藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
線について
今日学生に教えてもらった言葉。
計測できない線はない。

そうかもしれない。
無限の線って観念としては存在するけど。

自然に直線は存在しないと言ったのはゲーテだといいます。
(又聞き情報です。正確な出典先を探しているのですが、今のところ見当たらず)
ルイジ・コラーニも同じことを言っています。
直線の有無は人工物と自然を分ける基準になる。
「2001年宇宙の旅」のモノリスのように、
直線は知的生命体の証しになる。
線で世界を把握するのは、知性の力なのかもしません。
中でも直線は、効率よく世界を記述できるフォーマットです。

だから、計測できない線はない。
線自体が定規、つまり知性が世界を記述するために生み出した道具なのだから。
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石材置き場@香川県牟礼町

text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-06-06 20:22 | Comments(0)
 
二項対立(5)倫理、そして感性
おととし金沢美術工芸大学で講義したとき、チャールズ・イームズのインタビューを収めた『Eames Q&A』というビデオを見せた。チャールズの話がデザインと倫理の話になったとき、ひとりの学生からこんな質問を受けた。
「倫理って何ですか?」
答えられなかった、まともに。「社会にとって良いことで……、ほら人殺しは悪いことでしょ」。

悔しかった──。4年だろ、ユニバーサルデザインとか勉強してるんだろ、そんなこと聞くなよ、と思いながら、自分自身、全く明快に答えられない。デザインを考えるのに倫理は不可欠と言いながら、肝心の倫理を語ることばを持っていない。ま、僕にとって学校の道徳や倫理・社会の授業は、自習か、孔子とかニーチェの顔にお絵かきする時間だったから。

ひとり絶対的な神がいれば、倫理の説明は簡単だ。神が善悪の規準になってくれる。ひとつの宗教が支配している社会は、倫理や道徳の不安は起こらない。しかし神なき時代に倫理を語るのは難しい。ヒトのクローンが何故いけないのか。自然の摂理に反するって言われてもその自然って一体何のことなのか。ヒトは自然じゃないのか。生命の創造は神の専権行為と言い切れれば、どんな楽なことか。

神が違えば争いが起こる。イスラム教の善とユダヤ教の善とキリスト教の善と食い違っているから、中東に憎しみの連鎖が生まれる。神でなくても価値観の違いは倫理や道徳を揺るがす。ブッシュは自由を人類共通の最高の善として語るけれど、自由より優先度の高い善を持った人たちがこの地球上には非常にたくさん暮らしている。

そこでずいぶん考えた。どうやったら明快に倫理を説明できるだろうか。
『広辞苑』では
【倫理】(1)人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳。(2)倫理学の略。
【倫理学】(ethicsに井上哲次郎が当てた訳語)道徳の起源・発達・本質・規範について研究する学問。エートスの学。論理学(または認識論)・美学と並ぶ哲学の三大部門の一とされる。
(ちなみに、人倫ということば、僕はいま初めて知りました)
【人倫】(1)人と人との秩序関係。人として守るべき道。(2)人、人間、人々、人類。
『岩波哲学小辞典』だと定義はこうだ。
【倫理学】道徳の起原・発達。本質・規範についての学。古くから論理学(または認識論)、美学とならぶ哲学の三大部門とされてきた。道徳そのものと同様に、倫理学説も時代とともに変遷し、それぞれの時代の道徳意識を反映し、時代や階級の刻印を伴って現れているが、どの場合でもその中心問題は道徳の規範を明らかにすることであり、善とは何かを問うことに帰着する。(以下略)
【道徳】一定の社会においてその社会の成員の、社会に対する、成員相互に対する、行為を規制する、その社会で一般に承認されている規範の総体をいう。(以下略)
これをそのまま棒読みして説明しても、カントに髭かいて孔子を二重にしたくなるだけだろう。で、思いついたのがこれである。二項対立を使って倫理を語る方法だ。
倫理学の世界では、あんな学説こんな学説がありますよと話を広げるとたちまち話が難解になる。でもデザインは生活のあらゆる場面に関わるのだから、デザインの倫理の話は出来るだけ裾野の広いものにしなければならない。要は、デザイナーが善とは何かを考えるキッカケを作ればいい。

