藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
ゴールデン・ラズベリー賞@デザイナーズウィーク
グラフィックデザイナーが手がける野外彫刻展「INADA Stone Exhibition」が東京ミッドタウンの21_21へ至るアプローチで開催されていました(11/5まで)。JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)と、茨城県の稲田みかげ石の石工とのコラボレーション企画です。十数点の石の彫刻は周囲と調和していません。無い方の時のほうが美しい。とにかく空いてる場所に彫刻を置いたという感じ。これがデザイナーの仕事でしょうか。

ハリウッドの最悪映画に授与するゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)のデザイン版をそろそろつくってもいいと思います。

この企画自体にラジー賞を差し上げてもよかったのですが、中でも際立っていたこの作品に、栄えあるラジー賞大賞@2008年デザイナーズウィークを授与したいと思います。グラフィックデザイナー秋田寛さんの「脚のテーブル」。脚を主役にしたテーブルだそうです。
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これはありえません。危険です。野外の、子供が走り回るような場所で、角のあるガラスの板を石の上に載せるなんて。夜、ガラスが見えなくて、酔っぱらった人が当たったらどうするのでしょうか。危険なものをあえて提示することで社会批評をする姿勢を貫いているアーティストが「この赤い防護柵まで作品だ」と語るなら、まだ理解できなくはありません。

でも、これはキャリアのあるデザイナーの作品です。設置場所を十分頭に入れ、安全性を検討することができるはず。実際に危険じゃなくても、見た目で危険を感じさせてはいけない。そうしたことにあまりに無頓着です。

半径3mいや半径30m以内に置きたくなるような作品はほとんどありませんでした。こっそり小さなギャラリーで、10分の1くらいのスケールの作品を展示していれば、デザイナーのお遊びということで誰も文句は言わないと思いますが。

もちろんいい作品もありました。石のクッションで座り心地悪さを味わってもらう山嵜勝之さんの「安楽椅子」は、デザイナーらしい発想の作品です。座るといままで感じたことのないザラザラとした感覚がお尻に伝わります。福田繁雄さんは、福田作品の王道を行く作品で、遊び心の質が、他とは数段違います。
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by cabanon | 2008-11-05 11:55 | Comments(6)
 
eatingをデザインしてみると
人間の感覚は、口の中に入れるものに対して、ものすごく敏感です。たとえば、色を見きわめるセンシング能力は、目の前にあるものが、これから口に入れようとしているものか否かで、大きく変わると思います。みずみずしい赤はおいしそうに見え、少しでも茶色がかっていると途端にマズそうに見える。

8年くらい前だったかベルリンの和食店で、茶色がかった中トロが出てきたとき、こんなところで和食なんか食べるほうが間違っていると思いました。腐ってるわけではありません。口に含めばトロの味です。でもピンク色であるはずのものがいささか茶色に変色していて、それを見てるだけで、もう味とか関係なくマズいわけです。

その後、日本でも2回くらいブラウン系中トロを食べたことがあります。主人が少々色が変わっててもウマイよって出してくれた。確かにそうなんだけど、色でもうダメなんです。

食べ物を見る眼は、おそらく目を凝らして美術館で絵画を鑑賞している時よりも、微細な変化に敏感になっていると思います。貝とか食べてて、小さな砂を的確に検知し吐き出すのも、口の中の触覚がきわめて高い識別能力を持っているからでしょう。

嗅覚で腐っていないか確かめ、視覚で新鮮さを見きわめ、触覚で異物の混入を見きわめ、味覚で食道の中に流し込んでいいかを最終的に判断する。聴覚以外は総動員です。口に入れるものに対して、自己防衛は数段階に及び、最高のセンサー技術が使われているわけです。

おいしいものにも敏感です。あまりに鋭く繊細な感覚が複雑に絡み合っているために、理屈や科学で語りきれない。その味わいを人に伝えるには、論理的叙述やデータによる解析より、グルメリポーターのように、エモーショナルなリアクションのほうがよいのでしょう。

優れた料理人がつくる料理は芸術です。そこは感覚の王国です。全部の感覚を研ぎ澄まして味わって、深い満足を得る。味わい尽くそうとするなら、食べる側も感覚を磨いてこなければいけません。もともと身を守るために感覚が治外法権を持ってしまった「食」の世界で、文化や社会のあり方を考えさせる批評精神の入り込む余地はもともと少なかったわけです。

しかし有名料理人がつくるものだけが料理ではありません。現代では「食」はさまざまな問題を抱えています。グローバル化した食品の流通。それは世界の貧富の格差の根本的な原因のひとつとなっています。安全の問題も複雑になってきました。いくら口に入れるものへの感覚が敏感とはいえ、食品に微量に混入された化学物質のことまで分からない。現代人の食を支えるシステムをリサーチし、その功罪を浮き彫りにすることは、まさに批評です。

