藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
うぶ毛の理由
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堺雅人が大写しになったソフトバンクのポスターで、オヤッ?と思った。毛だらけなのだ。もしこれが女性ならコンピュータで加工して、うぶ毛も毛穴もシワも消し去って艶やかな肌にしてしまうだろうが、このポスターではライティングで頬の輪郭のうぶ毛を光らせて、一本一本毛羽立っている様がわかるようにしている。毛穴も生えかかったヒゲもわざと目立たせている。

堺雅人の肌は白くてツルツルというイメージを勝手に抱いたし、男性でさえ肌をツルツル加工した広告を見慣れていたせいか、今時うぶ毛全開とはすごいな、と思ったわけである。

ま、よく考えれば、ソフトバンクはツルツル肌の堺雅人のイメージが欲しかったのではなく、組織に飼い馴らされず正義を貫く、半沢直樹という野生の銀行員というイメージを欲しかったわけで、ドコモがようやくiPhoneを扱って「巻き返し」を図っているが、昨日までツートップだとか言っていたモバイル通信界の巨人の「手のひら返し」に、こちらこそ「倍返し」だ、と言いたいのだろう。

広告に現れるお肌ツルツルは個性ではない。シワは醜い、肌荒れは悪、お肌のケアをしないことはだらしないこと、若さを保つ努力や健康管理は現代人の義務という国民的刷り込みの表現である。

そうした意味では、顔毛の表出は広告界の暗黙の了解への掟破りのようにも思えるが、ソフトバンクの広告には以前から毛だらけ顔の主役がいる。
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白い犬のお父さん──。ソフトバンクの白戸家シリーズの広告キャンペーンは、家族全員ソフトバンク、親戚もお友達も宇宙人もみんなでソフトバンク、というのが基本的なメッセージである。白い犬はホワイトキャンペーンだからというだけなら、あのキャンペーンはこれほど長く続かない。あるべき家族像という刷り込みが描いているから次々と新作が可能になる。

父が犬という設定の理不尽さは、父の理不尽さの「裏返し」であり、さらにいえばエディプスコンプレックスの「裏返し」である。父が権威と言葉をとおして、母と子の初源的結びつきを断ち、子どもたちは無意識の中に抑圧をかかえるというのがエディプスコンプレックスの構造である。

それは子どもが大人になることでもある。子どもは社会のルールを知らない。だから父に何を怒られているかわからない。だから子どもにとって社会のルールを強要する父の命令は本質的に理不尽である。

しかし広告が描くのは、現代の理想の父である。もはや星一徹や小林亜星の「ちゃぶ台返し」の理不尽さは、あるべき父の姿とはほど遠い。やさしくて、話がわかって、空気が読める、多少のわがままなら暖かく見つめて許してくれる家族の保護者──そういう父をどうやって描くか。そこで理不尽な父を描くのでなく、父の存在自体を理不尽なものにしてしまうウルトラC的発想を使ったのがソフトバンクの白戸家の広告キャンペーンである。

半沢直樹は理不尽と闘う銀行員である。本来なら父親=犬という理不尽は、半沢にとって100倍返しで土下座ものである。しかし逆にいえば、白戸家の世界では理不尽さと闘う半沢の存在自体が理不尽である。それゆえ、おいおいオマエは上戸彩と夫婦じゃなかったけ、とかツッコミを入れてもらうために迫真のリアリティを演じる。

だからうぶ毛だらけの顔になる。白い柴犬が流行ったように、これからセクシー&ワイルドなうぶ毛が街を賑わすようになるのも近いかもしれない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2013-12-02 15:26 | Comments(0)
 
SENSE of Wonder展は12/6からです
SENSE of Wonder展の企画ディレクションをやっています。ふだん見慣れたマテリアルのもうひとつの様相を探り出すことをテーマにした展覧会です。
https://www.facebook.com/sense.wonder
Facebookページをせっせと更新しています。ぜひご覧下さい。
かなり濃密な面白い展覧会になりそうです。
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【展覧会概要】
第4回東京アートミーティング
「SENSE of Wonder──ありふれたマテリアルのもうひとつの様相」展

会期:12/6(金)〜12/18(水) 会期中無休
開場時間:10:00〜17:00  入場無料
会場:東京藝術大学大学美術館陳列館(台東区上野公園12-8)

形があって、素材があって、はじめて「もの」が生まれます。素材に真摯に向き合うことは、アートとデザインの領域を超えてあらゆるクリエイターに必須なこと。本展は、私たちの生活を支える身近なマテリアルを見つめ直し、ふだん見慣れた姿と違う“マテリアルのもうひとつの姿”を探り出すことを目指します。

本展は4つの展示から構成されています。
1)作家展示
2)マテリアルライブラリー
3)すっぴん紙展示
4)つくる体験展示

1)作家展示/15名の東京藝術大学の教員と在校生による、マテリアルの新たな様相を探求した作品展示。

出品作家:松下 計橋本和幸鈴木太朗西村雄輔小野哲也佐久間あすか、八木澤優記、小林裕子中山 開鷹野 健、佐々木里史、小島沙織、服部勇一、久保田沙耶三木みどり
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橋本和幸「LIFE」


