藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
<   2009年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
資生堂・サントリーの商品デザイン展
d0039955_12504858.jpg
もう一週間も前ですが5/12、上野の東京藝術大美術館陳列館で行われている「資生堂・サントリーの商品デザイン」展(6/1まで)の内覧会に行ってきました。

「デザインを見せたい」「時代の移り変わりとともにデザイナーが何を表現してきたかを見せたい」という意欲が伝わる展覧会でした。

キムタクの横に背丈を感じさせるものを置いてはいけない。たとえばかつてある雑誌でロゴの特集を担当したのですが、フランスのファッションブランドは石油会社のロゴと並ぶのがイヤだと言って掲載を拒否してきました。ブランドイメージに神経質になるとそういう判断も生まれてきます。しかし同展ではコンビニで売られているミネラルウォーターと高級な香水が隣り合っています。

両社の商品を時代順に並べられると、社会と会社の間でデザインがどんな役割をしてきたかが見えてきます。どちらか一社だけの展示だったら見えてこなかったでしょう。二つだから見えてきます。

大ざっぱに時代分けしてみましょう。僕の私的史観です。

1897年から1960年代前半までは「原型の時代」です。資生堂は山名文夫が活躍し、独自の唐草模様やロゴを生んでいきます。サントリーは角瓶やオールドのダルマが生まれます。当時は「舶来=高級品」で、そのイメージを踏襲しつつ、いかに日本オリジナリティを出すかがデザイナーの腕の見せ所でした。そうした努力の中から、その後の展開の基礎となる原型といえるデザインが生まれます。

1960年代後半から1980年代は「パッケージデザインの時代」です。大量消費社会が熟成期を迎えはじめ、二社は感度の高い消費者に向けた質の高いデザインを発信する先駆け的な存在として時代をリードしていきます。1969年の男性用化粧品「ブラバス」とウイスキー「リザーブ」は、そのデザインテイストが重なり合っています。パッケージデザインが即ブランディングになる時代でした。ですからブランディングがどうしたこうしたと喧々囂々しなくても、タクティクスやペンギンズバーのような、質の高いパッケージデザインを生み出すことに専念すればよかったわけです。

1990年代から現代は「ブランディングの時代」です。まずパッケージをデザインして、それがブランドのアイコンとなって、という順序でなく、先にブランドの世界観があって、それを表現する一つのツールとしてパッケージが生まれているようです。

化粧品のパッケージは、かつてのMG5やブラバスのように、瓶そのものを視覚的なシンボルにしてブランドを構築するのでなく、ブランドが醸し出す世界観を五感で体験するツールになっています。それゆえパッケージでは手触り感や光の微妙な変化などが重視されていきます。

缶コーヒーBOSSでは、ヒゲのオジサンが視覚言語化され、サングラスを持ってたりサックスを吹いていたり、さまざまなバリエーションの商品が展開されています。80年代CIブームの頃の視覚言語とは違います。

企業ロゴマークには指定色があって、周囲に必ず空白をつくるなど、CIのロゴがいじれない視覚言語だったのに対して、ヒゲのオジサンはいじって生きる視覚言語です。求心力のあるアイコンでなく、ブランドをひとつの物語のように展開させていく遠心力のあるアイコンといっていいかもしれません。ご当地キティなんかもその類です。

ブランドはロゴの展開例などを定めたCIマニュアルの中に書かれた世界観ではなく、お客さんとの接点に生まれる世界観です。一人ひとりの顧客の中に、企業の(もしくはブランドの)ブレないフィロソフィーが行き渡るときに生まれる、物語をつくる力が遠心力。それが現代のブランディングの要です。

そんなこんなを読み取れる、いい展覧会です。

他にもいろいろ勉強になります。
d0039955_13161717.jpg
資生堂のTSUBAKIの赤に歴史があること。
d0039955_1254091.jpg
サントリーのシズル表現の早さ。1967年。
d0039955_1318168.jpg
ペンギン缶の丸み。美しい! 1984年。
d0039955_13203975.jpg
SASUKE、好きだったな〜。1984年。

