藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
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アジサイとアンズ
6/26は、法政の公開対談の前、恵比寿のDRAFTにいました。

「ウチの庭を見て、気づくことないですか?」
とますます茶色にゴルフ焼けした、DRAFT代表、宮田識さんは言いました。

DRAFTの広い庭を二階の会議室から眺めました。ケヤキもアンズもユズもソテツも、プールも石灯籠もある。何か答えなくちゃいけない。分かんない。
「……」
「花がないでしょ」と宮田さん。
「えっ?」
「アジサイの花を植木屋が全部切っちゃったんだよ」
そう言われると、アジサイに花がない。いま一番きれいな季節なのに。
「いま花を切ったほうが元気になるって植木屋は言うだよ。それはないだろ、と思ってね。アジサイは花を咲かせたいわけだし、僕らはアジサイの花を見たい。植木屋は(植栽を元気に育てたいという)自分の仕事をしているんだけど、切る前にひと言ほしいよね。だからお茶も出さなかった。切られたアジサイの花は、昨日まで事務所中に飾ってました」

まさに「デザインするな」だなって思いました。

デザイナーはデザインをしたがる。植木屋は枝葉を切りたがる。アジサイが元気に育ってくれるに越したことはない。でも、庭を愛でる人の思いや、花を咲かせたいというアジサイの思いが見えていない。

『デザインするな』の最初の打ち合わせときはアンズの話を宮田さんから聞きました。1年前の話です。『デザインするな』のまえがきから引用します。
「ある年、庭のあんずが、狂い咲きしたんです」
(宮田が)指さした、あんずの木には青々と葉が茂っていた。
「しかも、花が咲いた後、いつもは葉っぱが出てくるのに、いっこうに出てこない。ヘンだなと思って、毎日観察してたんです。やっぱり、これはヤバイ、死ぬと思ってね。植木屋に看てもらった。もう木が老齢で、弱っていたらしい。それで、地面に注射を打ってもらったら、復活してね。葉っぱが一気に出てきた」(中略)
「デザインするには、もちろん最低限の技術が必要ですが、デザイナーになる人はみんなある程度の技術を持っているわけで、本当は、見ているか、見てないか、感じているか、感じてないかが大切なのです」

もし今年『デザインするな』を書き始めていたら、まえがきはアンズの話でなくアジサイの話になっていたかもしれません。この話はふたつ並べると、相補的な関係になります。アンズの話では植木屋の知見は「正」です。アジサイの話だと逆に「負」に作用します。道より仕事を優先させると、正のはずが負になります。

変化を捉える心は、正しき道を行う者に宿る。『易』の本をずっと読んでいて、そう思ってます。『デザインするな』の根本的なテーマでもあります。

では、何が正しい道か。明快な答えは示すことは難しいですが、答えは意外と身近なところにあるように感じています。『デザインするな』の中で僕が一番好きな話に、宮田さんに教えてもらったルールとマナーの話があります。ルールは変わっても、マナーは変わらないという話──。ズルをしないとか、他の人に心地よくなってもらおうという思いは、どこでもいつでも変わらない。僕自身、実践しようと心がけてますけど、まだまだ不十分。ぜひ読んでもらいたい話です。
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by cabanon | 2009-06-28 02:12 | デザインするな | Comments(4)
 
「デザインの骨と皮膜」を終えて
もう24時間以上経つというのに、なんだかまだ緊張感が続いています。緊張というか興奮が収まっていないのです。司会進行役を務めた法政大での公開対談「デザインの骨と皮膜」、無事終えることができました。
山中俊治さん、原研哉さん、本当にありがとうございました!
来場者の方々、スタッフの皆さん、ありがとうございます。
山中さんのブログでも触れていただき、再度感謝です。
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僕は、山中さんの「骨」展と、原さんの人工繊維をテーマにした「Tokyo Fiber'09 SENSEWARE」展は相補的な関係にあると思っています。ともに興味深い独自の世界観を持ってます。しかし両方を見ることで、互いの世界観がまた違った角度から見えてくる。

対談で聞き忘れたことがありました。

映画『2001年宇宙の旅』でモノリスを触った類人猿が道具を使うことに目覚め、骨を武器にし、部族どうしの戦いを始めました。そして高く空に投げられた骨が、宇宙船のシーンに変わる。過去から未来へ一瞬にして場面が転換していきます。