2)マテリアルライブラリー/学生たちが試みたマテリアル表現実験の成果物約150点展示。ほとんどの作品は触ってご覧いただけます。
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3)すっぴん紙ZINE展示/「すっぴん紙」とは藝大デザイン科と北越紀州製紙が開発中の機械抄紙工程で薬品を使わないで製造した紙。藝大生が作った20数タイトルのZINEを展示。
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4)つくる体験展示(ワークショップ)/ものをつくることを通して、マテリアルの諸相を知る。紙やインクの物性をデジタル製版を通して体感するワークショップ、廃棄物を使って顔をつくるワークショップや、廃棄物の樹脂を使った万華鏡づくり、金属と糸を使ったアクセサリーづくりなど。
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写真は試作イメージ

主催:東京藝術大学、東京都、東京都現代美術館、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、産経新聞社
協賛:北越紀州製紙株式会社
特別協力:株式会社ナカダイ
協力:理想科学工業株式会社、レトロ印刷JAM、株式会社竹尾、株式会社コプレック、株式会社スリーピークス技研、株式会社MGNET(武田金型製作所)、磨き屋シンジケート(燕商工会議所)、やまだ織株式会社

※ 本展は「うさぎスマッシュ展」の関連プロジェクトとして東京藝術大学デザイン科と絵画科油画が企画して開催するもの。「うさぎスマッシュ展」は2013年10月3日〜2014年1月19日東京都現代美術館で開催。

※Sense of Wonder(センス・オブ・ワンダー)とは、何だろう? 不思議だな? 理由は分からないけどワクワクする、といった感覚を表す概念。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2013-11-30 15:36 | Comments(0)
 
タイトル変えてみた
あまりに更新しないので、タイトルを変えてみました。

ココカラハジマル→藤崎圭一郎の雑思録。

なんだかちっとも最近ここから始まってないので、もっと気軽に書けるタイトルにしてみました。雑誌の仕事からスタートした人間なので「雑思録」です。

ブログのタイトルを変えるのは3回目。最初のタイトルは「悠悠研鑽」→「Design Passage(デザイン・パサージュ)」。最初のタイトルはその存在すら検索するまですっかり忘れてました。

最近はTwitterとFacebookばかりになっていますが、Twitterで書いてきたことをベースに、こちらに流れのある文章にしてまとめたいと思ってますし、ブログもなんとか活用していきたい。Twitterは思いついたことをササッとまとめるには好都合ですが、どんどん消費期限が短くなっていて、書いた本人も半年前にどんなことつぶやいていたか覚えていない。ネグリの話を聞きに行ってネットワーク上の特異点(シンギュラリティ)を標榜せよ、なんて考えていたのをすっかり忘れている。

思考の瞬発性ばかりが鍛えられて、思考の持久力が弱くなってきている。何かに反応して、気の利いたことを言うのが目的になっては、見た目だけの役に立たない筋肉を育てるのといっしょ(筋トレ嫌いじゃないですけど)。思考の足腰をちゃんと育てていかないといかん。粘りある思考をしていないと、つながるものもつながらない。そう思っております。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2013-11-25 09:34 | Comments(0)
 
見える化
私は「見える化」という言葉はどうも好きになれない。

舌をかみそうな「ビジュアライゼーション」や専門用語っぽい「可視化」を親しみやすく表現したというこの言葉の存在意義はわかるが、ダジャレのような響きと、動詞に「化」をつける不自然さに違和感を感じてしまうのだ。

しかし、このヘンテコなやさしい語感が意味の広がりをもたらすことに最近気づいた。この意味の広がりが、現代のデザインの役割に直結する。

私は「見える化」には4つの意味があると考える。

①情報を整理し、現象や関係性などを視覚的に表現することで、直感的に理解できるようにすること。可視化やビジュアライゼーションの従来の定義。昨今ビッグデータへの注目が高まるなか、可視化技術の重要性は急速に増しつつある。

②オープン化。もともと外からは見えなかった内部を開放し見えるようにすること。反対はブラックボックス化。

③微細視。見えなかった細部が見えるようになること。一般の人には認識できないディテールを露わにしコントロールすること。デザイナーはこのためにスキルの訓練を積む。

④プロトタイピング。アイデアをかたちに出来る力。「あなたの言ったことを絵にするとこういうことでしょ」と言ってササッとスケッチを描いてしまって、「ええ、まさにこういうことですよ」と言わせてしまう力。

こんなに大事なことが詰まった言葉なのだから、なおさら「見える化」というヘンテコな言葉を使ってもらいたくないものだが……。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2013-07-30 10:58 | Comments(0)
 
ナラティブの力 ── モノ・コト・物語
モノ。コト。あるひとつのまとまり・かたまり・つらなりをいい表す言葉である。物事とも事物ともいうように、このふたつは表裏の関係にある。

