藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
機能とサッカーとモダニズム
昨日の続きで「機能」について考察する。機能という言葉の実態をいくら暴いても、機能は死語にならず、この社会は機能を欲しつづけている、と昨日の投稿で書いた。機能は人を誘惑し、人は機能を欲望する、と。
やや決めつけっぽい書き方だったので、実証する話はないかと考えているうちに、面白い実例が頭に浮かんだ。サッカーである。

僕は82年スペインW杯と86年メキシコW杯を見てサッカーに完全に魅せられてしまったのだが、当時サッカー解説といえば松本育夫で僕は彼の言葉に煽られた。「ワールドクラスのシュートです」。ワールドクラスとは神に選ばれし者たちの世界であり、フィールドで展開されている世界は、日本では絶対に見ることのできない芸術的かつ魔術的空間だった。

当時のサッカー解説には戦術解説がほとんどなかった。4-4-2とか3-5-2とかそんな言葉は記憶にない。ただただ神童や将軍や皇帝や神様たちが闘う世界に魅せられた。そういえば最近あまり耳にしなくなったリベロ(ああ、マテウス様)というのも訳せば自由人、ある意味、戦術システムを超えた存在だった。
1992年Jリーグが開幕し、日本人が急にサッカーに詳しくなった頃から、みんなが戦術システムを語るようになった。というよりは、世界のサッカーがシステム重視の、いわゆる“モダンサッカー”に急激に変化したのだ。(変化に火を付けたのはACミランか? 誰か教えてください。ま、最初はオランダのトータルサッカーあたりなのでしょうが……)
サッカーは選ばれし者のクリエーティビティよりも、抜け目ない指揮官が作る“システム”に支配されるようになった。

そこで機能の話になる。モダンサッカーではシステムが機能しているか。それがすべてだ。FWが機能しているか、右サイドは? ダブルボランチは? 試合の評価は、システムとそれを構成する選手が機能しているかしていないかを見ていればいい。自殺点で勝とうが芸術的ボレーシュートで勝とうが、その試合の評価はシステムが機能しているかという点にかかってくる。

サッカーほど「機能」を語るスポーツはない。野球では「機能する」という表現を使わない。野球にはポジションがあり打順がある。守りも攻めもシステムはほぼ固定されており、柔軟性は少ない。チームで一番の強打者が3番を打つか4番を打つかの違いはあっても、外野を4人で守ることはない。選手がなすべきことは、ポジション/打順の「型枠」の中に自分を当てはめることだ。二塁手は二塁手の役割を、4番バッターは4番バッターの役割をこなせばいい。

野球の監督は、選手がポジション/打順の役割をこなせるように、選手のモチベーションをあげていけばいい。システムを構築する必要はなく、まず適材適所を考え、そして選手のやる気を操作すればいい。4番バッターが4番の働きを、エースがエースのピッチングをしてくれれば試合に勝てるのだ。こうした場合は「機能する」という言葉はふさわしくない。4番清原が機能するとか、レフト松井が機能するとは言わない。「役割を果たす」「責任を果たす」「しっかり仕事をした」となる。アプリオリに存在するシステムの中で、選手が責任を果たすかを見て楽しむのが野球だ。昭和のサラリーマン好みのスポーツだということがよく分かる。

が、モダンサッカーは指揮官によってシステムが大きく変化する。FWもMFもDFもシステムによってその役割を変える。選手はシステムを理解し、役割を自ら判断しなければならない。特にMFはポジションとは言い難い。システムによって攻撃的になったり守備的になったりする。モダンサッカーにおいては、選手個々の機能とは可変のものであり、定義しがたいものである。過去の機能主義批判は、機能を物や道具にアプリオリなものと考えることを前提に批判を展開していた。ちょうど野球のポジションのように。しかし、サッカーで僕たちはモダニズムの本当の機能の姿に出会うのだ。

モダンサッカーにおいては、芸術はシステムが機能したとき初めて現れる。逆に言えば、ロナウジーニョでさえ機能しなければならないのだ。かつて80年代マラドーナが機能しているかしてないかなど問うただろうか。かの神童は一人で試合を支配していた。天才もファンタジスタもシステムの中で機能しなければならない。これがモダンであり、モダニズムの行き着いた先である。