原さんはSENSEWAREを「創造行為を触発する媒質」と定義しています。「Tokyo Fiber'09」展は人工繊維をセンスウェアと捉えて、さまざまなクリエイターに人工繊維による作品をつくってもらう展覧会です。原さんは紙もセンスウェアだといいます。原さんは石器時代の石斧を初めて触らせてもらったとき、そこにセンスウェアを感じたそうです。石の触感が、人類を石で道具をつくることを駆り立て、石器時代という文化をドライブさせたのだと。

その話を聞くと、どうしても究極の創造行為を触発する媒質であるモノリスのことを思わざるを得ません。『2001年宇宙の旅』ではモノリスが人を道具の創造に導く媒質です。そして映画では最初の道具として「骨」が描かれています。それが科学の粋を集めた宇宙船へと進化していく。

山中さんは人がつくりしものの中に脈々伝わる骨の系譜を、それ以前の生物の骨格なども見せることで読み解いていきます。骨は単に構造体ではなく、モノリス体験以降のテクノロジーを表しています。

『2001年宇宙の旅』つながりですよね?って聞きたかったんですが、聞きそびれました。お二方ともあの映画に対するそれぞれの答えを展覧会を通じて探しているような気がして……、そこんところどうなんですかって。

対談の詳細は、9月後半発行予定の『DAGODA』第2号で報告します。ご期待ください。
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by cabanon | 2009-06-27 23:53 | Comments(5)
 
インティメイトプロダクト & 魂のスイーツ
週末、藝大の松下計さんにお招きいただき、ゼミ合宿に参加してきました。僕の卒業した学科にはゼミというものが自体がなかったので、人生初のゼミ合宿。青竹を割って装置からつくった流しそうめん、BBQに舌鼓を打ち、ホタルまで見ることができ、忘れられない思い出ができました。感謝です。
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宴の前。キャンドル照明付き流しそうめん台完成の図。

で、本日の本題です。

合宿の記録係の学生は、キヤノンEOSにハッセルブラッドのレンズをアダプターをつけて装着していました。見た目はかっこいい。でもレンズと本体は電子的に連動していませんから、オートフォーカスも自動絞りも使えません。ハッセルは中判カメラなので、EOSだと画角が狭くなります。ニコンの一眼デジカメに、50mmF1.2を装着している学生もいました。1981年発売の古いレンズです。50mmはけっこう使いづらい。でもF1.2のレンズの明るさは確かに魅力的です。

「マニアック」というひと言で済ませば楽でしょう。でもいま若い人たちの工業製品の接し方は、マニアックというひと言で済ませられない何かがある。そう感じています。

藝大ゼミにいっしょに参加した法大生はハーレーダビッドソン乗りです。ハレーの話をしだすと目が輝きが倍加します。一昨年の桑沢の教え子にはノーブレーキ・固定ギアの自転車、ピストレーサー乗りが二人いました。

プロダクトのサブカルチャー化と言うこともできるでしょうが、そこにブランドが絡むのが00年代末の様相です。ゼロからつくるハンドメイドではありません。グラフィティのようなすべて自分の手で描き出すというサブカルチャーではないのです。

ハッセルやハーレーといった老舗ブランドや、どこそこのショップのピストというように、ブランドをいじりこなしています。記号が人を幸せにするか?って問題があります。記号だけじゃおそらく幸せになれません。

ブランドは、第一義的には記号です。しかし記号を生むようには誕生しないのがブランドです。ロゴマークをデザインしただけではブランドは生まれません。そこがブランディングの面白いところです。過剰なまでのものづくりへのこだわりや不合理なまでのホスピタリティが、長い時間をかけてブランドの世界観を形成していきます。

優れたブランドは、矛盾、多義性、冗長性、曖昧さ、過剰さといった、肉体的といえる何かを抱えていきます。そうして集合無意識の表象として現れる「象徴」のような強さを持つのです。

その力に支配されるのでなく、そこを遊びこなす──それがプロダクトのサブカルチャー化現象です。プロダクトをあえて不便な使い方をすることで、まず記号としてのブランドを肉体化します。次にカスタムメイド的な使い方をすることで、距離を持ってブランドを操作します。ただしブランドが廃れるわけではありません。そこには大きなビジネスチャンスがある。

誰にでも使いやすく、コンパクトで高性能、メンテも手間いらず、しかもエコってプロダクトばかり追っていると何か大切なものを忘れてしまいそうです。人と工業製品との関係が変わりつつあるのです。