一般に、実体があるとモノ、現象だとコトと呼ぶ傾向にあるが、そうとも限らない場合がある。

「事足りるが物足りない」──これは面白い表現だ。用は満たしているが、充足感がない、という意味である。この場合、「事」は機能面での働きであり、「物」は感情への働きである。

「物になる」とは、価値ある成果をあげたり、一人前と認めてもらえる人になることである。つまり、存在感を発することだ。ある「人物」が「大物」か「小物」かは存在感の強弱をいう。

「もののふ」とは強い存在感ある武者であり、「物の怪」は正体不明で、実在するかも定かでないが、出会った人の心に強烈な存在感を残していく。「もののあわれ」とは無常の世界のなかで存在感が明滅する様を表す。

コトが言の葉の「言」であることも忘れてはならない。人が何かを他者に伝えようとしたときに、そこにコトバが生まれる。コトバは音声や文字による言語とは限らない。視覚言語、デザイン言語、身体言語、映像言語というように、形態や象徴や身体動作や映像などで語られることもある。

「事」と「言」が重なり合うと「歴史」が生まれる。事実は言葉に置き換えられて、歴史として語り継がれるのだ。

「物」と「言」が出会うと「物語」が生まれる。語りが人の心に訴えかけ、存在感を発する働きをし始めると、それが物語となる。事実か架空かは問題ではない。

歴史も、語り継がれることによって物語となる。物語とは、人の感情に作用し、その存在感を心に残す、語りうる形でひとつにまとまった出来事のつらなり、といえるかもしれない。

ナラティブ(narrative)とは、「物語。話術。語り。物語体(風)の」といった意味である。narration(ナレーション)と近いことから分かるように、「語られる」というニュアンスを含む。

映画「男はつらいよ」47作目に、寅さんが、靴会社に入ったばかりの甥の満男に物の売り方を教えるシーンがある。

満男は営業の仕事がつまらないと不満を漏らす。寅さんは満男に「オレと勝負してみないか」と、ペン立てあった消しゴム付き黄色い鉛筆を手渡して「オレに売ってみな」と言う。満男は「消しゴム付きです。買いませんか」と言うだけで言葉に詰まる。

寅さんは、母の思い出を語り出した。「オレは不器用だったから、夜おふくろが鉛筆を削ってくれたんだ。火鉢の前にきちんと座って、白い手で削ってくれた。削りカスが火鉢の中に入ってぷ~んと香りがして……」。家族みんなが寅さんの話に引き込まれ、「私、こんなに(短く)なるまで使った」「昔はものを大事にしたな」といった会話が始まる。寅さんの語りが、どこにでもある鉛筆を尊いものに変えてしまう。

物語は人の心に存在感を残すだけにとどまらない。物語は語られることによって、多くの人と世界観を共有するための有効な手法になりうる。そして語り継ぐことで、その世界観が進化していく。それがナラティブの力である。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2013-03-07 15:09 | Comments(0)
 
ポジショニング
どんなに個性的な表現でも、どんなに超絶技巧の作品でも、どんなに斬新な切り口でも、自分が作ったものが、歴史という縦軸、同時代性での横軸の上で、どこに位置しているかというポジショニング感覚がないと、一発芸で消費されるか、セルフコピーの繰り返しで生き延びることになっていまう。

いつでも創造的な姿勢を貫きとおすためには、それぞれの表現分野の歴史はもちろん、関連するさまざまな分野の歴史を学び、同時代の作品を知り、同時代の言説に耳を傾けて、批評的思考を習得し、感覚的でも直観的でもいいから、ポジショニングを身につける必要がある。

自分の作ったものがどういうポジションに立つのかを考えることは、社会の中での作品の存在意義、マーケットの中で位置、会社のビジネスの中での意味などを考えることといえる。つまりポジショニングはブランディングに非常に近い。組織や商品群が「何をなすかものか」を明快に整理して、外部にも内部にも浸透させていくのがブランディングだからだ。

ブランディングという言葉があまり好きじゃない人も、「歴史と同時代性のなかのポジショニングを常に考えろ」と言われれば、すっと理解できるものがあると思う。

ポジショニングとは「出口をデザインすること」でもある。自分の作品の位置を見定めることができれば、どういう人たちと一緒に仕事をすべきか、どんなマーケットに参入してそこで何をすべきか、どういう言葉を操る人たちに評してもらいたいか、どういうメディアに取り上げられたいか、といったことを見えてくるはずだからだ。

良いデザインは売れないとか、自分の作品は理解してもらえないとと嘆く人たちは、現在を見限り、同時代の様々な動きを知ろうとしなかったり、歴史を学ぶことを怠っていたり、ポジショニング感覚を磨くことに無自覚な人たちである。

やり込みや技量や切り口やコンセプトばかりを、いいだの悪いだのと評価されて、ポジショニング感覚が欠如したまま社会に出る学生が多い現状を僕は少しでも変えたいと思う。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-11-25 20:02 | Comments(2)
 