食のデザインを「食べるという行為の操作」にまで広げてみる。そこにも批評の地平は現れます。食べるという行為には、社会の構造や歴史や文化が染みついているからです。それをAXISギャラリーで開催されている「eating + design : デザインにできること2」展(11/9まで)で感じました。オランダのデザイナー、マライエ・フォーゲルサングの個展です。foodデザイナーでなくeatingデザイナーという彼女は、「食べること」をちょっと変わったふうにデザインします。天井から吊した白い布で食卓テーブルの四方を囲み、切れ込みを入れ、そこから頭と両手を入れて、テーブルを囲んだ人たちがランチをともにする。頭と手を布から出した人たちにとって白い布はナプキンにもなります。食卓の上には柄の通常の3倍くらい長いフォークや半円形のお皿など、通常の食卓とは微妙に違った食器やカトラリーが置かれています。それぞれが慣れ親しんだ「食べ方」から離れ、白い布から頭を出した人たちは、テーブルに載せられた「料理」だけでなく、特別な「食事の作法」までも共有する。教育されて体に染みついた食べ方や作法から微妙に解放された場が、そこに展開されるわけです。
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高齢者のための歯がなくても食べられるスイーツ。砂糖でできているので紅茶やコーヒーを掻き回しながら溶けるスプーン。壁にスプーンがたくさん貼り付けられ、そこに載ってるクルミを食べられるコーナーがあります。私たちはふだん水平なテーブルで食事をします。ここでは垂直の壁から食べるという体験ができます。ハシゴを登ってクルミやナッツをとってみて、子供のころ、木に登って木イチゴを食べた体験を思い出しました。食べる行為を水平の台から離してみると、「野性の思考」いや「野性の食い意地」が蘇るようです。
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一番面白かったのは牛乳のテイスティングです。4つの白い陶器のポットにそれぞれ違う種類の牛乳が入ってます。ブランド名とかは書かれていません。味わってみると違います。微妙に。感覚を研ぎ澄まします。うっこれは濃い。これは薄いな。こっちも薄めだけどやや甘いかな。ワインとかレストランで頼むと、かっこつけてグラスを回して香りを嗅いで、感覚全開で口に含んで、訳分かってないのに「うう、おいしいですね」とか言ったりしてますが、牛乳でそんなことしません。スーパーやコンビニで買ってくるパッケージを空けたらすぐ食べるような食品。たとえば納豆とか牛乳とか安い豆腐って、あえて舌を麻痺させていたりする。無自覚にメーカーを信頼しているせいなのか。あんまりウルサいこと言ってたらお金がいくらあっても足りないせいなのか。

グローバル化され原材料を使っているか分からないこのご時世、惰性に慣れきった舌をもう一度目覚めさせないといけないのかもしれません。メーカーが「おいしい」とオススメしているから(それなりの自信があることはわかりますが)、でもそれを「おいしい」と思って飲んでしまうその感性を鍛え直さないといけません。

4つの中のひとつはヨーロッパで流通しているのと同じ製法でつくられた牛乳だそうです。タカナシの低温殺菌牛乳だと聞いて、スーパーで買って帰りました。それが特別ウマイってわけではないです。ウチが配達してもらっている明治牛乳のものとは、確かに味が違いました。好みの問題です。タカナシのほうは、ほのかの甘さに喉ごし爽やかって思いましたけど。
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タカナシのは岩手県葛巻村の牛乳です。夏に『AXIS』の連載で葛巻村の取材をしたので、牧場で撮影したことなど思い出し、えらく親近感が湧きました。味わいながら、産地の美しい光景が思い浮かぶのが、最高の食体験かもしれません。

食べ方をいろいろ操作(マニピュレート)し、五感が呼び起こすイメージまでマニピュレートすると、ものの見え方が変わっていく。その見えるものの果てに、現代社会の文化構造まで見えてきます。そんなことを感じた、フォーゲルサングの「eating + design」展でした。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-11-04 20:53 | Comments(0)
 
プレイ・アラウンド:答えの周辺
11/2、SoCa2008の、グラフィックデザイナー松下計さんのレクチャーを聴きに行きました。デザインの現状に対する危機感と、これからのデザイナーの立ち位置を考えさせる、熱い講演でした。

その中で松下さんが、プレイ・アラウンド(play around)という話をしてくれました。問われたことに対して、答えを見つけるでなく、答えの周辺を探っていくこと。イギリスのデザイン教育の視察に行ったとき、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)で聞いた言葉だそうです。