シンプルとかミニマムとかユニバーサルデザインとかユーザビリティの対極で、プロダクトを自分なりに使いこなすことに喜びを覚え、ブランドもプロダクト自体も身体化させる傾向を、僕はインティメイトプロダクト現象と名づけたいです。

アラン・ケイがパーソナルコンピュータの次にはインティメイトコンピュータと言ったのを受けた言葉です。インティメイトというのは「親密な」という意味ですが「下着のような」という意味もあります。

コンピュータ技術だけでなく、プロダクトもブランドも下着のようなもうひとつの皮膚として身体化されたものになるかもしれない。

下着の世界は機能という言葉の定義が崩壊しかけています。バストアップする機能って、それは機能なの? 究極の装飾じゃんとか。シンプル・イズ・ベストといって白いブリーフをはきつづけるのもどうかと思うし(エブリデー白ブリーフは、それなりの愛着とこだわり、もしくは無関心がないとつづけられないはずですし)。インティメイトの領域には、2010年代へつながる、次の何かがあります。そこでは機能も記号も崩れています。

そんなことを思って合宿から帰ってきました。

で、余談です。
突然ですが、これは何でしょう?
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【ヒント】夕食最終盤に出てきた藝大生がつくった魂のスイーツです。

答えを読む
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by cabanon | 2009-06-23 00:14 | Comments(4)
 
松永さんと柿木原さんとのトーク
6/19(金)松永真さんと柿木原政弘さんとのトークの司会進行役を務めました。東京ミッドタウンのデザインハブで開催中の「日本のグラフィックデザイン2009」の記念トークです。
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言うことは言うぞって姿勢の松永さんに、僕も柿木原さんもタジタジでした。危険球ギリギリの球を交え、のらりくらりと緩急つけながら、最後は145キロのストレートで心の真ん中を突く。

『デザインの現場』編集部に配属されて2年目、1987年に松永さんの8ページの記事を担当しました。24歳の僕はやはりタジタジでした。事務所に行くと掃除が行き届いており、ピカ、ツルっで、ピンと空気が張り詰めている。資料を入れてくれる事務所の袋は、真っ白で無地。うおー、これがトップデザイナーの事務所かとたじろぎました。おまけにキャプションを間違え、松永さんに怒られ、雑誌というのはどんなに頑張っても、一つの不注意の誤植で、一生自慢できるはずのものが、一生後悔するものになってしまう、ということを学びました。

松永さんは「こうあって欲しい」が強い人だと思います。しかもそれがいつも生活者目線。

松永さんの1987年の取材記事を読み返して、そう思いました。すっかり忘れていたのですが、掲載作品に対して数十字の自註(自身による解説)をつけてもらいました。一部引用します。

KIRIN LEMON 2101 「大人から買い与えるものではなく、うちの息子が自ら買い求めたくなるようなものを目指した」

NEWS(キリンシーグラムのウイスキー)「これまでのシズル感がどうとか、という既成概念を捨てながら、ある種の原形を持ち込みたかった」

最初のコメントには、うちの息子ならこれを買って欲しいって願いを感じます。次のコメントには、シズル感って広告をつくる人には大切なことだけど、生活者にとって決して無くてはならないものではないってことを考えさせてくれます。

松永さんは「半径3メートル以内のデザイン」ってことをよくおっしゃってました。スコッティのティッシュのパッケージなどまさに自分の傍に置いておきたいデザインって意味で不朽の名作です。

松永さんの「こうあって欲しい」の表現は僕が取材した20年前よりずっと進化しています。「こうあって欲しい」は「こうあって欲しくない」を暗示的に見せることでも表現できます。それがHIROSHIMA APPEALS 2007のポスターです。漆黒の太陽です。凸版印刷は松永さんの意図に表現するため、15度も重ね刷りしました。厚塗りの黒の表面が、原爆で焼きただれた皮膚のようになったものもあったそうです。
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松永さんは山城隆一氏の有名な言葉「デザインに悲しみは盛れないか」 を語りました。その問いへの松永さんの答えがこのポスターです。悲しみが盛れたのです。陰と陽が動的に交じり合う太極図のように、究極の黒は白き希望の種を宿します。最大の悲しみを暗示する図像を盛ることで希望を語ることもできる。