ニッポンデザインはじまりモノガタリ
2007年『CasaBRUTUS』10月号のために書いた「知ってると得をする。日本デザインのはじまり物語。」をアップします。この原稿を書いたこと自体すっかり忘れていました。ファイルの中から見つけ出し、読んでいたら、加筆したくなったので、アップします。アップしてから更新していきます。紙幅の関係で、1950年代までで、1960年代は東京五輪だけ触れていますが、この終わり方が中途半端、グッドデザイン制度のこととか触れないといけないし、せめて大阪万博まで話をもっていきたいと思っています。

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日本デザイン──明治から東京五輪まで。

 日本には素晴らしいデザインの伝統があります。桂離宮や琳派の洗練、小紋や家紋の抽象、茶の湯の前衛、根付の精妙、畳の合理的なモジュール性など枚挙にいとまがありません。

 しかし、そもそもデザインという言葉には、下絵とか設計という意味があります。実際に作る前にあらかじめ形や機構を決めること。産業革命が進行して、大量生産が可能になると、形を構想し設計する人と、モノを工場で作る人が分業化していきます。
 
 量産品の設計図はエンジニアだけで作ることもありますが、製品の装飾を施したり、美しい形態にしたい場合に、描画や造形の専門家が必要となりました。そこでデザイナーという職業が誕生します。デザインは産業社会が進展していくなか、急速に重要性を増していきました。

 そう考えると、設計と実制作がまだ未分化であった江戸時代以前のデザインは、美の源流であっても、厳密な意味でのデザインとはやや違ったものになります。

 ですから日本デザインのお話しは、明治時代から始まることになります。工業製品だけでなく、グラフィックデザインや服飾デザインや建築まで話を広げる必要は、重々承知しています。が、誌面の関係でここではプロダクトデザインを中心に話を進めたいと思います。

殖産興業のための工芸──明治

 この物語に最初に登場するのは職人でも絵師でもなく、おサムライさんです。元佐賀藩士、納富介次郎。納富は政府が1873年(明治6年)にウィーン万博へ派遣したメンバーのひとりでした。ジャパネスク(日本趣味)流行の気運が高まるなか、日本の伝統的な工芸品は、ウィーンの人たちに強い関心を引き、商人から引き合いも多かったそうです。納富たちは、日本の工芸品が外貨を獲得する輸出品として大いに有望であることを目の当たりにしたのです。

 しかし、出品した工芸品は手作りで、一度に多くの注文に対応できませんでした。明治政府が掲げた「富国強兵」「殖産興業」を推し進めるためには、輸出用の量産工芸品を生産する体制を整えなければならない、と納富は考えます。

 そして帰国後、工芸品の近代的な生産体制の整備に着手します。陶磁器などの絵柄や形を描く人と、その図をもとに実際に成形したり絵付けをする人を分けるのです。前者の仕事がデザインです。当時は「図案」といいました。さらに図案の専門家の育成教育を図り、納富は、金沢、高岡、高松に工芸学校を設立します。こうして納富は、日本にデザインが浸透する基礎を築いたのです。

 戦前の日本では図案とともに、「工芸」がデザインを意味する言葉として使われました。工芸というと今では、優れた手技と芸術的センスを持つ作家が作る実用品もしくは装飾品といった意味合いが強いですが、かつては美術と工業の間の造形を広く指したのです。

 明治期には、東京美術学校(現・東京藝術大学)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)、京都高等工芸学校(のちに京都工芸繊維大学に統合)で、工芸・図案の教育が行われました。しかし、まだ作家性重視の美術工芸と、工業製品のためのデザインとが入り交じった状態でした。

モダンの誕生──大正から昭和

 工芸や図案の中から、モダンデザインの輪郭が見えるようになるのは、大正後期から昭和初期にかけてです。第一次世界大戦による輸出の拡大によって経済は好転し、政治的には大正デモクラシーと呼ばれる開放ムードのなか、大衆消費文化が生まれます。三越、高島屋、阪急などの百貨店が成長し、モボ・モガ(モダンボーイ、モダン・ガールの略)と呼ばれた先端ファッションを着飾った若者たちが、銀座などの街を闊歩しました。

 1920年(大正9年)には文部省の外郭団体として生活改善同盟会[注1]が組織され、生活を椅子式に改めることなど、生活を洋式に改める活動を行いました。フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルが竣工したのは1923年(大正12年)。その年の関東大震災で、首都圏は大打撃を受けます。震災を機に「同潤会」が設立され、大正末年の中之郷や青山に始まり、東京・横浜の各所にいわゆる同潤会アパートを建てました。日本人は初めて、鉄筋コンクリート造で不燃の中層住宅で、複数の家族が「縦」に重なって暮らすという新しい暮らし方を体験することになります。

 この頃、ドイツ工作連盟が輸出品振興のために工業製品の標準化をすすめたり、バウハウスで芸術と産業を融合させる新しい造形教育を実践したり、ル・コルビュジエが『エスプリ・ヌーヴォー』を創刊したり、ヨーロッパではモダニズムのデザイン・建築運動が盛んになります。

