藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
<   2009年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧
text & photo by Keiichiro Fujisaki

 
デザイナー・ダイイング
昨日のトークでブログを書き始めた動機のことをちょこっと話しました。2005年5月の当ブログ開設当時、アニメ「攻殻機動隊」、その続編「イノセンス」にハマっていて、自分もネットを外部記憶装置として使ってみようと考えたって話です。自分の考え方を整理するのに、その内容をネットに公開すれば、文章も書き殴りでなく、職業は物書きですから、まとまった文章を書かざるを得なくなり、結果、思考の質も高まるだろう。そう思ったんです。

もうひとつ直接的な動機としては──5月の岡田さんとのトークで語ったことですが──、自分の書いたものに対して反応が欲しいということもありました。ライターとして雑誌の仕事をしていると読者とコミュニケーションする機会は皆無。たまにあっても編集者経由でしたから。

で、さらにもうひとつ、第三の動機がありました。トークの時は主題から離れそうな気がして話さなかったのですが──。

ブログを立ち上げる前後だったと思います(ですから後付けの動機ということになるかもしれません)。ユビキタスコンピューティングのことを調べていて、その概念の提唱者マーク・ワイザーのHPに行き当たりました。HPでは、ワイザーが最初にユビキタスを語った論文や、学会で発表した時に使ったスライドを閲覧できます。個人的な旅行写真も見ることができます。

けれど、もうその時ワイザーは故人でした。1999年46歳で亡くなっています。

彼のHPは今も見られます。笑顔のワイザーの写真が迎えてくれます。一種の不死です。ワイザーはユビキタスコンピューティングのことを調べたい世界中に人々に、ワイザーは微笑みかけながら、その思考を無償で提供してくれます。

本を書いたり雑誌記事を書いて、その書籍や雑誌が国会図書館に所蔵されると、自分の生物学的な死を超えて、自分の書いたものが世の中に残ってくれるんだと思えて、僕は幸せを感じます。けれど、それは不死の感覚とは別のものです。

個人HPにはもっと親密感があります。@btfのトークで鈴木芳雄さんがブログや雑誌など距離感の話をしてくださいましたが、もともと親密感のあったHPはその主宰者が亡くなっても親密感が残るようなのです。

たとえば資料館になっているような有名文学者の生家など、主人不在の家を訪れると、なんだかむずかゆいような寂寥感が残ります。もうその人はここにはいないという感のほうが強くなるのです。

個人HPは、もともと主人がいない仮想空間で、仮想的に主人が一対一で語りかけてくれる親密感が演出されています。ネット検索でたまたま訪れたウェブページでは、更新されていないことはわかっても、その人がこの世にもういないとことには気づきません。

ワイザーのHPは、一見してもうずいぶん前に更新がストップしたことのわかる古いデザインです。しかし、こんな重要な論文や歴史的な発表のスライドを公開してくれるのか、明日の講義にもそのまま使えるとか思うと、有り難さだけが残ります。まるで家に招待してくれて御馳走をいただく気分。引用させていただいたお礼メールを書きたくなる。死んでる人にメールを送る人もけっこういると思われます。

日本のネット創生期、もう10数年以上前だったと思います。何で注目されていたか忘れましたが、けっこう話題になっていた本業歯医者さんのホームページがありました。突然更新が止まって、数か月後訪れると、奥さんが「主人が亡くなりました」という書いていました。でも、もし亡くなりましたって書かなければ、どうなるのか。ネット上の死は全ページ削除なのか、本人の死なのか。そんなことをいろいろ考えさせられました。

今だってもうすでに亡くなった人のウェブページを、その人が生きていると勘違いして、見ているかもしれません。ハンドルネームだけだったりすると、生死は確かめようもありません。

ココカラハジマルもネット上の不死を目指してます。マーク・ワイザーのような重要論文が無いので半永久的な不死は難しいですが、生物学的な死とネット上の死が同時ならないようにしたいと思ってます。残響をどこまで残せるか。

