藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
ああ、新宿駅サイン計画
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JR新宿駅のサイン表示がひどいことになっている。だいぶ前から気になっていたが、名作が台無しです。1988年GKグラフィックスがJR新宿駅のためにデザインしたサイン計画は素晴らしいものだった。(導入は89年だったと思う)。首都圏の駅のサイン計画は当時、黎デザインによる営団地下鉄[*注]が一歩先を行っていたのですが、GKのサイン計画はとにかく美しかった。

山手線の黄緑、中央線のオレンジ、総武線のイエロー、埼京線のグリーンなどJRの財産である「色」が、GKグラフィックスによる抑制されたデザインの中に生かされていた。「抑制された」と表現したのは、サインボードが環境に溶け込むように配慮されていたからだ。プラットホームやコンコースの線名表示(番線標)はダークグレイでの文字が白抜き、サインボードばかりがごちゃごちゃある感じを少しでも抑えようとしていた。

ホームの駅名表示サインボードは丸みを帯びていて圧迫感を抑え、下に少し傾き視認性を高めている。コンコース内の構内案内図も人の流れを妨げないように丸みを帯びていた。階段の登り口がゲートのようにデザインされた。「結界」を意味するものだった。目立てばいい、わかりやすければいい、ということだけでなく、人の無意識にも働きかけるデザインのインテリジェンスに溢れた斬新なサイン計画だった。LEDのオレンジとグレーンと赤の光を表示の主役として採り入れる試みとしても、それまでのサイン計画には無いものだった。

新宿駅のホームには、まだこれらの遺産が残っている。しかし、コンコースはひどい状態だ。蛍光灯がまばゆすぎ、光が過剰、プラスチックボードはこの上なく安っぽい。抑制は皆無。白抜き黒バッグで環境に溶け込むことを目指したデザインとは正反対だ。駅を降りる前から○○バシカメラの店の中ですか? 改装工事中といえ、もう少しやりようがあったのではなかろうか。

名作ロンドンの地下鉄を例に挙げるまでもなく、サイン計画は10年、50年いや100年の時間をかけてじっくり育てるもの。効率をばかり追っているとしっぺ返しが来ることがわかったのだから、JRさん、サインにもっと知恵とおカネをかけてください。
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今も残るかつての遺産。
カーブして下を向いた駅名表示板とダークグレイバックの路線名表示板
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ホームの路線名表示板を真下から見上げた図。
配色などは他の山手線の駅と一見同じだが、カーブしているのは、
初期に試行的に作られた新宿駅と秋葉原駅だけ
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表示板がゲートのようにデザインされている


[注]営団地下鉄(現・東京メトロ)のサイン計画は、村越愛策デザイン事務所、坪井恭平デザイン事務所、鎌田経世によって1973年に千代田線大手町駅のためにデザインされたものがベースとなっている。73年、村越愛策デザイン事務所のチーフデザイナーとして千代田線大手町駅サイン計画を担当した赤瀬達三が黎デザイン(現・黎デザイン総合計画研究所)を設立し、営団地下鉄サイン計画を引き継いだ。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-28 23:05 | Comments(3)
 
二項対立(2)逆説
3つ前の投稿の二項対立の話の続きです。
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二項対立にはさまざまな種類がある。二項対立というと、男と女、表と裏、理性と感情、愛と憎しみ、デジタルとアナログように、ほぼ対等なものどうしが対立する関係だと思いがちだが、2つの項がそのように対称性を持って対立している関係はむしろ珍しい。二項対立には、著しく非対称なものや、本来対立関係が成立しないものもある。二項対立は対称性でなく対照性を明らかにするものだ。そのため任意に二項が決められ、やや強引に対立関係に置かれるケースも多い。

