ファインでないアート、正確に言うとファインであることを指向しないアート、より正確に言うと芸術のための芸術(Art for Art)を指向しないアートが、コマーシャルアートという言葉の中に一括りにされている。ファインな高みを指向しないアートは、利潤追求のために妥協を余儀なくされる商業指向のアートだと語っているのだ。
こう考えると、Design for Art という言葉も可能になる。芸術の高尚かつ形而上的領域を守るためにデザインが存在しているという意味だ。かなり皮肉な見方で、デザイナーにとって自虐的な考え方ですらあるが、Design for Artの意識がこの世に存在しないと言えるだろうか。
先鋒隊の役割はグッド/バッドでしか判断されない。そこから先は王国軍の本隊であるアーティストたちが闘う領域である。本隊の領域に足を踏み入れ活躍するデザイナーもいる。が、しかし、デザインの専門家集団は、グッド/バッドの基軸を巡る言葉しか持たず、この基準を超えたデザイナーを評価する言葉を持たない。アートの語る言葉を操る人たちの評価を待つしかない。こんな棲み分けは妥当なのだろうか? アートへのコンプレックスなのか、それとも居心地のいいせいなのか、少なくとも現代のデザイナーはDesign for Art の呪縛から解き放たれていないような気がする。
矛盾を解決し新しい道を指し示す手段であるデザインが、そろそろちゃんと向き合わなくてはならないのは「世界の本当の姿」だ。やっぱパパネックの『Design for The Real World』(邦題・生きのびるためのデザイン)は読み直さなくちゃ。フラーがアートにもデザインにも建築にも工学にも分類不能なのはまさしくDesign for The Real Worldだったからなのだし。