学生から、僕が11年前に書いた柳宗理さんのインタビュー記事を読みたいと言われたのですが、『BRUTUS』95年6月1日号がもうほとんど入手困難なので、少々加筆訂正してここにアップします。
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およそ一般のデザイン事務所とは、かけ離れた風情の仕事場である。大きな作業台には椅子の原寸大模型など制作中の仕事がいくつか置かれている。入り口側の壁際には轆轤があり、轆轤の回りには石膏を削るためのノミのような道具が掛けられている。いかにも工作機といった重厚なドリル機、流し台の手拭い……。棚の上には、椅子の小模型がずらり、さらにここでデザインされた陶器やガラス器の名品などが無造作に並ぶ。片隅にはイームズの椅子も何気なく置かれて、眺め出すと次から次に民藝やデザインの名品に出会うことができる。密度の濃い空間である。
いわゆるデザイン事務所のイメージ──埃ひとつなく掃除されたフローリングに打ち合わせ用の大きなテーブルが置かれ、奥にはスタッフ用のコンピュータやドラフターが整然と並ぶ、というイメージは、こことは無縁である。まさに工房。それは、主、柳宗理が多大な影響を受けたという、バウハウスのワークショップの考え方を体現した空間だ。機械で作られる製品の原型は、言うまでもなく手で作られる。未来の手工芸は、工業生産の実験作業になる。こうした、バウハウスの創始者グロピウスの考え方が実践される場が、ワークショップなのである。
この空間やワークショップの考え方を時代遅れ、と考えるのは安直である。もし、デザインには進化論は通用しないとしたら? つまり1990年代のデザインは1950年代のデザインの進化形とは決して言えない、ということが事実であったら?
そう、きっとこれは事実なのである。コンピュータの登場などでテクノロジーは進歩した。また、一般の人がデザインを見る眼も発達した。しかし、現代のデザイナーはイームズの椅子やブロイヤーの椅子、ウェグナーの椅子を超えるデザインを生み出しているだろうか。
だから私たちは、柳の話にじっくり耳を傾ける必要がある。
【バウハウスとペリアン】
柳宗理は1915年、民藝運動の創始者、柳宗悦の長男として生を享けた。東京美術学校(現・東京藝術大学)で油絵を学ぶが、「たまたま聴講しにいった」当時建築科で教鞭をとっていた水谷武彦の授業に感銘、デザイナーを志すようになる。水谷は、バウハウス留学経験者であった。「そこでワークショップとか、バウハウスの話を聞いてすっかり感心してしまって、今まで絵を描いていたんだけれど、これからは人間の生活に密着したものを作らなければならないと思うようになった」。
大学卒業後、建築事務所に勤めた柳の前に、もうひとり、多大な影響を与えた人物が現れる。シャルロット・ペリアンである。近代建築の巨匠、ル・コルビュジエの一連の家具デザインのパートナーとして知られるフランスの女性デザイナーある。柳は1940〜42年工芸指導のため日本に招かれた彼女のアシスタントを務め、日本各地を回った。「彼女は本当に素晴らしいデザイナーでした。デザインの方法はだいたい彼女から学んだ」。
しかしペリアンはただ柳にデザインの方法を教えただけではない。ペリアンは当時柳が「カビ臭い」と反発していた父、宗悦の仕事への見方も変えた。「ペリアンがしばしば民藝館に来るわけよ。田舎を回っても茅葺きの民家なんかに興味を持つ。これは父の趣味が似ていると気づいてね。父も今後のデザインのあり方を衝いているんだと思うようになった」。
ちなみに柳の醜悪なデザインに対する辛辣な批判精神もペリアンから学んだもののひとつらしい。ペリアンは滞日中、東京で展覧会を行ったが、「そこでル・コルビュジエが『アール・タパラ』と言って、アカデミー系の華美な工芸を嫌ったように、ペリアンも日本のそういうものもけしからんと、日本の有名工芸作家の作品にバツを付けて展覧会に出した。でも、結局、エライ先生方や彼らを扱っていた銀座の和光が怒るわで大騒ぎになって、会場になった高島屋も困って、のけちゃったけどね」。
戦争が始まった。ペリアンはベトナムに逃がれ、柳は徴兵される。しかし戦地でも柳のデザインへの思いは立ち消えることはなかった。フィリピンでの柳のリュックには、「どうせ死ぬのだからこの本と一緒に」とル・コルビュジエの著作『輝く都市』があったという。
【いいデザインが売れるとは限らない】
戦後。辛くも戦地から帰還した柳は焼け野原の東京で、本格的にデザイン活動を開始する。「デザインしようにも何にもない。残っているのは土しかない。だから焼き物を始めた」。だが、窯で陶器を焼くための燃料になる石炭がない。
「それで、東京湾に沈んだ船からびしょびしょになった石炭を手に入れて、それを工場に持っていって焼いてもらった」。それがのちに柳の代表作のひとつと数えられるようになる「ティーポット」などの陶器シリーズ(松村硬質陶器)だ。白無地ゆえに強調された柔らかな曲面を持つフォルムはこの上なくモダン。しかし、太く大きい取っ手などは、見方によっては湯桶などの民具を連想させる。