【有と無の二項対立】
非対称の極端なケースとして「有と無」型の二項対立がある。「無」とは存在しないものだから、本来、2つを比べることもできないし対立させることすらできない。「有と無」「在と不在」といった対立は、ただ概念上の対立だけが存在する。たとえば東洋思想のように「無」や「空」はひとつの概念として捉えれば、有と無の対立は非常に示唆的なものとなる。0と1も同じだ。0を哲学的な無と捉えるか、2進法の記号として捉えるかで、その対立の性格は変わる。本来対立できないものを対立させてしまうことで、もうひとつの側面が見えてくる。

【逆説の力】
生と死の対立も有と無のような対立だ。生物学的に考えれば、死を生物としての活動が途絶えた状態、つまり生の欠如と捉えることができる。しかし、死を生を完結する絶対的な瞬間や再生のプロセスと捉えれば、死は生を照らし出す鏡となる。死のない生は怠惰で退屈なものだろう。その認識が「死を生きる」という逆説を可能とする。

陰翳礼讃、無知の智も同じだ。無を通して有を語る。死や闇や無知を物理的な欠如や不在と考えず、死や闇や無知をひとつの世界として捉えることで、「生」や「光」や「知」の新たな姿が見えてくる。無に対する見方を変えれば、有と無には新たな対立軸が生まれるのだ。

こうした逆説は、デザインコンセプトを語るのに有効だ。無印良品やノーデザイン、アノニマス(無名性)という考え方がそう。「無」「デザイナーの不在」を語ることで、逆にブランドやデザインの価値やデザイナーの存在意義をアピールできる。

深澤直人と企業デザイナーたちによる「without thought」も逆説的な表現だ。「考えないでおこなう行為」をひとつの世界として捉えることで、無意識の中に埋もれた、もしくは意識と無意識の狭間に埋もれた人間の行為を発掘して新たなデザインを生み出している。「思考の不在」という逆説的タイトルが指し示すのは、デザイナーの「思考」に他ならない。

フィリップ・スタルクのように「デザインは死んだ」と言う手段もある。「建築は死んだ」「モードは死んだ」「モダニズムは死んだ」と語る手もありだ。
余談だが「!?」を付けると雑誌のタイトルになる。「デザインは死んだ!?」「モードは死んだ!?」「日本経済は死んだ!?」「プロ野球は死んだ!?」とかね。

【非対称の二項対立】
「有と無」型ではないにしても、対称性が著しく損なわれている二項対立は多い。神と人、個人と社会、現在と過去、全体と部分、ディテールと全体、瞬間と永遠、表層と深層、一と多、中心と周縁など。こうした二項対立においても逆説は力を発揮する。「部分は全体である」「瞬間に永遠を見た」「ディテールに神が宿る」などの言葉は物事の核心に迫る。

【2つの対立軸】
「中心と周縁」も一見、著しく非対称な対立だ。規模や広さを考えれば周縁が圧倒的に広い。しかし「中心と周縁」の中には「広さ」という対立軸のほかにもうひとつの対立軸が潜んでいる。密度だ。中心は凝縮されている。「都心と郊外」を例に考えてみればいい。都市は人も情報も凝縮されている。「密度」という隠れた対立軸を意識すれば、「周縁こそ濃密」「東京の中心、皇居という空虚」といった、やはり意味深い逆説的な表現が生まれる。

【もうひとつの対立軸が生む逆説】
同じように「表層と深層」は非対称だ。表層はうすっぺら、深層には奥行きがある。が、「表層と深層」にも隠れた対立軸がある。コミュニケーションである。表層とはインターフェイスである。外と内の情報が接し、衝突し、融合する“場”だ。深層には本質に根ざした不変の価値があるかもしれない。が、現代社会では、高速に情報交換が行われ、情報が共有され、新しい価値を生産しつづける“場”が求められている。コミュニケーションという対立軸から考えれば、「表層」と「深層」の立場は逆転し、「表層に構造がある」という逆説が力強い言葉となる。