ある課題を解決するために、町に出て写真をたくさん撮る。その写真が楽しければ、別に答えを出さなくてもOK。答えの周辺(アラウンド)で遊んじゃって(プレイ)しているわけです。従来のデザイン教育は、一人ひとりが問題を見つけて、自分独自の解決策を探し出していくことを重視してきました。課題に対して、期限までに無理をしても必ず必ずひとつ答えを出さないといけません。

プレイ・アラウンドは、答えをひとつに絞る必要がないのです。こんなのあってもいいし、こう広がるかもしれない。今は具体的になりそうもないけどこんなのありかも……。どんどん答えの周辺を膨らませる。優等生的な答えよりも、「答えの周辺」に未来へ繋がる想定以上のものが生まれてくるかもしれません。

問題を解決しようとして、ひとつの解答を選択する手前で立ち止まって、「答えの周辺」で遊んでみる。それってデザイナーならではの方法論だと思います。ふだんから問題解決型のクリエーションを実践しているわけですから。問題解決のためにリサーチをかけているうちに、創造力溢れるデザインナーは、リサーチに没頭し、答えを出すことをすっかり忘れて、「答えの周辺」に夢中になってしまう……。そして新しい創造の方法論を手に入れる。
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岡田栄造さんプロデュースした、清水久和さんの個展「日本史」を見て、僕はその「プレイ・アラウンド精神」を感じました。清水さんはキヤノンのインハウスデザイナーです。でも、個展には仕事とリンクするような作品はありません。出展されていたのは井伊直弼を題材にした鏡と、巨大なちょんまげの貯金箱の2点。
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井伊直弼は日本史の教科書に載っている。肖像画も載っている。安政の大獄や桜田門外の変のことは知ってても、はたしてどんな人物だったのか、善人なのか悪人なのか、よく分からない、微妙な立ち位置の人物です。日本史本流の人物ですが、その存在は隙間的です。井伊のイメージには輪郭があっても中身がない。それゆえ鏡なのでしょうか……。

髷(まげ)は、日本史→時代劇→チャンバラ→最後に髷がバサッと落ちる定番のシーンという連想から生まれたもの。日本史の大衆的イメージの隅っこにある強い光を放つディテールです。下の白い台はお城の石垣だとか。日本史というイメージをつくるには、なくてはならない影の主役です。
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日本史という岡田さんのお題に対して、清水さんは、正しい答えなど出すことなど最初からせず、答えを出す一歩手前で出てきた隙間や隅っこや背景の部分で、徹底的にしかも真剣に遊びまくって、鏡と貯金箱をつくってしまったわけです。まさにプレイ・アラウンド。ふだん企業で問題解決型のデザインに取り組んでいるデザイナーだからこそ、答えの周辺で遊ぶ極意を知っているわけです。

そのあたりの感覚は、もう一人のインハウスデザイナー界(そんなのあるのか)の奇才堀切和久さんのミニ盆栽なんかにも通じるんですよね。プレイ・アラウンドの手法自体は、Take your pleasure seriously(楽しいことは真剣に取り組め)と言ったチャールズ・イームズや、ブルーノ・ムナーリの仕事(たとえばフォークの本とか)にルーツを求めることができるかもしれません。

問題解決型クリエーションの専門家が、答えの一歩手前でプレイ・アラウンドしていると、たまたま現代アートに重なり合ってきたりします。「答えの手前」や「答えの周辺」では機能とか経済性などはシビアに問われることないわけですから。しかも市場分析などの詳細なリサーチを重ねて問題解決を図ることを生業としているデザイナーならではの方法論は、アート界では新鮮だったりします。それが今アートとデザインを近づけている理由かなとも思ったりします。

答えの手前で遊びまくれ!
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*「DEROLL Commisions Series 2:日本史」展はSPACE INTART(東京・北青山)にて10/28〜11/3に開催された。
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by cabanon | 2008-11-03 18:27 | お気に入りの過去記事 | Comments(0)
 
デザイナーは医者じゃない。
デザイナーの仕事を医者にたとえる人たちがいます。グラフィック系に多いです。間違いだと思います。仕事のプロセスを説明するための軽いたとえ話ならいいのですが、あの有名デザイナーも、この有名デザイナーも、デザイナーは医者だと、講演などで若い人たちに語るのはどうかと思います。

医者は凶悪犯罪者の命でさえ救わないといけません。それが医者の倫理です。しかしデザイナーは、姑息な手段で儲けている企業の仕事を受ける必要はありません。暴力団絡みの会社や武器商人から「ウチの会社はダメになりそうだからと看てください」と言われても、その命を救う必要はないのです。それがデザイナーの倫理です。