この無地の陶器は、戦後間もなくの日本人にとってはかなり過激なデザインであったようだ。柳はこれを三越で扱ってもらうように売り込みに行ったが「模様のない陶器は半製品だ」と言われて突き返されたという。
「いいデザインが必ずしも売れるわけではない」と柳は言う。「いいものはたとえ売れたとしても5年か10年で消えてしまうね。飽きられるか、もしくは企業が儲からないから、やめてしまう。イームズのこの椅子も、長い間作られなかったわけだしね」。インタビューの時、柳はイームズのLCWに座っていた。
例えば、1960年に柳がデザインした「セロファンテープ・カッター」。鋳鉄を台にしたずっしりとした重量感、柔らかなフォルム、台にボールベアリングが組み込まれ自由に回転する使い勝手を考慮した細やかな配慮など、実に素晴らしいデザインが、現在は生産されていない。
「今は要するに経済戦争だよ。例えば、自動車のデザインでも、去年作ったデザインは古いと見せなくてはならない。自動車がまだ動いても新しいデザインが出てくる。で、ゴミがいっぱい出て、どうしようもない。ものをどんどん作るのが経済の成長というわけだ。経済の成長がすなわち人類の幸福だと思っている。それは間違いだね。今にこういうのはダメになる。そんな中にデザイナーが巻き込まれているから、本格的にデザインに取り組んで、いつまでも長持ちするデザインを作る暇がないんだ」。
時間をかけ、納得のいくまでフォルムや構造を検討し、常にベストのデザインを心がけている柳のデザインスタイルに、わざと次の年には古く見せるような購買欲だけをそそるデザインが合うはずがない。
「絵から出発して、スマートな絵が出来たら、それをそのまま商品化するというのは、もってのほかだ。いいデザインというのは中身からにじみ出たものだ。構造を知らないで外側だけ描いたって、いいデザインは出てこないよ。だから僕のところでは初めから1/4か1/5の模型を作る。それでいろいろ試してみて、これでいいと思うと原寸の模型を作る。だいたい椅子は1〜2年はかかるな。絵だけ描くなら1週間あればデザインはできる。今のデザイナーはそのほうが食えるから、みんなそうなんだよね」。
【アメリカ批判の大きな反響】
柳は経済優先・効率優先のデザインには一貫して批判的な態度を表明してきた。1956年、柳はコロラド州アスペンで開催された国際デザイン会議に出席するため渡米した。車のモデルチェンジを際限なく繰り返し、大量生産・大量消費に寄与する、アメリカのデザインを実際目の当たりにする。
「まず会議の前に、ロサンゼルスの『アートセンタースクール』という有名なデザインの学校に招待されて行った。でも、そこに入った途端にこれはコマーシャルの学校だなと思った。みんなここでは絵を描いていたんだ。プレゼンテーションのためのレンダリング。つまり、人をびっくりさせるための絵だ。そういうのは絶対僕は描かない。ペリアンもそんなもの描かなかった。こういう教育はホントにひどいと思ったよ。その後、アスペン会議に出たから、僕はムカムカしちゃって、アメリカの批判を痛烈にした。そうしたら聞いてる人がびっくりしてね、シーンとなってしまった。拍手ひとつないんだよ。それで、これはまずいことになったなと思ってね。でも、その後、質問がいっぱい来て、『柳さんはいいことを言った、でもあんなふうにアメリカのことをやっつけられたら黙っているほかしょうがないんだ』と聞いて、ああ、これで助かったと思ったよ」(笑)
柳はこの時、彼の講演に感銘したというドイツ・カッセルのデザイン専門学校の校長の熱心な誘いを受けて、1961年に同校で一年間教鞭をとることになった。また1957年、第11回ミラノ・トリエンナーレの参加のきっかけも、このアスペン会議でイタリア人デザイナーにアルベルト・ロッセッリと知り合ったことから始まった。
当時ミラノ・トリエンナーレは、国ごとに出展する形でデザインを各国が競い合う、デザインのオリンピックとも言える最大の世界的デザインイベントだった。柳が代表作を招待出品したブースは金賞を獲得。傑作「バタフライ・スツール」など、柳のデザインが一躍世界に知られるキッカケとなった。
柳の打ち鳴らした警鐘は、デザインの将来を真剣に考える世界のデザイナーの心を動かした。すでに50年代から、うわべだけ飾って、消費社会を際限なく拡大させていくデザインに対して、デザイナーたちは危惧の念が寄せていた。現在もこの状態は続いている。問題はなんら解決がされていない。事態は悪化したまま、放置されている。
この56年のアメリカへの旅では、さまざまな出会いがあった。イームズ夫妻との面会。それと──。「金門橋とハイウェイには感心したね。当時は日本にハイウェイなんかない。これは新しい芸術だと思ったよ」。この体験が、のちの東名高速道路の遮音壁や関越トンネルのデザイン、東京湾横断道路のゲートの仕事が繋がっているということは言うまでもない。
