藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
ここの電線が好きなんです。
ここの電線が好きなんです。_d0039955_1659127.jpg
言問通り。東大側から根津を望む。根津の谷へ下って、また藝大側へ登るから、重なる電線が密に見える。そこがいいんです。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2012-02-18 17:00
 
変身の弁証法
変身とは何か

カフカの『変身』の主人公グレーゴル・ザムザは朝起きたとき、虫に変身する。それは一回限りの変身である。ザムザは苦悩し、結局元に戻れない。正義のために闘うTVヒーローたちの変身はそうではなかった。元に戻れる。変身には可逆な変身/不可逆な変身の二種類がある。

まずは、本稿で語る「変身」を定義づけてみよう。

【変身】 身体の外観・形態・構造・能力が短期間に劇的に変わること。非生命体であっても、それが人間や動物を連想させる身体をもつ場合(たとえばロボット)、その形態の変容を変身と呼ぶことがある。

補遺1:化粧や服装によって外見を変えることも、それが人格の変化まで伴うように見える場合、その変装は変身の亜種とみなす。

補遺2:短期間とは通常の生命体の成長・老化より著しく速いということを意味する。昆虫の変態は、幼虫と成虫の間で劇的に体を構成する組織が変化するので、変身である。擬態はカメレオンのように環境に応じて変化する場合は明らかに変身。しかしミツバチの姿をしたハエなど、種として形態変化してしまう場合は変身とはいいがたい。本稿で扱う擬態は前者である。

 変身を語るには、この定義に加え、可逆/不可逆の問題、さらに精神の変容まで語らねばならない。身体の劇的な変化は、センシング能力に強い影響を及ぼし、精神の影響は避けられない。巨大化すれば世界の見方がそれだけで変わってしまう。容姿を変えて生みだしたペルソナ(仮面)が、いつのまにか内面に強い影響を及ぼし人格を変容させる場合は多々あるだろう。

正義と変身

 正義が揺るぎないものだと信じられた時代は、正義のヒーローは、たとえ正義の狂信者となっても、人格変容とは見なされなかった。正義のヒーローに不可欠なポテンシャルは、勇者として変身後に手にする身に余る能力を受け入れ、精神崩壊しない「器の大きさ」である。これがないと元に戻る力が起動しない。勇者の資質に欠ける者の変身は、ザムザのような悲惨な結果が待っている。心身ともに怪物化するのだ。「ウルトラQ」に登場するカネゴンは、お金に執着する少年の変身したカネゴンは肉体が怪物化し、元の人格を失ってしまう。

 正義に殉じる心が人間であることを保ってくれる。正義=人間性という隠れたメッセージがここに立ち現れる。だから、人間になりたいベム一家は正義のために闘うのだ。

 しかし現実には、正義が怪物化する。アメリカを見たまえ。誰のための正義なのか? 何のために闘うのか? ヒーローという存在自体が怪しくなったのは指摘するまでもない。アムロは迷い、シャアは善悪の彼岸に生き、シンジは拒絶する。

変身カタルシス

 それでも変身は生き残る。変身シーンがカタルシスの対象になるからだ。
 自分の正体を隠す正義のヒーローは、危機を誰よりも早く察知でき、優れた洞察力でみなが悪人に騙されていることを感知できるが、その能力を隠しているために、自分が正しいことをやっていても周囲から理解されない。ヒーローの正体を知っているのは、ヒーロー自身とテレビの視聴者だけである。主人公と秘密を共有するというのが、変身ものの魅力の一つである。ドリフターズの「志村〜、うしろ後ろ」という観者と演者をつなぐ古典的な構造と同じである。変身シーンは、主人公と視聴者の、周囲に理解されない苦しみを解放し、秘密を開示するカタルシスなのである。

 水戸黄門は越後のちりめん問屋に「変装」している。素性を明かすことが黄門様にとっての「変身」である。印籠を差し示すことで、隠居した道楽好き商人が、絶対的な権威で相手をひれ伏させる能力をもつ正義の味方の変身するのだ。しかも素性を明かすこと自体が「必殺技」になっている。ウルトラマンや仮面ライダーなどのテレビヒーローの「変身→戦闘→必殺技」という流れとは一線を画する。殺陣シーンは刺身のつまであり「戦闘→変身=必殺技」となる。印籠のカタルシスはつい先頃まで、正義とは? 権威とは? という問題を不問させる力があった。しかし、それでも水戸黄門が最終回を迎えるというのは、正義も権威が人と人をつなぐ価値観になり得なくなったということだろうか。

変身の自己目的化

 正義を失った変身は、変身自体を自己目的化させて生き残る。セーラームーンやプリキュアが刷り込むのは正義や権威ではない。何のために変身するかは二の次でいい。変身願望──変身をしたいという欲望を植え付ける。「コスチュームやメイクやヘアスタイルが変われば心も豊かになる」「買い物とファッションは女の子の特権」という信条が形成される。彼女たちは自分らしく、かわいく生きられる安定した世界を守るため、悪と闘うのだ。自分が望むように変身できる世界のために、悪と闘うのである。

 正義は変身の儀式を発動するためのきっかけにすぎない。そのため、変身シーンはウェディングパーティーのように儀式化・様式化され、ここぞとばかりに華美に描き込れる。自分らしく生きるための変身は、ザムザの自己喪失的変身とは対極の位置にある。