 こうした海外の最新動向に敏感に反応して、新しい生活スタイルにふさわしい家具や日用品を求める気運が生まれ、日本のデザインが本格的に始動します。

 1922年(大正11年)、その後のデザイン教育をリードした東京高等工芸学校(現・千葉大工学部)が芝浦に開校します。1928年(昭和8年)には、輸出振興を目的としたデザインの研究と指導を行う、国立工芸指導所が仙台に設立されます。

 さらに帝国工芸会[注2]、无型(むけい)、木のめ舎などの大小さまざまなデザイナーの組織が生まれます。そのなかのひとつ、型而工房(1928~1938頃)は、建築家で東京高等工芸学校の教員でもあった蔵田周忠が、バウハウスの影響のもとに若者有志を集めて結成した建築・デザインの研究グループです。蔵田の同潤会代官山アパートの部屋に、豊口克平らが集まり、大量生産のために家具の部材の寸法を標準化する「標準家具」の研究や、日本の住まいの事情に合わせ畳を傷つけない椅子やテーブルの開発に当たりました。

 建築家、川喜多煉七郎は、バウハウスに留学した山脇巖・道子夫妻、水谷武彦の協力のもとにバウハウス式造形教育を行う新建築工芸学院を設立しました。同校からはグラフィックデザイナーの亀倉雄策や、のちに桑沢デザイン研究所を設立する桑沢洋子が巣立っていきます。

 こうしたモダンデザインの動きとは別に、もうひとつ大正が昭和に替わるときに、特筆すべき運動が起こりました。民藝運動です。柳宗悦は、浜田庄司、河井寛次郎らとともに、日本各地に伝わる素朴で実用的な無銘の日用品の中に美を見出す運動を興します。民衆的工芸だから民藝。作家主義がはびこる美術工芸の世界を批判し、用の美を提唱し、ものづくりの本来の姿を民衆の生み出す誠実な日用品の中に求めました。柳宗悦の思想は、戦後にアノニマスデザインを賞賛した息子のデザイナーの柳宗理に強い影響を与えます。

皇国のモダニズム──戦争へ

 戦前のデザイン界をリードしたのは、技師や教育者として国家に勤めた官僚デザイナーたちでした。特に工芸指導所はエリート集団でした。国井喜太郎が所長を務め、剣持勇、豊口克平、小杉二郎、小池岩太郎、山脇巖、芳武茂介、さらに評論家の勝見勝、小池新二らが在籍しました。

 1933年(昭和8年)、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトがナチスから逃れ、来日します。タウトは工芸指導所の展覧会を見て、痛烈で的を射た批評をしたことが縁で、工芸指導所の嘱託となります。3か月ほどの短期間でしたが、ドイツの合理主義的デザインの理念を日本のエリートたちに伝えます。タウトは日本市場に出回る外国製品をまねた製品をイカモノと酷評し、桂離宮を絶賛し、日本人に日本美の再発見を促します。工芸指導所ではタウトが辞した後も、その教えをもとに「規範原型」と呼ばれる、椅子ならの椅子の本質的な機能的形態を探る試みがなされます。

 人体の姿勢を研究する──戦後に人間工学と呼ばれる手法も、工芸指導所のデザイナーたちはいち早く採用しました。積もった雪に座って人体の型を取るなど独自研究法を開発し、家具のデザインに活かしました。

 1939年(昭和14年)商工省が招聘したドイツのティリー・シュレーマンも、翌1940年に招聘したフランスのシャルロット・ペリアンも、モダンをなぞっただけの日本製品を「悪質だ」「醜悪だ」と酷評します。ペリアンは若き柳宗理が付き添って、全国を旅し、工芸指導所の協力のもと、藁や竹を使って寝椅子などを制作しました。父の民藝運動に反発していた柳は、ル・コルビュジエに師事したペリアンは、無名の庶民がつくった道具の実直な美しさを、柳に教えます。柳は、民藝とモダンデザインの共通点に気づき、戦後、アノニマスデザイン(無名の人のデザイン)とアンコンシャスビューティー(無意識の美)の重要性を語るようになります。

 昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、翌年、国家総動員法が制定され、物資の統制が進められ、大衆の消費を喚起するデザイン活動は制限されます。しかし逆にデザインエリートたちは、国家のためにモダンデザインの理念と方法を生かす好機と受けとめていたようです。金属、ゴム、皮革などが使えなくなると、工芸指導所のデザイナーたちは代用品のデザインの研究に取り組みました。

 1941年(昭和16年)の日米開戦直前、工芸指導所は「国民生活用品展覧会」を開催し、戦時の生活用品のあり方を提案しています。簡素の美を推賞し、規格化が必要を説き、「個々の品物について究極の型を与えることは必然の問題」と唱えます。