そこが今日の話のハイライトだったと思います。こうあって欲しいを感じつづけること──それはデザイナーの必須の心です。
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by cabanon | 2009-06-20 02:15 | Comments(0)
 
DAGODA02_山中俊治×原研哉 対談(受付終了)
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今年も法政大大学院システムデザイン研究科「美学意匠論」の講義で、フリーペーパー『DAGODA』を学生といっしょに制作しています。東京藝大デザイン科視覚・伝達研究室との共同企画です(上のポスターも藝大生のデザイン)。

第2号のメインコンテンツとして、山中俊治さんと原研哉さんの公開対談を行います。

テーマ「デザインの骨と皮膜」

日時:6/26(金) 19:30〜21:30(19:00開場)
会場:法政大学市ヶ谷田町校舎5Fマルチメディアホール
司会進行:藤崎圭一郎(デザインジャーナリスト)
定員:180名。
受付終了しました。
予約制・入場無料・座席指定なし。

学外から40〜50名聴講者を募集します。社会人も歓迎します。
参加ご希望の方はメールにてお申し込みください。
件名に「参加希望」と書いて、
氏名と所属(学生の場合は学校名、学科名、学年)を明記の上、次のアドレスまで。
info@dagoda.jp

定員に達し次第、締め切らせていただきます。
いただいたメールには参加の可否の返信をいたします。
(返信には少しお時間をいただくことになると思います)

先着順ですが、週末メールチェックができないため、メールをいただいていても、翌週になってお断りのメールを返信する可能性があります。ご了承ください。

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【住所&アクセス】
新宿区市ヶ谷田町2−33
注1:上の住所クリックするとGoogleMapsになりますが、法政大エクステンション・カレッジと記載とされています。
注2:中央線から見える法大の高層ビルのあるキャンパスとはお濠を挟んで反対側です。

交通:地下鉄南北線・有楽町線市ヶ谷駅(出口5)より徒歩5分。
JR・都営新宿線市ヶ谷駅より徒歩10分。

受付に時間がかかることが予想されます。お時間に余裕をもってお越しください。

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by cabanon | 2009-06-18 15:57 | Comments(0)
 
「骨」展をレビューする
21_21 DESIGN SIGHTで行われている山中俊治ディレクションの「骨」展(8/30まで)。5/29にオープニングレセプションに行きました。すぐにブログに記事を書こうと思ったのですが、どうも何かが気になる。それで次の金曜日、また行きました。で、それから一週間以上じくじく考えて、ようやくレビューをアップします。

【ボーンヘッドの知】

野球にボーンヘッドって言葉があります。マヌケなプレーのことです。2アウトなのにキャッチャーが3アウトだと勘違いしてベンチに帰ろうとしたら、ランナーに盗塁されてしまうとか。Boneheadは、直訳すると骨頭。脳みそがない骨だけの頭ってことです。

仮面ライダーに登場する悪の組織ショッカーの戦闘員は、骸骨をプリントした黒タイツ姿でした。指令通りに動いて仮面ライダーにあっさりやっつけられる彼らは、意思や知性が欠如した存在。骸骨は知の抜け殻であり、海賊の髑髏マークのように、死や悪を象徴する忌まわしきものでもありました。

「骨」展の「骨」にはそうしたネガティブなイメージがありません。この展覧会での骨は知の抜け殻どころか、むしろ知そのものなのです。エントランスには日産フェアレディZのフレームが展示されています。そこに愚、死、悪を感じる人はいないでしょう。量産型高速移動体の骨格は、速く快適に安全に移動したという人の知性の集積であって、人が生きることの証しそのものなのです。

【無駄骨の戦略】

階段を下っていくと、写真家、湯沢英治さんが撮ったホッキョクグマの頭蓋骨があります。いやいやまさにBonehead。骨頭です。しかしその造形にマヌケさは皆無です。人が決してつくりだすことが出来ない曲面美。面質ここに極まれりです。

湯沢英治さんは他にもヘビ、カメ、キリンなどの骨格を美しく写し出します。生物は環境に応じてその形態を最適化させますが、デザイナーが工業製品をデザインするように、無駄な部分を精査し削ぎ落とし、必要なものだけを残すといった最適化はできません。突然変異は偶然に委ねられ、退化はゆるやかに進みます。ですから祖先から否応なく引き継いだ形質が残ります。