二項対立には、倫理的対立というものがある、と考えてみる。たとえば、平和と戦争、安全と危険、平等と差別など、どちらが良いか、社会の中でほぼ答えが決まっている対立がある。「私だけでなく、みんなこう思うはず」と迷わず二者択一できる対立。デザイナーが考えなければならない倫理とは、こうした対立の中にある。
希望と絶望
健康と病
快と不快
進歩と衰退
機会均等と差別
安全と危険
民主主義と独裁
平和と戦争
リサイクルと使い捨て
環境共生と環境汚染
清潔と不潔
幸せと不幸
愛と憎しみ
人間中心と人間疎外
正直さとごまかし
富と貧困
心地よさと苦しみ
喜びと悲しみ
ネガティブな項目のほうを考えればいい。
絶望のためにデザインできるだろうか。危険のために、衰退のために、憎しみのために、疎外のために、貧困を生むために、差別を助長させるために、汚染を広げるためにデザインできるだろうか。

国を守るため、家族を守るため、ひとつの社会の価値観を守るための戦争をどう見るか。単純な二者択一で済まされない問題がある。しかし、いずれにせよ私たちは選ばなければならない。

現代の資本主義社会では、利潤追求のために“行きすぎない程度の”の使い捨てや環境汚染はよしとされている。日本を含めた先進国の経済発展は第三世界の貧困を招いている。デザインは矛盾を“かたち”に収める知恵、つまり対立するものを共存させる知恵だと僕は考えるが、いつか必ずどちらに重心を置くかの二者択一を迫られる。迷わず選んだ二者択一が偽善とされる可能性は常にある。それでもやはり絶望のためにデザインはできない。希望のために選択すべき時が来る。倫理とは希望のために二者択一を意識した時点で発生するものなのではないだろうか。

工学者倫理(エンジニアリング倫理)というのがある。が、デザイナー倫理という学問は今のところ聞いたことがない(デザイナー倫理ってオシャレな倫理学みたいでヘンだね)。工学者や科学者は、人がまだ足を踏み入れていない領域を研究する。この研究は、ここから先に行っていいのか、本当に人間社会のために有益な研究になるだろうか、人類を破滅させる研究だって可能なのだ。だからしっかりした倫理観を持っていなければならない。

2003年『DesignNews』の連載記事のために取材した名古屋大学でマイクロマシーンの研究をする生田幸士教授のことばが今でも忘れられない。

「ここから先に足を踏み出していいのか否か、といったことを直感的にかぎとれる能力がこれからの技術者には必要なんです。特にまだ誰も踏み入れたことのない領域の研究では、見えない先のことまで想像して見通さなくてはならない。そうした直感的な想像力は感性ですよね」

「すぐれた技術が人を幸せにするとは限らない。会社は儲かるけれど、その技術が社会に悪影響を与える。そうした思ってもない方向に技術が進みそうなときにブレーキをかけられる感性を子どものうちから育てる必要がある」

目から鱗が落ちることばだった。感性って、白を選ぶか黄色を選ぶか、ボディラインのR(曲率)の具合はどうするか、どんな映画に感動するか、昨日見た夕焼けをどう表現するか、といった芸術的な感受性や創造力だと思っていたから。

未踏の領域を切り開く者たちは想像力で、善悪を判断しなければならない。この技術は世の中のためになるという確信は、直感と想像力から生まれる。それをひっくるめて感性というわけだ。

この地点で、美と倫理を同じ次元で語ることができる。希望という切符を買うために私たちは倫理を問い続けなければならない。みんながこう思うはずだから、こっちを選ぶというのでなく、見えない問題、隠された問題を見いだして、直感と想像力で善を判断する感性を持つこと。現代のデザイナーに強く問われている能力だ。時に社会常識的には善でないことも、善と確信できる想像力と直感が必要になる。倫理を語るのに倫理的である必要がない、と以前の投稿に書いたのはそのことだ。グッドデザイン賞のような大規模に権威ある組織が良いデザインを選ぶ制度は諸刃の刃だ。デザインの倫理を深く広く考えさせる契機になるが、社会常識が感性を押しつぶす危険もある。倫理を最後に決めるのはひとりひとりの感性だ。そう言い切れる世の中に暮らしたい。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-06-06 11:53 | Comments(2)
 