 平たく言えば、戦時の日用品はシンプル&モダンの究極のデザインであるべきというのです。建築家、堀口捨己は、『工芸ニュース』に国民生活用品展覧会に対するコメントを寄せています。「私も自由主義が華やかだった頃、悪質、悪趣味の日用品の氾濫していた市場から、埋もれた良質商品を選び出して展覧会を企画したが、商業主義に災いされて実現に至らなかった。その理想がここに実現しているようで非常に喜ばしく、またこのような企画が可能になった今の時世を有り難く思った」。(筆者注・文章を平易に改変して引用しています)。

 しかし、戦局は悪化し、皇国にモダニズムを実現しようとしたエリートたちの思いは頓挫します。

デザインの再出発──戦後1

 焦土に立ったデザイナーたちは再び、今度は民主主義のもとで、モダンデザインの理念を国家再建に活かそうと邁進しはじめます。終戦直後1946年(昭和21年)から、工芸指導所(1952年に産業工芸試験所に改名)は進駐軍家族用住宅の家具(通称DH家具)のデザインにあたります。アメリカ人のニーズとライフスタイルを直接経験することで、大正以来の洋式への生活改善のノウハウが熟成されていきます。戦前と戦後は、デザインの世界に限っては決して断絶していませんでした。

 しかしデザインの主役は、官から民へ次第に替わっていきます。デザインという言葉が日本に広く浸透するのが1950年代です。戦前もデザインという言葉は一部で使われていましたが、50年代になって、図案、意匠、工芸といった言葉を統合しはじめます(工芸はクラフトや美術工芸という意味で使われるようになります)。産業工芸はインダストリアルデザイン、商業美術はグラフィックデザインと呼ばれるようになりました。

 1951年(昭和26年)アメリカで最も成功していたインダストリアルデザイナー、レーモンド・ローウィが来日します。ローウィは日本専売公社から煙草「ピース」のデザインの依頼を受け、新デザインは翌年発売されます。デザイン料は150万円。総理大臣の月収11万円だった頃の話です。破格の値段が話題になって、デザイン料というものを世の中に認知させるきっかけになります。

 1953年(昭和28年)にはローウィの著書『口紅から機関車まで』の邦訳が出版されます。翻訳者は藤山愛一郎。藤山コンツェルンを率いた財界の実力者です。のちに政界に転身し、自民党・藤山派を率い、総理の椅子を争いました。藤山はローウィが来日した際、「美しくすることによってコストを低下できる」という彼の持論に感心して、財界人を集めローウィの講演会を催しました。ちなみに藤山邸の設計はル・コルビュジエに師事した建築家、坂倉準三でした。

 もうひとつ1951年、デザインへの理解が財界に広まったことを印象づける有名なエピソードがあります。アメリカ視察を終え羽田空港に降り立った松下幸之助がこう叫んだと伝わっています。「これからはデザインだ」。同年さっそく松下電器は製品意匠課を作り、デザイナーの真野善一を課長に迎え入れます。その後、大手メーカーでデザイン部門を新設されるようになります。インダストリアルデザイナーの多くが、企業に社員として雇われたデザイナーという日本の特殊事情はこの頃に始まりました。

 個人事務所を立ち上げて、活躍するインダストリアルデザイナーも登場します。柳宗理や、マツダ三輪トラックなどで知られる小杉二郎は、戦後まもなくフリーで活動を始めます。1953年、東京芸術大学図案科の助教授小池岩太郎のもとに集った学生たちが、デザイングループを立ち上げます。榮久庵憲司らが中心となり、その後GKインダストリアルデザイン研究所(GKはGroup of Koikeの略)として、ヤマハのバイクや、キッコーマンの卓上醤油びんなどを手がけます。

 1956年(昭和31年)には、渡辺力と松村勝男らがQデザイナーズを結成します。同じ年、フリーで活躍していた佐々木達三が、てんとう虫の愛称で知られる名車スバル360に取り組み始めます(発売は1958年)。企業内でのデザインも盛んになり、1955年東芝の電気釜、1958年(昭和33年)ホンダのスーパーカブ、1959年ソニーのトランジスタテレビなど、次々とデザインの名作が登場します。

グッドデザイン、ジャパニーズ・モダン──戦後2

 しかしまだ当時の多くの日本企業はオリジナリティへの意識は薄く、日本製コピー製品が海外市場で出回りました。政府は外国からデザイン盗用を厳しく非難されます。そうした問題を機に1957年グッドデザイン(Gマーク)商品選定制度が生まれます。最初は特許庁の所轄で、翌年に通産省に新設されたデザイン課に移管されました。良質でオリジナルのデザインを振興して、さらなる輸出拡大を図ろうとしたのです。

 国家が外貨獲得のためデザインを振興する姿勢は、明治期から戦後の再興期まで一貫して変わることがありませんでした。戦後、国の目標は「富国強兵」から「兵」が消え「富国」に集中することになりました。国は前面に立って指導することを控え、富める国づくりを民間の活力に任せ、バックアップの立場に回ります。

 戦前のエリート官僚デザイナーは、個人事務所を設立したり、教育者になり、指導から討論や対話を重視し、官僚と民間をつなぐパイプ役として活躍していきます。方法や立場は変わっても、モダンデザインの理念を活かして、この国の生活を豊かにしたいという意思は、戦前から引き継がれたものでした。