ミース・ファン・デル・ローエによるデザインの金言“Less is More”の中にも、対立軸は2つある。MoreとLessは量で考えると、ひどく非対称だ。しかしLess is Moreの語ることは、質の問題だ。量や大きさの問題ではない。Moreが質の次元の話だから、Less is Moreの逆説が成り立つ。ミースはたった三つの単語の中で、量と質という2つの対立軸を巧妙に操作しているのだ。

【まとめ】
二項対立の対立軸はひとつとは限らない。対立軸を操ることで、有効な逆説を生む。特に二項対立が、有と無のような関係である場合や、極端に非対称である場合、対立軸を複数設定し、隠れた対立軸をあらわにするような逆説を考えれば、デザインの奥義に迫るような力強い言葉となる。これが言葉の力。それが本日の結論。

次回は対称・非対称とは違う二項対立の話をする予定。赤と白とか赤と青とか、ワインと日本酒、みのもんたと久米宏とか任意で選べる二項対立の話をする。今日はここまで。
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寄り添う二冊。古書店にて。本文とは関係ありません。

text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-27 19:02 | 二項対立 | Comments(0)
 
スキンな建築
スキンをいじって、文字を大きくしてみた。CSS編集をちゃんと理解していないので、えらく時間が掛かった。それにしても何故スキンというのだろう。皮膚、外皮、表皮、表層である。ブログのスキンとは、雑誌風に言えばレイアウトのフォーマットのことだ。ブログの見栄えを決めるという意味があるだろうが、スキンは情報の配置を決める。

スキンをいじってタイトルや本文の文字の大きさや色、記事やメニューの位置などを変えることは、ブログの情報の構造を変えることだ。あまり文字のポイントを大きくすると長い文章は書きにくくなる。日付を大きくすればその記事は日記のような性格を強くする。スキンが記事の性格さえ決めてしまう。つまり、スキンとは構造なのだ。
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ヘルツォーク&ド・ムーロン設計プラダビルブティック青山

「スキン=構造」といえば、ヘルツォーク&ド・ムーロンのプラダブティック青山や伊東豊雄のトッズ表参道ブティックなどを思い出す。建築の表層が構造体と一体化している。元祖はフラードームだろうか。

レンガを積んだ組石造の建築も、外壁が構造体になるのだが、そこでは表層/深層という二項対立は意味をなさない。建築で表層やスキンという言葉が意味をなすのは、外壁や屋根など建築を囲うものが非物質的なものを志向しはじめた時である。

スキン=構造の建築はHPシェル構造(簡単に言えば曲面で力を分散させ逃す構造)の建築など、以前から近代建築のテーマである。構造家・建築家フェリックス・キャンデラのように、HPシェル構造を駆使して屋根をあり得ないほど薄くすることを試みた人もいる。外壁を軽く薄く滑らかな皮膜に近づけようとしたのだ。が、キャンデラの表皮は鉄筋コンクリート造であり、外部から内部を守るシェルターだ。外部と内部をつなげる界面ではない。外と内をつなぐ透明な表皮でも、外気を採り入れる呼吸する皮膜でもない。プラダもトッズもそのスキンは透明で外と内をつなぐ。

現代の建築の表層は、内と外をつなぐインターフェイスになっている。1980年代のポストモダン建築は、深層に本質があると考えず、表層のうすっぺらで交換可能な虚飾にこそ重要と考えたが、それはあくまで記号の戯れであり、その表層には構造がなかった。コンピュータがGUI(グラフィックユーザーインターフェイス)を交換可能の情報の「表層兼構造」として世間に浸透させて、建築も後を追うようにその可能性を探りはじめた。
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ただし建築と情報空間が決定的に違うのは、情報空間のインターフェイスはレイヤーになっている。表層なのに層をなしているのだ。ブログのスキンの上にはブラウザのGUIがあり、僕の場合はMacOSXのインターフェイスがある。重層する表層の建築なら、ジャン・ヌーヴェルのカルティエ財団ビル(感動しました)や青木淳のルイ・ヴィトンの店舗などが挙げられるだろうが、「表層=構造」ではない。建築において「表層兼構造」が「重層性」を獲得できるだろうか。うん、まだそこまで行った建築は見たことないな。