追憶、手描きの線──ガンダムな日
土曜日、高校の時の同級生と、Zガンダムを見に行きました。渋谷は混んでいるとのことでキネカ大森へ。友は年代物のヲタでわが師匠です。師匠と会うのは、彼が仕入れてきたパゾリーニの「ソドムの市」無修正版の鑑賞会をわが家でやって以来。半年ぶりくらいか。師匠は最近めっきり更新が減ったとはいえ「俺とデビルマン」というHPを開設してもうじき8周年。萌えの世界とは一線を画した硬派なヲタです(プリキュアは見てるって言ってたけど)。

今回の劇場版「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、新作の絵と20年前のTVシリーズオリジナルの絵が混じっています。ジェンダーフリーな生き方を貫く女性を描かせると絶品の安彦良和のキャラの顔が変わっていて残念。特にエマ中尉の顔が……。

新作の絵はたしかにきれいです。迫力あります。一方オリジナルの絵は大画面で見るとツライ。画質的には69席のキネカ大森のスクリーンが限界といった感じでした。しかしオリジナル作画の、あの手描きの線は壮絶です。

陰影や効果線の粗いタッチの線は、時に紙に描いているわけじゃないのに画用紙に木炭で描いたような質感まである。これはZより1stガンダムの作画のほうがよく目立つ。描く人の汗が匂ってくるようなこってり味で。いかにも画家あがりが描いたんだって主張しているよう(ホントにそうかどうか知りませんが)。
筆致の勢いで戦闘を描くというのは、もはや失われた技術でしょう。個人的な好みで言えば、人物の描き方がやや淡泊な(絵の話ね、シナリオじゃない)1stガンダムよりTVシリーズのZの描き込みのほうが好き。だから劇場版Zの絵は少し残念だったのです。
映画ではオリジナルと新作画が混じっているので、どちらの良さも相殺されています。もうあの時代のことは忘れろ、と全部新作画にしてもらったほうが良かったかもしれません。でもやっぱ忘れたくないですね。
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で、映画見た後、スシ食って、師匠とうちのマダムとシャア話に花咲かせて、TUTAYAでDVD借りて、深夜「ケロロ軍曹」DVD7巻の池田秀一が出てるエピソードをチェックしてから、マダムのたっての希望で1stの劇場版「めぐりあい宇宙」を見る。僕は眠気に勝てずア・バオア・クー攻略を待たずに陥落。ガンダムな一日でした。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-06-05 18:38 | Comments(3)
 
without thought 6 展
昨日6月2日「without thought 6」展をD&Departmentに見に行きました(7日まで)。今回のテーマはCOIN。プロジェクト/デザインディレクションを深澤直人さんがつとめ、企業デザイナーやNaoto Fukasawa Designのスタッフらが共通テーマをもとに作品を制作しています(深澤さんの作品は出品されていません)。深澤さんが展覧会趣旨にこう書いています。「赤ちゃんを除けば、万人が毎日コインに触れている。(中略)その誰もが共有する日常の行為を使って私たちはデザインで詩を書こうとしている」と。
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いくつか心に残る詩がありました。一番は荒井心平さんがデザインした「指輪」です。金属製の飾りのないシンプルな指輪で、最初、何でこれがコイン?と思ったのですが、表面にギザギザがあるんです。そう、百円玉の輪郭だけが指輪になっている。コインというと表裏の図柄ばかり思い出してしまうけど、周りのギザギザってポケットの中などでコインを認識するときにかなり重要。そのことを思い出させてくれます。そういやギザジュウ見ないな、最近。

マネートレイが3点ありました。ひとつはスポンジ製で、トレイ自体が変形することでコインをつかみやすくなるようにデザインされている。ひとつはおそらくプラスチック製で、トレイ上でコインを指で手前に引き寄せてからつかめるように4本の溝が入っている。もうひとつはファミマの形。前者2つは普通のトレイって意外とコインが取りにくいという忘れかけてた不便さに気づいて、それをうまく解決しています。ステンレスのトレイだったりすると、爪が金属にこすれてヤーな感触まであったりして。スポンジのトレイは触感までデザインしてあります。