ロナウジーニョやエトーがゴールネットを揺らしたその瞬間は、システムが機能した瞬間でもある。僕らはそこに神業を見ると同時に、システムの機能美を見るのだ。
注意しなければならないのは、機能とは、勝利した者だけが、「確かにそれはそこにあった」と言い切れる“後付けのもの”である点だ。敗者には「システムが機能していた」と語る権利はない。いくら評論家に「いいゲームをしていた、ボランチは機能していた」と言われようと、連敗すればそれまで。次のゲームで結果を出した時に、前の負けゲームで「機能していた」ことが証明される。サッカーにおいて機能とは確たる実体が存在するものではない。勝った瞬間にみなが「確かにそこにあった」と感じるものなのだ。

デザインの世界も同じだと思う。「機能美」や「形態は機能に従う」という言葉は、デザインの勝者だけが後付けで語れる特権なのである。機能美があるからそのデザインは成功したのではない。デザインが成功したから機能美と語れるのだ。「形態は機能に従う」と盲信しても優れたデザインができるとは限らない。実態は逆なのだ。

僕ら現代人は「何かがきちんと機能する状態」に憧れ、「何かが機能した瞬間」を美しいと感じる。機能とは科学的・合理的な言葉のように響くが、実は芸術と同じくらい漠たるなものだ。機能とは、ある種の芸術的要素が現代人の心性の中で、“機能”という名に言い換えられたものなのかもしれない。
(そういえばサッカーで黒人系の選手にだけよく使われる“身体能力”というのも誰かが指摘していたけど奇妙な言葉だな。“機能”と同じくらい科学を装った言葉……)

皇帝や将軍や魔術師はフィールドを去りつつある。代わりにベンチのカリスマがその称号を冠する時代になろうとしている。モウリーニョ、ベニテス、ファーガソン、ベンゲル、ヒディング、アンチェロッティ、カペッロの名将ばかり増えている。

スポーツ競技自体、近代の産物である。が、サッカーが完全なモダニズム的スポーツに変貌するのは、ファンタジスタの時代からシステムの時代へ移行する90年代になってからだといっていい。選手が固定的なシステムの中でアプリオリに決まった役割をいかに果たすかを見て楽しむ野球にいささか前近代的のものを感じながら、僕らは「機能」を巡るスポーツ、サッカーに魅せられるのである。
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で、でも、個人的にはジーコ現役時代のシステムよりインスピレーション重視の、モダンになりきれていなかったブラジル代表は大好きだけど。あっ野球も好きです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-21 23:39 | Comments(0)
 