展示解説もしっかり書かれているので、じっくり見たらかなり時間がかかります。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-21 12:46 | Comments(10)
 
本日の迷言
やると言ったことはやる。ただし、いつになるか分からない。(藤崎談)
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-19 21:10 | Comments(2)
 
21世紀の編集者
前にもリンクを貼った柳本さんのブログの記事で、土曜日のトークについて下のような一節がありました。
「F崎さんのブログでかなりの意気込みを感じ、期待が大きかったのですがその割には核心に触れる話が余り飛び出さず、ちょっと寂しかった。思うに会場の一番前の端にF崎さんのクライアントであるMハウスのS木さんが居たので、なかなか喋りにくいんだろーなーとは感じました。」
否定するまでもないから、否定しなかったのですが、BRUTUSの鈴木副編集長のブログ「フクヘン」でこのことについて言及があり、否定しないということは認めるということになりかねないので、はっきり立場を述べておきます。

上の文章は「クライアントである」というひと言が余計です。これは批評とか意見とかではなく、おばさん勘ぐりです。僕や鈴木さんに対する中傷的意味合いを含むものです。実際BRUTUSはもう3年書いてませんし、CasaBRUTUSも1年以上書いてないですし。

この文章だと、鈴木さんが無言の圧力をかけてるとか、食い扶持を守るために僕が本音を語るのを避けたって読めますからね。腹立たしかったけど、2ch同様、こうした勘ぐりはスルーするのが一番。それよりも「核心に触れる話があまり飛び出さず、寂しかった」という批判をきちんと受け止めることが先決と思って、前回、前々回の投稿となりました。

いい仕事を重ねている編集者が来れば、そりゃ緊張します。関西からわざわざこのために来た編集者もいたし、昔同じ編集部で働いた編集者もいたし、同業のライターもいたし、つまんない話だと後で何を言われるか分からない舌にトゲのついている友人のアーティストは目の前にいたし。ごまかしのきかない観客だったので、本音を語ったつもりです。固有名詞をしっかり出して語ったつもりですし。

しかし、固有名詞を出しているだけで、雑誌の体裁とか文字の大きさとかCasaBRUTUSのムックビジネスのよろしくない点とか「他人の書いた記事は読まないですよ」といった底の浅い本音になってしまい、デザインと言葉を考える上で今後、紙媒体とウェブをどう展開させていくかのがいいか、といった核心に触れる話になかなかならずに、核心を期待していた人はいささか物足りなかった、という点は反省しています。

トークでも語りましたが、僕はデザインジャーナリストである前に、エディターです。編集者です。編集者は情報を扱うだけが仕事ではありません。

本の引力、文字の魔力、紙の愉悦を司るのが編集者だと思っています。ウェブができて、むしろ編集者が操れる「力」が増えてきたと僕は思っています。ネットの共時性とでもいいましょうか。

ネットと本の違いは、即時的なメディア──たとえばBBSやブログと雑誌の違いを考えるより、アーカイブの違いを考察するほうが本質が見えてくると思っています。ネットのアーカイブは膨大な過去を常に「現在」として表示します。過去に遡るという体験を経なくても、検索エンジンを使えば、「いま、ここ」で過去の文書や写真が画面に表示される。常に更新され続ける「いま、ここ」が過去の知の地層を覆い尽くしている。それは究極のモダニズムといえるものです。

時間軸を遡る知の旅のために、本という形態は必要なのです。すべてを現代に変えるのは暴力です。いまGoogleがやろうとしている書物のアーカイブ化などまさに暴力です。

しかし暴力的なスクラップ&ビルドの果てに、生活インフラが満遍なく行き届いている現代都市が生まれたことを考えると、そうした暴力を一概に排除するわけにもいかないようにも思えます。