そのためにはもっともっと良コンテンツを増やさないといけないわけで、生物学的死はまだまだ迎えられそうにありません。

自分の外部記憶装置は、他者の外部記憶装置でもあるのです。

こうしたことはティモシー・リアリーの『死をデザインする』という本にも感化されています。日本では2005年に出た本で、すぐ買ったのですが、いまだに完読せず、たまに拾い読みばかりしてます。

原書名はDesign for Dying. その第三章はDesigner Dying(デザイナーダイイング/翻訳ではデザインされた死)です。デザイナーダイイングは、受精卵の遺伝子操作して、たとえばブロンズの子が生まれるようにするなど、子の能力や外見を親の思い通りにしようとする「デザイナーべビー」に掛けた言葉だと思います。「死」はおそらくデザインのもっとも対極に位置するものです。しかし死に方や死の状況はある程度デザインできる。外部記憶装置としてネットを使うことは、死をデザインすることにつながっていると思ってます。

そんなことを考えていたことを昨日のトークの時に思い出しました。やはりトークはいいですね。脳が活性化されます。本日は、昨日の考えがいろんな形で広がって、あっという間に一日が過ぎていきました。仕事しなきゃ。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-26 21:49 | お気に入りの過去記事
 
同意は要らない
仕事でもこのブログでも、文章を書くときは「わかってもらう」ことを心がけます。この場合「わかってもらう」ということは、伝えたいことを明確にして、それを相手の心に届けるということです。自分の考えに賛同してもらうことではありません。「発言する」とは、予期せぬ反応を引き受けること。それには勇気が必要です。わかってもらって、異なる考え方や反対意見を述べてもらえることが出来れば、そこには議論の空間が生まれ、有機的に複数の思考がつながりあいます。

「わかってもらう」ことばかり考えて仕事をしていると、誤解されたり否定されたりすることが怖くなります。賛成してもらったり共感してもらわないと気が済まなくなっていきます。

本当に怖いことは「無視」や「無関心」なんです。誤解は何かを生みます。否定に向かい合い語り合えばひとつ上の次元のコンセプトを得ることができます。しかし無視は何も生まない。

日常のどんなに些細なことでもいいから、世界に対する関心を掻き立て、語り合う場を増やし、複数の思考が有機的につながりあう空間をつくることで、「無視」が減っていく。だから多くの人がスモールメディアを自発的つくることが重要だと考えています。

マスメディアの「無視」は強力な権力行使です。取り上げられない人や事象は歴史に埋もれていきます。スモールメディアの関心は力が微弱です。しかし自律分散するスモールメディアが自己組織化して、メタメディアになる可能性があります。コミケは同人誌というスモールメディアが自己組織化したメタメディアと見る捉え方もできるわけです。(もちろんコミケはしっかりした運営管理組織があるわけで、真の自己組織化とか創発だとか言えませんが……)。

ある閾値を超えると、スモールメディアは自己組織化することでメタメディアとなり、既存のマスメディアに匹敵する力を持つかもしれない。

スモールメディアが既存のマスメディアと同じ形態をとる必要はないと考えています。特にデザインジャーナリズムの場合は、メディアのあり方自体をどうデザインするかという姿勢も、そこに書かれている記事と同等に大切なことです。

どこまで雑誌らしさや書籍らしさを崩せるかといった実験もありだと思っています。でも判読性を崩すようなやり過ぎは禁物。昨日のトークの冒頭では、その失敗例(実験内容の失敗ではなく、売れなかったという意味での失敗ですが)を話しました。

情報の受け手は、メディアのフォーマットが変わることを嫌います。そこを納得してもらうのが、作り手のワザなのですが、簡単なことではありません。本を買う人は本らしさも同時に買っています。アーティストの作品集ならアーティストブックという枠組みをつくって、作り手の実験を理解してもらうようにしますが、なかなかお金を出してくれません。作品集は作品が大きく載っているのに越したことはないわけですから。