僕は、ものの本質、人間の本質はインターフェイスだという考え方に今とても惹かれている。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-26 23:58 | Comments(1)
 
ラ・トゥール展へ行き、オーラと気合いを知る
上野の国立西洋美術館に、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展を見に行きました。真筆とされる作品が40点しか残っていないため、失われた作品を知ることができるよう模作が数多く展示されています。これほど堂々と模写が真作と混じって展示されている展覧会はかつて見たことありません。

いっしょに行った“マダム美術事典”(なんのこっちゃ?)によると、フェルメールと同様で、真筆とされる作品も疑わしいものがあるらしい。これ違うんじゃないと猜疑の目で見た作品もありましたが、やはり今回の目玉、ルーブル美術館から来た「ダイヤのエースを持ついかさま師」はオーラを放っていました。模作の多い展覧会だからこそ、ベンヤミンの言うオリジナルの作品の放つアウラ(オーラ)とはこのことか!と実感できたわけです。

だけど、こうも思いました。オリジナルだからすべてがオーラを放つワケじゃない。それだと西洋美術館中がオーラでムンムンになります(建物だってコルビュジエ設計だし)。が、実際はそうじゃない。オーラを放つのは、名画中の名画だけ。常設展ではクロード・ロランの風景画などが渋いオーラを放っていました。

西洋美術館ではマックス・クリンガー版画展もやっていた。これがよかった。 クリンガーは19世紀末から20世紀初頭に活躍したドイツの芸術家です。ラ・トゥール展を含め、ひさびさシンボルとメタファーで構成されたイメージの世界に浸ることができました。こういう世界を近代は捨ててしまったのか。いやどこかで形を変え生きているような気がするのだが。
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西洋美術館で、もうひとネタ。常設展の一角で、美術館前庭の免震工事を記録した展示をやっていました。ロダンの彫刻「地獄門」や「カレーの市民」を地震から守るための工事です。ボタンを押すと考える人が揺れる免震シミュレーション模型まであって、気合いの入った展示でした。その、免震工事の過程を示した「職人の技」というパネルに書かれていた文章が、あまりに強烈だったので、隠し撮りしたのを紹介します。かなりアニマル浜口が入ってます。浅草近いし。読んでみてください。
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言葉に表してんじゃん。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-25 19:34 | Comments(0)
 
二項対立(1)
「デザインをいかに言葉で表現するか」というのが僕の大きなテーマだ。言い方を変えると「デザインにおける“言葉の力”の探究」となる。
物書きとしての経験からの分析だが、デザインや建築の特長を読みとり言葉で表現するには大まかに言って2つの方法がある。「二項対立」と「類推」だ。
二項対立による叙述は、光と影、人工と自然、中心と周縁、見えるものと見えざるもの、理性と感情、合理主義と神秘主義、対称と非対称など、相反する項目の対立をデザインの中に見つけ出す方法だ。デザイナーは相反する項目の、どちらかを選択したのか? 止揚したのか(つまり、ひとつ次元の高い観点から統合的に問題解決を図っているのか)? 共生を考えているか? 共生の場合、優先しているのは混ぜ合うことか、バランスか、お互いの違いを強調してコントラストを見せているのか?  二項対立による叙述は、対立を見つけ、それがどう解決されたかを言葉によって表現する方法だ。

類推による叙述は、「のようだ」「みたいだ」「に似ている」「連想させる」と類似するものを挙げる方法だ。「デッサウのバウハウスの校舎は機械の時代の神殿のようだ」「アアルトの花瓶はフィンランドに無数にある湖を思わせる輪郭をしている」。
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ヴァルター・グロピウス設計バウハウス校舎@デッサウ。実際見ると意外と小さいです