貯金箱をモチーフにした作品が多かった。考えさせられたのは、貯金箱のコインを入れる口の形状の記号性です。モノに横一本の溝が開いているだけで、それが貯金箱になる。この溝は一方通行の穴で、「入れたら出てこない」ということを示します。郵便ポストや投票箱の横長の口もやはり同じ記号性を持っている。作者の許可もないのに作品を一点一点写真に撮るわけにはいかないので(会場写真はちゃんと許可とって撮影しました)、うちの貯金箱の横長の穴を見て下さい。
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これです、これ。「入れたら出てこない、覚悟しとけ」と語る口は。子供のころの、100円玉を入れるときの真剣な覚悟を思い出します。目標達成のため、清水の舞台から飛び降りる気持ちで千円札とか小さく折り畳んで入れたりして。単純な形の記号性に個人の記憶が重なり、軽妙で品のあるデザイン詩を堪能できました。
全体的にモチーフが重なる作品が多かった点が気になりましたが、やはり見ておくべき展覧会です。

それと、D&Departmentにアサビの2年前の卒業生が勤めてました。まだ2日目とか。憶えていてくれて嬉しかった。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-06-03 18:45 | Comments(2)
 
二項対立(4)つながりを見つけること
2つのものを対比させると、ものの性格を分かりやすく描き出すことができる。雑誌でもテレビでも頻繁に使われる常套手段だ。たとえば、朝日新聞とNHKの徹底比較とか、二人の天才レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラーメン対カレーライス、アキバとウラハラの文化史など……。

朝日新聞と比較するのは読売新聞でもニューヨークタイムズでもいい。ダ・ヴィンチ対ラファエロでもいいし、ダ・ヴィンチとピカソの比較でもいい。まして相手がラーメンなら「どっちの料理ショー」のごとく、讃岐うどんでもスパゲッティでも寿司でもいい。アキバと銀座を比較するのも面白い。

つまり二項対立ではあるが、任意に2つの項目は選べる。ただ、対比させて語るには、お互いに共通点がないと、説得力を持たなくなる。支配的なマスメディアであること、ルネサンスの巨匠であること、天才と言われていること。国民食であること。人気麺料理であること、文化の発信地であること……、こうした共通点があるから、2つの比較がお互いが相手の性格を照らし出す対照的な関係になる。

昨年ちょうど今頃、Casa BRUTUSのモダニズム建築特集で、編集者からブルーノ・タウトとアントニン・レーモンドの二人で記事を作ってくれないものか、と相談を受けた。外国人建築家であること。日本に滞在して、日本のモダニズム建築の基礎を築いたこと。日本に実作を残していること。二人にはたしかに共通点がある。しかし、あまりに違いすぎる。

タウトは1933年から3年半しか日本にいなかったが、レーモンドは45年間も日本にいた。タウトはドイツで名声を築いたが、ナチスに追われ日本へたどり着く。が、建築の仕事はほとんどなく、工芸指導をしながら群馬のお寺の草庵で隠者のような生活を送っていた。レーモンドは1917〜37年、戦後1947年〜73年日本にいて、住宅、オフィス、米軍基地、学校建築などバキバキ仕事をして、モダニズム建築の先駆者として地位を築き上げた。

モダニズムつながり、外人つながりだからって、何か具体的に二人の建築をつなげるものがないと記事が書けない、と最初はこの企画は無理だと言った。とは言いつつ、滞在期間が重なっているし、どこかで二人が会っているかもしれないと資料をあたってみることにした。

すると、井上房一郎という人物が浮かび上がってきた。井上は高崎の建設会社、井上工業の社長の子息で、パリでの遊学経験がありヨーロッパ文化への造詣が深かった。仙台の工芸試験所を半年で辞して東京に戻っていたタウトを、井上は高崎に招いた。郊外の達磨寺境内にある洗心亭を住まいとして世話し、地元の工芸指導を依頼した。
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タウトの暮らした洗心亭

