藤崎圭一郎のブログ。「デザインと言葉の関係」を考えます。

by cabanon
 
Whiteboardを読んで
プロダクトデザイナーの秋田道夫さんのWhiteboardの10月26日の記事で、このブログのグッドデザイン賞の記事についての言及がありました。話題にしていただくだけでたいへん嬉しいのですが、秋田さんのご意見に対して、きちんと僕のものの見方を表明しておく必要を感じたので、こちらで綴ります。


僕はつねに自分が面白いと思ったことを書いています。深澤さんのプレゼンはカメラを構えていた自分にとって「あっ、やられたな」と単純に思ったから取り上げたまでです。無音プレゼンはいかにも深澤さんらしい。今回の15点は出来すぎのプレゼンが多く、かえってSANAAのスタッフによる金沢21世紀現代美術館の時間オーバーになったプレゼンが素人っぽくて印象に残ったくらいです。その中での無音だったから面白いと思ったわけです。

深澤さんとは二度名刺をパーティーで交換しただけで「知り合い」なんてものではありません。去年の今頃、今はなき『Design News』の取材を申し込むため、ふだんは出かけないパーティーに行って挨拶したら、そのあと取材を断られて、ああ、あの時テンション高くしゃべりすぎたのが良くなかったのかな、とひどくヘコんだくらいですから。取材に時間を頂けなかったのはスケジュールがタイトだったからのようですが。

僕が面白い、今の自分にとって気になるということをそのまま書いているので、それが「フェアー」かどうかは正直自信が持てません。でも、それでいいのだと思っています。

デザイン界に評論がないこと。これはひとえにデザイン界が評論を欲していないからだと思っています。

美術やデザインの評論とは、評論家が自分の理論をアーティストやデザイナーの仕事を題材にして構築するものです。アーティストやデザイナーが作るときに考えていたのとまったく違う文脈で取り上げられる可能性も多々あります。なぜその作品がその形になったのか、それを十分に知っていない評論家が、自分の理論のために、作品を取り上げるのです。物を書く側は作品の出自をすべて知り尽くすのは不可能です。逆に言うと、作家はつねに自分の作品がなぜそのような最終形になったのか正確に知らない評論家に、書かれてしまう危険を孕むもの──それが評論です。

もちろん取材は重ねます。作り手と知り合いにならないと語ってくれないこともあります。でもそれは両刃の刃で、知り合いになりすぎて提灯記事を書くことになる人もよく見かけます。

辛辣な言葉を発しようと心がけたら、どうしても出自がわからないことを断定的に書いてしまうことになります。秋田さんが「知り合いのバイアス」と書かれていたように。

美術界はメディアにおける言論の評価とギャラリーでの経済的評価の補完関係で、美術家の作品の価値が決まる、前近代的なシステムがあるので、美術家は評論家に身をゆだねざるを得ない部分があります。展覧会をサクッと見て軽く作品を解説したことのある評論家に、「展評」で自分の考えていたことと全然違う解釈を書かれてしまうことがある。逆に思いもしなかった高尚な思想を流麗な言葉で書いてもらえることもある。デザイン界では評論を後者だと勘違いしている人が多すぎます。だからADCのように相互褒め合い組織のようなものが生まれる。

デザイン評論が存在しないのは、デザイナーが評論に身をゆだねることを必要ないと考えているからだと思います。「デザイン雑誌にはちゃんとした批評がないんだよね」と語るデザイナーほど、原稿をチェックさせろとか、写真やレイアウトまでチェックさせろとか編集者に注文をつけてきます。長文のインタビュー記事や座談会などをチェックしてもらうのはいいのですが、展覧会評やジャーナリストの各方面を多面的に取材するレポート記事のためにもらったコメントまでチェックさせてくれというのは、ジャーナリストの仕事をバカにしています。レイアウトをチェックさせてくれというのも編集者の仕事をバカにしています。

顔の知らない駆け出しの若い評論家に影響力のあるメディアで、自分の作品を自由に語ってもらう度量は残念ながら今のデザイン界にはありません。デザイン活動には実際に大きなお金が動いているわけで、むやみに言論に身をゆだねることが無責任になるというデザイナーの立場も、僕は理解しています。デザインの世界では別に評論家に語ってもらわなくても製品の価値向上ができるシステムができているのですから。カメラやAV機器、クルマなどそれぞれの業界に評論家がいて、その人に〝デザインも〟語ってもらえばいいわけですし。

だから、僕は評論家でなくライターなんです。デザインジャーナリストと名乗るにはあまりにデザインジャーナリズムの力が弱すぎる。ジャーナリズム側が頑張っても、肝心のデザイナーたちが本当の評論を欲していないのだから、育つわけがない。

ま、でも、最初ツマラナイと思っていたことも探れば探るほど、ものの成り立ちに深い理由があって、どんどん好奇心が刺激されていく。それがデザインの面白いところです。その「あっこれ、こんな面白かったんだ」という部分を世の中に伝えるのが僕の役割です。

注射針の大賞についてですが、トラックバックをいただいた◆びいすと日記◆で知ったのですが、深絞りの技術で有名なあの岡野雅行さんの仕事だったのですね。25日のグッドデザインのプレゼンの時は岡野工業のもつ優れた技術に関して触れられていませんでした。受賞者のリストには、岡野さんも岡野工業の名を連ねていません。いろいろな事情があるのでしょう。もしかしたら岡野さんがリストに載ることを断ったのかなあ? そのへんの事情を調べてみたいです。

グッドデザイン大賞は、受賞者リストに名の無い、アノニマスな岡野さんへ贈られた賞と言ってもいいかもしれません。ある意味このアノニマスな姿勢は「デザインのないデザイン」の究極の形のように思えます。
text & photo by Keiichiro Fujisaki

by cabanon | 2005-10-27 10:40
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Profile
藤崎圭一郎
Keiichiro Fujisaki
デザイン評論家。編集者。1963年生まれ。1990〜92年『デザインの現場』編集長を務める。1993年より独立。雑誌や新聞にデザイン、建築に関する記事を執筆。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

ライフワークは「デザインを言葉でいかに表現するか」「メディアプロトタイピング」「創造的覚醒」

著書に広告デザイン会社DRAFTの活動をまとめた『デザインするな』

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