全然関係のない文脈や、事象の深奥に構造的な類似を発見するアナロジーの力は、最も創造的な力で、直観の力にもつながってくる。ものの仕組みを捉えるアナロジーとは別に、表面上の類似を語るアナロジーもある。これは使い方が難しい。

「誰々のようだ」「××の作品に似ている」という他人や他人の作品との類推は、デザイナーやアーティストは極端に嫌がる。インタビューの時の禁句である。「あなたの仕事は●●さんの仕事に似てますね」と言おうものならザッツエンド。デザイナーやアーティスト、建築家へのインタビューのコツは、いかに相手の独創的な活動を理解しているか、態度を示して相手の懐に入ること。話を聞く際、机の上に相手の著書や資料を並べるといった小手先のテクニックも重要だ。怒らせて本音を言わせるインタビューの方法もある。が、デザイナーやアーティストの取材には適切でない。いい話を引き出したいなら、瞬間的でも相手を愛すること。類推は豊穣だが独創性を語る言葉としては少々弱い。
近代が生んだオリジナリティ幻想が、誰かに似ているという類推はすなわち真似、パクリだという妙な偏見を生んでいる。オリジナリティ幻想に懐疑を持っているアーティストでも「誰々に似てますね」と面と向かって言われたら、やはり気分を害する。それが近代だ。だから二項対立という問題設定が重要性が増す。それは独創性がどこにあるかを語るのに実に効果的だ。

といっても、類推による叙述は、読み手の想像力や記憶を喚起してイメージを広げるのに効果的だ。味覚や嗅覚に関する叙述には欠かせない。ワインのソムリエたちは類推の表現を駆使している。ただし多用しすぎると、形容詞の羅列と同じ、中身のない表現になる。イメージを広げる効果はあるが、逆に問題の本質がどこにあるか表現するのは難しい。
類推(アナロジー)の問題は、メタファーやシンボルの問題にも通じる。メタファー(隠喩)やシンボル(象徴)は豊かで微妙で奥深い表現を生み出す。前近代的と思われがちだが、超近代的といったほうがいい。このあたりはのちのち考える。

今ここで話したいのは、二項対立の話である。

二項対立の叙述法とは、デザインや建築の特長を、相反する項目の対立として描き出す方法だ。弁証法の二律背反であるが、叙述法として用いる場合は、決してロジカルに対立を解決する必要がない。明と暗の対立は二者択一にする必要がない。明と暗の違いを際立たせコントラストの美を強調すればいい。がちがちの初期モダニズム的解決を諦め、東洋的な解決として、明と暗の境界のあいまいさの美を語る方法もある。
建築における光と影の対立は、時間という要素を導入して語れば、詩的な叙述が生まれる。たとえばユイスマンスは小説『大伽藍』でシャルトル大聖堂の、漆黒の森のようなゴシック空間に朝の陽光が差し込む様子を感動的に描写している。光と影の二律背反を時間という要素を持ち込んで止揚する。
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太極図

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の光と影の対立は、西洋的な光と影の対立とは違う。西洋の光は真理である。闇は真理が欠如した状態だ。。つまり有と無の対立であり、直線と曲線、抽象と具象、東洋と西洋といった両方とも“存在する”対立とは性格が全く異なる。(ただしゲーテは色の生成において闇を光と同等の役割をするものと考えた。一概に西洋と括って話すのは単純化しすぎかもしれない。08年10月付記)。谷崎は陰の美、闇の美を礼讃して、影を無でなく有として語ったのだ。闇は光の種を宿し、光は闇の種を宿す。それは太極図の世界に通じる。有と無という対立、として捉える西洋的な認識を、東洋的な知見で超えようとする。だから『陰翳礼讃』はデザイナーや建築家にとって重要な書物なのだ。
二律背反を矛盾と捉えることなく、そのコントラストを最大限に生かす。それが二項対立の奥義を知る者だけが出来る力業だ。