井上は、銀座と軽井沢に「ミラテス」という工芸ショップを持っていた。銀座の店でタウトデザインの照明スタンドを気に入った実業家、日向利兵衛は、熱海の別邸の増築部分のインテリア設計をタウトに頼むことになった。それがタウトの日本に残る唯一の実作、日向別邸だ。
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井上房一郎邸。現・高崎哲学堂

井上とレーモンドもミラテスで知り合ったと言われている。戦後、井上は東京の麻布笄(こうがい)町にレーモンドの自宅を訪れた。その家をえらく気に入り、レーモンドに頼んで図面を借り受け、高崎にほぼ同じものを建てて、自分の家とした。レーモンドの後期の傑作、群馬音楽センターの設計を彼に依頼するように仕向けたのも、群馬交響楽団の理事長であった井上だった。
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群馬音楽センター@高崎

高崎という町、井上房一郎という男を通して、タウトとレーモンドはつながっていた。

物書きにとっての二項対立は見つけるものだ。解決するものでも、二者択一を迫るものでもない。矛盾は矛盾のままで面白い。2つがどうつながっているかを探り出し、つながりを対立軸にして2つを対照的に描き出す。逆に言えば、つながりさえ見つけ出せば、どんな二項対立も可能になる。

タウトとレーモンドはナチスの被害者という点でもつながっている。タウトは共産主義に傾倒したためナチスのブラックリストに載っていることを知人から知らされ、スイス経由で日本に来た。レーモンドはチェコ人で彼の兄弟姉妹は全員ナチスの侵攻によって殺された。レーモンドは戦時中アメリカ軍に協力し、爆撃のシミュレーション用に日本の家屋をアリゾナで再現した。どうやったら焼夷弾で日本の木造家屋を効率よく燃やせるか。その実験だった。ナチスと同盟関係にある日本をあの戦争から早く手を引かせたかったからだったという。レーモンドは戦後日本に戻りその惨状に涙したという。彼の中では日本への愛着よりナチスへの憎しみが勝っていた。

デザインを叙述することを仕事とする僕が二項対立にこだわるのは、おそらくデザインという作業もまた二項対立を見つけることから始まるものだからだと思う。二項対立を見つけることは、つながりはどこにあるかを探すことでもある。
デザインとは矛盾を解消する手段じゃない。“優れた矛盾”を創り出す作業だ。2つ前の投稿にも書いたが、デザイナーの役割は「実用性と造形美、高品質とコスト抑制、環境保護と経済発展、生産者の論理と生活者の視点、製造側の思惑とマーケットのニーズ、ユニバーサルデザインと個別対応性、伝統と先進性、地域文化と国際性、利潤追求と社会倫理といった矛盾をはらんだ問題をいかに解決するか」であり、取り組むべき問題は山積みだ。

だが、こうした二項対立の矛盾を完全にデザイナーが解消することは不可能だ。矛盾をどこかで両立させる解決策がどこかで必要となる。デザインとは、どう心地よい矛盾を創り出すかという知恵だと思う。それが“かたち”を司るデザイナーの領域だ。ここで言う“かたち”とは実世界の二次元・三次元的物体だけを指すわけではない。ソフトウェアも人とモノとの関係性も“かたち”である。

かたちとは矛盾の器。僕はそう定義する。

概念上で二項対立の矛盾が解決できても、それを“かたち”にした瞬間に、かたちの中に矛盾が生まれる。たとえばユニバーサルデザインを考えればいい。完璧なユニバーサルデザインは存在しない。優れたユニバーサルデザインと呼ばれる製品でも誰かにとっては使いづらく、必ずユニバーサルデザインの理念に反する要素が含まれている。

が、心地よい矛盾というのがある。それは美しきコントラストとなる。矛盾は力強い逆説を生む。矛盾の美しさを創造する力こそ、“かたち”の創造に携わるデザイナーの力である。

矛盾というとネガティブな印象のことばなので、こう言い換えておく。
デザイナーの仕事とは、一見全く違う方向性を持ったものの間に、誰も気づかなかったつながりを見いだし、そのつながりを美しく見せること、それが美しい“かたち”を作ることだ。
”かたち”はつながりの器。共存の器でもある。