 産業工芸試験所の意匠部長として二度に渡るアメリカ視察した剣持勇は、アメリカ市場でスウェーデン製品が「スウェディッシュ・モダーン」と呼ばれ成功している様子を見て、日本デザインは「ジャパニーズ・モダーン・デザイン」をめざすべきだと、1954年に雑誌論文を発表します。この主張に建築家吉阪隆正らが、まがいものの日本趣味と変わらないと反論するなど、「ジャポニカ論争」として呼ばれる論議が展開されました。剣持は1955年に産業工芸試験所を辞め、デザイン事務所を開設します。

 評論家、勝見勝は、1964年(昭和39年)東京オリンピックという一大国家プロジェクトに際して、亀倉雄策や田中一光らのグラフィックデザイナーたちを結集させ、ポスターからピクトグラム(絵文字)などを一括してデザインさせ、オリンピック史上に残る総合的デザイン計画を実現します。戦前、工芸指導所でデザインの研究や評論を行った勝見が、野に下り、国威高揚のデザインを自由と民主主義の国家で実現していくのです。

 デザインという言葉が広く浸透し、戦後の再出発に成功するところで、この「はじまり物語」は終わります。その後、高度経済成長によって「富国」が実現すると、デザインの役割が少しずつ変わっていきました。国家のためのデザインという意識は薄れ、地球環境への意識が台頭してきました。企業はブランディングの手段としてデザインを今まで以上に重視していきます。

 日本デザインは、世界的に高い評価を受けるようになりました。そう、ウィーン万博から帰った納富介次郎の思いは、21世紀ミラノサローネへ向かう日本人デザイナーたちの胸の中にしっかりと受け継がれているのです。

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[注1]生活改善同盟:1919年に開催された文部省主催の「生活改善展覧会」の後を受けて、1920年文部省社会局に開設された組織。1921年には機関誌『生活改善』を創刊。国家的利益と産業効率を向上させるために、個々人の生活意識そのものを改革することを目標として、社交儀礼から服装、食事、住宅まで生活全般に関わる改善と合理化を目指した。衣食住のそれぞれに委員会が設けられ、大正から昭和期に展開された「生活建直し運動」の一翼を担う。住宅分科会は、椅子を使う生活様式や居間中心型の間取りを呈示し、和洋混在する当時の生活感覚を西洋的な生活様式によって合理化しようと試みた。

[注2]帝国工芸会:ドイツ工作連盟に影響されて、1926年に結成された産業デザインの振興団体。設立当時総勢124名という大規模な組織であり、宮下孝男、六角紫水など当時の主だったデザイナーたちが参加していた。富国強兵策に裏付けられた産業デザインの育成と輸出振興を目指し、その活動は1943年まで続いた。1927年、機関誌として『帝国工芸』を創刊。「技術」と「科学」を中心課題としてかかげ、デザイナーたちの思想に大きな影響を与え、デザインに関する職能団体の結成を促した。

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※主な参考文献 『日本のデザイン運動』 増補版 出原栄一著 ぺりかん社 1992年、
『てんとう虫は舞いおりた 昭和のデザイン エポック編』 日経デザイン編 日経BP社 1995年
『デザインの揺籃期 東京高等工芸学校の歩み(1)』 展覧会カタログ 松戸市教育委員会美術館準備室 1996年
『現代デザイン論』 藤田治彦著 昭和堂 1999年
『カラー版 日本デザイン史』 竹原あき子、森山明子 編 美術出版社 2003年
『近代日本デザイン史』 長田謙一、樋口豊郎、森仁史 編 美学出版 2006年

text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-05-02 10:34 | Comments(0)
 
カワイイ論──拡張する求心力
『Web Designing』2012年2月号特集「“カワイイ”デザインの社会学」に寄稿したエッセイを加筆して、編集部の許可を得て転載します。

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カワイイ論──拡張する求心力

カワイイの反対語

カワイイの反対は何だろうか?
「小さくて、かよわくて、無邪気で、愛らしいもの」だけがカワイイだけなら、答えは簡単である。しかし現代のカワイイは「キモい→キモカワイイ」など反対の意味だと思われる言葉をいとも簡単に取り込んでしまう。

カワイイは「ここからここまでがカワイイの範疇」という言い方で説明できるものではない。領域が確定しないからカワイイには対義語というものが存在しない。反対といえる言葉は「カワイクナイ」であるが、否定形のその語は対義語の呈をなしていない。

アジールをつくる力

では、カワイイとはいったい何であるか。領域でなく「力」である。カワイイとは、意味を規定する固定的な枠組みでなく、新しい意味を生成しつづける力である。

誰かが「カワイイ〜」と言いはじめ、周囲が「カワイイ、キャ、カワイイぃぃ」と共感すれば、その場にアジール(聖域)が形成される。そこは、カワイイ/カワイクナイを線引きする感性を共有しあう即興的聖域だ。カワイイは求心力、カワイクナイは遠心力である。