書物のアーカイブは限られた閉ざされた場でしか閲覧できません。アカデミックなアーカイブの制度を壊していくには、人とモノと情報が流れるインフラを整備して開かれた都市をつくる再開発計画のように、どこかで暴力的な破壊行為が必要になっていきます。閉ざされた知の旅でなく開かれた知の旅をもたらすために、ネットの共時性と本の快楽を両立させるのが、21世紀の編集者の仕事じゃないかって思ったりするんです。

逆の側面から言うと、「現在」だけが過去も未来も世界も覆い尽くす、いま進行しつつある最も深刻な本当のモダニズムの歯止め役になり、ネットを駆使して、本をベースに知覚を扉を開くことが、21世紀の編集者の仕事です。

世界の感じ方を変えれば世界は変わる。世界の感じ方を変えるために何ができるか。それが問題なんです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-19 12:33 | Comments(4)
 
続・デザインジャーナリズム
柳本様 前投稿へのコメントありがとうございます。
長文なので、投稿記事としてレスします。

おっしゃるとおり、せっかくのライブで、しかも編集者やライターなど、いろんな方が来ていたから、僕も積極的に会場に話を振れば良かったです。

後半のトークで清水さんと今井さんが見せてくれた「愛のバッドデザイン」も、僕はデザイン批評だと思ってます。それは新製品レビューなどでは忘れがちになりそうな、でも人の暮らしを支えるデザインを語る上では重要な、視点の集積です。

都築響一さんの仕事も批評活動だと思っています。たとえば『着倒れ方丈記』は素晴らしい。ファッション界が見せたがらないファッション界を支える人々のライフスタイルを見事に切り取っている。だけど、都築さんはファッションジャーナリズムという枠の中でその仕事をしたわけではありません。いやファッションジャーナリズムでは決してできないことをやっている。でもその仕事は極めてジャーナリスティックです。

既成のデザイン雑誌に頼らないデザインジャーナリズムは可能です。「キミは僕の仕事をデザインジャーナリズムって呼びたいんだね? なら呼んでもいいよ」ってスタンス。デザインという言葉にこだわりすぎて、なんでもデザインだって言いたがると、逆に広がるべき思考が広がらなくなる。だから僕は、デザインの書き手が「書くこともデザイン」と言うことに違和感を覚えます。エクリチュールという言葉で長年議論されてきた「書く行為」に、デザインという言葉がどれだけ新しい光を当てられるか疑問です。「デザインと呼びたければ呼んでもいいよって」ってスタンスの方が、結局デザインの可能性を広げると思うのです。

基本的にはデザインジャーナリズムなんて言葉にこだわらない姿勢が批評活動を活性化させると思っていますが、しかしデザインジャーナリズムが不要と言っているわけでありません。必要です。もし今あるものでは不十分なら新たなものを作っていかなければなりません。

デザイン誌には専門誌としての役割があります。柳本さんがおっしゃるように一つ一つの製品のレビューでは言説の力は弱く、デザインを語るなんて意気込んでも意味があまりないと思いますが、ある人の仕事や長く続くプロジェクトを総体として、取材を綿密にして語る必要はあります。

フィロソフィーの繋がり合うプロジェクトを3つ以上並べれば雑誌の特集になります。そしてそのフィロソフィーから時代を映し出すことが可能です。こうした特集は編集者の腕にかかっています。

腕のある編集者がいなくなると、しっかり批評的言説を書く場が失われ、デザインの評価は市場に任せることになってしまいます。紙媒体かウェブかの問題ではありません。メッセージをあるパッケージの中にまとめる力のある編集者がいるかいないかです。紙の雑誌とウェブマガジンの両方を使い分けられる編集者が理想だと思っています。

ブログに対する見方も、それが編集者不在のメディアなのか、それとも誰もが編集者になれる時代が来たと認識するかで変わっていきます。匿名メディアがこのまま増えれば前者。署名ブログが増えれば、後者の可能性が少しずつですが見えてきます。

ブログは機動性の高い面白いメディアだけど、ブログだけが批評メディアになってしまうのは、避けるべき事態だと思います。編集を生業にするプロは必要です。誰もが編集者というのは、言い換えれば編集者の素人化ですから、どうしてもクオリティは下がっていきます。