最小限の材料で最大の効果を目指すデザイナーなら、人間の足の指を5本にしておくでしょうか。足の小指の爪は必要でしょうか。高い木の上の葉を食べるためという理由だけで、キリンの首を長くしたデザイナーがいたとしたら、おいおい、もっと別の解決策はなかったのかよ、って突っ込まれるでしょう。

生物の骨格は、無駄を排した合理的形態ではありません。むしろ冗長なるものを宿しています。骨は、生命進化が知性的プロセスであることの証しです。進化は均質から多様へ向かっています。偶然性やゆらぎや過剰さなどをシステムに採り入れながら、自律的に多様性を獲得して環境への適応を図っていく、そのプロセスが美しく、それゆえその証したる骨も美しいのです。

【粉骨砕身の美】

ニック・ヴィッシーの工業製品を撮影したX線写真も、興味深いものでした。特にボーイング777を真正面から撮影したX線写真は驚きです。最初、模型を撮ったのかと思いました。しかしよく見ると翼や垂直尾翼が先端に至るまで中空構造になっている。本物です。X線写真のフィルムには等倍にしか撮れないので、何百枚ものX線写真を撮って組み合わせたそうです。

飛行機のプロポーションはエレガントです。ファッション界の人たちが使う意味での気品とか優雅という意味のエレガントではありません。複雑な事象を単純明快な数理モデルで描き出したときに、理系の人たちが使う「エレガント」です。その形態は幾何学的。基本的に円と直線で構成されています。

しかしこの写真はエレガンスの背後にあるものまで写し出しています。目を凝らして細部の造作に思いを馳せると、人の活動がこのエレガンスを支えていることが伝わってきます。リベットをひとつひとつ人が締め、飛行するたびに細部までチェックして、巨大構造物が空を飛ぶ。ジェットエンジンは大量の燃料を消費します。人工物が機能しつづけるには、人がメンテナンスし、エネルギーを供給しつづけていかねばなりません。骨を折って砕いて粉にする努力がないと、美は保てないのです。

工業製品のX線写真では、電気配線などもくっきりと浮かび上がります。ドライヤーやCDプレイヤーでは力学的構造体であるケースより、エネルギー系・情報系まで骨格のように写ります。これを見て気づいたことがあります。人工物を「人がつくったもの」と捉えるだけでなく、「人の活動によって維持されているもの」という視点を加えると、自然と人工の境界の景色は随分違ったものに見えてくる、と。

「人がつくったもの」かつ「人の活動によって維持されているもの」が人工の中の人工。ヴィッシーが力学系もエネルギー系も情報系も骨格のように写し出された工業製品はまさに純人工物です。

ひとくちに人工物といっても、自然に大きな負荷をかけて人の活動によって製造・維持されているものなのか、自然と共生する人の営みを支えている役割を果たしているかで、その性格は変わってきます。

「人が立ち入り禁止のルールをつくることで守られる自然」
「人が維持管理することで保たれる自然」
「人の中に内在する自然、つまりヒューマンネーチャー=人の本性」
「遺伝子組み換え技術で強化された自然」
「自律的に生存する人工物」
「有用性も芸術性も皆無で放置されているだけの人工物」
「自然と人の営みを共存させるための人工物」などなど

生物と工業製品の骨格を比較することによって、自然と人工の間に横たわる微妙なグラデーションに敏感になれていきます。

【解剖と解体】

アーロンチェアや腕時計、PCMレコーダー、インナーヘッドフォン、携帯電話などが分解されています。解剖といってもいいかもしれません。それぞれに役割が違うパーツに分別して、その構成や関連を調べるのが解剖です。

解体というと内部の状態を調べるという研究的な意味合いが消え、単にバラバラにするという意味になります。レンガ造りの建物を解体すると同じ大きさのレンガが残ります。これでは解剖とはいえません。

近代建築を鉄骨や鉄筋や空調設備や照明、ドア、エレベーター、床材などに分解することはできます。部材や設備ごとに分解することは「建物」の解剖で、「建築」の解剖にはあたりません。建築には部材というレイヤーの上位に、空間というレイヤーが存在します。建築の解剖には「空間」という構成要素を想定し、その性質や空間どうしの関係性、さらには空間と環境、空間と人との関連を調べないといけません。そのレイヤーを目的に応じて組み上げていくのが建築家という職能です。