雑誌のあり方をデザインするときは、雑誌らしさをいかに残してながら新しい要素を入れるかを考えないといけません。書籍もブログも同じ。ここがホント難しい。

批評が目的ではありません。関心の輪を広げることが目的です。輪の中から批評は自ずと立ち上がります。スモールメディアがつながれば、新しい形のデザインジャーナリズムが見えてくるかなって思ってます。そんなことを@btfのトークを振り返りながら考えてます。

トークでもうひとつ気づいたのは、話すこともジャーナリズムだということ。当たり前のことなのかもしれませんが、僕は今までその意識に欠けていたように思います。ジャーナリストが人前でしゃべるときは、明確に今話していることもジャーナリズムの一環だという意識を持たないといけない。

仕事で記事を書くときは、ある程度読者の反応を予想しながら書けるけど(たとえばこの表現は煽りすぎだとか、ネガティブな言い回しになっているとか)、話すことに関してはそうした技量がまだありません。その分、翌日、トークの反応が知りたくてハラハラしながらネット検索している小心者の自分がいるわけで、まだまだプロのジャーナリストとしての器量も勇気も欠けることを自覚したり……。

同意よりも、多様な意見を引き出せる力を鍛えます。

d0039955_2213598.jpg

右から、フクヘンの鈴木さん、ぽむ企画の平塚さん、Glyph.の柳本さん、藤崎。みなさまお疲れさまでした。運営の@btfのスタッフの方々、長時間の話を聴いていただいた参加者のみなさま、有り難うございました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-26 17:15 | お気に入りの過去記事
 
97%
昨日(7/14)、午前中は横浜のBankARTでアーティストのタカノ綾さんの取材。『DAGODA』02号のため、学生がインタビューするのに立ち会ってました。午後は早稲田大学先端医科学センターへ。生物学者にしてアーティストの岩崎秀雄さんの研究室にうかがい、来月某所で行うトークのための打ち合わせをしました。

タカノさんは、未知なるものへの興味を語ってくれました。宇宙の97%が人知の及ばないダークマター&ダークエネルギーで出来ているとか。制作中の大作も見せてもらいました。

岩崎さんはシアノバクテリア使って、遺伝子の体内時計の研究をする生物学者です。タンパク質を合成して、細胞を人の手でつくることまで視野に入れた生物学でも最もホットな分野のひとつの最前線で活躍されています。で、しかも、超絶技巧の切り絵アーティストでもあります。打ち合わせはメディアアート、生物学を自由に行き来して、とてもエキサイティング。トークが楽しみです。

話の中途、岩崎さんはこんなことを話してくれました、研究者の論文はイチローの打率の10分の1が当たればいい。つまり3%。それ以外はネガティブデータっていわれる。それを使ったアートの可能性を考えてみたい、と。

午前中の話と「97%」でつながりました。宇宙の97%と科学研究の97%。ダークマターとネガティブデータ。97%が見えるか、見えないか。そこをどう感じるか。そこに何かがあると思ってます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-15 13:12
 
鬼門に地獄の門あり
二日連続上野へ。
d0039955_2144.jpg
世界遺産登録は見送られたものの、日曜日の国立西洋美術館のル・コルビュジエ展はほどよく人が入ってました。外壁のプレキャストパネルの寸法はモデュロールで決められているとかなんとかガイドツアーしてました。

江戸城の鬼門(北東の方位)に天海が造営したのが上野の寛永寺。京都の鬼門が比叡山延暦寺。江戸の鬼門は東叡山寛永寺というわけです。寛永寺の子院、凌雲院があったのが、現在の国立西洋美術館の敷地です。戦後すぐは凌雲院の墓地に数百の浮浪者の住みつき、スラム化していたとか。そして現在、鬼門に地獄の門あり。
d0039955_0365338.jpg
月曜日の西洋美術館。休館日で人がいない。ここからの眺めが最も美しいと思ってます。傘立てとか免震の解説は取り除いてほしい。そしてロダンの「地獄の門」は、僕が思うに日本にある西洋美術の最高傑作。みなさんの日本で見られる西洋美術の最高傑作は何ですか?
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-07 00:55
 