医者の倫理とデザイナーの倫理は「人のため、社会のため」という根本の部分では同じものですが、その実践においては決定的な違いがあります。医者は患者を選ぶことができません。それが医者の倫理です。しかしデザイナーには依頼者を選ぶことで初めて達成できる倫理があります。仕事を選んでいれば、食えない。けど、あの仕事はすべきでない。仕事を断らないとならない時があるのです。ここに勇気ある倫理が発生する。再生紙を使いました、CO2削減に貢献しました、ユニバーサルデザインを採用しましただけが、デザインの倫理ではありません。
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by cabanon | 2008-11-03 00:29 | お気に入りの過去記事 | Comments(3)
 
長い一日
午前中は自宅で仕事。12時に市ヶ谷の法政へ。『DAGODA』を学生といっしょに新宿オゾンまで持っていき、SoCaのtakramと鈴木元さんのレクチャーで配布。takramの田川さんと21_21のスタッフの方に挨拶。すごく聞きたかったトークだったけど、スペイン大使館でセミナーの司会をしないければならないので、開場前に退出。

15時から大使館で「エモーションをデザインする」と題されたセミナー。5組のスペイン人デザイナーがプレゼンテーションをした後、僕がステージの上でインタビューする仕事。各組5分。なるべく観客の方と同じ目線で突っ込もうとしましたが、さらりとかわされることも。大使館の展示デザインを担当したエクトル・セラーノには「照明でモノの素材感が分からないけど、どうなのか」とか単刀直入に聞いてみました。
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5組、それぞれ面白かったです。ただ全体にスペイン的なデザインとは何なのかが見えにくい人選ではありました。。僕が面白いと思ったエクトル・セラーノルイス・エスラバミゲル・モラは、いずれもロンドンのRCA出身。RCAで学んだデザインプロセスが染みついているようです。

モラの洋服にQRコードのシールを貼っておくと、監視カメラには自分の顔がモザイクになって映るというプロジェクトが面白かった。プログラミング次第で顔のモザイクをピースマークにもできるわけで、シールひとつで攻殻機動隊S.A.C.の笑い男になってしまうわけです。インタビューの時、笑い男の話をしたけど、通訳さんに事前に打ち合わせせず、僕が攻殻とか笑い男とか言い出したので、訳してもらえなかったと思われちょっと残念。

で、セミナー後の懇親会に少し顔を出した後、AXISギャラリーへ。eating + design展へ。オープニング以来2回目。気になることがあったので確認しに行きました。感じたことは後日書きます。

隣のJIDA Design Museumで開催しているSEIKO POWER DESIGN PROJECT(11/3まで)を覗く。毎回ちゃんと見ているわけではないですが、今回のはイイ!と思いました。各時計に東京の地名をつけて、イメージを喚起している。名前は後からつけたものとか。0.01ミリ精度でデザインされる硬質な時計が地名をつけるという言葉遊びによって、スッと硬さや厳格さから解き放たれる感じ。丸の内と大手町が対極の時計になっているところなんか、ホント2008年の東京感覚です。10年前だといっしょのイメージだったわけですから。

妻と合流して森美術館のアネット・メサジェ展(11/3まで)へ。土曜日8時過ぎの六本木ヒルズ森タワーは、展望台に目当ての人で混雑するのですね。チケットを買うのに行列が出来てました。写真を使ったインスタレーションを見て、美術ジャーナリストの妻に「なんかボルタンスキーにかぶってるね?」と言ったら、「パートナーよ」と。知りませんでした。知らないでボルタンスキーが頭に浮かんだ自分の直観力にちょっと自信を持ちました。

怖い夢のことをたくさん思い出しました。見たくないもののイメージが頭の中を駆け巡りました。記憶の中にうごめいている黒くて輪郭がなくて底知れぬものが、かわいいはずのぬいぐるみの、柔らかい形・やさしい色を依り代して、壁に貼り付けられたり、目の前で動いています。それがアネット・メサジェの作品でした。

作品はとにかく「カジノ」がスゴい。真正面から座ってみることをオススメします。1回数分の物語性のあるインスタレーションですが、立ち尽くしてました(いや座って見てたんですけど)。眼が呆然とするって感じだったんです。半透明だった赤い絹布が、照明の加減で、不透明のボリューム感の持つ柔らかい量塊になる瞬間に引き込まれました。照明によって動脈の血の輝く赤から静脈の黒い赤になったり……終わりのない血=生命の物語……数年ぶりに深く感動した現代アート作品でした。

で、23時25分の回の「レッドクリフ」を観る。公開初日。満員。豪傑たちのパフォーマンスを見る映画ですな。金城武の孔明の立ち方がかっこいい。筆で描いた孔明像を意識していると思いました。ゆるやかな弧を描いているんです。2時に終わって、帰宅。長い一日でした。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2008-11-02 12:57 | Comments(2)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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