The Nature of Design
d0039955_22314455.gif『デザインとはどういうものか』(デーヴィッド・パイ著 美術出版社)をようやく完読した。翻訳のせいなのか、原文のせいなのか、こちらの集中力をブチブチ断ち切る回りくどい表現の悪文が多くて読むのに苦労した。特に後半は読みづらい。
原題は“The Nature of Design”。「デザインの性質」「デザインの本質」という意味。1964年にイギリスで出版されている。
2つ前の投稿で「デザインの本質」という言葉の濫用について書いたが、この本のような、デザインとは何か、に真っ向から取り組んだ本は、デザインの本質とタイトルを付ける権利がある。
機能主義批判の本だ。60年代、おそらく多くのデザイナーに盲信されていた「形態は機能に従う」という有名なテーゼを再考するため、機能とは? デザインの必要条件とは? 発明とデザインの違いとは?といった根本の根本に立ち返ることから、慎重に論考が展開されている。
船でも工作機械でも、ある装置が作用するは、つまるところエネルギーの変換だ、という地点まで著者は立ち返る。「デザインとは、意図する結果を多少なりとも得るために既知のシステムを適応する仕事であり、そうしておいてエネルギーをそのシステムに注意深く投入させるものである」。今ここでこの引用文の意味を理解する必要はない。ただ著者がここまでデザインを解体して定義し直していることを知ってもらいたい。
機能によって決定されていると思われているデザインが、実は経済によって決定されていること。意図する結果を得るために「これしかない形態」など存在しないこと。無用は無価値でないこと──レンガの壁を平らにしようと職人がこだわれば、それは功利的な判断から言えば、無用の仕事だが、この無用は無駄でも無価値でもない。むしろ必然的であることを著者は明らかにする。そして、形態は全く機能によって決定されていない、ということを丹念にえぐり出す。
ネタばれで申し訳ないが、著者は本の最後で、機能はデザインを理解するための「驚くべき障害」といい、「機能は死語になる」とまで言い切っている。しかし、実際にはそうなっていない。機能美という言葉はいまだに頻繁に使われている。「椅子の機能は?」と問えば、誰もが「座ること」と答えるだろう。デザインを学ぶ人に問うても「その質問には意味がない」と答える人はまずいないだろう。
現代社会は「機能」という言葉を欲している。僕はそう思う。40年前、ここまで明快に「機能」批判が行われているのに、それが今も「機能」という言葉が絶大な力を持つのは、機能とはもはや理性の問題でないからだ。欲望の問題なのだ。機能美とは肉体美と同等のエロチックで、人を誘惑する言葉である。
いま僕らがしなければならないのは「機能」批判ではない。「機能」がなぜ人を誘惑するのかを考えなくてはならない。コストの問題や無用の仕事が実際のデザインを決定していても、それを機能美と言わなければならない理由が、この社会にはあるのだ。それを分析する必要がある。この本自体を批判的に精読すれば、発見は数多くある。とにかく21世紀のThe Nature of Designを僕らは考えなくちゃいけない。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-20 22:52 | Comments(0)
 
図書館とジム
午後、広尾の都立中央図書館へ。

僕は図書館が好きだ。ロケーションがいいのは大田区の洗足池図書館。蔵書や施設面で総合的にダントツなのは広尾の都立中央図書館だ。有栖川宮記念公園の深緑の斜面を登っていくアプローチが心地よく、いい運動になる。今日は新緑の薫りがした。国会図書館も好きだが、開架棚がないのが残念。開架棚は発想の泉だから。久が原図書館はこぢんまりしていて雰囲気がいい。特に喫茶室がアットホームだ。
わが家に一番近く、よく使っているのは目黒区立八雲中央図書館。新しくて天井高があり広びろ快適だが、児童図書スペースと一般の閲覧室が大空間の中に同居しているのがツライ。小さな子どもたちの声で時折、集中がとぎれてしまう。設計者(もしくは設計を依頼した人)は、空間を開放して、いろんな人が交流する街角みたいな雰囲気を出したかったのかもしれないけれど、やはり図書館は静寂さが大切。みんなが余計な物音を立てないように神経を使いピーンと張りつめた空気が流れていると、自然に集中力が増幅する。
児童図書館と、一般の図書館とは、目的が違うものだ。本の読み方がまったく異なる。一方は声に出して読んだり、会話しながら本を読む。一方はひたすら黙読。聴覚的読書と視覚的読書は別種のものだ。大人の図書館利用者に必要なのは静寂の場なのです。設計者はそれをわかっていない。地域コミュニティの“場”になっているのかもしれないが、“読むこと”への配慮が足りないのだ。

それと、こんなことも考えた。
図書館とジムは似ている。
図書館もウェイトトレーニングをするジムも、そこに来る人たちには個々にぜんぜん違う時間が流れている。それぞれは絶対、他人に自分の時間の流れを押しつけない。それぞれ違った“タスク”を持って、それを黙々と集中してこなしている。お互い表面上は干渉しあわない。が、何となく他の人を気にしている。周りの人がどんなトレーニングをしているのか、どんな本を読んでいるのか、チラッと見ている。お互いに周囲を気にしながら、沈黙の中で集中力を高めあう(筋トレならさらにモチベーションを上げあう)ように干渉しあっているのだ。図書館もジムも、個々人の集中がシナジー効果になって効率よく中身濃くタスクをこなせるように配慮されてなくてはならない。オフィスや工場、学校などでも人は沈黙の中で集中力を高めあっているが、同じ時間が強制的に流れている。図書館とウェイトトレーニングのジムは、完全な個々人が別々の時間を刻みながら無意識のうちに干渉しあって各々のタスクをこなしている点が似ているのだ。残念ながら八雲中央図書館は、空間が“沈黙の干渉”をしあう装置になっていない。
僕は図書館とジムの2つを行き来していれば幸せだ。ま、それだけマイペースで、でも他人の影響を必要としている人間ということですな。
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今日咲いたミニバラ