【デザインのゴールデン・エイジ】
1950年代とその前後、つまりミッド・センチュリーがデザインの黄金時代だったという考え方がある。40年代の後半から、イームズ夫妻やハンス・ウェグナーが名作椅子を発表し、50年代になるとイタリアではジオ・ポンティやマルチェロ・ニッツォーリ、北欧ではアルネ・ヤコブセンやカイ・フランクがデザインの名作を次々と生み出す。そのどれもが過飾に走らず使い勝手が慎重に追求され、造形はシンプルだけれども、使うたびに味が出るデザインであった。モダンデザインという言葉の正確な定義はないが、この頃生み出されたデザインこそ「モダン」という語を冠するに最も相応しいデザインであることは衆人が認めるところであろう。
「日本でもそう(黄金時代)だったね」と柳は言う。確かに、全盛期を迎えていた北欧のデザインやイタリアなどのことなら黄金期というのは分かる。しかし日本で1950年代といえばまだインダストリアルデザインの草創期だ。
51年レイモンド・ローウィが来日して、タバコ「ピース」のパッケージデザインで破格の150万円のデザイン料を受け取り、総理大臣の月給が11万円の時代に、と世間を騒がせた。日本人にインダストリアルデザイナーの存在を知らしめる大きな出来事であった。52年にはJIDA(日本インダストリアル・デザイナー協会)が発足し、同じ年、毎日新聞社主催の工業デザインコンクールが初めて行われ、柳が第1席に輝いた。ようやく意匠とか工芸といった言葉が、デザインというカタカナ文字に変わり始めた頃である。
日本のインダストリアルデザイン史で、デザイナーの個人名が中心になるのはこの時代だけである。柳氏がライバルとしても意識したという小杉二郎のほか、豊口克平、剣持勇、小池岩太郎、佐藤章蔵など、少数精鋭ながら個性的人物がデザイン界をリードした。「当時は、企業家もいいデザインをすぐにやらしてくれたよ」と柳は振り返る。
しかしその後、デザイナーは企業に雇用され、企業内にデザイン部が作られ、日本のインダストリアルデザイン界はインハウスデザイナーが中心となる。デザインは、企業の利潤追求のシステムの中に完全に取り込まれ、柳の仕事も次第に環境デザインが増えていった。
【民藝とデザインの狭間で】
柳は父が創設した日本民藝館の館長を務めている。いま考えれば、柳が若かりし頃、父の民芸運動に反発をしていたこと自体不思議に思える。彼の傾倒していたバウハウスは手工芸と機械テクノロジーの融合を図ったし、ル・コルビュジエも貴族的な装飾的工芸を嫌った一方、実用から生まれてきたアノニマスな道具のデザインを賛美した。
柳はモダンデザインの最先端という回り道をして、父の民藝に戻った。そして民藝と向かい合うことで、作家不詳のデザイン──アノニマスデザインの力を知る。そこには、もっぱら実用のために作られ、長い時間をかけ、時に何世代かかり改良された真摯な形があった。柳は、デザイナーがデザインをしていないアノニマスデザインを自分のデザインへの姿勢と照らし合わせてきた。
「普通の人や職人が生活のため作った道具が持った美しさ。これをアンコンシャス・ビューティ(無意識の美)という。それは自然に発生した原点だから、美の始源体ともいえる。そこに美の根源があるわけだ。今のデザイナーやアーティストは、民藝品とかアフリカのプリミティブアートとかを見ると、自分の中にいろいろな雑念が入ってしまって自分が純粋に生きていないのが分かるんだ。非常に意識的で派手なポストモダンのデザインみたいなものではなく、もっと根源にある美に打たれて、そこに現代の人は新しいモダンな感覚を見出す」。
「でも、民藝館にあるものをそのまま真似るのはダメだね。今は環境が違うんだから。江戸時代に作られたものをそのまま真似たら、おかしなレプリカになってしまう。やはり現代は現代に生きたものでないと。精神を学ぶだけですよ。僕らは知恵の実を食っているのだから、やはり美しいものを作りたいという意識はある。デザイナーが作れば、必然的にアンコンシャス・ビューティにはならないんだ。だからその意識をどう実現させていくかということになる。するとやはり構造や材料、使い勝手──例えば椅子なら腰掛けやすいということから出発して、そこからにじみ出たものがいいデザインになる」。
「にじみ出る」という言葉を柳がよく使う。デザインを徹底的に意識して、意識することによって無意識的なものの到来を待つ。そして無意識的ににじみ出たものをまた意識ですくい取り、次のにじみ出る瞬間を待つ。そうした逆説的なデザインの方法を可能にしていることは《手》であり、《デザインを常に意識する眼》である。
知恵の実を食べてしまったデザイナーは、逆説的にしか美しきエデンの園には帰ることはできない。20世紀のデザインは、進化論の物語ではない。失楽園の物語なのである。
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初出・『BRUTUS』95年6月1日号 No.342 p50〜p55 「デザインは進化しているのか?」