変態と擬態

 昆虫の変態(メタモルフォーゼ)は、死と再生の変身である。蛹のなかでは、一部の神経細胞と呼吸器官以外、組織が溶けている。幼虫は一度解体され、生殖活動のための形態となる。

 幼虫の記憶は残るのか。幼虫の意識は成虫に受け継がれるのか。そもそも幼虫にどれほどの記憶と自意識があるかは分からないが、変態は不可逆でしかも精神変容をもたらす変身のシンボルである。

 可逆で精神変容のない変身は、メタモルフォーゼでなく、トランスフォーメーションである。昆虫でいえば擬態(ミミクリ)に近い。毎週繰り返されるプリキュアの変身バンクは擬態である。世界は、彼女たちが美しい擬態ができるように美しく保たれていなければならないのだ。

まどかの場合(注・ネタバレあり)

 変態と擬態の弁証法を基軸に描かれたのが「魔法少女まどか☆マギカ」である。この物語は変身をテーマにしながらも、「お約束」の変身シーンがない。正義のヒロインへの変身という「お約束」と、最終的に個の喪失をともなう変態というふたつの変身の闘争が描かれている。

 少女たちは「魔女」の悪行を見せつけられることで、正義のヒロイン「魔法少女」になるよう契約に誘われる。勧誘者であるキュゥべえは、鹿目まどかが魔法少女として比類なき資質を持つこと語るが、個が喪失してやがて魔女になる「変態」が起こることについては話を伏せる。魔法少女と魔女の対立は、「正義のヒロインへの擬態」と「個の喪失への変態」の対立である。

 まどかを最初に魔法少女へ動機付けたのは、正義感ではなく、ノートに描いた魔法少女のコスチュームであった。それはプリキュアのように幸せな世界を望み、その世界を擬態することを楽しみたいという単純な少女の憧れであった。しかし幸せな世界自体がどんなに変身してもやってこない。まどかの魔法少女としての比類なき資質は、彼女を不幸に導くものとして描かれる。

 そして、変身が繰り返される。正義のヒロインへの救いない変身の繰り返しは「個の喪失の変態」との闘いである。正義のヒロインへの変身は可逆な変身であり、個の喪失への変態は不可逆な変身である。魔女に変態することは、自分が望む擬態ができる美しき世界を永遠に喪失することである。この「可逆な変身」と「不可逆な変身」の対立は、転校生・暁美ほむらの時間を可逆にする能力によって繰り返される。

時間拡張と空間拡張

 シシューポスは山に石を運び上げ、その石が転がり落ち、また石を運び上げるという永遠に終わることがないとされる苦役を課せられている。しかしシシューポスの生命が永遠だったら――。転がる石は山を削りとる。山を下るシシューポスの足も土を削っていた。天上に輝く星がいくつか寿命を迎えるほど時が経ったころ、山はいくばくか傾斜が緩くなるだろう。さらに無限に近い回数繰り返すうちに、山は平坦になり、最後は石が転がり落ちることがなくなる。これが「大きな時間」の最適化である。『涼宮ハルヒの消失』はこうした宇宙的規模の時間拡張をテーマにしている。

 「魔法少女まどか☆マギカ」の場合、能力拡張がもたらした苦役の結末は、時間の拡張でなく、空間の拡張として表現される。もはや擬態でも変態でもない。もうひとつの変身。遍在(ユビキタス)への変身である。この変身によって時間は不可逆に戻る。それは「正義のヒロインへの変身」と「個の喪失をともなう変態」の弁証法から生まれた究極の変身である。そこを描ききったところに、まどマギがこの物語としての高い整合性がある。

並行宇宙という観点

 ただし、時間・空間の拡張ではない、もうひとつ究極の変身がある。荘子の有名な逸話「胡蝶の夢」。逸話はこうである。荘周という男が自分が胡蝶になって宙を舞う夢をみる。目が覚めて、荘周は思う。自分の真実の姿は胡蝶で、もしかしたら胡蝶がいま荘周となっている夢をみているのかもしれない。荘周なのか、胡蝶なのか、真実がどちらかは分からない。胡蝶の夢は並行宇宙を描いている。2つの世界があり、一方の世界では荘周、もう一方の世界では蝶という存在である。しかし、並行宇宙を俯瞰すると、荘周と蝶はひとつの存在である。

 まどかと魔女がひとつの存在と考えれば、魔女は偏在することになる。いや、もうすでに私たちの現実世界には魔女が偏在している。それを補完したからこそ、まどマギの結論は多くの人に受け入れられたのではないだろうか。(終)
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2011-12-20 14:26
 
軽痛車
軽痛車_d0039955_13265126.jpg

左下を注目

拡大写真はこちら
text & photo by Keiichiro Fujisaki

# by cabanon | 2011-10-12 13:28


S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

Twitterもやってます!

*当ブログの奥座敷
KoKo Annex

ライフログ
以前の記事
カテゴリ
その他のジャンル
ブログジャンル
リンクについて
当サイトはリンクフリーです。
お気軽にリンクして下さい。

本ブログの記事と写真の
無断複写・転載を固く禁じます。




Copyright 2005-2019 Keiichiro Fujisaki All rights reserved
本ブログの記事と写真の無断複写・転載を固く禁じます。