text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-19 20:54 | Comments(0)
 
デザインの本質?
最近よく目にすることば。
デザインの本質。デザインの力。デザインの原型。
僕も原稿でよく使っています。
自戒を込めて言うと、濫用は避けるべきです。特に「本質」と「原型」の濫用は危うい。

そのうちデザイン原理主義なんてのが出てきそう。「これはデザインじゃない」とか「キミはデザインが分かってないね」とか……。そんな会話が出はじめたら危険の兆候です。
「アートの本質」や「美術の原型」なんて表現の危うさを考えてみればいい。

「デザインの力」ということばは、デザイナーの役割を広く一般に知らしめるために有効で大切なことばですが、それがデザインの本質論と絡み出すと、途端にきな臭くなります。
デザインが“本来”持っている力の、その“本来”って何のことですか?  デザイナーどうしに共通の理解があるのですか。

巷で安易に語られる「デザインの本質」ということばは、雑誌ライター(僕?)が使う、巨匠、名作、有名、傑作、逸品、神髄、聖地のような、読み手の関心を集めるためのことばと考えたほうがいいです。「デザイン真拳奥義!レスイズモア!!」くらいに聞き流しときましょ。

デザインとは「デザインとは何か」と考えつづけることです。「本質」や「原型」は「デザインとは何か」を考えるキッカケです。キッカケは重要ですがキッカケはキッカケです。「デザイン」とは、単一の定義から逃れつづける“動くことば”です。求心的でなく遠心的なものなのです。本質を飛び越え、時に裏切り、原型を解体し、新たな原型を打ち立てる。それが魅力です。僕はそう思います。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-18 23:16 | Comments(0)
 
主体の転換(4)バラが光る。
ベランダのミニバラが咲いた。
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バラつながりで、再び倉俣史朗の「ミス・ブランチ」の話をしようと思う。「主体の転換」によってどうミス・ブランチを語るか、という4つ前の投稿の続編です。
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まずは、ミス・ブランチの話でなく、バラの話から始める。

バラに主体を置いたときにどんな表現が可能になるかを考えてみる。
表現は2つに大別できる。「動詞」を使った表現と、「形容詞」を使った表現だ。

●動詞による表現●
【事実の描写──能動表現】
バラがある。バラが咲く。バラが散る。バラが枯れる。バラが育つ。バラが繁茂する。バラが薫る。バラが雨に濡れる。
【事実の描写──受動的表現】
バラが植えられる。バラが育てられる。バラが摘まれる。
【詩的描写──能動表現】
バラが誘う。バラが戯れる。バラが舞う。バラが浮かぶ。バラが囁く。バラが語りかける。バラが微笑む。バラが涙する。バラが見つめる、バラが裏切る。バラがうつろう。バラが輝く。バラが歓喜する。バラが歌う。バラが光る。

●形容詞による表現●
【一般的性質】
バラは美しい。バラは傷みやすい。
【個体の性質】
そのバラはきれい。そのバラは赤い。そのバラは黄色い。そのバラは小さい。そのバラは大きい。そのバラはかぐわしい。そのバラはあでやかだ。高貴だ。気品がある。奥ゆかしい。神々しい。眩い。エロティックだ。エロい。淫靡だ。奇妙だ。可憐だ。愛らしい。麗しい。優雅だ。エレガントだ。かよわい。やさしい。貧弱だ。醜い。冷酷だ。非情だ。