料理研究家が牛を解剖すると、肩ロース、ハラミ、フィレ、ミノ、センマイとかに分別し、生物学者とは随分違った解剖の仕方をするでしょう。同じものを分解しても、その職種によってそのやり方は大きく異なることがある。職種によって、まったく違うレイヤーで構造を分析しているからです。

だから、「骨」展の分解はプロダクトデザイナーの目によるものだなって思うんです。どう解体するか、それを分別し、どう並べるか。エンジニアが分解するとおそらく違う展示になる。もっと言うと、この分解自体が山中俊治というプロダクトデザイナーのひとつの作品なんだと思うわけです。

【骨に宿るもの】

道具の部品というのは目的を達成するための手段です。有用性こそその存在理由です。たとえ部品が美しくても、それはより効率よく精確に機能することを求めた結果、生まれた美しさです。いやいや理屈の上ではそうだけど、人間の本性としてどうしても美しさを追い求めてしまう。あくまで有用性のためだけにつくられた部品にも、機能美といったスマートな言葉では言い表せない、人間の本能や欲望といった非合理の部分に根ざした性(さが)が生み出す美しさがあるのではないか。山中さんの分解展示から、そんなことを感じてしまうのです。

会社の歯車になるのはイヤだって表現があります。学生時代よくそんな話をしていました。当時ピンクフロイドのアルバム「The Wall」が発売され、映画にもなり話題になっていました。アルバム収録の「Another brick in the wall (part 2)」は大ヒットしました。「どうせ人はみんな壁の一個のレンガにすぎない」って歌詞です。

歯車かレンガか。よく考えるとかなり差があります。壁のレンガは均質であることが求められます。ほぼみな上からの荷重を支えるという同じ仕事をします。歯車の仕事は複雑です。それぞれサイズや歯の数の違う個性的な歯車が回転速度を変え、縦の回転を横の回転に変換したり、回転運動をピストンの往復運動に変えたりします。

ひとつひとつは単調に回り続け、しかも目的を理解せず、自律性がなく言われたままで、しかも交換が利くといった点を考えれば、やはり人間は歯車になるわけにはいきません。しかし個性があるのです。腕時計の精妙な歯車を見ると、設計者・職人の気概を感じずにはいられません。魂みたいなものまで感じてしまうのです。

日本人は八百万の神といわれるアニミズムに慣れ親しんでいるから、欧米人とはロボット観が違うという話をよく聞きます。ロボットは人類から労働の機会を奪う怪物でなく、アトムのように仲間として社会に受け入れられやすい。そんな話です。

「骨」展の分解展示を見て、日本人のアニミズム的な感性は、部品にも発揮されるんじゃないか、って思いつきました。単調に働く、交換可能のものでさえ、唯一無二の何かに見立ててしまう心性が日本人にはあるのではないか。目的と手段とか、有用性や機能といった議論では見えてこない「骨に宿るもの」──デザイナーってそれが見える職業じゃないのかって。

そう考えていくと、からくり人形師、玉屋庄兵衛さんと山中俊治さんによる弓曳き人形が、本展の中核的な役割をしていることがよく分かってきます。弓を的に当てる人形の知性的な振る舞いを可能にしているのは、人工知能ではなく、精巧につくられた木や金属でできたからくりです。部品ひとつひとつに人形師が魂を封じ込めています。魂が骨格に宿るというと、エセ科学っぽいので、知が骨格に宿るとしておきましょう。知を宿す骨格は美しい。

通常のからくり人形では衣服に隠れて見えない骨格を見せることで、江戸時代から続く玉屋庄兵衛のからくり人形の暗黙知を顕在化させています。パーツひとつひとつのフォルムが人形師の手わざという暗黙知の証しなのです。

分解展示が終わると、クリエーターが骨をテーマにつくった今回の展覧会のためにつくった作品があります。この展覧会は、「標本室」と「実験室」の2部構成で、未来の骨格を探る「実験室」はここから始まります。実験室には、先述の弓曳き人形のほか、takram design engineeringの6本脚ロボットや、明和電機の笑う機械仕掛けの彫刻、エルネスト・ネトが初めて骨格に挑戦した作品など、面白い作品が多数ですが、長文になりすぎたので、本稿はここまで。時間があれば、また続きを書きたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございます。

からくり人形の実演は毎週土日の14時と16時に行われるそうです。実演を見たほうがいいと思います。
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by cabanon | 2009-06-14 16:11 | Comments(2)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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