建築の問題設定がバイナリー(二元的)に成り立っているのは、多木浩二も篠原一男論で書いていたし、建築家は昔から知っていることだが、最初に僕がそれを強く意識するようになったのは、安藤忠雄の建築を書くときだった。安藤建築のわかりやすさはコントラストを空間にはっきり描き出していることから来ている。コントラストを読みとれば伝わりやすい文章が書ける。数年前、仕事で大阪、神戸、淡路島の安藤建築を集中的に巡って、彼に関する本を読んで直接話を伺って、そう思った。コントラストがあるから闘える。その後、ルイス・バラガンやアルヴァ・アアルト、ル・コルビュジエ、ルイス・カーン、ジャン・ヌーヴェルなどの建築を書くときも、コントラストを意識した。最近はどんな原稿もまず二項対立を読みとることから始めている。
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ルイス・バラガン設計ガルベス邸@メキシコシティ。建物の上にブーゲンビリア

一番コントラストを意識してその世界を叙述しやすかったのがメキシコの建築家でルイス・バラガンだ。「バラガンのピンクはブーゲンビリアのピンクのよう」という類推法を織り込みながら、「メキシコは光と影の国、生と死の国、祭りの喧噪と祈りの静けさの国。そのコントラストがバラガンの建築に見事に映し出されている。ピンクは矛盾を包括する色。人体の内部の色。母なる色、子宮の静けさの色でもある」と叙述できるのだ。(バラガン→ピンク→子宮は友人のアーティストから教えてもらった発想です)。

二律背反を矛盾として捉えるのでなく、豊かなコントラストと捉えるのには、リズムを読みとることが大切になる。作り手は、相反するものをリズミカルに配置することで、二項を動的に共存させられる。リズムは心地よい時間の経過となり、時にサプライズとなる。ザラザラした感触と滑らかな感触が交互に体験できること。暗く狭い空間からドアを開けると明るく広い空間へ至る驚き。軽いと思って手にしたらズシリと来たとき意外さ、無機質で冷たい表情なのに使えば使うほど曲がり具合ひとつにも温かみが感じられ味が出る道具(柳宗理のステンレスボウルとか)──。

二項のコントラストのリズムをいかに空間やプロダクトに配置するか。それがデザイナーや建築家のセンスであり感性である。それは人が教えられるものではない。そこを描き出すのがデザインを文章で表現するときのツボだ。問題設定という合理的な側面と、リズムという作者の身体や記憶に由来する不確かなながら確実にそこにある「センス」「感性」の存在する位置を、この叙述法で示すことができる。

ポストモダニズムという考え方は、モダニズムの対立項である限りモダニズムの呪縛から逃れられない。そもそも「二項対立」と「類推」と2つの項目を立てている僕の思考が、もうモダニズムの思考法だ。

僕がこんな指摘をするまでもなく、二項対立の問題設定は広くデザインの世界で行われている。デザインの二項対立は、哲学のそれといささか違う。必ずしも弁証法のように対立する二極を「止揚」(アウフヘーベン)する必要はない。

いや、こうとも言える。二項対立の問題設定をした時点で、問題設定をした視点は二項を高所から眺めていることになる。二項対立(二元論、二律背反、バイナリーの思考)が始まる瞬間に、人はメタな次元に移行する。止揚を意図した瞬間に止揚は始まっているのだ。それゆえその後は一概に論理で解決する必要はない。メタの次元に飛んだ感性や直観やカンやひらめきによるあいまいな解決法もあり得る。そこが面白い。

もうひとつ別の言い方をするとこうなる。かたちにすること自体が「止揚」に匹敵する「高昇」なのだ。かたち→理念、肉体→精神へが高昇でなく、理念→かたち、精神→肉体というベクトルを高昇と考えること。だから矛盾を論理的に解決する必要はない。かたちや色こそ、高みなのだ。そう考えると、デザインがとても興味深い世界に見えてくる。