とにかく、ジャーナリストや評論家でなく、デザイナー同士がデザインを評価するにしろ、それが何故選ばれたかを言語化しなければならない。デザイン自体がいくら批評であっても、それを読みとる言説が必要です。いずれにせよ批評的言説を発表する場は不可欠です。

市場にデザインの評価を委ね、市場が受け入れるものはすべて良しとすると、デザインという言葉自体が市場に呑み込まれ、消費されてしまう危険性が出てきます。デザインという言葉が広義になればなるほど、デザインという言葉が市場に濫用され、言葉のイメージはボロボロになり、そのうち死語になるかもしれません。

デザインという言葉を守る人間が必要なんです。それがデザインジャーナリズムを担う人間の仕事だと思います。もちろんデザイナーの仕事でもあります。デザインという言葉を常に柔らかくオープンで新鮮に響くものにするには、その言葉の中核にいる人たちの努力がいるのです。

だから僕はデザインジャーナリズムを諦めていません。

ニッチなメディアでもいいんです。スモールメディアが世界を変える世界にするのが目標ですから。

************

【おまけ】ミラノで見つけた「愛のバッドデザイン」藤崎版
d0039955_16202658.jpg
僕たちは硬くて鋭利な針で相手を刺す、
そんな攻撃的なヤツではありません。
針の尖りはいまいちだけど
円板をくりぬいた三本の針で、
プスプスプスっとやさしく刺して、
掲示板に書類を貼り付けます。
斜めになったりいたしません。
掲示板ってヤツはいつも無表情だけど、
やさしく接すると、ペタッと密着させてくれるんです。
くりぬかれた穴は矢印のよう。
回転してるみたいでしょ。
真ん中の穴は何のためかって。
実は僕らも知らないんです。
いつも鼻だと答えています。
タレ目のアンパンマンだと
言ってくれた日本人がいます。
TVアニメのヒーローだそうです。
でもイタリアじゃ放映してないんです。
きっとカッコいいんだろうな。

**********
では、こちらから清水久和さんの本家「愛のバッドデザイン」ウェブ版をお楽しみください。今井信之さんの文章も素敵です。

ちなみに上の画鋲はこんなものです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-18 15:02 | お気に入りの過去記事 | Comments(3)
 
デザインジャーナリズム
柳本浩市さんのブログmetabolismを拝見して、やや反省。5.16のshop btfでの岡田栄造さんとのトーク、僕的には気持ちよく話せたのですが、デザイン批評は可能か?っていう話をもっと突っ込んだほうがよかったかもしれませんね。

最近こんなことがありました。

某雑誌から拙著『デザインするな』の書評記事のゲラがPDFで送られてきました。事前に著者にチェックしてほしいとのこと。「ゲラは読みません。チェックしません。そんなことをしたら書評の意味がない」とかなんとか書いて返信しました。著者インタビューを受けてコメント部分をチェックしてほしいというのならチェックします。しかし評論の事前チェックは評者に失礼。本を世に問うた以上、他者から批判は受け入れる覚悟はできています。その批評がたとえどんな理不尽なものであってもです。

出版後のいさかいを避けるため、専門誌でも原稿の事前チェックが当たり前になりつつあります。しかし記事の性格によっては事前チェックは全く必要のないものがあります。そうしないと批評・評論という分野が存在できなくなってしまう。

自分の発言内容や事実関係以外の部分まで直しを要求するのはルール違反です。レイアウトまでチェックさせろと言ってくる人もいます。レイアウトだって批評です。どの写真を大きく使うか、何をメインに見せるか、といったことは雑誌編集者とエディトリアルデザイナーの批評性が発揮される部分です。レイアウトチェックを要求できるのはタイアップ記事のクライアントに限ります。

