張にも機能主義的に説明しないといけない。「ロングライフがサスティナブル社会実現のための有効な機能のひとつだ」、「機能を絞り込んだほうが実は機能的だ」という認識が広がって、初めて新機能大歓迎主義から距離を置くことができるでしょう。

けれど、それは「反機能主義」ではない。盛り沢山の新機能は機能主義的ではないということですから。機能はいらないという機能主義は、デザインをしないことをデザインするというノーデザインの逆説と似たような論法です。

それを突き詰めると「機能しないことが機能だ」という主張も現れるでしょう。しかし、ここまで来るとけっこう気をつけないといけません。言うのは簡単ですから。

その主張が、詐欺師のものかユーザーのことを真摯に考えたデザイナーのものかを分かつ基準は、きっと、その主張が「機能って何?」「機能を有り難がる私たちの社会って一体何?」という問いへ導く力を持っているか、否かでしょう。使ってみると便利だけど、使わなくていいものを機能といえるのか。機能という言葉はそろそろきちんと再定義すべきだと思います。
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by cabanon | 2008-07-06 19:14 | Comments(1)
 
最近心がけていること。ビジョンとディテール
人より遠くを見ること。人より細かく見ること。ビジョンとディテール。何か新しいものを作ろうと思ったらこのことが必須だと思います。これがないと人はついてきてくれません。お金と権力があれば別でしょうけど、そうしたものとは無縁なもので。

遠くだけ見てディテールが見えてない人と仕事すると、スタッフは尻ぬぐいばかりになる。ディテールだけ見ててビジョンがない人と仕事をすると、何のため仕事をしているか分からなくなります。

だから無理をしてでも、遠くを見る、細部にこだわる。ビジョンとディテールの両立はリーダーの資質──僕の経験則です。

もうひとつの経験則として最近心がけていることは、人に居場所を作ってあげること。

人を見切ることを安易にやると、眠っている才能を見出せなくなります。居場所と責任が人を育てます。人は切るのは簡単、活かすのは至難。
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by cabanon | 2008-07-06 18:29 | お気に入りの過去記事 | Comments(2)
 
ロバスト家電
洞爺湖サミットのせいで、都心の繁華街や駅や新幹線に警官がいっぱい、メディアはエコエコ大合唱。

クリーンエネルギーの推進やサスティナブルな社会のあり方を考える良い機会になっていると思いますが、政府の号令ひとつで同じ歌を大合唱しだす日本社会の体質には、地球温暖化以上の危険を感じます。

とはいっても、僕も最近エコ関係の取材がけっこうやってます。編集者としては「時流に乗れるときには思いっきり乗ってしまえ」という魂がうずきます。ジャーナリストとしては大合唱に参加することへの危うさを感じます。ま、相剋とか葛藤というほど思い悩んでいるわけではないのですが。やっぱり僕の中では、編集者としての職業意識のほうが強いからかもしれません。

で、この際だから、日頃思っていたエコの話をひとつ書きます。

重電部門を持つ総合電器メーカーの洗濯機は壊れてはいけない。

原子力発電のタービンや制御システムを作っている会社が製造している家庭用洗濯機が、10年で壊れてしまうことはあってはならない。毎日洗濯している家庭でもモーターが回っているのは一日1時間くらい。特別過酷な環境下で24時間フル稼働しているわけじゃないのですから。

屋外で使用しているならいざ知らず、屋内の安定した環境で、週に7〜10時間稼働するモーター製品は、少なくとも50年はもつべきです。うちのはもうキャリア20年のベテランですが、外蓋のプラスチックが劣化してボロボロです。

20年使い込むと味が出てくるくらいの洗濯機はないものでしょうか。材料が劣化するとかヒンジが壊れるとか、スイッチやボタンといった物理的な故障の回避に細心の注意を払った設計をして、流行り廃りの激しい○○機能といった○○洗いといった特殊なプログラムを組み込まず、ロバスト性(頑強さ)を高める方向の製品づくりをすれば、ロングライフな洗濯機は可能なはずです。

原子力発電の開発で培った低コスト・高ロバストの技術を家電製品にも活かしてほしい。それこそエコロジーだし、サスティナブルデザインだし、地球温暖化防止対策だと思います。

日立や東芝や三菱電機といった重電部門を持つ総合電機メーカーは、松下やシャープとは違うビジネスモデルで、家電製品の開発にあたってほしい。日本のエネルギー産業を支えている会社だからこそ実現できるロングライフ家電があるはずです。頑強な家電ということで、ロバスト家電ってネーミングもいいかもしれません。

現在の家庭はモーターがいっぱいです。CDやDVDプレイヤーのディスクを動かすモーターにトレイを動かすモーター、ミキサーやフードプロセッサー、ドライヤーやヒゲ剃り、さらにはウォシュレットのノズルにもモーターが使われています。

なかでも洗濯機、冷蔵庫、掃除機、エアコンは家庭4大モーター製品といえるでしょう。24時間稼働の冷蔵庫や、夏はどうしても長時間稼働となるエアコンは、今後の技術開発でさらに消費電力を下げて、買い換えたほうが省エネにつながることはあるでしょう。しかし洗濯機や掃除機は使う時間が限られているので、長持ちすることがサスティナブルにつながる商品です。こうした製品は「ロバスト家電」として売り出してもらいたいです。「うちのモーターは100年壊れない」と言い切って──。

もちろんエアコンも冷蔵庫も、重電部門をもつメーカーならではのブランディング戦略の一環として、ロバスト家電化してほしい。高度な技術力でロングライフデザインを実現し、サスティナブルな社会に貢献する企業ということで、確実にブランドイメージは上がるはずです。

すべての家電をみんな10年くらいで買い換えさせるビジネスモデルはそろそろ終わりにしてもらいたいです。5年で買い換えさせる製品もあれば、50年買い換え製品もあるといった柔軟なラインナップを考えるべきだと思います。

「わが家の洗濯機5年で壊れたし、冷蔵庫は3年でいかれちゃったんだけど、あの原発のタービン作ってるメーカーの製品なんだよな」って会話がないように。
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by cabanon | 2008-07-06 11:23 | お気に入りの過去記事 | Comments(5)
 
モー
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『AXIS』次号(9月1日売り)「未来技術報告」の取材で岩手県へ。牛の撮影、してきました。7月1日発売の『AXIS』最新号「未来技術報告」長島孝行氏のインセクトテクノロジーの話も面白いです。

この牛は日本短角種(いわて短角牛)。黒毛和牛に比べ赤身が少ない、かなりの稀少種とのこと。撮影の後ステーキをいただきました。うまいです。ふだんサーロインステーキだと脂身は絶対食べませんが、このステーキは脂身も食べました。

でも、さっき見てきた牛たちの子どもを食べてると思うと、微妙。しかし、欲望のためには(この場合は食欲)、余計なイマジネーションを広げないというのも人間の本能かもしれません。欲望を増長するイマジン(妄想とかともいわれます)と、欲望のためにイマジネーションを中断させてしまう能力。これは裏表なんでしょうね。

欲望のご都合主義で、人はイマジネーションを無意識のうちにオンオフします。私たちは、そうした機構の外にある、反欲望のイマジンの力も育てる必要があるのかも。けれど反欲望だけをひたすら追求することは人として不自然。といっても、目の前のおいしいもの(話)のために、余計な想像力を使わないというのも、危険なこと。どこでバランスをとるべきか。ステーキに舌鼓を打ちつつ、そんなこと考えました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-07-01 21:37 | Comments(0)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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