ここで分かるのは──
(1) 受動表現は詩的描写に向いていない。
(2)「形容詞による表現」は事実の描写も詩的描写も同時に可能にする。
(3) 詩的描写は、形容詞のほうが語彙のバリエーションは多いが、動詞を使った方が表現に大胆さが出て、想像力を広げられる。

デザインを言葉で表現するノウハウとしては、おそらく(3)が最も大切な項目だろう。形容詞の羅列は本来、物書きにとっては禁じ手だ。
ファッションジャーナリズムにしばしば見受けられる、「シンプルで美しくエレガントで気品があってナチュラルでオーセンティック」といった形容詞の羅列が、いかに空疎が考えればいい。シックだの、エレガント、オーセンティックといった言葉のニュアンスは、ファッション業界に通じ共通の感性を持つ人たちだけが「わかる、わかる」と理解できる。閉ざされた言葉なのである。

クルマのデザインの叙述でも形容詞の羅列がしばしば行われる。高級車なら「卓越した操作性がもたらす上質な走り。威風堂々とした佇まい。スタイリングはけれん味がなく、ディテールは繊細で洗練されている。まさにプレミアム」と言ってしまえばいい。こうした表現は、想像力と解き放つというより、想像力の飛び立つ範囲を限定してしまっているような気がするのだが……。

形容詞より動詞のほうが、広く多くの人の想像力を喚起する。 
動詞を使ったときに浮かび上がるのは、人との関係である。バラを微笑ませるのは人のイマジネーションである。微笑むバラは人の心を映し出したもの。つまり見る人や作り手の心情の鏡になっている。

鏡をデザインする。それが詩的デザイン表現の深奥のような気がする。
物や環境に主体を置いた詩的表現を丹念に洗い出していくことで、“鏡としてのプロダクトや空間”が作り手や見る人の何を映し出すかがはっきりと見えてくる。

その実証がミス・ブランチなのだ。

ミス・ブランチは、先に挙げたバラの「動詞による詩的描写」のほとんどすべてを表現している。ミス・ブランチのバラはこう歌う。

バラは、誘い、戯れ、舞う。
微笑み、囁き、謎をかけ沈黙する。
歓喜し、拒絶し、涙して光る。
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Miss Blanche 1988 Design by Shiro Kuramata 某所にて撮影

text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-17 17:10 | Comments(0)
 
グッドデザインのグッド
何故、グッドアート、グッドミュージック、グッドムービー、グッドポエム、グッドアーキテクチャー、グッドアニメといった言い方がないのに、“グッドデザイン”だけがありなのだろうか。

倫理を語るのに倫理的である必要はない。
道徳を論ずるのに道徳的である必要はない。

なぜなら、あまりで倫理的・道徳的でありすぎることは、ひとつの社会の規準でしか物が見えなくなることに他ならない。神に忠誠を誓う道徳な人間が平気で異教徒を殺す場面を歴史は何度繰り返してきたことか。

デザインの世界の精神基盤は、アートの世界よりも工学の世界に近い。“グッドデザイン”と“良い技術”は重なり合う。

工学者(エンジニア)は“良い技術”を生み出さなければならない。工学者は、人が良いか悪いかまだはっきり判断できない時代の最先端を行く技術を扱うのだから、一般の人よりも高い倫理観・道徳観を持っていなくてはならない。倫理観が欠如していると社会にとって害悪の技術を生み出してしまう可能がある。工学者は社会に役に立つ技術を生み出さなくてはならないのだ。人類の発展に寄与する技術を、国家のためになる技術を、企業にとってもお客様にとって良い技術を……。“技術”を“デザイン”に置き換えて考えれば、良い技術とグッドデザインの相似性が理解できるだろう。

デザイナーも工学者同様、倫理に対して敏感でなくてはならない。僕はユニバーサルデザインや環境に配慮したデザインを否定するわけではない。それは現代社会に必須のデザインの考え方だ。