僕が経験的にライター仕事で培った二項対立でデザインを描き出すポイントをここにまとめてみる。

【とにかく】 コントラストに注目すること。

【メインコントラスト】 主題になっているコントラストを見つけ出す。二項対立を探り出すことが、すなわち何がデザイナー、建築家の主題を浮き彫りにする。伝統と現代、透明と不透明、可視と不可視、静と動、アノニマスと作家性、権威とストリートなど。メインコントラストはひとつであるとは限らない。むしろ内と外、光と影など相互に関連するコントラストが絡み合い、ひとつの作品の中に複数コントラストが埋め込まれている場合が多い。が、叙述方法としては、コントラストを絞り込むと読者に伝わりやすい文章となる。主な二項対立は右をクリック《二項対立リスト》

【サブコントラスト】 表現を豊かにするために使われているコントラストをなるべくたくさん見つけ出すこと。これは形容詞で表現できる場合が多い。広いと狭い、柔らかいと硬い、閉鎖的と開放的など。形容詞的対立と「類推」を織り交ぜて使うと、詩的な描写が可能になる。形容詞的対立だけでなく、上の二項対立リストの項目がサブコントラストになるケースも多々ある。形容詞によって表現されるリストはこちら《主な形容詞的二項対立》

【解決法】 二項対立は必ずしも二者択一で解決されていない。二項対立の解決法をどう読みとるかが、デザインや建築を描写する鍵になる。さまざまな解決法があり、たとえば、内と外の空間の対立の解決策は、テラス、パティオ(中庭)、坪庭、縁側であったり、大胆にガラス張りの空間をマッシブな建物に突き刺す相互貫入の時もあれば、障子や半透明ガラスだったりする。

【リズム】 対立する二項をどう配置するか。複数の二項対立をどう並べるか。リズムという視点で見ると、そこに作者の感性が見えてくる。光と影、未来と記憶、インターナショナルと地域性、狭いと広い、光沢とマット、曲面のボリューム感と平面のフラットさ、などがリズミカルに表現されたデザインや建築は、例外なく豊かな体験を提供してくれる。それは二項の動的共存であり、「体験デザイン」である。サプライズ、感動、長く使って飽きの来ない愛着の体験などを提供してくれる。

【まとめ】 コントラストを描き出すことは、作者がどう問題設定しどう問題解決をしたかという合理的な側面を明らかにするとともに、言葉から常に逃れつづける作者の「感性」がどの位置に埋め込まれ、どのくらいの強度を持っているかを明らかにすることができる。

今日はここまで。二項対立の話は、もっともっと続きます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-24 22:00 | 二項対立 | Comments(8)
 
照明@東横線渋谷駅
このデザイン好きです。
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text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-24 01:52 | Comments(2)
 
ピクトグラム商店街@ガード下
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ピクトグラムの話を授業でして、帰路、都立大学の駅を降り、階段を下っていたら、窓の向こうにピクトグラムが見えた。いままでぜんぜん気づかなかった。トリツフードセンターというガード下の商店街の看板で、お店がピクトグラムで描かれている。店名や何屋かの文字による説明は一切なし。かなりラディカルな店紹介だ。1階は、肉屋、ウナギの蒲焼き屋、弁当屋、宝石屋、ダンゴ屋、ブティック、履き物屋、薬局、カメラ屋(なんてあったっけ?)、スキー用品店。2階の「味の散歩道」(いいね、このまったりしたネーミング)は、喫茶店、オヤジ系飲み屋、カラオケバー、釜飯屋(というより焼鳥屋だけど)、カウンターバーと、このガード下の主な店が、ピクトグラムになっている。塗料がまだテカテカしてるので、描かれたのは最近だろう。