そうした批評性への無理解に歯止めをかけるのが編集者の役割です。ここは直すけど、ここは直さないと判断し、執筆者を守るのが、編集者の力です。編集者は執筆者にとって第一読者だって話をトークの時にしましたが、それと同時に防波堤でもあるんです。このふたつの役割をこなして、批評の世界の質が上がる。自称デザインジャーナリストがたくさん増えても、編集者の質が向上しないと、デザインジャーナリズムは存在しないということになります。

デザイン批評は難しいものです。デザインはプロダクトの姿形だけでなく、その製品を実現させるためのプレゼンテーションの過程から、その製品が世の中に出てから、どのような反響があって、それがどう次の製品に反映されていったかまで評さないと、批評として意味がない。製品の使い勝手だって1年以上使い込んで初めて分かることがたくさんある。映画のように試写会を見て、評論が書ける分野ではありません。

各業界に精通した人がデジカメだけとかクルマだけ評することなら、ファーストインプレッションでもかなり精度の高い評論を書くことは可能です。だからデジカメ評論家や自動車評論家は成立します。しかしモードも茶碗もインタラクションデザインも産業機械も広告も絵本も住宅も、時にはアートもアニメも、横断的に語るデザイン評論家は成立しづらいのです。

結局日本では、デザインを評することは、デザイナー同士に委ねられています。デザイナーのほとんどはバウハウスを基礎とするモダンデザイン教育をみっちり受けてます。グッドデザイン賞にしろADC賞にしろ、だいたい同じような見方を持った人たちが、その製品が世に出てまだ日が浅いうちに審査して、デザインの善し悪しの合意を形成している。それが現状です。しかし、そのやり方以外に今のところ世の中に溢れる大量のデザインを評価する方法がないのだから、そうした制度はそれなりにきちんと機能しています。

じゃ、デザインジャーナリストなんて、やることないじゃん、批評なんて書いても意味ないじゃんって話になります。たしかに辛口批評とか毒舌ばかり標榜すると、最初は面白がられても、辛口のスタイルを守るために先細りしていきます。

たいていの本音トークは、経験に培われた眼で直感的にいいか悪いかを判断して、それを正直に言っているという程度のものです。映画や演劇評なら、それで通用しますが、その都度知らない業界や技術を勉強しなければならないデザインジャーナリストの仕事は、経験が好奇心を鈍らすこともあります。あの時ああだったから、どうせこれもツマラナイだろと勝手に決め込んでしまうわけです。

経験という色眼鏡を外したほうが、美しく見えるものがあります。プロダクトの背景とその後の影響を綿密に取材していけば、最初はツマラナイと思ったものが、とても興味深い事例に見えてくることがあります。どんなものにも何か面白い話が隠されている。そう思ったほうが世の中は豊かに見えてきます。

僕はデザインジャーナリストの仕事は、「批判」から入るのでなく、「認めること」から入るべき仕事だと思っています。

批評ができるのは文章だけではありません。デザインも批評ができます。わかりやすい例だと、トスカーニのベネトンの広告、スウォッチ創設時の戦略、無印良品のブランディング、ドローグデザインの仕事などは、その時代時代への企画者や表現者の批評精神をはっきりと読み取れることができます。デザインが持つ批評性を言葉に置き換え、それを広く伝えるのがデザインジャーナリストの仕事です。

一見批評性の無さそうなものに、批評性を発見するのが面白い。トスカーニのベネトンの広告の批評性を書くのは簡単です。ですが、コンビニに置かれた清涼飲料水の批評性を浮かび上がらせるのは難しい。「世界のキッチンから」に、カテゴリー売り上げ1位2位以外の商品は入れ替え制で、新商品は一発屋の若手芸人のような扱いで、商品を育てようとしない一部大手コンビニに対する批判的な思いがあることは、ドラフトの本(『デザインするな』)を書くという立場で、宮田さんにじっくり話を聞けたから知り得たことです。