トーク【破】
柳本浩市さん × 鈴木芳雄さん × 平塚桂さん × 藤崎圭一郎トークショーを行います。

5月shop btfでの岡田栄造さんとのトークの続編です。
当ブログ内など、その後ネットでいろいろ語り合って、発展形のトークができたらいいね、って話をしていたら、shop btfがまた機会をつくって下さいました。

雑誌の話とか、デザインとか建築とかアートとかのジャーナリズムとかの話です。でも具体的にどんな話になるか、けっこう出たとこ勝負になるでしょう。
序破急でも守破離でも、第二ステップは破ること。メディアも今は「破」の時代かもしれません。

7月25日(土)15:30~18:30
●会場 : shop btf  中央区勝どき2-8-19近富ビル3階・3A 
●アクセス:都営大江戸線「勝どき駅」A2出口より徒歩3分。 地図です

●参加料 : 無料
●要予約 こちらからお申し込み下さい。。受付終了しました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-06 11:04
 
取り返しのつかないこと
昼飯時、ガス台の火の消し忘れ、31年間連れ添ってきたアルミ鍋の柄を焼いてしまいました。
d0039955_13314217.jpg
思えば広島市内の高校に入学したとき、この鍋といっしょに寮に入り、廊下にあった電熱器でインスタントラーメンをさんざんつくりました。

黄色い薄味スープが、ところどころ糊のようになって米粒の存在を消えているライスにかかっているカレーや、だし汁だけで卵を探さないといけない親子丼など、寮のメシが口に合わず、お腹が空くとラーメンを食べてました。

金ちゃんラーメンが一番安かったんでよく買ってましたが、今もインスタントラーメンの最高峰はサッポロ一番味噌ラーメンだと思ってます。どのタイミングでスープの素を入れるとウマイかなど研究を重ねました。そういえば金ちゃんラーメンは、高校卒業以来食べてませんね。激マズの思い出は、サッポロ一番塩ラーメンに、親が送ってきた梨を入れて、煮込んだ味。甘くてしょっぱく&すりごま付きのスープの味は、今も忘れることができません。

柄を替えれば、鍋は使えるでしょう。でも、この木製の柄には、僕の高校時代の手の感触が残っています。寮生活に馴染めず、最初みんなと同じ風呂に入るのがイヤで、1か月風呂に入らなかったこともありました。二人部屋で最初に同室になった子とすぐに険悪な関係になって、それから3年間ソイツとは会話もしませんでした。楽しい思い出もありますが、強烈に自意識過剰だったせいでツラいことのほうが多かったです。結局1年で寮を出て、賄い付きの下宿に。とても優しい家族で出会えて、やっと精神的なバランスを取り戻し、それからは最高に楽しい高校生活を送ることができました。

以前ある工学系研究者を取材したとき、道具は手のひらの裏側だって話をしてくれました。まさにこの柄は僕の手の裏側でありつづけてきました。高校時代バランスの悪かった自分の記憶に感触があるとしたら、この柄なんです。宝物です。ずっととっておきます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-04 13:34
 
ホスピタリティ
『デザインの現場』の連載「コトバのミカタ」の原稿を送って、『デザインするな』の打ち上げへ。僕がgggのDRAFT展最終日の打ち上げに参加できず、ようやく実現したDRAFTの面々との書籍刊行のお疲れさま会でした。先ほど送った原稿のテーマはホスピタリティ。「自分を思いやれない人は他人も思いやれない」という話を理屈っぽく書きましたが、こういうことをされちゃうと、ホスピタリティは理屈じゃないと思ったりするわけです。
d0039955_2325533.jpg
しかも会場になった麓屋青山店の店長がなぜか『デザインするな』の本を持っていて、サインしてくれと。いや、ま、とにかくいい気持ちになれるわけです。ひと言書き添えてくれというから表紙にデカデカと「デザインを愛せ!」と書きました。ジャイアンツ愛とか言ってしまうようなバカですね。いやバカでいいんですけど。
いい会社っていっしょに仕事ができて良かったと言わしめる会社だと思います。個人に対して、あの人と仕事ができて良かったと思うことはけっこうあります。でも、会社としてそう言わしめるケースはあまりない。DRAFTのみなさま有り難うございました。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-03 23:29
 