トリツフードセンターの常連なら、ああ、このマークはあの店のことかと分かるけど、ここを利用したことのない人が、果たしてこのピクトグラムを理解できるだろうか? ダンゴの下にある冬季オリンピックの大回転みたいなピクトグラムは、ほぼ理解不能。まさかスキーの専門ショップがガード下にあるとは思うまい。逆にこの商店街をよく知ってる人は、そういや何で魚屋と八百屋がないんだろ? 昔からあるはずなのに。あっ漬け物屋もない。仲悪いのか? と思うはず。ピクトグラムの描写は、幾何学的抽象からキャラクター系、毛筆タッチの具象表現までさまざま。薬局のグリーンは理解できるが、宝石屋の赤は、どうして赤なの? この統一感なくケイオスな感じ、土着型ピクトグラムと名づけましょう。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-23 19:20 | Comments(2)
 
メキシコシティ地下鉄ピクトグラム
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昨日の投稿に、70年と86年2度のW杯決勝会場となったメキシコのアステカスタジアムの写真を追加しようと思い、4年前行ったメキシコの写真を探していたら、メキシコシティの地下鉄のピクトグラム(絵文字)を撮ったポジフィルムが出てきました。マラドーナが神の手を使った場でもある、あのアステカスタジアムの写真は、ひどくアンダーで構図も悪くアップするのをやめましたが、ちょうど明日、アサビで「非文字によるコミュニケーション」というテーマで授業をやるので、この地下鉄ピクトグラムの傑作を披露しようと思い、スキャンして、このブログでも話題にすることにしました。
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このピクトグラムの何がスゴイかというと、絵だけで駅名を表示しているのです。各駅ごとにピクトグラムがあり、チャプルテペック駅はバッタのマーク、バルデラス駅は大砲マーク、イザベル・ラ・カトリカ駅は船のマークとなっています。チャプルテペックとはバッタの丘という意味なので、このマークになりました。もちろん文字による駅名表示もあります。たいていは文字とピクトグラムが並置されているのですが、ピクトグラムだけの表示もある。バッタのマークだからチャプルテペック駅だと分かるわけです。車内路線図もピクトグラムのほうが文字より大きい。色は世界各国の地下鉄と同じで路線を示します、ピンクだと1号線となるわけです。写真の大砲のマークのように二色になっているのは乗換駅を示します。ピンクの1号線とカーキグリーン色の3号線が交わる駅だと示しているのです。
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1969年のデザインですが、当時メキシコには文字が読めない人が多く、1970年W杯で外国人を迎えるためにマーク中心のサイン計画にしたのです。日本では日比谷線六本木なら「H04」と無機質な記号で表示してますが、もしピクトグラムにしたらどうなるか想像すると面白い。六本木ならファロスなあの高層ビル、恵比寿はビール、広尾は病院、日比谷は公園、銀座は時計塔、東銀座は歌舞伎、築地はマグロ、八丁堀は中村主水、秋葉原はメイド、南千住は人の首……。

そんなことはどうでもいい。

デザインしたランス・ワイマンは、メキシコ五輪やワシントン国立動物園などの仕事で知られるピクトグラムデザインの第一人者です。ワイマンの実質的デビュー作で出世作、メキシコ五輪のサイン計画は素晴らしい仕事ですが、「ワイマンだけの仕事じゃない。彼は200名いたスタッフの中の一人だ。アメリカ人はマーケティング上手なんだよ」とオーガナイザーとしてメキシコ五輪のデザイン・建築を仕切った建築家ペドロ・ラミレス・バスケスが、僕がインタビューした際、苦虫を噛み潰したような顔で言ってました。
この地下鉄のピクトグラムはワイマン個人が請け負った仕事だといいます。五輪の仕事では業績独り占めと批判されても、ライマンには確実に希有な才覚があった。そのことは、この地下鉄のピクトグラムが証明しています。
d0039955_0573477.jpg

★ランス・ワイマン(Lance Wyman)の公式HPはwww.lancewyman.com

★メキシコシティの地下鉄ピクトグラムをもっと見たい方はAnswers.com内Wikipediaのこのページが詳しいです。Line1(1号線)など各線の説明の項の一番下に、駅名が並んでいて、駅名をクリックすると各駅のピクトグラムを見ることができます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-22 23:56 | Comments(0)


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藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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