カワイイは、対象を自分たちのもとへ引き寄せて、手なずけ、共有し合う力である。一方、カワイクナイは、対象を自分たちの関心の外へ押しやる力である。縁切りの言葉ともいえる。特筆すべきは、カワイイの求心力は、内に向かう力であると同時に、外に拡張する力でもあることだ。

昨日まで外側(カワイクナイ)のものが、今日から内側(カワイイ)になる。こうしてカワイイは、大人の妖艶、醜さ、不気味さ、憎悪の対象、父権的存在などと結合し、言葉のキメラを生みだす。キモカワイイ、ブサカワイイ、エロカワイイ、グロカワイイ、渋カワイイ、ジジカワイイ……。

共感の強度が増せば、拡張の力が増す。同時に縁切りの力も増す。かつてヤマンバギャルの奇怪なメイクが流行したのは、彼女たちが形成したアジールの内部の共感の強度がきわめて高かったからだろう。ブサイクまでカワイクする「拡張する求心力」と、外の人には分かってもらわなくていいという既成の価値観と訣別する「縁切りの力」が同時に強烈に発動していたのである。

伝えるためのカワイイ

形態の分析からカワイイデザインを考えても徒労に終わる。「ピンクやパステル系」「丸っこいデザイン」「愛らしい動き」といった外見的要因は、カワイイという求心力を発動するきっかけにすぎない。

筆者は1990年代半ばから2000年代はじめマガジンハウスの雑誌『ブルータス』や『カーサブルータス』でライターの仕事をした。この会社の仕事では、女性誌を経験してきた編集者、カメラマン、スタイリストたちとしばしばチームを組む。あるとき、男性カメラマンと社内スタジオで物撮りをしていて「その撮り方はカワイクナイよね」と会話している自分に気づいて、オレもここに染まったなと思ったことがある。

定義不能のカワイイ/カワイクナイの線引きをなんとなく理解すると、女性の編集者たちと記事の企画を話し合うのもスムースになる。自分から「これ、カワイクない?」と言えるともっと楽になる。そしてもうカワイイという言葉を使うのがやめられなくなる。

独りよがりの表現、他人を巻き込むことのできない表現、アジールを形成できない表現はカワイクナイ。カワイイものは伝わるもの/伝えたくなるもの。それゆえ、ライフスタイルを提案しつづけて、それに共感する読者コミュニティを育て上げていく雑誌づくりには、カワイイ/カワイクナイの線引きを感覚的に理解することが大切なのである。

カワイイという帝国の進展

日本でイームズブームの端緒となったのは1995年の『ブルータス』のイームズ特集だが、「イームズ 未来の家具」という特集名が示すとおり、イームズがカワイイなどと謳った特集ではない。

もちろんイームズの成形合板椅子「LCW」や色とりどりの球体のついたハンガー「ハングイットオール」などは確かにカワイイ。そこが突破口となる。

2001年『カーサ・ブルータス』がイームズ特集をする頃になると、イームズハウスや映像作品までカワイイの求心力の圏内となる。繰り返すが「パワー・オブ・テン」がカワイイなどと語っているわけでない。「見え」の問題ではないのだ。

「カワイイ」と言い合える起点があれば、その後はカワイイの求心力によって、ある価値観を感覚的に共有するコミュニティ形成が発動され、カワイイとは縁遠いものまで、その求心力の圏内に巻き込んでしまう、ということである。

イームズから始まったこの求心力は、柳宗理のプロダクトや北欧デザインまで取り込んでいった。次は、若き柳宗理に強い影響を与えたシャルロット・ペリアン。そしてペリアンが師事したル・コルビュジエ。最初はル・コルビュジエとペリアンが共作した家具の紹介から入って建築へ。サヴォア邸や母のためにつくった小さな家──。

そしてじわじわゆっくりとカワイイの求心力が勢力範囲を広げて、現代建築まで圏内まで収めてしまう。こうして2000年代初頭の『カーサブルータス』は読者層を広げていった。

輪郭でなく構造をみる

カワイイを形態論で語るのは間違っている。カワイイは、矛盾するものも、異端も飲み込む力の構造として語らなければならない。それはグローバリズムを強要する現代の帝国主義に近い構造かもしれないし、貪欲に成長し続ける資本主義に近いかもしれない。

外のモノをウチに取り込む力は、李御寧(イー・オリョン)の『縮み志向の日本人』に関連させて、“広がる縮み”として考えてもいいかもしれない。求心力と同時に働く遠心力──縁切りの力は、日本史に脈々と続く、アジールを形成する縁切りの構造に関連させて考えてもいい。

カワイイの輪郭を浮き彫りにするのでなく、カワイイの力の働き方を探ることで、今も無限大の経済成長を夢みる現代日本人の志向と、近代以前から日本人が発達させてきた仲間ウチの以心伝心のコミュニケーションを好んだ志向との親和性が見えてくる。(了)

【本ブログ過去の関連記事】カワイイ
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-04-15 15:56 | Comments(0)


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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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