それを読みとるのが僕ら物書きの仕事だ。どんなつながりがあるのか。作った人間も気づいていない二項対立やつながりが潜んでいることも多い。それがあるから、この仕事は面白い。
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井上房一郎邸の苔。あの日も雨だったなあ

text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-06-02 19:32 | 二項対立 | Comments(0)
 
甕雫で祝杯
ブログを開設して丸1か月経ちました。
読者あってのブログです。読んでいただいているすべての皆々様方に感謝します。
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誕生たった1か月ですが、もう祝杯です。今日は酒の話です。

先日NY在住の写真家夫婦がわが家にやってきました。客人が焼酎好きということで、渋谷駅の東急百貨店へ行き、物色していたのですが、日本酒やワインの品揃えはいいけど、知ってる銘柄でうまそうな焼酎がない。チッ、他行くかと思っていたところ、「お一人様2つまで」という文字が目に入り、購入してみることに。宮崎の京屋酒造の芋焼酎「甕雫」(かめしずく)。大当たり!でした。

甕を開けるとプーンと芋のかぐわしい香りがする。芋は臭いといいますが、この香りはやさしくみずみずしい。飲んだ瞬間、やばい、と思いました。サラリサラリと飲めちゃう飲めちゃう。アルコール度数は20度なので、飲み口は軽い。濃厚なコクとか強いクセとかある芋焼酎が好きな方には向いてません。

白木のひしゃくがデフォルトアイテムで付いていて、これで注ぐのがいいんです。霊水を大事に飲む感じで。大事に飲むから飲み過ぎない。(もったいないからと他の酒を飲んでいるので結局飲み過ぎてる)。

何か行動を起こすときに「作法」というか「儀式」があることって大切です。レコードを聴くときにレコードを拭いてターンテーブルに載せて慎重に針を落とす一連の行動が、音楽をじっくり聴こうという気にさせる──酒を甕から木のひしゃくで注ぐのは、それと同じ感覚です。デザインのことばで言うと、モノをデザインすること(この場合はひしゃく)を通して「作法をデザイン」するってことになります。広い意味でのインターフェイスデザインとも言えます。

1800mlつまり一升で3990円ですから、普通の一升瓶の焼酎よりは高いですが、むしろ、こんな酒をこの値段で一升も飲める豊かな国に暮らしている幸せを実感できる。そんな芋焼酎です。

よく考えたら丸1か月というには1日早かった。ま、いいかっ。祝杯、祝杯。明後日もサッカーで祝杯をあげたいものです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-06-01 20:22 | Comments(0)
 
二項対立(3)デザインとアート
男と女というのは典型的な二項対立だが、世の中オカマもオナベもいる。ホモセクシャルとヘテロセクシャルだけでなく、バイセクシャルもいる。ゲイを溌剌と生きる人もいれば、性同一性障害に人知れず悩む人もいる。ゲイにはネコとタチがある。

ちなみにネットで調べたらネコとは動物の猫じゃなく、工事現場で使う土砂運搬用の一輪車をネコグルマということからきているそうな。ネコグルマが受け身のほうの、タチが一輪車を押すほうで、交わりの光景を想像させるらしいです。

性と一口に言っても生物学的セックスと社会的文化的なジェンダーがある。女性が「女性的なるもの」である必要はないし「女性としての役割」を背負って生きる必要もない。

男と女という二項対立を巡って、生物学、性嗜好、社会学などの次元にさまざまな対立軸が張り巡らされている。対立軸の在処に読みとり、絡み合う軸線を丹念に紐解いていけば、抑圧された人々の居所や社会の抑圧の構造が明らかになる。問題設定の方法として二項対立の有効性を示すひとつの例である。

では、アートとデザインという二項対立では何が描き出せるのだろうか。

アートとデザインを巡る対立軸をあれこれ考えていたら、答えが出ない。この2つの対立には有効な対立軸が見当たらないような気がしてきた。実用性の有る無し、目的の有る無し、制約や依頼者の有無、業界の違いなど、それらしい対立軸はあるが、ちょっと考えれば、それらがあまり有効でないのは誰でも分かる。たとえば、壁に掛かる一枚の絵には、癒し効果も空間を変える力も、持ち主の社会的地位を表す記号として意味がある。ギャラリストが自分の狭いスペースの画廊で行う企画展のために「自由に描いて」と発注した絵かもしれない。