カスティリオーニ本
最新号の『AXIS』が送られてきました。

書評ページで『デザインするな』を紹介していただきました。取り上げてもらうだけで有り難いことです。が、でも、しかし、Amazonのぎこちない短い内容紹介文をきれいに整えただけのような文章で、ちょっと悲しくなりました。毎回、締め切りを守らず迷惑かけどおしですが、骨肉削る必死の思いで連載記事を書いているのだから、短くても、極小でも、オリジナルのコメントをしてもらいたかった。・・・カナシイ。

で、気をとりなおして、AXISが「jiku」というブログを始めたそうで覗きに行きました。7/1の記事に『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』(多木陽介著/アクシス刊)増刷のお知らせがありました。素晴らしい本です。

ということで、昨年『スタジオボイス』(休刊しちゃうんですね)に寄稿した書評をアップします。

**************

アキッレ・カスティリオーニ(1918〜2002)は、20世紀イタリアを代表するデザイナーである。本書は、イタリア在住の多木陽介がカスティリオーニのスタジオに通い詰め、その詩学と思想を見事に描き出したものである。なぜ見事なのか。それは本書のテクスト自体が、カスティリオーニの方法論の「見事な」写し絵になっているからだ。

多木はカスティリオーニの精神の働きを「好奇心→観察→分析→さらなる探求」と捉える。「好奇心」をもって日常生活の中の物に接し、それを使う人の身振りを「観察」し、機能との関係からその物がなぜそのフォルムになったのかを「分析」し、その物が社会に対してどのような価値を持つかを体系的に「探求」する。

多木は物を体系的に探求する姿勢を地図帖づくりに喩え、カスティリオーニを「マップメーカー」と呼ぶ。多木もまたカスティリーニを巡る地図を描き出す。詩的で明晰な透明感ある文体は、カスティリオーニを読み解くキーワードとして挙げられている「透明」と重なり合う。作家論が作家の方法論と同化して、優れた自己言及性を持つテクストになっているのだ。

多木は演出家、アーティスト、翻訳家であり、デザイナーでもデザイン史家でもない。カスティリオーニが健康上の理由からスタジオで来られなくなった後、娘からスタジオ内部を記録するビデオ撮影をたまたま依頼されたのが、本書執筆のそもそもの始まりだったという。

著者は異邦人である。創作ジャンルにおいても、国籍においても──。それゆえテクストは自己言及的な同化に向かいながらも、必然的に異化が生じる。多木は、デザイン史という既成の地図の上に、カスティリオーニの仕事を布置する作業はしない。彼の仕事を、異分野の演出家ピーター・ブルックや音楽家ジョン・ケージ、小説家イタロ・カルヴィーノなどの創造精神と響き合うものとして位置づけることで、新しい地図を描き出す。そこがこの作家論の最大の収穫だ。

しかしそれは本書の限界でもある。デザイン史的考察を避けたことで、身振り、ドラマとしての空間体験、アノニマス、トータルデザイン、使い手の創意などを重視するカスティリオーニの姿勢は彼の独創でなく、モダンデザインを牽引した各国デザイナーが共有していた姿勢であることが見えにくくなっている。もちろん、モダニズムの共有精神を最も純粋な形で生涯実践しつづけた稀有な創造者がカスティリオーニであったことに間違いはないが……。英雄譚として語られる自分に、天国の本人が苦笑しているのではないだろうか。なにはともあれ良書である。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2009-07-02 18:52


S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
以前の記事
カテゴリ
その他のジャンル
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2016 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。