しかし、「グッドであること」にこだわるだけでは、美術も文学も映画もあまりに表現が乏しくなることを忘れてはならない。建築をグッド/バッドで評価しないのは、建築は工学であるとともに芸術だと考えられているからだ。デザインもそうなのに……。建築には大文字のArchitectureというのはあるけど、デザインには大文字のDesignというのがない。

倫理をテーマにしながら「グッドデザインとか言ってもらいたくないぜ」とガツンと言い切れるラディカルなデザイナーの出現が待ち遠しい。

オリヴィエーロ・トスカーニのベネトンの広告キャンペーンのように。

[たとえばコレ]
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-16 21:44 | Comments(2)
 
覚醒は訪れない
友人のアーティストKさんがわが家に来た。
彼女のことば。

──もしも自分の作品が他人の作品に使われて、Kさんの名前がクレジットされてないとしたら?
「作者名のクレジットがないことでなく、その作品がどういう経緯で生まれたかを示してもらえないことが残念」

コピーライトは最終的には名前表記&お金の問題と思っていたので、この言い方には感服しました。


(イノセンスのDVDをいっしょに斜め観した後)
──エヴァンゲリオンは、2001年宇宙の旅やガンダムみたいな人類覚醒の物語だと思うけど?
「そうかもしれないけど、エヴァは覚醒自体の問題というより覚醒に至るまでの過程に共感を呼んだのよ。進化を前にして戸惑っていたりする……」

つまり、こうだ。エヴァとは人類補完計画の成就が問題でない。私たち1970年代前後に少年期を過ごした子どもたちはガンダムや2001年宇宙の旅やアキラなどで、人類が覚醒したり進化したりニュータイプになるという幻想を持たされてしまった。
が、来るべき覚醒がいっこうに訪れない。だから戸惑い焦り悩む。エヴァはその心理を巧妙に描き出して、大きな支持を集めたのだ。
映画版で示された人類補完計画はその内容などどうでもいい。エヴァは補完計画に至るまでの物語だったのだから。

自律型サバイバルと寄生型サバイバルを語った以前の投稿 「真ユニバーサルデザイン」を読んでもらうと、来るべき覚醒について何を話しているか深くわかってもらえると思います。

それにしても、彼女、ホント頭が切れます。尊敬します。「私はもう覚醒している」とも言ってましたし。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-16 02:58 | Comments(0)
 
主体の転換(3)左手は添えるだけ
前の投稿の続きである。
物書きにとって、物を主体にしてデザインを叙述すると、何がいいのか?
一番いいのが、人と物とのインタラクティブな関係を効果的に描写できることだ。人と物との対話だけでなく、物を通して作り手と使い手が対話できることまで語れてしまう。インタラクティブとかインタラクションデザイン、人と物とのコミュニケーションといったカタカナ語入りの固めの表現を使わないで済む。

たとえば、こうだ。今年『BRUTUS』4月15日号の特集「インテリア・キーワード260」のために、下にコピペした原稿を書いた。イタリアのデザイナー、エンツォ・マーリによるゴミ箱「イン・アテッサ」(IN ATTESA 1971年デザイン)の紹介記事だ。
日々、紙くずがゴミ箱に向かって放物線を描いています。床に散乱する失意の紙くずたち。それはあなたのせいではありません。ゴミ箱のデザイナーが悪いんです。マーリはゴミ箱をピサの斜塔のように傾けました。「どうぞこちらへ放り投げてください。スナップを利かせて」とゴミ箱が語りかけてくれます。傾斜つけるだけで今まで存在を無視されていたゴミ箱が人と対話する存在になるのです。ダネーゼのために作ったゴミ箱を通して、哲人マーリは本当のデザインとはものに尊厳を与える作業だと教えてくれます。

傾いたゴミ箱がやさしく投げる行為を誘い、そのやさしさがエンツォ・マーリとのデザイン思想との対話を促す、というわけだ。

んで、この原稿、ホントは「スナップを利かせて」って箇所に「左手は添えるだけ」と書き入れたかったけれど、あまりにアニヲタネタなので、やめときました。実際ゴミ投げるとき左手は添えないしね。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2005-05-15 19:31 | Comments(0)


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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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