僕が批評家や評論家と名乗っては、デザイナーが仕掛けた隠された批評を言葉にすることができなくなります。伝える人に徹することで、見えてくる批評がある。

建築家もアーティストもデザイナーも批評家なんです。キュレーターも批評家です。いや批評家以上に批評家です。それを「認める」ことから始めることで、建築・美術・デザインジャーナリストという職能の存在理由がある。ピンと来ないものは単純に無視すればいい。だからCasaBRUTUSでも批評は成立すると思ってます。編集者にそうする気がないと単なる情報誌になってしまいますが。

「認める」ことから始めるからこそ、あっこの人、おかしくなっている、というのが分かるんです。そういうときは批判に転じる。僕は深澤直人さんの仕事はいつも気になってますから、21_21のチョコレート展の時は批判したわけです。逆に言えば、認めてない人は批判もしない。

成功している人は必ず何か理由があって成功している。酒の席ではとかく「実はあの人は…」と、悪い面ばかりを見た話ばかりになってしまいます。しかし僕にとってデザインジャーナリストの仕事とは、まずは相手の懐に入り込んで、いい面を引き出すことだと思っています。まず相手のことを認めないと、なぜ成功しているかを見極めるための材料が手に入りません。

もちろん悪い面も頭に入れておく必要はあります。じゃないと、懐に入ったまま戻って来れなくなってしまいます。ジャーナリストの本分は取材対象との距離感の操作。取材対象を一時的に好きになることも、距離感の操作の重要な技量です。そうやって引き出した成功者の「いい面」は僕自身にとってもものすごく勉強になります。それを人に伝える、それが職業です。

そんなこんなトークの後、ちょっと反省を交えて思いました。

優れたデザインは、それ自体が批評です。それを言葉にするだけだから、デザインジャーナリストの仕事は簡単? いや、それがとってもむつかしいですよ。

d0039955_119073.jpg
なんて会話はしてません。左が岡田さん。

text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-18 00:36 | お気に入りの過去記事 | Comments(11)
 
5.16トークショーのお知らせ
5月16日(土)中央区勝どきの「shop btf」で、岡田栄造さんとトークショーを行います。

第1部(14:00~15:30)藤崎圭一郎 × 岡田栄造 
第2部(16:00~17:30)清水久和 × 今井信之 × 岡田栄造

僕は「デザインジャーナリズム」のことを話します。

shop btfのウェブサイトの告知には「デザインの歴史をやさしく読み解きます」などと書かれていますが、デザイン史の話などするつもりなど毛頭ありません。やさしい話をするつもりもありません。

いまさら「やさしい」なんて言葉で、人集めをしてどうすんの?って思ってます。小難しい話をしたいわけではありません。デザインに問われているのは、これからどう生きるか? つまり20年後・100年後の未来を見据えた話ですから、口当たりのいい話にしたくないだけです。

岡田さんも僕も「デザイン」の傍らにいる人間です。岡田さんは、dezain.netを主宰する無双の情報ツウで、昨今は展覧会やデザインプロジェクトのディレクターとして大活躍されています。おそらく、紙媒体にこだわる僕と立場の違いが見えてくるでしょう。キュレーションというかたちのジャーナリズムはあり得るのか。そもそもデザインに批評は必要なのか。そんな話を投げかけてみたいと思ってます。ブログを利用するデザイナー、ジャーナリストの話についても、いま思っていることを語るつもりです。

後半は、キャラが立っている日本のインハウスデザイナーとしては、おそらくフジの堀切さんと双璧をなすキヤノンの清水久和さんと、同じくキヤノンデザイン室の今井信之さんと岡田さんの鼎談です。どんな話になるか。こちらは観客として楽しみです。

※ 入場無料
※ 要予約。下にリンクした告知ページの下部にある応募フォームで受付中。(第1部、第2部共通)
http://www.butterfly-stroke.com/talkshow/090516.html

※会場 「shop btf」
中央区勝どき2-8-19近富ビル3階・3A
(エレベーターは「3A」を押してください)
都営大江戸線「勝どき駅」A2出口より徒歩3分 
Tel:03-5144-0330
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-05-05 19:15 | Comments(0)


S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
最新のコメント
以前の記事
カテゴリ
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。