かつては有効な対立軸が存在していた。ファインアートかコマーシャルアートか。純粋美術か商業美術か。この二項対立は、ファインアートの存在意義を語りたい人には今も有効かもしれない。個人的な印象だが、ヨーロッパにはこの差にいまだ敏感なアーティストが多い。が、コマーシャルアートの側にいるとされる人間にとって、これは全く正当性を欠いた不愉快な二項対立である。アートもデザインもその定義が拡大してしまった今、バックミンスター・フラーの仕事はファインアートかコマーシャルアートか問うことの無意味さを考えればいい。

ファインでないアート、正確に言うとファインであることを指向しないアート、より正確に言うと芸術のための芸術(Art for Art)を指向しないアートが、コマーシャルアートという言葉の中に一括りにされている。ファインな高みを指向しないアートは、利潤追求のために妥協を余儀なくされる商業指向のアートだと語っているのだ。

こう考えると、Design for Art という言葉も可能になる。芸術の高尚かつ形而上的領域を守るためにデザインが存在しているという意味だ。かなり皮肉な見方で、デザイナーにとって自虐的な考え方ですらあるが、Design for Artの意識がこの世に存在しないと言えるだろうか。

デザインはアートの対立概念である限り、アートの輝ける王国を守る先鋒隊として役割を果たすことになる。たしかに、この社会にはデザイナーが解決すべき問題が山ほどある。実用性と造形美、高品質とコスト抑制、環境保護と経済発展、生産者の論理とマーケットのニーズ、ユニバーサルデザインと個別対応性、伝統と先進性、地域文化と国際性、利潤追求と社会倫理といった矛盾をはらんだ問題をいかに解決するか。非常に大切な仕事である。適切で独創的な解答がなされれば、それは“グッド”と評される。

先鋒隊の役割はグッド/バッドでしか判断されない。そこから先は王国軍の本隊であるアーティストたちが闘う領域である。本隊の領域に足を踏み入れ活躍するデザイナーもいる。が、しかし、デザインの専門家集団は、グッド/バッドの基軸を巡る言葉しか持たず、この基準を超えたデザイナーを評価する言葉を持たない。アートの語る言葉を操る人たちの評価を待つしかない。こんな棲み分けは妥当なのだろうか? アートへのコンプレックスなのか、それとも居心地のいいせいなのか、少なくとも現代のデザイナーはDesign for Art の呪縛から解き放たれていないような気がする。

本当に複雑なこと、ミラノでなくアフリカで起こっていること、誰かの善が誰かの善でない場所で起こる悲しいことに対してデザイナーは闘っているのだろうか。気づいているのに、考えまい、感じまい、としていることが多すぎやしないか。新しいとか古いとかいう基準だけで物事を判断しすぎじゃないのか。五感を解放すると言いながら逆に閉ざしている感覚があるのではないか。企業のため、国益のためにグッドと評価されることに殉じるだけでいいのだろうか。

アートとデザインの二項対立はデザイナーにとって危険なものだ。デザイナーの役割を限定しすぎてしまう。アートの立ち位置は示すかもしれないが、もはや未来のデザインのあるべき位置を指し示してはくれない。

ならば、デザインと対立させて、デザインの輪郭を示してくれるものって何だろうか? 

考えときます。

矛盾を解決し新しい道を指し示す手段であるデザインが、そろそろちゃんと向き合わなくてはならないのは「世界の本当の姿」だ。やっぱパパネックの『Design for The Real World』(邦題・生きのびるためのデザイン)は読み直さなくちゃ。フラーがアートにもデザインにも建築にも工学にも分類不能なのはまさしくDesign for The Real Worldだったからなのだし。

本当に複雑なことを解決する知恵と力、それがデザインです、きっと。

【まとめ】 デザインとアートの比較は、デザイナーにとって考える必要のないことかもしれません。アーティストと言われる人もデザイナーと言われる人も本当は同じ問題に立ち向かわなくてはいけないのですから。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-31 21:15 | 二項対立 | Comments(0)
 
この文字は何?
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何と読むのでしょう?


【正解はここをclick】
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-30 19:36 | Comments(4)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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